暗黙知 "Tacit Knowledge" という言葉に惹かれて...
「われわれは語るよりも多くのことを知ることができる。」
マイケル・ポランニーとは、どんな人物であろう。物理化学者と紹介されるが、経済論、知識論、宗教論、芸術論、神話論などと、その視界は広すぎるほどに広い。ナチズムからスターリン体制下のソ連時代という苦難の時代を生きたユダヤ系ハンガリー人ということもあって、様々な方面で考えを巡らさずにはいられなかったのであろう。人間社会ってやつは、自由主義に内包される責任に耐えられなくなると、権威主義や全体主義に傾倒していくらしい...
認識過程において、言語で表すこのできない領域がある。だが、哲学者や思想家たちは、言語による明証、説明、論証を最高の手段としてきた。客観性を熱く主張すれば、その主張自体が個人的な主張を強めてしまう。人間ってやつは、思考する限り主観性からは逃れられない。それでも、主観から導かれる客観の領域がある。形式化と非形式化、言語領域と非言語領域、その狭間をもがきつつも辿り着く知の領域がある。
本書は、知識の根源を「分節化されたもの」と「分節化されないもの」をダイナミックな相乗効果として物語ってくれる。分節化とは、文章化や記号化できる明確な知のことで、暗黙知に対して明示知としている。
人間の知るという技芸は、分節化されない領域でなんとなくイメージされたものが多分に混在しているものと思われる。誰にでも生じる思い込みという現象も、こうした暗黙の領域で説明がつきそうだ。沈黙の力も...
とはいえ、暗黙知というのは思考プロセスに位置づけられるものであって、そこから導かれる哲学的思考の方が重要やもしれん。
ポランニーが自由を信奉した人であることは間違いあるまい。だが、当時のリベラリズムにも二種類あるという。それは、英米系リベラリズムとヨーロッパ大陸系リベラリズムである。彼は前者を肯定し、後者を否定したとか。英米系リベラリズムは、ミルトンやロックによって定式化され、教会をはじめとする権威からの脱却と、科学をはじめとする思想の自由を擁護する。ただ、宗教の自由を唱えても、カトリックとプロテスタントに寛容なだけで、無神論者を否定する立場。
一方、ヨーロッパ大陸系リベラリズムは、ヴォルテールや百科全書学派などによって定式化され、英米系よりもはるかに真面目で、厳密で、反権威主義と哲学的懐疑の原則を究極にまで適用する。権威という権威を徹底的に排除すれば自由の権威までも否定し、懐疑的思考を徹底的に膨張させれば、あらゆる書物や聖書までもが否定される。
反自由も独裁も、それを行う者にとっては自由の一形態と言えなくもない。マルクス主義は、人権、自由、平等を過剰なまでに要求し、ジャコバン主義は、フランス革命の下で旧体制を完全に葬り去ることを目的とする過激派に変貌した。ナチズム、ファシズム、共産体制も、こうした流れに位置づけている。行き過ぎた自由が自由主義を破壊し、行き過ぎた平等が平等主義を破壊する。行き過ぎた正義が正義を堕落させ、行き過ぎた倫理観が非人道的行為に走らせる。そこに政治と宗教の原理がある。本書では「道徳的反転」や「宗教的反転」と表記され、いずれも自己破壊がもたらした結果というわけである。
「現代思想はキリスト教的信仰とギリシア的懐疑の混合物である。キリスト教的信仰とギリシア的懐疑は論理的に両立不可能であり、両者の葛藤が、先行する諸思想よりもはるかに、西洋思想を活性化させ創造的なものとしてきた。しかし、この混合物は不安定な基礎である。現代の全体主義は宗教と懐疑主義の葛藤の極限の姿である。それは、われわれの道徳的熱情の遺産を現代の唯物論的諸目的の枠組みのなかに組み入れることによって、この葛藤を解決しようとする。」
...マイケル・ポランニー
ポランニーは「開かれた社会」を批判する立場を表明しているという。すべての価値観に開かれているという理想は、人間が特定の価値を必要とする以上、実行不可能な要請であると...
開かれた社会を理想像に掲げる有識者は多い。だが、理想が高すぎるがゆえに破綻することもしばしば。すべてを受け入れれば、全体主義も受け入れることになり、リベラリズムは非リベラリズムへと傾倒していく。その結果、どのような世界観も信じることのできないニヒリズムを助長させることに...
「ポランニーにとっての自由社会は、すべての価値を無差別に認めるような『開かれた社会』ではなく、自由社会に伝統的な諸価値への積極的献身(dedication)を求める、ある種の『閉ざされた社会』だった。」
人間社会で自由主義が機能している場の一つに、経済活動が挙げられる。市場原理は、自由な取引によって価格を決定し、自由な生産活動を促進する。だが現実には、自由競争は弱肉強食と化し、独占や寡占が横行、新たな奴隷制度が組み込まれる。その反発から、マルクス主義的唯物論が生じることに...
ポランニーはケインズ主義を表明し、完全雇用のために公共投資の必要性を唱えたようだ。だがこれもまた、行き過ぎたケインズ主義が公共事業を無理やり創出しては、族議員を蔓延らせることに。大衆民主主義を利用してのし上がるのが政治屋の常套手段。失業問題をあっさりと解決したヒトラーも...
「しかるに、世の多くのリベラリストは、本末転倒にも、自由社会あるいは反全体主義社会を構想するにあたって、私的自由を基本あるいは究極目的として、その上に公的自由を積み上げようとしている。こうした思想は、じつは、全体主義者、ファシスト、共産主義者にとって少しも脅威ではないのであり、多くのリベラリストは自分で自分の墓穴を掘っていることになる... これが、ポランニーの主張の要点である。」
宗教を論じれば、その存在意義を問わずにはいられない。多種多様な人間の在り方を、融合せしめるのが宗教であるはず。なのに、あらゆる紛争の火種となるのは、どういうわけか。無宗教や無神論の方が合理的ではないのか。
一つの人間を崇めれば、他の人間を否定することになり、一つの宗教を崇めれば、他の宗教を否定することになる。ならば、絆で結ばれるより距離を置く方がましではないか。その結果、ニヒリズムや人間嫌いを助長させても...
宗教が不要だとは言わない。人間である以上、なんらかの信仰を持って生きている。無神論者であっても、宇宙の絶対的な存在を感じないわけではない。科学界も、産業界も、非宗教的に振る舞ってはいるが、宗教的信仰と無縁ではない。底なしの無信仰に陥ったり、狂信の世界に埋没したりすることはあっても、人間である以上、なんらかの信仰を持ち続けている。
本書の興味深いところは、宗教論をシェイクスピア劇のような虚構や芝居との類似性において考察している点である。それも、儀式という形態の中で。神の世界へ導くというより、俗界からの解放の方が意味がありそうだ。聖なる時間を取り戻すというより、苦悩に満ちた俗なる時間からの解放を。現世で救われなければ、普遍的な世界に縋るほかはない。その儀式的行為が慣習化すると、盲目的に崇めることに。それで心が安住できるなら、精神的合理性というものか...
「宗教とは、儀礼(rites)、儀式(rituals)、教義(doctrines)、神話(myths)、礼拝(worship)と呼ばれるものを含んだ想像力の広汎な作品(work)であることがわかる。したがって、それは、われわれがこれまで考察してきた他のどのようなものより、はるかに複雑な『受容(acceptance)』の形態なのである。」
... マイケル・ポランニー
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