2012-11-25

"科学と方法 改訳" Henri Poincaré 著

科学の方法論に、数学が関与しない道理はない。アンリ・ポアンカレは、物理学と数学とで証明の方法が違っていても、発見の方法はすこぶる似ていると語る。そして、数学的推理の基本は紛れもなく帰納法的思考にあるとし、大発見に至った自己の心理分析までも披露してくれる。事実から普遍化へ至る思考は直観から始まるというが、それは芸術家のごときものであろうか。直観の偉大さを情熱的に語るところは、科学書というよりカント風の哲学書という感がある。とはいえ、真の哲学者に数学をやらない者はいないと思っているので、まったく違和感はない。その哲学論争を遡れば、プラトンとアリストテレスの対立しかり、カントとライプニッツの対立しかり... ポアンカレもまた、ヒルベルトの形式主義やラッセルの記述理論だけでは、真の科学は構築できないと対立的立場を鮮明にする。客観を構築するために主観の関与が重要だとするところは、まさに直感を直観へ昇華させようとする目論見であろう。それにしても、本書には「気まぐれ」という言葉があちこちに鏤められる。実にらしくない。ただ、気まぐれ崇拝者はニヤリ!なにしろ、ア・プリオリを崇高なる気まぐれと解釈しているぐらいだから...

「視よ、而して正しく視よ。」
これがポアンカレのまずもっての助言である。そして、科学の方法は観測と実験にあるとしている。下手に見るぐらいなら見ない方がいい。そこで、見るか見ないかが最初の選択となる。人間の思考が主観性に偏りがちなのは、自我の主体性、すなわち自己存在を意識するからであろう。そこで、主体を打ち消そうと努力し、精神の均衡を保とうとする。学問するとは、そういうことであろうか。学問の方法では、最初に知識を身に付けようとする。それも間違いではあるまい。
しかしながら、学問とは、学んで問うと書く。教育とは、知識を詰め込むことではあるまい。いかに新たな観念を受け入れる心構えを具えるか?これが問われる。常に自我を検証し、新たな思考を試す癖が身につけば、知識の方から自然にやってくるだろう。だが、いくら知識を深めても、やはり誤謬を犯す。はたまた多くの事実を知ったところで、幸せになれるわけでもない。知識を得ることは、あくまで手段でしかないのに、それ自体が目的化すると思考が硬直する。知識の豊富な者が思考停止に陥った状態ほど、質ちの悪いものはない。これが宗教の弊害というやつか。大量破壊兵器にしても、大規模な環境破壊にしても、残虐なテロリズムにしても、科学と強く結びついた結果である。ならば、あえて歩みを止める。これも選択肢としてあってもいい。おそらく無に帰することも真理なのだろう。これが死の意義なのかは知らん。科学者は、善悪はそれを用いる者の心の中にあると主張する。それは詭弁であろうか?科学者の中にも人格劣等者がいる。だからといって、科学を捨てて道徳のみを研究すればいいということにはなるまい。
いずれにせよ、思考の第一歩は疑問を持つことにある。生に対しても死に対しても、歩みを進めるにしても立ち止まるにしても。この性質こそ、子供が最も素朴な哲学者と言われる所以である。科学の方法とは、まさに子供心を育てることであろう。

さて、この手の本を読むと悪い癖がでる。それは、心地よさそうに思考が勝手に暴走を始めることだ。科学という客観的な書を読んでいるはずなのに、読んでいる当人は客観とは程遠いところにいる。まったく困ったものよ。この記事も思考が暴走した結果である。したがって、ポアンカレが言わんとした事が何かは知る由もない。

