2025-12-28

"有閑階級の理論" Thorstein Veblen 著

有閑階級とは、なんとも挑発的な用語だ。こっちときたら、貧乏暇なし!嫉み、妬みの類いは、ことのほか根深い。
アカデメイアやリュケイオンに学園が創設された時代、哲学のできる身分は生活にゆとりのある家柄であった。王族や貴族の時代、その階級に属すだけで社会的に威信をまとうことができた。21世紀の今、やはり裕福な家庭の方が教育費をかけられ、まったく羨ましい限り。それで賢くなれるかは知らんが...

資本主義社会では、金は天下の回りもの!なる言葉が大手を振る。巷には様々な所得形態に溢れ、生産の対価、卸売や流通の対価、取引手数料、不動産賃貸、広告収入、金利所得、配当金、年金、あるいは派生的な金融アルゴリズムに身を委ねるなど、ますます多様化が進む。不労所得という用語もあるが、労働の概念そのものが変化し、生産性と非生産性の境界も曖昧になっていく。直接的生産と間接的生産といった方が、当を得ているであろうか。経済の繁栄は、資本の循環こそ源泉。血液の流れのごとく。それで、浪費を正当化できるかは知らんが...

ソースティン・ヴェブレンは、「衒示的閑暇」「衒示的消費」という用語を持ち出す。衒示的とは、顕示的、誇示的といった意味らしい。つまり、見せびらかしの閑暇や見栄っぱりな消費である。
自己顕示欲は、ことのほか手ごわい。資本家階級は生活のための労働を免れ、学問やスポーツやレジャーに御執心。哲学を論じ、宗教を論じ、政治を論じ、軍事を論じ、愛国心を旺盛にしていく。近代化とは、そうした時代であろうか。社会的な威信をまとうために高価な商品を買い漁り、物財や儀式に神聖なるものを求め、並外れた富の所有や浪費によって名声を得ようとする。
ヴェブレンは、こうした有閑階級に対して反感を匂わせながらも、近代社会の経済的要因の一つとしての意義を論じて魅せる。有閑階級は、所有の意識とも強く結びついてきたという。有閑階級と奴隷階級の始まりは、鶏が先か卵が先かの関係にも似たり。いずれにせよ、私有財産制は、人間が人間を所有するという意識に始まったとさ...
尚、小原敬士訳版(岩波文庫)を手に取る。

「閑暇が、名声の手段としていちはやく優越したことは、高貴な職業と下賤な職業との古代の区別にさかのぼることができる。閑暇が名誉あることであって、至上命令となったのは、ひとつには、それが下賤な労働からの免除を示すからである。高貴な階級と下賤な階級との古い社会分化は、りっぱな職業と下賤な職業との上下の差別にもとづく。」

初期の財産意識は、戦利品に見ることができるという。征服欲は領土に留まらず、文化を征服し、人間を征服する。ここに奴隷制の原点を見る想い。
戦争をやるのが男どもなら、征服地の女は戦利品扱い。やがて戦争に勝つことが集団社会の誇りとなり、優越主義や民族主義を旺盛にしていく。ここに帝国主義の原点を見る想い。
人口密度が高まり、掠奪集団が一つの固定した産業共同体に成長していくと、財産権を支配する権威が増大していく。

やがて法が整備され、力で財産を掠奪することも不可能となり、行儀作法や礼儀作法を重んじる上流階級は、確固たる地位へ押し上げられていく。有閑階級が概して保守的なのも道理である。そして、下流階級がそれに憧れ、模倣するようになる。
自尊心と呼ぶところの自己満足感が、人からの尊敬を集めることを基礎とするなら御の字!だが、知性も、理性も、世間体の対象というのが本音であろう。
哲学とは、暇人の学問か。閑暇を得て、ディオゲネス哲学にでも耽り、犬のように気ままに生きたいものだ。しかし現実は、集団社会に尻尾を振り、社会制度に縋りながら生きている。人間の集団依存症は、ことのほか手ごわい...

では、すべての人間が有閑階級に昇華すれば、平和な社会になるだろうか。労苦のすべてをロボットに委ねれば、誰もが有閑階級に身を置くことができるだろうか。
一方で、別の力学が働く。生産性の欲求という力が。クリエイティブな職業に就き、活動的に生きたいという人は大勢いる。社会のために役立ちたいと考える人も少なくない。こういう人々に尊敬の目が集まるのも事実。こうした意識に、本書は「制作本能」という用語を当てる。
自己の存在意義を求めるのは、いわば人間の本能。かくして、有閑階級が人間性を高めるのか、堕落させるのか。人間が人間を所有するという意識に問題があるとするなら、すべての人間を AI の前で奴隷化しちまえば、人類が夢見てきた真の平等社会が実現できるだろうか...

