2024-09-29

"いまだない世界を求めて" Rodolphe Gasché 著

原題 "In View of a World"...
これを「いまだない世界」とするのは、これから来たるべき... という希望が込められている。それは、ある種のユートピアか。いまだ人類は、普遍的な世界に辿り着いていない。だがそれは、永遠に辿り着けないのかもしれない。現実社会は、異なる世界が複雑に絡み合う乱雑な世界。すべての人に開かれた世界でもなければ、万人が歓迎できる世界でもない。
ロドルフ・ガシェは、マルティン・ハイデッガーの美学の概念、カール・レーヴィットの世俗化の概念、ジャック・デリダの責任の概念という三者三様の思索を通じて、新たな世界を探る。そして、人々が共有できる価値観を模索しようと、哲学の有り方、哲学の限界といった哲学本来の意義に着目し、デリダ風の脱構築に活路を見い出す...
尚、吉国浩哉訳版(月曜社)を手に取る。

ところで、哲学とはなんであろう。こいつが真理と相性がいいのは、確かなようである。哲学ってやつは、文学にも、歴史学にも、政治学にも、倫理学にも、技術にも、はたまた仕事や日常にも結びつく。あるいは逆に、哲学の方が主体となって文学になったり、芸術になったりと、自ら主役を演じたり、脇役を演じたり変幻自在。哲学が真理と結びつけば、哲学をともなわない科学技術は危険となろう。そして、哲学をやれば、真理と対峙し、言語の限界、さらに人間の限界に挑むことになる。
では、真理とはなんであろう。弁証法は、循環論から救ってくれるだろうか。その先に、いまだない世界を見せてくれるだろうか。
ちなみに、コンピューティングの分野には、仮想現実や拡張現実という世界がある。天邪鬼には、そのぐらいの世界で留めておく方がよさそうか...

1. 芸術作品の根源... ハイデッカー
芸術は、既に死んでしまったのか。美学に奪われてしまったのか。ヘーゲルやハイデッカーによると、そういうことらしい。芸術作品は伝統的な哲学的意義を見失い、単なる感受性の対象に成り下がってしまったという主張である。19世紀から20世紀にかけての政治の在り方に照らせば、そういう見方もできそうか。
とはいえ、哲学を内包した美的価値を持ち続けた芸術家もいるし、その延長で政治批判や宗教批判として描かれた作品も少なくない。ドイツ語の "Ästhetik(美学)" のニュアンスもなかなか手ごわい。そして、ここに一つの美学批判を見る。
ガシェは、芸術作品は現実性を帯びてこそ価値が見い出せるとしている。しかも、作品の固有な現実性は、真理が生起することによってのみ効力を発揮すると...
それにしても、この表現は痛烈だ!
「美学とは死体を愛することである。そこでは、偉大な芸術の屍臭が漂っている。」

「ヘーゲルにとっては、芸術の現実性は抽象的な理念と具体的で感性的な現実との統一に基づいている。これに対し、ハイデッガーにとっては、芸術とは、もしもそれが一つの世界の根源にあるのならば、つまり事物、人間、神々の関係がなす有意味な複合体の根源に芸術があるのならば、それは現実的である。」

2. 信仰の残余... レーヴィット
レーヴィットの宗教論議は、摂理や終末論をともなうキリスト教的な歴史観が前提されているようだ。世俗化とは現実化であり、その意味合いもキリスト教の枠組みからは脱していない。人間の罪と神の救済とが結びつき、原罪と救済が結びつかなければ、この枠組みは成立しない。唯一神を信仰すればこそ、神の意志と人間の意志の不一致を問題にできる。神の声を聞くことのできる人間が、あるいは、その資格のある人間がどれほどいるかは知らんが...
近代の歴史哲学は、「キリスト教信仰の哲学的世俗化」だという。そこでガシェは、もう少し踏み込んで世界宗教という観点から論じようと試みる。一旦、古代ギリシア哲学とキリスト教から断絶して...
だからといって、マルクス主義的観念論に陥ることはない。かくして、宇宙論は人類を救うであろうか...

3. 限界なき責任... デリダ
責任とは、なかなか奇妙な概念である。この概念が哲学で議論され始めたのは、比較的新しいようだ。18世紀末、フランス革命の文脈として出現し、哲学的概念となったのは、19世紀だとか。元来、政治や法律用語であったが、キェルケゴールやニーチェにも見い出すことができる。そして、フッサールの絶対的自己責任に始まり、ハイデッカーの原初的な責任を経由して、デリダの限りなき責任へという流れ。
そういえば、仕事をやっていると、使命感のようなものが芽生える。良心の呵責とも結びつきそうな。それは本能か、自己の正当化か。責任を負うためには、まずそれを知らなければなるまい。責任という概念が、本質的に善から創出されるならば、客観的な知識と結びつくであろう。
しかしながら、ソクラテスの時代から論じられてきた無知の知という問題は如何ともし難い。おかげで、責任と自我の肥大化は、すこぶる相性がいい...

「責任が知識に従属するのならば、いかなるものであってもそれは無化されてしまう。また、責任は理論的規定の位相をも超越しなければならない。この位相なしに、責任は不可能であるにもかかわらず...」

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