2024-10-06

"芸術作品の根源" Martin Heidegger 著

ハイデッガーが生きた時代は、二つの大戦を経て、ナチスの高官どもがヨーロッパ中の美術品を漁りまくった時代。もはや芸術は死んじまった!との愚痴が聞こえてきそうな芸術論に出くわす。
芸術に自由精神は欠かせない。だが、束縛の反発として自由精神が生起することだってある。芸術の根源を探求すれば、芸術そのものの在り方を問い、その本質に立ち向かうことになる。本質に立ち向かえば、真理を問うことに...
ここでは「真理の生起」と表現され、芸術作品は「現実性」においてのみ存在しうるとしている。そして、カント風の主観的普遍性の域に達すると、不滅たる作品に昇華させると...
尚、 関口浩訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

「作品そのものが、作者の巨匠たることを証明する、ということはすなわち、作品がはじめて芸術家を芸術の支配者として登場させる... 芸術家は作品の根源である。作品は芸術家の根源である。一方なしには他方もない。それにもかかわらず、両者のいずれもが単独で他方を支えることはない。芸術家と作品とは、各々それ自体の内で、そしてそれらの交互連関の内で、第三のものによって存在する。」

「現実性」という表現も、なかなか微妙である。芸術は現実性に支配されているんだとか。
しかし、リアルとリアリティでは、似ているようで違う。例えば、コンピューティングの分野には仮想現実(VR)や拡張現実(AR)といった空間世界があり、人間の認識はこの空間に現実性を見る。また別の空間では、夢を見ている間は現実と区別ができないほどリアリティに満ちている。
人間の認識能力は、心理的にも、生理的にも、誤魔化しが利き、現実でなくても現実性と見なすことができちまう。それは、「真理」とて同じことやもしれん。真理めいたものは大いに語りまくるが、本当の真理となると沈黙せざるを得ない。そもそも、真理ってやつは人間が発明した言語体系で記述できるものなのか。言語の限界に挑めば、暗号めいた叙述となるは必定。それは哲学の宿命か。
神は意地が悪い。人間と真理は絶妙な距離感を保ち続け、近づけそうでなかなか近づけない。弁証法をもってしても、真理の探求はすぐに行き詰まる。そして、永遠に探求し続ける羽目に。馬の鼻先に人参をぶら下げるかのように...

ところで、真理とはなんぞや?どうやら、真なる本質を言うらしい。芸術を探求する過程で、伏蔵性と不伏蔵性の狭間でもがく。
美学は、真理が不伏蔵性としての本質を発揮する一つのやり方だという。原因から結果へ写像していくうちに、不伏蔵性という明確な存在から伏蔵性という内なる存在を感じられるようになるんだとか。論理性からの脱皮とでも言おうか。真理への開眼とでも言おうか。芸術への道は甚だ遠し...

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