2022-05-15

"「救済」の音楽" 礒山雅 著

音楽には救われるよ...
政治屋どもの安っぽい言葉よりも、報道屋どもの正義漢ぶりよりも、宗教屋どもが押し売りする博愛よりも。存在感を声高にアピールする必要はない。音楽家に人類を救え!などとふっかける気もない。ただ奏でるだけでいい。才能を存分に発揮するだけでいい。彼らの自由な振る舞いにこそ救われる。
まったく、対位法には救われるよ...
音符の二次元配列を単純な幾何学操作で重ね合わるだけで立体的なカノンを奏で、主題を多重化させてフーガを奏で、しかも重低音で愛してくれる。

芸術作品には、思想、観念、哲学といったものが露わになる。だがそれは、芸術家が最初から意図したことではあるまい。評論家が、後付けで解釈を加えただけということもあろう。何事にも意味を与えないと落ち着けないのが、人間の性分。無意味な人生は、よほど恐ろしいと見える。意味が見い出せなければ、神の仕業にするだけのこと。いや、悪魔のせいに...
そして、作品は作り手を離れ、それ自体が独り歩きを始める。偉大な芸術作品とは、そういうもの言うのであろう。
こと音楽となると、演奏家はみな独自性を主張する。作品の一番の理解者であることを自負するかのように。そこには、様々な解釈が渦巻く。アレンジあり、インスパイアあり、オマージュあり... そして、パロディあり。エゴイズムの欠片もないところに、真の芸術は生じまい...

さて本書は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー論集を交えて、救済の音楽を外観してくれる。救済といえば、まず宗教音楽を思い浮かべる。大掛かりなパイプオルガンが教会で鳴り響く様子を。
バッハの存命中は、作曲家よりオルガニストとして名を馳せたと聞く。ルター派教会で開花したクラヴィーアの名手として。ドイツでは、ひなびた農村のささやかな教会にさえ、堂々としたオルガンが設置されるという。礼拝ではオルガンが不可欠となり、教会が劇場と化す。現代でも、平均律クラヴィーア曲集やインヴェンションは教育の場で生き続ける。
ただ、おいらの場合、教会で奏でる音楽にあまり良い印象が持てないでいた。大バッハのカンタータにしても、大袈裟に永遠の愛を唱え、神と魂が延々とラブシーンまがいのセリフを交わすとくれば、教会詩にはまったくうんざり。なので、バッハをずっと避けてきたところがある。ようやく味わえるようになったのは、三十代半ば頃。モーツァルトの対位法をより味わいたければ、やはりバッハ抜きでは...

モーツァルト論では、ミサ曲に注目し、その核心部であるクレド書法について言及される。いわゆる、信仰告白の賛歌の章。それはモーツァルトに限らず、バッハにしても、ベートーヴェンにしても、伝統と混じり合って最も精神が露わになる部分ということになろう。アマデウスの魅力は、なんといっても伝統をぶち壊すほどの遊戯性にある。
対してベートーヴェンは、音楽に遊戯性を超えて思想を持ち込んだとされる。バッハがルター派の影響を受けたとすれば、啓蒙思想の時代とも重なり、ロックやルソーの影響もあろう。アマデウスにそんなものは感じない。もっと崇高な自由を。いや、気まぐれを...
バッハの楽譜は強弱をどのようにつけても受ける感じは変わらないが、ベートーヴェンの楽譜を強弱なしで演奏すると、意味を失って無味乾燥なものになるという。ハイドンやモーツァルトと比較してさえ、強弱が綿密に指示されているようである。第九は、歓喜の歌としても知られるが、そう単純なものでもあるまい。
「第九はなかなか複雑な性格を内包した作品である。しかしその呼びかけは単純明快で、音楽的にも圧倒的な説得力を備えているため、誰もがこの作品について、わかった気がしてしまうのではないだろうか。だが細部を調べてみると、首をひねらざるを得ない問題が、あちこちに出てくる。説得され、感動するからといって、作品のメッセージを正確に言語化できるとはかぎらないのである。」

ワグナーにとって芸術とは、人間をいかに救済するか、というテーマを自覚的に探求するものであったという。制度化されたキリスト教は、偽善的な騎士道世界の人々に見せかけの救いを与えこそすれ、生を深く生きる真の救済能力はないと。十字架の苦難を辿り直すことによってのみ救われると...
ワグナーを語り始めると、おいらもつい熱くなる。「ニーベルングの指輪」は、精神を呪縛し、自由を享受するいとまを与えない。ラインの黄金に、ワルキューレに、ジークフリートに、神々の黄昏とくれば、病的なほどの自己陶酔に浸る。まさに、ハーゲンの魔酒よ!
ワグナーを聴きながら罪の内省を問えば、無力感の憤りがつきまとう。道徳的な人間が人間らしいのか。罪を感じない人間が人間らしいのか。なにゆえ、悲観主義を忌み嫌い、ポジティブ思考に取り憑かれるのか。地獄がどれほどのものか。煉獄がどれほどのものか。天国はそれほど居心地の良い所か。愛ってやつは、人を救う反面、絶望の淵に追いやる。自己肯定感を煽って現実を見れば、絶望感を浴びせられる。人間は、自己意識の芽生えゆえに苦しむ。ならば、自己否定によって救われることもあろう。これが、おいらにとってのワグナーだ!
「バイロイトでこの作品を聴いていると、そうした救済がいま本当に実現したかのような錯覚に陥る。身体がほてり、ああ良かった、寿命が延びた、という気がするのである。そんな錯覚すなわち感動の中に、案外、人間の獲得しうる最良の救済が存在するのかもしれない...」

ところで、巷には「レクイエム」と題する曲があまりに多く、その意味なんぞ考えずにきた。本来、カトリック教会の死者のためのミサで用いられるラテン語の典礼文に曲を付けたもの。それが今では、典礼から離れ、もっと一般的な哀悼の意を表す用法とされる。こうした自由な発想は、ブラームスに始まったそうな。ルター訳聖書の章句を自由に組み合わせて人間のための追悼音楽として。尤も、この構想を最初に思いついたのが、ブラームスの師シューマンだったという。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は、師シューマンの意思を受け継いだ形で成立したらしい...

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