「かつておこなわれたあらゆる機械的な発明が、人間の日常の労働を軽減させたかどうかは、いまにいたるまで疑問である。」
... J. S. ミル

2025-12-21

"シンメトリーの地図帳" Marcus du Sautoy 著

数学をミステリー仕立てに...
本書は、シンメトリーという幾何学的性質を群論と結びつけて物語ってくれる。群論とは、数学界で最もミステリーな存在とでも言おうか。定義そのものは、そう難しくはない。結合法則が成り立ち、単位元が存在し、逆元が存在する。ただそれだけのこと。だが、この単純さ故に自然数の深遠さを告げている。しかも、こいつが幾何学の美の象徴たるシンメトリーと密接に関係するというのだから、むしろ群論の地図帳というべきか。
シンメトリーの要素は、図形を決定づける辺の数や面の数といった集合で表され、これらの数の演算と変数で組み立てられる方程式が絡む。つまり、方程式の解をめぐる問題でもある。辺の数が素数の正多角形のシンメトリー群という視点は、素数からゼータ関数へ、さらに楕円曲線へと導かれる。なるほど、群論とは、シンメトリーな言語であったか...
尚、冨永星訳版(新潮社)を手に取る。

自然界は、多種多様なシンメトリーに看取られている。雨粒や雪の結晶から素粒子まで。それはエネルギー効率が良いからであろうか。巻き貝はフィボナッチ数に現れる黄金比に従って殻を成長させていく。ミツバチは、六角形のクレマチスの花や放射状花弁が並ぶデイジーやヒマワリといった回転シンメトリーに惹かれ、マルハナバチは、ランやフォックスグローブやマメ科の植物といった左右対称の鏡映シンメトリーに惹かれる。ハチの目が、こうした幾何学を識別できるほどに進化したのは、そこに滋養エネルギーを感じとるからであろうか。
人間もまた、美術や建築、あるいは異性に対してシンメトリーな幾何学美に惹かれる。カノンは、その定義からして並進シンメトリーの一例。バッハの対位法には対称性が渦巻き、ゴールドベルク変奏曲がシンメトリーを奏でる。
周りを意識する生物には、常に不安がつきまとう。この不安から逃れるために法則めいた安定した存在が求められる。シンメトリーな居心地とは、そうした類いであろうか。生命体が厳しい環境で生き抜くには、自然界に点在するシンメトリーを見分ける能力が必要なのかも...

「自然のなかのシンメトリーは、いわば言語なのだ。動物や植物はシンメトリーを使って、遺伝的な優位から栄養に関する情報まで、実に多様なメッセージを伝えることができる。シンメトリーは、なんらかの意味があるという印であり、ごく基本的な... いや、ほとんど原始的といってもいい... コミュニケーション形態なのである。」

ところで、シンメトリーとはなんぞや。幾何学的な美的感覚の内にあることは確かだ。これを知りたければ、その構造を分解し、幾何学的な元素として分類していく。まずは、バラバラにして構成要素に還元せよ!人間の美に対する還元主義は旺盛と見える。自然数を素数で因数分解するように、シンメトリーの素数なるものを探求する。
しかしながら、シンメトリーの分類定理ができたとしても、化学の周期表のようにはいくまい。容易に化合物を作ったりはできないのだから。
そこで本書は、「...表」ではなく「アトラス(地図帳)」という語を用いてシンメトリー群のマッピングを試みる。アトラスとは、ギリシア神話の巨人神になぞらえてのことであろうか。正多角形にまとわりつく有限回転群から、ガロア群、リー群、マシュー群を辿り、196883 次元空間にして数論のモンスターが姿を現す。自然は偉大だが、自然数もまた偉大と言わねばなるまい...

2025-12-14

"ものぐさ数学のすすめ" 森毅 著

これは、数学の本ではない。数学が主題でもない。数学者が、ものぐさな態度で綴る随筆集である。随筆には、それを寄せ集めると、一つの生態系のようなものが生じる。しかも、達人が書くと、一冊の哲学書を成す。尤も、数学は哲学である... というのがおいらの持論。やっぱり、これは数学の本やもしれん...

