2026-02-15

"言語の本質 - ことばはどう生まれ、進化したか" 今井むつみ & 秋田喜美 著

言語とは何か...
これを問うだけで深淵な世界が広がり、その種類となると、日常会話で使う自然言語から学術的な専門言語に、数学の記法やプログラミング言語まで無数に出くわす。
しかしながら、人間の思考となると、そうした言語を遥かに超え、深層心理や潜在意識までも含めた領域にある。言語を用いることが知的活動のすべてではないし、言語能力が認知能力のすべてではないのだ。思考という現象が、どこに発するのかは知らんが、知能の進化が言語によって牽引されてきたのは確かであろう。

言語は、思考を確かなものにする。思考の過程を辿り、自己を確認するための手段となる。また言語は、記憶を確かなものにする。偉人たちが遺した名言や格言が自己を戒め、思考のフィードバックによって自省を促す。言語論を語るのに言語を用いること自体が、既に自己矛盾に陥った感があるが、この自己矛盾こそが進化の過程では必要なのであろう。そして、言語とは何かを問えば、人間とは何かを問うことに...

さて本書は、認知科学者と言語学者が織りなす言語論である。
まず、言語として成立する十大原則に「コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性」を挙げ、言語現象の源泉を「オノマトペ」から辿り、言語システムの進化を「推論」という思考過程から紐解く。

人間の思考には、「A ならば X」を「X ならば A」へ過剰に一般化する傾向があるという。推論には、思考バイアスがつきもの。討論会でも、結果と原因をひっくり返して迷走する様をよく見かける。
とはいえ、誤りを犯すリスクは、そのまま進化の可能性を匂わせる。不確かな状況下では確率的な解決も必要だ。人間は、ある事象を観察すると、その類似性を探り、言葉に導かれて観察不可能な領域にまで思考を広げる。それは、ある種の病理学であろうか...

ところで、AI(人工知能)に発する「記号接地問題」というのがある。対象を記号と結びつけることができれば、それで知ったことになるのか?認知できたことになるのか?という問題である。
言葉で説明できるからといって、それで知っていることになるのだろうか。言葉で定義できたからといって、それで理解したことになるのだろうか。AI に質問すれば、適格な答えが返ってくる。それで、AI は、その事象を知っていることになるのだろうか。こうした問題は、コンピュータは意志を持ちうるか、というアラン・チューリングの問い掛けに通ずるものがある。

では、こう問い直してみよう。
記号に接地することが、そのまま知識にならないとすると、何と接地できれば、知ったことになるのだろうか。人間の知識は、何が後ろ盾になれば、確かなものになるのだろうか。人間の知性とは、言語機能が示すように抽象的な概念を扱う能力を言うのであろうか。
最もシンプルな答えは... 言葉は国語辞典が知っているよ!

1. オノマトペとは
オノマトペとは、擬音語や擬態語のこと。ゲラゲラ、ペコペコ、モグモグ、ドキドキ、メロメロなど、感情やイメージと直接結びつく幼稚な言葉で、大人の会議や討論会ではあまりお見かけしない。従来の言語学では補助的な扱いであったが、近年、言語の本質を巡って脚光を浴びているという。
各国語での違いが顕著なのは、動物の鳴き声であろうか。猫は、日本語でニャー、英語でミューやミャオ。犬は、日本語でワンワン、英語でバウワウといった具合に。
本書は、オノマトペを身体的で、アイコン的と特徴づけている。アイコン的とは、パソコンやスマホでお馴染みの分かりやすさを基調としたイラスト風の画像のことで、オノマトペとの違いは視覚的か音感的か。
そういえば、知り合いの子供が五歳で言葉も分からないのに、デスクトップ上でしっかりとゲームを起動できたりする。配置で判断するのか、絵柄で判断するのか。人間の知覚能力恐るべし!身を持って知る... と言うが、やはり知的活動の基本はこれであろうか...

「オノマトペは物事との間の部分的な類似性を頼りに、感覚イメージを写し取る。写し取るというオノマトペの性質ゆえに、その語形や発音、構成音そのものの特徴、さらには共起するジェスチャーや表情にまでアイコン性が宿る。言い換えれば、オノマトペは、その語形・音声や非言語行為のアイコン性を駆使して、感覚イメージを写し取ろうとすることばなのである。」

2. オノマトペの体系化
日本語は、オノマトペ性が保たれ、オノマトペが高度に体系化された言語だという。例えば、副詞からスル動詞を経て一般動詞となる過程にそれを見る。スル動詞とは、「~する」という表現のこと。「よろよろと」から「よろよろする」を経て「よろける」、「うろうろと」から「うろうろする」を経て「うろつく」、「ざわざわと」から「ざわざわする」を経て「ざわつく」といった具合に...
感情的ではあるが、文学的でもあり、芸術性はこうした性質に宿るのであろう。その発端は、純真な子供が好奇心を抱き、自律的に学習していくメカニズムにありそうだ。五十音の中でハ行だけが濁音と半濁音を持っているのも、音感的にオノマトペ性と関係がありそうな。スマホやパワハラといった略語が蔓延するのは、オノマトペ回帰であろうか...

「言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に学習の仕方自体を学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである。」

ちなみに、論文などを書く時、欧米語に比べて日本語は向かないと指摘されたことがある。主語を省略したり、行間を読むといった習慣がそうさせるのか。昔、特許なんぞを書こうと一週間も篭もると、会話でも形式張ったり、主語を強調したり、しばらくぎこちなくなったものだが、英語ではそういうことがあまりないと聞く。そう単純なものでもないだろうけど...

