2010-06-13

"ある数学者の生涯と弁明" G.H.Hardy & C.P.Snow 著

ゴッドフレィ・ハロルド・ハーディを知ったのは、リーマン予想に関する文献を読んだ時で10年ぐらい前であろうか。この解析的整数論の巨匠は、リトルウッドとの共同研究やラマヌジャンを見出したことで有名であるが、ゼータ関数で近似関数等式を示し、自明でない零点の数が無限に存在することを証明したことでも知られる。
本書には、G.H.ハーディの著書「ある数学者の弁明」と、その友人C.P.スノーが綴った偉大な数学者の回想録「ハーディの思い出」の二篇が収録される。たった100ページほどの量だが、重量感は抜群!これは数学書というよりは哲学書である。まぁ、酔っ払いにとって数学は哲学であるので、まったく違和感はない。

「ある数学者の弁明」では、ハーディの晩年の苦悩と弁解が綴られ、数学は創造的な芸術であると誇り高く語りながら、数学の意義と正当性が語られる。ハーディは、純粋数学の偉大さは戦争に関与しないと自慢しているが、後に、相対性理論へ影響を与えて核兵器の応用になったり、数論が軍用の暗号システムで活躍したことは皮肉であろう。純粋な精神は、脂ぎった政治力によって悪用される宿命を背負う。
「専門の数学者にとって、数学について書くと言うのは憂鬱な経験である。数学者の役割とは、何かを為すこと、即ち新しい定理を証明し、数学に新たなものをつけ加えることであり、自分自身や他の数学者がしてきたことについて語ることではない。政治家は政治評論家を軽蔑し、画家は美術評論家を軽蔑し、生理学者、物理学者あるいは数学者も同様な感情を普通抱いている。つまり、創造する人々が、説明する人々に対して抱いている軽蔑ほど根が深く、また全体として正当なものではない。解説、批評、鑑賞などは二流の人の仕事である。」
ハーディは、評論家の立場で物事を語ることを蔑む。だが、創造的な情熱を失った晩年の姿には、もはや評論家の立場に置くしかない寂しい様子がある。そして、「反感を持ったり、嫌になったりしても、退屈するのだけは良くない」と最後の情熱を絞り出すかのように弁明する。純粋な精神が解放された作品には、芸術性を顕にする迫力がある。創造的な生き方ができなくなったと悟ったからこそ、哲学的名著が生み出せたのかもしれない。この偉大な数学者は、純粋数学を追い求めてきて、ついに純粋な精神に到達したのだろうか?芸術に到達した精神には何が見えるのだろうか?
「本当に一つのことをよくやれる人となると、一握りに過ぎない。まして、二つのことを本当によくやれる人の数は無視できるほどのものである。」
それゆえに、才能のある人はあらゆる犠牲を払ってでも、能力を高めなければならないという。知的分野であれ、スポーツであれ、あらゆる分野において達人の域に至った者でしか味わえない境地というものがあるのだろう。
「本当の腕利きを賞賛しない者は、(いやな意味での)知識人だけである。」
人生を一つのことに集中できるというのは、一部の天才たちにのみ与えられた幸せなのであろう。多くのものに手を出しても、どれも究めることなどできやしない。なんでもできるってのは、なんにもできないことを意味し、器用貧乏で終わる。
しかし、だ!凡庸にも満たない酔っ払いに、勝手な解釈で暴走する以外に何ができようか?創造する側に立つのは、はかない憧れでしかない。一つのことすら中途半端にしかできないのであれば、いろんなことに手を出すことに幸せを見出すのも悪くはない。それが酔っ払った凡庸未満の生き方というものである。そして、夜の社交場でいろいろと手を出して火傷ばかりするのであった。

「ハーディの思い出」では、説教されているような感覚に見舞われる。美しく率直な性格、繊細な精神、妬み心とは程遠い寛大さなどと、おいらの性格とはまるで反対の言葉が並べられるからであろう。スノーは、この天才の珍しい気質はアインシュタインやラザフォードなどの天才たちにも及ばないと評している。天才とは、明らかに異質な存在である。ただ、ハーディの場合は付き合いが長くなるほど親しみがわいて、それほど普通の人とは変わらないことが分かってくるという。数学者というのは、理屈っぽく論理的な会話を好む傾向があり、その点では誤解されることもあろう。純粋性を求めるがゆえに、頑固で個性的な面を見せ、皮肉屋なところもある。どんな優れた人間にも、人間関係で好き嫌いはあるはず。
スノーは、ハーディはけして自己陶酔するような人物ではなかったと評している。しかし、芸術的な作品を残すのに、自己陶酔して精神を開放することも必要であろう。ましてや、これだけの傑作なのだ。
ちなみに、アル中ハイマーにとって、文章を書くためのアルコールパワーは絶大な威力を発揮する。気持ち良く顔を赤らめなければ、自己陶酔に浸れるものではない。そして、酔いが覚めて自分の文章を読み返すと、小っ恥ずかしさのために更に赤面する。精神は異次元へ放たれるために、鏡の向こうの住民はいつも顔が赤い...
また、スノーは、ハーディの意外な面も紹介してくれる。それは、自殺に失敗した哀れな姿である。完璧に自殺しようとして睡眠薬の量が多すぎたんだそうな。ん?自殺のための睡眠薬の適量なんてものがあるのかな?健康を害してどっちにせよ長生きできない体になっているのだが、創造力と情熱を失った後ろめたさのような感傷に浸っている。完璧な数学を求めるあまりに、完璧でない精神に嫌気がさしたかのように。
天才たちが若くして死ぬ多くのケースがある。それが自殺であったり、病死であったりと。彼らは、あらゆる複雑系の単純化を探求した挙句に、人生を単純化するには死ぬのが一番とでも悟るのだろうか?