「少なくとも、難しくても楽しめることが、あってよい。たとえばファインマンの『物理学』、内容は高度だし、難しすぎてようわからんことが至るところにあるのに、全体としてなにやら楽しく読める。難しくってわからんのは、まあしゃあない。わからんでも面白く、苦労せずに楽しめる、せめて数学もそうなってほしい。」

太平洋戦争中からシラケっぱなし、イジケっぱなしの数学教授が物申す。シラケるのは、巷に正義の士がはびこるから。忠君愛国少年やら正義愛国青年やらが叱咤してくれば、シラケてでもないと身が持たない。それで、非国民呼ばわれ...
今の時代とて、集団的熱狂にうんざりする人は少なくない。冷めた批判精神こそが時代を切り開く原動力となってきたのも確か。天の邪鬼には、たまらん...

人生そのものは、深刻なもの。自殺を考えなくて済めば結構なことだが、考えたからといって異常でもあるまい。自殺は、たいてい些細なきっかけで阻止できる。まずは冷めた目で自己を見つめること。人は冷笑に救われることが多い。
人生には向上心が重要であることも確か。だが、それだけでは足りない。下を向いて学ぶことも必要だ。一つの方向にしか目が向いていないと、人生の視野も狭くなる。シラケたり、イジケたりするのも、その方法論というわけか。
人生ってやつは、道化になりきってこそ、その本質が見えてくるようである...

ちなみに、たいていの数学者は、計算が苦手だそうな。だから、計算をあまり必要としない抽象数学へ向かうのだとか。
QED... という決まり文句で納得する数学者も少ないそうな。定理の証明手続きと、それを自分のものにして納得するのとでは、まるで次元が違うという。
とはいえ、自分を納得させるために、こだわりの哲学を実践するのは、ことのほか難しい。やはり人間には、分かった気になることも必要だ。こだわりの呪縛から自らを解き放つために...

さて、著者は「森一刀斎」と号して、正義論、文化論、教育論、読書論、自殺論、大学論などをぶちまける。ちょいと気に入ったところを拾っておこう...

「その頃の教訓として、あらゆる暴力の中で、もっとも恐ろしいのが、正義の名のもとの暴力であったことだけは忘れない。不良少年の暴力よりは、教師の暴力の方が悪い。ヤクザの暴力よりは、警察の暴力の方が悪い。暴徒の暴力よりは軍隊の暴力の方が悪い。暴力には、正義よりは、血の臭いがふさわしい。血のけがれを正義の幻想で洗い流すことだけは許さない。これ、かつての弱虫ダメ人間からの告発。」
... 「ダメな人間のバラード」より

「いつか、ルネサンス期の大学について論じあっていて、医師に牧師に弁護士それに教師は詐欺師の仲間、と言っていたら、師と士はどう違うかというのに、師の方は欺されたい人間を欺す商売で、士の方は欺されたくない人間を欺す商売だ、という卓抜な学説が生まれた。いまは医師と弁護士と教師が代議士に出世する時代である。」
... 「文化のエコロジー」より

「怒りや嘆きより、人間にとって根源的なものは、むしろ笑いのはずだ。秩序とは、笑いによってだけ攻撃可能なのであって、人民の怒りなどといった代物が革命的帝国主義へ行きついた歴史を、あまりにも多く見てしまったではないか。当節、怒りの攻撃性が有効などと、きみはまだ信じているのか。」
... 「楽屋の思想」より

「大学へ入ってまず心得ねばならぬことは、教師の言うことを聞かないことである。もっともこれは古典的な逆説で、そう言っているのが当の大学教師なのだから世話がない。しかしながら、少しまともなことはたいてい、逆説によってしか語ることができないものでもあるのだ。『読書案内』なんてのもそうしたもので『大学生として読むべき本』なんてのがそもそも矛盾した概念で、『読むべき本』などを他人に教えてもらったりしないのが、大学生というものではないか。」
...「反読書案内」より

「あとで迷いをなくすには、先に迷っておくものだ。はじめに迷わずに進んで、最後の段階で迷いだすのが一番つまらん。」
... 「森一刀斎の受験道場」より

「専門というなら、最低の条件は自律だ。ライセンスなんかの問題ではない。医者の専門性は診断を自分ですることで、裁判官の専門性は判決を自分ですることだ。判断をまわりにお伺いをたてる教師に、専門性を言う資格はない。自分の判断で教育するのが、教師の専門性である。」
... 「教育養成大学を志望するきみたちに」より

