2025-03-23

"アナロジー思考" 細谷功 著

発想を生む原動力に、二つの要素があるという。一つは、多様な経験や知識を持つこと。二つは、それらを対象とするものに結びつけること...

一芸に秀でた者が、多芸でも秀でたところを見せつけることがある。他ではつぶしの利かない狭小な専門家、いわゆる専門バカになってしまう人を尻目に、どの領域でもうまくこなしてしまう。両者を分けるのが、二つの目要素「結びつける力」だという。
一つの道を極めれば、その領域での経験や知識は半端ではない。そればかりか、一つ一つを具体的な知識で終わらせず抽象化した形で血肉と為し、完結した一つの世界を作り上げる。雑学博士で終わるかどうかは、二つ目の要素にかかっているというわけか。
すべての動機は、自分自身の関心事にできるかどうか。まずは、肩の力を抜いて...

アナロジー思考とは、類推性に発する用語で、別の分野からアイデアを拝借して問題解決の糸口とするといった思考プロセスのこと。アリアドネの糸のごとく。
例えば、他業界で成功しているコンセプトがヒントとなって、新たな事業を生み出すことがある。そこに至るには、様々な視点から課題や仮説を設定し、思考を巡らすことに。それには複雑な事象に潜む本質的な構造を見抜き、それを応用する力を必要とする。経験や知識が対象から遠くにあればあるほど、その関連性に気づくことが難しくなり、より抽象化した洞察力が求められる。その距離感こそ、アナロジー思考の肝というわけか。

「アナロジー」の語源を辿れば、比例を意味するギリシア語の「アナロギア」に発する。ちなみに、アナログも同じ語源。比例というといまいちピンとこないが、線形的な対比や同一性と捉えれば、類推メカニズムにも通ずる。
アナロジー思考は、論理的な推論ではないという。つまり、演繹法でも、帰納法でもないと。
科学哲学者チャールズ・パースは、演繹、帰納に続く第三の推論法として、「アブダクション」という思考法の存在を認めたという。しかも、科学的な発見に最も役立つと。邦訳すると、仮説的推論や仮説的発想となる。

発想力を促すには、まず心に遊びが欲しい。そこで、物事を結びつける手段の一つとして、言葉遊びがある。メタファーや謎掛けも、その類い。詭弁も紙一重か。アナロジー思考に長けた人は、案外ダジャレ好きやもしれん。
実際、難問に直面した時、偉人たちが遺してくれた名言に救われる。抽象度が高い言葉だけに、格言や金言となって説得力を持つばかりか、心の支えとなる。その抽象度の根底にあるのが哲学だ。

さらに、抽象度の高い学問といえば、数学。数学は、あらゆる学問の道具となり、科学法則から経済現象や社会統計に至るまで、コンピュータプログラムのごとく記述して魅せる。精神空間も幾何学で記述し、音響空間の中で癒やされる。アナロジー思考を促すには、空間認識の抽象化と具現化、あるいは理論と実践の調和をもって...
ちなみに、数学は哲学である... とういのが、おいらの持論である。

「抽象には問題を解決する力があるが、問題を生む力はない。これに対し具象には数学そのものを生み出す力がある。具象は難問を創造し、しばしば自分で作り出した困難にぶつかって立ち往生することがあるが、それ自体がまた新たな創造の契機である。」
... 高瀬正仁「数学における抽象化とな何か」より

人間のあらゆる思考が、真似事に始まるのは本当だろう。それは、子供の行動を観察すれば分かる。親を真似、先生を真似、友達を真似、活字や映像を真似ながら物事を学んでいく。
芸術の世界では若き日に、一流の画家が名画の模写を繰り返し、一流の音楽家が名曲の楽譜をなぞり、一流の作家が名文の虜になり、やがて独自の世界を覚醒させていく。
学問の世界でも、違う分野からアイデアを拝借するといった事例は枚挙にいとまがない。カルノーサイクルが滝の水にヒントを得、原子モデルが惑星軌道から発想を得、電磁気学が流体力学との類似性から発展し...
そして、バネの挙動を表す運動方程式と電気回路の微分方程式の類似性を改めて示されると、なんとも愉快!

 m  d2
 dts 
 + c  dx 
 dt 
 + kx = F
 L  d2
 dts 
 + R  dQ 
 dt 
 +   Q 
 C 
 = E

 x: 変位 → Q: 電荷
 F: 外力 → E: 電圧
 k: バネ定数 → 1/C: コンデンサの容量
 m: 質量 → L: コイルのインダクタンス
 c: 減衰定数 → R: 抵抗