1. 自己弁護の正当性
「自分自身の存在とその仕事を正当化しようとする人は、二つの異なった問いを明確に分けなければならない。その第一は、彼のしている仕事はするに値するものなのか。第二は、その価値はどうであれ、なぜ彼はそれをするのか。という問いである。」
第一の問いは、難しくしばしばがっかりさせられるという。また、第二の問いは、第一の問いに対して、謙遜した言い方に過ぎないので、第一の問いだけ真剣に考えればいいという。
ハーディは、数学者が数学を弁護することは、ある程度利己的にならざるを得ないことも認めている。自らを無理に正当化する理由も見当たらないが、ある程度の自己弁護は自然の感情であろう。自己弁護は、何かを成し遂げようとする意志の源泉にもなる。ハーディは、自己弁護は才能のある人がやる分には理に適っていると弁明する。客観性のみで語っても、精神の深みを探求したことにはならないだろう。多少の誇張も思考を高めるためには仕方があるまい。そもそも、客観性で語ると言って、そうだった例しを知らない。主観性で語る!と堂々と宣言するあたりに、人間の主観性の強さを客観的に考察しているとも言えよう。

2. 数学の有益性
「数学者が作る様式は、ちょうど画家や詩人の様式と同様に美しくなければならない。様々な概念は、色や言葉と同様に、互いに調和しつつ全体を形作らなければならない。美が第一の条件である。この世には醜悪な数学に永住の地はない。」
ハーディの言葉の引用で、よく見かける部分である。彼は、有益で賞賛に値する学問は数学の他には少ないとし、数学より地位の高いものは天文学と原子物理学ぐらいなものだと語る。ここには、本来、人類が目指すべき学問とは何か?という問い掛けが込められている。それは、人間とは何か?真理とは何か?という精神や宇宙原理の探求であろう。歴史は、本質的な価値はどうであれ、真理こそ最も長生きすることを示してきた。これこそ数学の業績にほかならない。ハーディは、数学はもっとも精密な学問で、魅力的な技巧に満ちていると主張する。おいらは、あらゆる学問の源泉は哲学にあると思っている。だが、哲学は、随分と遠回りをしてきたように映る。その点、数学は、地道に定理と証明の積み重ねで発展してきた。いや、仮説に頼ってきた経緯も見逃せないかぁ。ニュートン曰く、「私は仮説を作らない」。ニュートンは、この言葉を残しただけでも偉大である。今日、人類は不確定性に見舞われる複雑系と、不完全性に見舞われる矛盾性と対峙する。こうした時代に、仮説や仮想に精神の安住を求めるのも仕方があるまい。もしかしたら、複雑系と矛盾性は、宇宙原理の本質なのかもしれない。

3. 年齢と戦う学問
「ガロアは21歳で、アーベルは27歳で、ラマヌジャンは33歳で、リーマンは40歳で...死んだ主要な数学上の功績で、50歳を過ぎた人によって為された例を私は知らない。」
数学者にとって年齢は重要な意味を持つ。そこには、創造的情熱を持ち続けることの難しさがある。偉大な数学者には、晩年を悲劇的に過ごした例も珍しくない。数学とは、一旦精力を失うと、精神を失う世界なのだろうか?数学の世界で老いるとは、創造的な思考を失い自らの存在感を失うことであろうか?生命体にとって、老いほどの恐怖はないのかもしれない。
何かに生涯を賭けて究めようとするのは勇気のいることだろう。良い意味での野心を持ち続けることは難しい。ハーディは、最も高貴な野心は後世に何か恒久的な価値を残そうとするものだと語る。野心が、あらゆることを成就させるための源泉であるのは間違いないだろう。好奇心を高めれば純粋な野心が生起する。しかし、野心が利己主義に陥ってしまえば、これほど有害な存在はない。ちなみに、脂ぎった野心が厄介なことは政治屋が教えてくれる。
ところで、フィールズ賞に年齢制限がつけられることは、時代錯誤に映る。かつて40歳を一つの目安にしたことに、それなりの合理性があったことは否定しない。だが、近年では健康寿命が延びているし、生物学的にも突然変異して老人パワーが発揮される時代が到来するかもしれないではないか?