1. 数学の意義とは
現実に数学の理解を拒む人は多い。この学問には、それが何に役立つのか?と絶えず疑問がつきまとう。他の学問は人間社会への貢献を具体的に掲げる。物理学はエネルギーを発明し、経済学は価値を創出し、音楽は心に安らぎを与え、哲学は生き方を教える。本来の目的を見失って害をなすこともあるけど。対して数学ときたら、ひたすら美しい理論や法則を探求するだけ。まさか、素数の発見者が今日の暗号システムに利用されるなんて考えもしなかっただろう。実益を直接求めない学問、その最大の強みは、なんといっても客観性のレベルが他の学問よりも格段に高いことである。だから、分析の道具として威力を発揮する。市場原理や社会現象はいまや数理解析や統計解析なしには語れないし、保険会社は数理モデルを放棄した途端に倒産に追い込まれるだろう。
現実を生きる技術者は夢想する数学者に、この微分方程式を積分しておいて!とお願いする。だが、多くの微分方程式が解けないことは周知の通り。そこで、近似という手法を巧みに用いて誤魔化す。極限の大小関係から迫れば、ε-δ論法風の思考も必要となる。相対的な認識能力しか持てない人間にとって、比較によって迫る思考は相性が良さそうなものだが、やはりヘンテコな不等式は数学者に任せておくのが賢明だ。実益者から見れば、数学者は何かを編み出してくれるブラックボックスのような存在に映る。よっ便利屋!いつもお世話になっているのに乱暴な事を言ってごめんなさい!今度、ボトル持っていきますんで...
また、特殊な言語を操るところに、数学者の宇宙人たる所以がある。そこには詞句はなく、奇妙な記号の羅列があるだけ。言語を巧みに操るという意味では文学にも通じそうなものだが、門外漢はひれ伏すしかない。ただ、問題の性質を正しく理解するためには、その場面に特化した言語を用いるのが合理的である。実際、プログラマは人工知能言語や数値演算言語やマークアップ言語など用途に応じた言語を次々に編み出す。
しかし、こうした合理的な思考だけで数学が成り立つわけではない。あらゆる定理や法則が論理的に演繹できるわけでもない。いくら高度な客観性を具えていても、数学が数学自身を構築するには、どうしても感覚に頼らざるをえない。公理だけではいずれ行き詰ることをカントールが示した。いや、ヒルベルト自身が暗示したと言った方がいいかもしれない。そこで、ポアンカレは数学的推論の原理を帰納法に求める。しかも、その正体は直観であると。数学は、リーマンのような直観派によって進化を遂げてきたのも事実。感覚だけでは人間精神は簡単に暴走するが、論理だけでもやはり暴走する。人間は、知識を蓄えながらもなお、直観に頼って生きるしかない。それは、知識が無限だからであろう。人間が操るもの、あるいは操ろうとするもので、信仰から逃れることはできないのかもしれん。
「人は直観に信頼してきた。しかしながら、直観は吾々に厳密性を与えない。さらには、確実性さえも与えない。人は次第次第にこのことを悟ってきた。直観はたとえばすべの曲線は接線をもつこと、いいかえれば、すべての連続関数は導関数をもつことを吾々に告げる。しかもこれは謬まりなのである。」

2. 定義とは
人は、何かを説明する時に都合よく定義を持ち出す。定義によって公理を導き、最高級の定義に公準が位置づけられる。この方法は、ユークリッドの時代から容認されてきた。論理崇拝者は、あたかもユークリッドが公準に対して容認したのと同じことを数学的帰納法にも容認する。一旦定義しちまえば、それを前提にいくらでも論理構築ができ、歴史的な難題が定義を前提に展開されてきたケースは多い。その過程で素晴らしい発見があると、定義はいつのまにか公理へと崇められる。定義とは、麻薬のごときものか。しかし、前提が崩壊した途端に努力は無と化す。数学者の人生とは果敢ないものよ。
では、人はなぜ定義をするのか?その定義を何かに利用したいからであろう。定義は直感によってなされる。それが、それらしいとなれば、同調する人が群がる。まるで権利を主張するかのように。これが、人間社会を構成する基本的動機ではないだろうか。論理崇拝の道ですら、同じ轍を踏む。学問に定義はつきもの。定義を重んじるからには言葉を大切にする。だが、こうも定義が氾濫すると、社会は騒がしくてしょうがない。学問とは、騒ぎたいがためにやるのか?まるでお祭りよ。神が沈黙しか教えないとすれば、宇宙法則に反する行為のようにも映る。いや、人間が騒いだところで宇宙がどうにかなるわけでもないから、神は黙って見ておられるのかもしれない。
定義は規約のごときものであるが、それを押しつければ反抗心が湧く。言葉の押し付けは文化の押し付けとなり、暴動の引き金になる。不正確でお粗末な定義ならば、やらないほうがいい。定義が認識過程において必要なのかは知らん。ただ、人類は単に言葉を増産してきただけで、実は、ユークリッドが示した五つの公準以外に進化させてきたものは何もない、ということはないだろうか?

3. 偶然とは
偶然... 現象を扱う上でこれほど厄介な存在はない。まさに法則と対立する存在。確率的な現象であることは確かであろう。ソクラテス流に言えば、無知者にとっての偶然は知識者にとっては偶然ではないことになる。偶然とは、無知を測る尺度とすることができるのかもしれない。ただ、すべてを法則で説明できたとしても、絶対的決定論とするには抵抗がある。
一方、人間社会には、知らぬが仏という原理が働き、偶然の幸せというものがある。無知だから感動を呼ぶ。完璧な予測は人生を色褪せたものにするだろう。となると、知識を得るほど感情を奪うのだろうか?いや、そんな心配はいらない。知識は無限なのだから。
ところで、偶然には客観性があるのだろうか?πやネイピア数は偶然に数字が羅列された結果なのか?素数は偶然の産物なのか?偶然現象の最たるものは天才の出現であろう。あの女性と知り合ったのは?この世に生きていることは?などと問い詰めれば、偶然は主観性に支配されるとは到底思えない。出くわしたい偶然もあれば、出くわしたくない偶然もある。ギャンブルでは偶然に頼る。それは無知に頼るということか?気まぐれもまた、精神内に起こる偶然現象ではないのか?現象が気まぐれなら、それに劣らず観測も結果も気まぐれよ。完璧な観測が精神を退化させるのかは知らんが、幸せの原動力は偶然、すなわち無知の方にあるのかもしれん。しかし、直観が気まぐれを原動力にするならば、神に通ずる道が無知だとも思えん。神は本当に幸せに導こうとしているのか?