2025-03-16

"アイデンティティと言語学習" Bonny Norton 著

言語には、自己の縄張り意識が如実に顕れる。言葉が違えば、よそ者扱い。ちょいと訛りがあるだけで、ちょいと流行り言葉を知らないだけで...
言葉の嵐が荒れ狂うソーシャルメディアの世界では、みんなでごっこ!沈黙ですら言葉を発し、忖度ごっこ!
デジタル交流が、しばしば自発的な自己形成を阻み、乱雑する自己同一性の中で自我を埋没させていく。人間の意識には、ほかならぬ自分であるという確信が必要だ。言語は、その証明ツールとなり、しばしばアイデンティティを代弁する...
尚、中山亜紀子、福永淳、米本和弘訳版(明石書店)を手に取る。

「言語とは社会的な組織の実際の形態や可能な形態、そして、それらの社会的、政治的な帰着が定義され、異論が唱えられる場である。そのうえでまた、自分自身が誰なのか、私たちの主体性が構築される場でもある。」

ボニー・ノートンは、 ジェンダー、人権、階級、民族、移民、権力などで周縁化される社会において、第二言語学習の在り方を論じて魅せる。いまや世界言語に位置づけられる英語。これを第二言語として学ぶ必要に迫られるのは非英語圏の人々である。高い動機を持ち、恥や外聞を捨て、言語特性に内包される曖昧さを受け入れ、しかも、あまり不安を感じない人が、積極的に言語に触れる機会を見い出す。
だが、それだけだろうか。機会平等なんてものは、ただの標語か。人には、どうしても避けられない境遇や、逆らえない運命めいたものがある。コミュニケーションするために言語を学ぶと同時に、言語を学ぶためにコミュニケーションする。この矛盾が、人間特有の差別社会で起きており、自由であるはずの学問さえも不平等を強いられる。

言語を習得するとは、その言語圏の文化を学び、世界観を学ぶこと。外国に行けば、その国の言語が簡単に会得できるわけでもない。学習者は物事を母国語のスキーマで捉えがちで、特に日本人は英語の習得が深刻な問題となる。英語圏の人々とは価値観も、宗教も、民族的な多様性とも相い反するところがあり、思考回路も真逆なことが多い。

おもてなし!が日本人特有の文化としながら、本音ではよそ者に冷いところもある。
例えば、介護の現場では、人手不足にもかかわらず外国からの人々を拒絶。日本語が上手くできないと資格すら与えない。痴呆症の老人相手に流暢な日本語が本当に必要なのか...
訪問介護の見学ルートにもなっていた我が家は、フィリピンやマレーシアからやって来た研修生たちに救われたものだ。日本語が口から出ない時は英語なり、母国語なり、独り言でも、愚痴でも遠慮なく発してください!と、こちらも片言英語で応える。駅前留学までしておきながら、日常会話の相手がいなければ元の木阿弥。何語であろうと、介護の場では片言の言葉が笑いを誘う...

母語の発話者は、言葉が相手に聞き取りやすいように配慮する。言葉のハンディを意識して。だからといって人間性でハンディを背負っているわけではない。第二言語を学ぶことで、海外の人々と接することで、アイデンティティが再構築されていく...

「言語はコミュニケーションの一形態、もしくは、ルール、語彙、意味からなるシステム以上のものである。言語は、人々が、他者との対話や関係の中で、意味を構築し、定義し、それをめぐって闘う社会的実践の能動的媒体である。言語はより大きな構造的文脈の中に存在するため、この実践は、部分的には、個人と個人の間に存在する継続的な力関係の中に位置づけられ、形づくられる。」

言語の習得には、教師がいて、生徒がいる、といった関係を超えたシステムが必要であろう。口は災いの元というが、沈黙が隠れ蓑となることも。精神とやらを獲得した知的生命体には、なんらかの防御シールドが必要だ。
本書で紹介されるダイアリースタディの体験談はなかなか。書くことは、自己分析にも役立つ。但し、書くことは、反抗心を助長したり、服従心を植え付けたりもする。御用心!