4. 「定理の重さ」と「概念の意義」
ハーディは、「定理の重さ」や「概念の意義」という言葉と結びつけながら、数学の意義を論じる。重くない定理の例として、ラウズ・ボールの「数学の遊び」を紹介してくれる。

(a) 10,000未満で、8712と9801の二つだけが、4桁の数字で逆に並べた数の倍数になる。
8712 = 4 x 2178
9801 = 9 x 1089

(b) 1以外の数で、各桁の数の3乗の和になる数は4つしかない。
153 = 1^3 + 5^3 + 3^3
370 = 3^3 + 7^3 + 0^3
371 = 3^3 + 7^3 + 1^3
407 = 4^3 + 0^3 + 7^3

これらは、数学者に強く訴えるものがないという。証明が難しくても、興味を惹かないものは、定理は重くないというわけか。しかし、証明してみると、実は隠れた重い定理が潜んでいるかもしれないではないか。そこで、たとえ意義がなくても、おもしろいのでメモるのであった。酔っ払いの生きる意義とは、ただ愉快になることなのだから...
数学の歴史とは、抽象化と一般化の歴史と言えるだろう。無理数の概念は、整数を含んだ数字の抽象化であって、整数の概念よりも深いことになる。同様に、ハーディは、素数定理はユークリッドの定理やピュタゴラスの定理よりも深いという。
更に、数学の抽象化は、射影幾何学においておもしろい現象を見せる。非ユークリッド幾何学の登場により、写しを完全にするか、不完全にするかの違いで、実存の議論を抽象化する。物体の構造は、抽象化の進化とともに分解され、ますます実体から離れていくかのように。数学的実存は、形而上学の問題を多く解決してきた。だが、抽象化が進むと哲学的な実存問題をややこしくしやがる。数学の発展がコンピュータを進化させ、議論の対象を実空間から仮想空間へと移してきた。数学は実存の概念から遠ざけようとしているのか?いや!そもそも、実存や実体なんてものは幻想なのかもしれない。科学の進化は、天動説から地動説へ変化したように段々人間の地位を格下げしてきた。そして、人間の存在すら蔑むのか?

5. ハーディの人物像
「彼は優れた知性の持ち主で、しっかりと目を開き、多くの本を読み、人間性に対して極めて一般的な感覚を身に付けていた... 強靭で、物事に集中し、辛辣で、道徳的虚栄心とは縁のない人であった。... 彼が嫌ったのは、傲慢な態度、独善的な義憤、大家具陳列場のような偽善の集まりだった。」
スノーは、美しく率直な精神の持ち主であると評しているが、極限まで純粋さを求めれば偏った性格も見せるだろう。人物像を一方面からだけで評価することはできない。実際に「ある数学者の弁明」に現れるハーディの姿には、欠点的な面も曝け出す。それでも、スノーは、誇り高く謙虚な言葉の方を信じたいと語る。
ちなみに、小説家グレアム・グリーンは、「ある数学者の弁明」の書評で、ヘンリー・ジェームスと並ぶ創造的芸術家であると評したという。
ハーディには聖職者の友人がいたそうだが、彼にとって神は個人的な敵であったという。
「生涯で一番幸福な時間の中の幾らかを、ローマ・カトリック教会の鐘の音と過ごさなければならないとは、不幸なことです。」
偉大な科学者や数学者は、神を思いっきり嫌うと同時に、独自の神学を構築するところがある。強制される神の存在は邪魔だが、自由に想像できる神の存在は邪魔にはならないということであろうか。

6. ラマヌジャンを見出す
スノーは、インドの天才数学者ラマヌジャンを見出したエピソードを紹介してくれる。ラマヌジャンは、荒削りの定理を記した原稿を、二人の有名な数学者に送ったが、いずれも却下されたという。次にハーディへ送ると、見たことも想像したこともない定理があって感動したそうな。そして、インドからイギリスへ連れてこなければならないと決心する。当時では珍しい人種偏見のない様子がうかがえる。ラマヌジャンは、英語がよくできなかったのでマドラス大学に入学できす、独学で数学を勉強したという。ハーディは、ラマヌジャンの洞察力をガウスやオイラーに匹敵する天才と評したが、十分な教育を受けていないことを嘆いていたようだ。数学に貢献する年齢にしては遅すぎたと...

7. 友人のケインズ
経済学で有名なジョン・メイナード・ケインズは、数学者として出発していてハーディの友人でもあったというから驚きだ。これだけで、ケインズの本を読んでみたくなった。かつて、ケインズはこういう忠告をしたそうな。
「彼はクリケットの記録に対するのと同じ集中力をもって、毎日半時間でも株式相場を読んでいたら、間違いなく金持ちになれただろうに!」
ハーディのクリケットの腕前は凄腕だったそうな。

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