2025-12-07

"電気革命" David Bodanis 著

電気とは何か。それを見た者はいない。だが、その存在を感じることはできる。物体が帯びる電磁場、あるいは、それを取り巻くエネルギー場を通して...
電気が走る... という表現もある。それは気配のようなものか。それは魂のようなものか。人間の意思を自由電子の集合体とするなら、そうかもしれん。
ところで、電流と電圧の違いとは、なんであろう。それは、しびれるか、しびれないかの違いさ...

本書は、雷に電気の種を見たフランクリン、電気の力場に居場所を求めたファラデー、愛の告白のために電話を発明したベル、電磁波の放射に遠隔作用を見たヘルツ、電子の振る舞いに万能機械を夢見たチューリング、物質の結晶格子に電気特性を見たショックレー、そして、彼らの発明や技術が軍事と結びついてきた背景を物語る。
また、電気の基本単位アンペア、ボルト、ワットに名を冠する電気屋さんたちの逸話も見逃せない...
尚、吉田三知世訳版(新潮文庫)を手に取る。

電気革命において、最も社会貢献した技術とは何か?と問えば、トランジスタを挙げる人は少なくない。つまり、半導体素子を。この発明がデジタル社会の幕開けを告げた。主役に躍り出た物質はシリコン。この結晶格子が持つバンドギャップを利用すれば、電子を流したり、止めたりすることができる。原子レベルでオンオフ制御ができれば、チューリングが夢見た超高速の論理スイッチも実装できる。しかも、この結晶を組み合わせることによって、ほぼ無限の多段等価回路が形成され、高密度化への道が開ける。そして、ムーアの法則を呼び込むことに...

それにしても、電気とは摩訶不思議な存在である。力場に存在する正の電荷と負の電荷は同じ数だけ存在し、両者はよく釣り合い、普段は無であるかのように振る舞う。電荷の効果が生じるのは、そのバランスが崩れた時。この「場」を研究したのがファラデーなら、場の中で伝搬する「電磁波」を研究したのがヘルツである。

宇宙には、電磁波が満ちている。光も電磁波の一種だが、これを伝搬するための媒体は存在するのだろうか。宇宙空間には、何かが充満しているのだろうか。マクスウェルは、エーテル説を信じて電磁理論を展開したが、エーテルが存在しなくても成り立つことで苦悩したと伝えられる。それは、エーテルの存在を否定したのではなく、あってもなくてもいいってことか。かつて物理学は、エーテルの存在を否定したが、今ではダークマターの存在が囁かれている。それはエーテル代替説か。宇宙を説明するには、従来の物質とは違う概念が必要なようである。
電磁波は、人体にも満ちている。自己複製能力を備える生命体もまた電荷で形成され、細胞や神経伝達系、DNA までも電磁場に包まれる。人間は電子の振る舞いによって思考し、気分までも動かされる。そして、この電気特性がそのまま医療技術に投影される。

電気を取り巻く力場の研究では、ファラデーが電磁場の基礎理論を確立し、マクスウェルがあの四つの方程式のもとで電磁気学という一分野を確立した。
電気というものの存在が初めて唱えられた時、こんなものがなんの役に立つのかと馬鹿にされたことだろう。ファラデーは、いずれ税金がかけられるだろう... と言ったとか、言わなかったとか。そして、現代社会の利便性は電気によってもたらされる。
だが、どんな利便性も、そのまま社会的リスクとなる。価値交換の利便性は、そのまま犯罪の利便性に。善と悪は共存し、すべてはイタチごっこ!これが人間社会というもの。
最先端の科学技術には、まずもって軍事利用されるという皮肉な歴史がある。その相殺のために人間は神を必要とするのか。但し、神もまたサイコロを振るらしい...

今や、電気のない社会を想像することはできず、ムーアの法則のごとく電気依存を加速させていく。なんにせよ過度の依存症は恐ろしい。いずれ、太陽フレアが大規模で発生したり、小天体の接近で地球の電磁場が削られたりして、かつてない大停電を経験することになるのか。二百年以上かけて築き上げてきた電子社会も、一夜にして崩壊する日が来るのやもしれん...