「書くことは、発言をとらえ、捕まえて、離さないでおく一つの方法です。だから私は、会話の断片をひとつひとつ書き留めました。触りすぎて破れてしまった安い日記帳に思いを打ち明けて、私の哀しみの激しさ、発言の苦悩を表現して。それは、私が、いつも間違ったことを言ってしまったり、間違った質問をしてしまったから。私は自分の発言を本当に必要なことや私の人生で大切なことだけにとどめておくことはできなかったのです。」

言語の習得は、なにも人とのコミュニケーションのためだけではない。語彙を広げるのは自分を知るため、より的確に自己を語りたいがため。だから自己投資する。
言語学習に人間を相手にする必要はない。今では、AI が... 大昔から、人間はそうやって生きてきた。いつも代替物を追い求め、奴隷やペットがその役割を担ってきた。この寂しがり屋め!

人間ってやつは、どこかのグループに属していないと不安でしょうがない。家族、組織、共同体、国家...
なんでも繋がろうとする社会では、孤独に救われることが多い。理想的な死は、むしろ孤独死にあるのやもしれん。無縁墓の方が賑やかそうだし。孤独愛好家が増殖する社会では、孤独も一つの帰属グループとなり、独学には必要な要素やもしれん...

「多言語環境での社会的行為者は、コミュニケーション能力以上のものを作動させており、それがお互いの正確で、効果的で、適切な意思疎通を可能にしている。また、社会的行為者は、さまざまな言語コードやこれら言語コードの多様な空間的、時間的な共振を使いこなすのに、特に鋭敏な能力を発揮しているようだ。私たちはこの能力を『象徴的能力』と呼ぶ。」

2025-03-09

"美術史の基礎概念" Heinrich Wölfflin 著

「美術史の基礎概念」と題しておきながら、16 世紀の盛期ルネサンスと 17 世紀のバロックに対象が絞られる。この時代を注視すれば、近代美術の様式基盤がだいたい網羅できるというわけか...
尚、海津忠雄訳版(慶応義塾大学出版会)を手に取る。

美術の様式は個人の裁量にとどまらず、流派、地域、民族、時代など様々な角度から見て取れる。人間ってやつは、それだけ環境に影響されやすい動物だということだ。独自性や自立性を主張したところで詮無きこと。
ハインリヒ・ヴェルフリンは、美術様式の発展過程を五つの対概念で定式化して魅せる。線的から絵画的へ、平面的から深奥的へ、閉じられた形式から開かれた形式へ(構築的から非構築的へ)、多数的統一性から単一統一性へ、絶対的明瞭性から相対的明瞭性へ(無条件の明瞭性から条件付き明瞭性へ)... と。
いずれの概念も、従来様式の殻を破るかのように発展してきた様子が伺える。美術とは、まさに自由精神の体現!美術史に人間の情念遷移図を見る想い。芸術論とは、普遍的な人間学に属すのものなのであろう...

「人は常に自分が見たいように見ているのだとしても、このことはあらゆる変遷の中で一つの法則が作用している可能性を排除しない。この法則を認識することが、科学的美術史の主要問題であり根本問題である。」

人間は、刺激に貪欲である。斬新な手法に目を奪われるのは、いつの時代も同じ。芸術家は一層エゴイズムを旺盛にし、鑑賞者も負けじと新たな感動を求めてやまない。双方で高みに登っていこうというのか。いや、退屈病が苦手なだけよ。

芸術家たちは様々な手法を駆使して作品に息を吹き込む。あらゆる制約から解き放たれた瞬間、静的な芸術作品が動的な存在へ。ユークリッド空間で崇められる線や円の概念から脱皮して新たな空間感覚を刺激し... 陰影によって遠近法を際立たせたり、曲線に絶妙な歪を持たせてエキゾチックに演出したり、縁取りで存在感を強調していた主題を、境界線を曖昧にすることによって背景と同化させたり、主題の立ち位置が曖昧になれば、主役と脇役が逆転することも...
比例の概念までも歪ませれば、黄金比という数学の美へ導かれるのか。ダ・ヴィンチや北斎のように...
主題が自己主張を弱めると、逆に全体としての臨場感が増す。美術とは美の術と書くが、本物の自然物よりも、自然を模した人工物に感動しちまうとは。芸術美とは、激昂と静寂の調和のもとでなされる衝動と意企の駆け引き... とでもしておこうか。

そして、作品が雄弁に物語る術を会得すれば、もはや作者の手を離れ、作品自身が独り歩きを始める。コンピュータ工学には、マシンは意思を持ちうるか、という問い掛けがあるが、芸術作品にもそんな問い掛けが聞こえてきそうな。偉大な芸術作品とは、歴史の中で自ら独立墓碑を刻むものらしい...