4. エーテルと絶対認識
仮にエーテル充満説が正論だとすると、エーテルは宇宙空間において絶対静止をしているのだろうか?もしそうならば、不動のエーテルに対して、絶対速度なるものが定義できるかもしれない。だが、物体が運動をすれば、周辺のエーテルもまたなんらかの反作用を受けるだろう。そして、マイケルソン・モーレーの実験はエーテルの存在に否定的だ。
光速が陰極線とラジウム放射の助けによって観測されると、マクスウェル理論が脚光を浴びる。ラジウムは、α線、β線、γ線の三種類を放射することが知られるが、発見もさることながら放射測度を計測したのだから尋常ではない。しかし、絶対速度の存在を認めれば相対論と矛盾が生じる。それを解消したのがローレンツ圧縮で、光の進む方向に対して空間の方が歪むとすれば説明がつく。絶対速度を規定したところで、観測系と同じ空間にある光の速度変化に気づかないのも道理というものか。いくら光速を 3.0 x 108m/s と具体的に定義したところで、人間の尺度でしかない。だから、精神空間の歪んだ人間が自我を認識するために、別の精神空間の住人を必要とするのだろう。では、歪む空間において、作用と反作用が等しいという関係はどうなるのか?相殺は不完全ということか?電子に質量がなければ、相殺は完全になりうるかもしれない。ただ、肝心な質量の正体が見えない。アインシュタインは、E = MC2 で質量とエネルギーの等価性を示した。では、物質と空間の関係はどうなるのか?物質とは、空間に対して歪を与えるだけの存在なのか?物質は必ず質量を持っていると言えるのか?点電荷とは、空間に対してどういう存在なのか?んー...物質の概念そのものを疑ってみる必要があるかもしれない。
近年、宇宙物理学者はダークマター(暗黒物質)やダークエネルギーという仮説を持ち出す。観測とは、認識を意味する。認識できないものは無とするしかない。だから、エーテルを無としてきたのか?しかも、それが宇宙の96%を占めるというから、いまだ宇宙のほとんどが解明できていないことを意味する。まぁ、地球の多くが解明できていないのだから、それも当然か。そこで、ポアンカレは測地学を進化させることが、まずもって科学の進むべき道だとしている。人類の住む大地を理解せずしてなんとする?というわけか。ただ、フランスの測地学を称えて、国家予算を投入せよ!と政治色を見せるところに違和感がある。そういえば、従弟のレイモン・ポアンカレは第三共和政時代の大統領だったっけ。
さて、絶対速度の存在とは何を意味するのか?光速に近づくほど、運動エネルギー、運動量、質量は限界を越えて増大し、光速となった途端に無限大となる。つまり、いかなる物体も光速を超えることはできないとされる。そうだとしても、疑問は残る。運動している自分が、光速に近づこうとしていることが認識できるのか?光速で運動する観測者にとって、光はどう見えるのか?そこに絶対停止なるもの、すなわち神でも見えるというのか?相対性原理は、まったく自問ってやつが苦手よ!相対的な認識能力しか発揮できない人間が自己矛盾に陥るのも当然か。絶対運動なるものが認識できたとしても、すべてが無意味となり、空虚となるだけのことかもしれん。

5. 慣性と浪費
電流は感応現象、特に自己感応を起こすという。自己誘導と言った方が馴染みがある。電流が強くなると自己感応の動電力が現れて電流に反抗しようとし、弱くなると電流を持続させようとするという。慣性の原理のごとく、電流はそれ自身の変化を妨げようとすると。電流を生じるには、慣性を打ち破らなければならない。
一方で、人間は飽きっぽく、集団化すると移り気も激しい。安定とは適当な変化を繰り返すことになろうか。自然は偏ることを嫌うようだ。長距離送電では電流源は適当に揺れる交流の方が都合がよい。だが、人間が直接扱うとなると直流の方が思考しやい。電流と電圧の奇妙な位相差を吸収することが難しいからだ。電流ゼロ状態が電圧ゼロ状態とならないだけでも厄介。よって、交流は電力や実効値といった統計的方法で捉えることになる。
デジタルシステムの根本原理にトランジスタのオンオフ制御がある。電流が流れるか流れないかのスイッチング特性は、まさに直流思考。これを交流で思考すると頭が爆発し、機器も爆発するだろう。自己誘導もまた自己矛盾の餌食となる。細かい制御を、交流のまま制御できれば変換ロスが抑制でき、人間社会の省エネルギー化も進むだろう。だが、熱力学は永久機関をつくりだすことは不可能だと教えてくれる。あらゆる運動においてエネルギーロスがあると。宇宙の真理が浪費にあるのか、無意味にあるのかは知らん。そうだとしても、人間が生きるには、なにがしか意味があるとしておかなければ、やっとられん。これも思考の浪費か?どうやら神は浪費家のようだ。

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