「それぞれの芸術作品は一個の形成物であり、一個の有機体である。それの最も本質的な表象は、何も変更されたり、ずらされたりできず、すべてのものが在るがままでなければならない、という必然性の性質である。」

2025-03-02

"THE MASTER ALGORITHM" Pedro Domingos 著

マスターアルゴリズムとは...
それは、過去、現在、未来に渡るすべての知識を獲得できる万能学習器のこと。中でも重要なのは、未来に関する知識だ。人間の認識能力は時間の矢に幽閉されているのだから。いや、機械学習の次元では、そんなものに束縛されないのやもしれん...

かつて計算機に仕事をさせるには、まず目的に適ったアルゴリズムを書き下ろし、それを計算機に喰わせるというのが定番であった。機械学習は、これとは違う方針をとる。それは、データに基づいて計算機自身が推論し、自らアルゴリズムを編み出すことにある。さらにデータが不十分と見れば、その収集、分析までもやってのける。
万能チューリングマシンが演繹的であるのに対し、マスターアルゴリズムは極めて帰納的だ。経験値を積めば積むほど、人間の仕事はどんどん奪われていきそうな...

叙事詩人ヘシオドスは、こんなことを詠った。誠実な労働生活こそが人間のあるべき姿... と。仕事を失った人間は、どうなるのだろう。生き甲斐までも失っちまうのか。いや、仕事の定義も変わっていくだろう。究極の機械学習が編み出されれば、逆に人間が機械に問われるやもしれん。人間足るとはどういうことか?と。それで機械に説教されてりゃ、世話ない...

機械学習の根本には、ヒュームの帰納問題が内包されている。それは、「すでに見たものを汎化して、まだ見たことがないものにも適用することを常に正当化できるか。」という問いである。それが正当化されないとしても、そこに人間は答えを出す。誤っていようとも。失敗を重ねながらも。そもそも学習とは、そうしたものであろうし、現在を生きるとは、そういうことであろう。
つまり、思考アルゴリズムには、ある程度の無駄も必要ということになる。何事にも遊びがなければ、心に余裕が生まれない。機械学習に心が芽生えるかは知らんが、そうした余裕のようなものが機械学習にも必要なのやもしれん。それが、帰納法的思考の本質なのやもしれん。
合理主義か経験主義か、理想論か現実論か、はたまた演繹法か帰納法か... こうした概念の狭間で人間の思考は揺れる。そして、機械学習の思考アルゴリズムもまた...

さて、しつこい前戯はこのぐらいにして...
本書は、機械学習の学派を大まかに五つに区分する。記号主義者、コネクショニスト、進化主義者、ベイズ主義者、類推主義者と。ペドロ・ドミンゴスは、この五つの学派を統合する視点から、より強力なアルゴリズムの構築を試みる。言うなれば、いいとこ取り...
尚、神嶌敏弘訳版(講談社)を手に取る。

それぞれの学術的立場は...
「記号主義者」は、すべての知識は記号化、言語化できるという信念のもとで人間の知能をモデリングする。それは、コンピュータの構造が数学的であることを最も忠実に再現しようとする立場と言えよう。
「コネクショニスト」は、ニューラルネットワークによる神経細胞の結合の強さなどを調整して、人間の脳をモデリングする。
「進化主義者」は、学習原理を自然淘汰に求め、人間が長い年月をかけて獲得してきた経験値から認識メカニズムを構築する。
「ベイズ主義者」は、すべての関心事を不確実性に絡め、事前確率をもとに確率的推論を組み立てる。ベイスの定理は、この不確実性と事前確率の関係を記述する。
「類推主義者」は、事象間の類似性を解析し、一つの類似点を見つければ、他にも類似している点があると仮定しながら知能モデルの幅を広げていく。

それぞれの最適化アルゴリズムは...
記号主義者は、論理を信条とした逆演繹法。
コネクショニストは、ニューラルネットを基軸とする誤差逆伝搬法や勾配降下法。
進化主義者は、適合度探索による遺伝的プログラム。
ベイズ主義者は、重み付き論理式を実装した確率伝搬法やマルコフ連鎖モンテカルロ法。
類推主義者は、最近謗法やサポートベクトルマシンを用いた制約付き最適化。

こうして各学派を渡り歩いていく中で、過学習、ノーフリーランチ定理、次元の呪い、バイアス - バリアンス分解、探索と活用のジレンマといった機械学習でよく見かける問題を紹介してくれる。

「過学習」とは、特定のデータパターンをあまりに多く覚え込んでしまったために、例外や未知のデータへの応用が利かなくなり、柔軟性を失うといった現象。
「ノーフリーランチ定理」とは、学習器がどれくらいうまく予測できるかについての制限を示すもので、「いかなる学習器も、無作為な推測よりよい予測はできない」と告げる。学習アルゴリズムには必ず偏向が見られ、あらゆる問題を汎用的に解決することは理論的に不可能であると。
「次元の呪い」とは、空間次元の増加に伴い、目的を特定するのに必要な訓練量が指数関数的に増えるというもの。例えば、最も簡潔かつ高速な学習アルゴリズムとされる最近謗法は、二次元や三次元ではうまくいっても、ちょいと次元が増えるだけで行き詰まったり。高次元では、サポートベクトルマシンが重み付きの k 近傍法に見えたりと。
「バイアス - バリアンス分解」とは、それぞれ「偏り」と「分散」に当たる語で、予測結果に対する調整の指標とされる。そして、判断材料とされるデータに、どれだけノイズが含まれるかが問われる。例えば、学習器が同じ誤りを繰り返すなら、バイアス傾向にあり、より柔軟性のある方向に調整する。あるいは、誤りに一定の傾向が見られなければ、バリアンス傾向にあり、より柔軟性を抑えた方向に調整する。
「探索と活用のジレンマ」とは、探索と活用のタイミングを問う問題で、例えば、うまくいった方法を一度見つけ、それをずっと続ければ、もっとよい方法に出会う機会を失う.... あるいは、他にもっと良い方法があるはずだと躍起になるあまり、過去に出会った最適な方法を見過ごしてしまう... といったこと。

こうした機械学習が抱える問題は、そのまま人間の認識に当てはまる。知識が多すぎるために、判断を誤ったり、行動を躊躇したり。学問の専門化が進めば、逆に視野が狭くなって全体像が見えなくなったり。調査活動に夢中になるあまり肝心な行動が鈍ったり、行動を急ぐあまり調査が不十分であったり。理想の人との出会いを求めるあまり、最良の人との出会いを不意にしたり...
パターン化と柔軟性、調査と行動、専門性と汎用性といったものには、少なからずトレードオフの関係にある。そして、情報量が増えれば、ムーアの法則のごとく指数関数的に選択肢も増え、混乱も増える。

「生命を計算機と捉えて考えると、多くのことが明らかになる。計算機にとっての先天性とは、その上で実行するプログラムであり、後天性とは、計算機が取得するデータである。どちらが重要かという疑問は滑稽である。プログラムとデータの両方がなければ出力結果は得られないし、出力結果の 60% がプログラムによるもので、40% がデータによるものという類いのものでもない。これは、線形モデルに囚われた思考の一種であり、機械学習に慣れ親しめば克服できる。」

しかしながら、これら五つの学派をもってしても、共通した欠陥があるという。それは、正しい答えを教えてくれる教師が必要だということ。人間とて、先生に教わらずして学ぶことは難しい。
その証拠に、手っ取り早く学ぶためにノウハウセミナーはいつも活況で、ハウツー本はいつも大盛況ときた。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで。多忙とは、威厳をまとった怠惰に他ならない... とは誰の言葉であったか。
大量のデータにもめげず、自己分析を地道にやり、真に独学を実践するという点では、人間よりも機械学習の方が得意であろう。そして、真に自立型アルゴリズムへの道は... 一つの方程式が石碑に刻まれる。過去を振り返るな!と...

  P = ew・n / Z

左辺は、確率 P。右辺は、重みベクトル w とその個数 n の内積に指数関数を適用して、全ての積の総和 Z で割る。マルコフ過程に基づいた言語認識プログラムは、方程式を並べ立てればモデル化できそうな予感。ここには、一つの呪文が透けてくる。すべての機械学習器が自己無矛盾である必要があるのか?と...

「さあ我等が治める地を一つにせん。そなたは我が規則に重みを加えられよ。さすれば、この地の果てまでも新たな表現が満ちるであろう。... そして、我等が世継ぎは、マルコフ論理ネットワークとならん!」