3. 動詞枠づけ言語と衛星枠付け言語
言語は大きく種別して「動詞枠づけ言語」「衛星枠付け言語」があるという。それは、移動の表現による分類で、前者は移動の方向を述語動詞で表し、後者は述語以外で表すとか。
前者の例としては、日本語の動詞「横切る」、「降りる」といった表現。
後者の例としては、英語の前置詞 "across"、"downn"、"over" をともなった表現。
こうした違いを突きつけられるだけでも、単語が一対一では対応できず、翻訳が一筋縄ではいかないことが身にしみる。

4. アブダクション推論
やがて言葉は、身体的な比較から論理化や抽象化が進み、オノマトペ性から離れていく。事象をなにかとグループ化やカテゴリ化するのは、人間の性癖とも言えよう。それをもたらしたのが、推論的思考や論理的思考ということになろうか。
二大推論法といえば、演繹推論と帰納推論だが、本書では「アブダクション推論」に着目する。そう、仮説的推論ってやつだ。
演繹推論は、論理的に事象を組み立てながら答えを導く方法で、最も信頼性が高い。
帰納推論は、近似的な経験の積み重ねから一般化する方法で、しばしば例外も生じる。
アブダクション推論は、結果から遡って原因を推測する方法で、帰納推論に補足を与える。
帰納推論にしても、アブダクション推論にしても、きわめて確率的。しかしながら、人間社会に蔓延る事象はきわめて複雑で、演繹できるケースはそれほど多くはない。最も実践的なのは、アブダクション推論ということになろうか。誤りを修正することで、理解は深まる。仮説を立て、実験し、結果に反することで思考を修正していく。ブートストラップを起動させて...

「子どもが言語習得の過程で行っていること、つまり知識が新たな知識を創造し、洞察を生み、洞察が知識創造を加速させるブートストラッピング・サイクルが、まさに帰納推論とアブダクション推論の混合によるものだからである。」

2026-02-08

"日常言語に潜む音法則の世界" 田中伸一 著

本書は、音韻論をめぐる物語。日本語や英語の具体例を添えて...
「音韻論」とは、言語の機能を見据えつつ、音形を追求する分野だという。日常言語がコミュニケーション手段となれば、自ずと音声と意味の連携が焦点となる。意味を持つ音声を「言語音」と呼ぶそうな。咳払いや笑い声など非言語的な音声でも意味を持てば、それも言語音ということらしい。

言語音には様々な立場があり、意味を補助する場合もあれば、それ自体が意味を持つ場合もある。意味を与えるかどうかは、話し手と聞き手の双方次第。それは、経験的なものか、普遍的なものか。いずれにせよ、音声は口により発せられる。
口の形のために音声が制約されるのか、あるいは、思い通りの音声を発しようとするために口がこのような形に進化したのか。そして、そこに法則めいたものがあるのか。言語が人間精神と深く結びつく以上、そこには普遍性と多様性の駆け引きが渦巻く。生命の進化とは、そうしたものなのかもしれん...

似たような分野に、「音声学」というのがある。論と学は、学問分野としての格の違いか、あるいは抽象度の違いか。いずれにせよ、言葉の意味にかかわる以上、社会学やコミュニケーション学に留まらず、心理学や生理学、あるいは認識論ともかかわることになろう...

「音韻論は、言語体系内において音声を互いの関係で捉える『関係論』といえる。であるがゆえに、本来は連続体であるはずの音声を言語ごとにどのように相対的に範疇化し、それが体系内においてどのように分布し変化すれば有意味な言語単位になるかのメカニズムを探ろうとする...
これに対し、音声学は、音声を連続体という実体のままで捉える『実体論』である。音声がコミュニケーションのために存在する以上、なるべく効率よく、つまり発音しやすく聞き取りやすくできているはずであるから、いろいろな言語の音声実体がどのような機能を備えているかについて、生理・音響・知覚の面からその絶対値を探ろうとする...」

音韻論にせよ、音声学にせよ、物理現象としては、周波数スペクトルと関わる。日本語と英語の発音では周波数帯が違い、言語として捉える認識メカニズムにも違いが生じる。日本語の五十音は、文字と発音でだいたい一対一の関係を持つが、英語のアルファベット26文字は発音記号と一対一で対応せず、発音記号となると実に多彩である。そのためか、日本語は喋れればだいたい読み書きもできるが、英語は喋れても読み書きができないというケースも珍しくない。

母音だけでも大まかに、3母音体系、5音母音体系、7母音体系がある。日本語は、5母音体系とされるが、世界の言語で共通しているのは {a, i, u} の3音。それは、色の三原色のようなものであろうか。人間の知覚能力は、三つの周波数の組み合わせで説明がつくのかもしれない。欧米語では、短母音や長母音に、複合母音が加わり、さらに多種多彩となる。

本書では、音の体系に見られる様々な関わり合いを外観していく。音素と規則の関わり合い、規則と制約の関わり合い、そして、規則と規則、制約と制約の関わり合いを。ある規則が別の規則を邪魔することもあれば、ある制約が別の制約の弊害になることもあり、自己言及と自己矛盾が渦巻く。

言語の力学では、普遍性を求める力と多様性を求める力が働き、その落とし所として最適形が論じられる。いや、妥協形という言うべきか。問題解決においては、やり方次第で結果は良くも悪くもなり、多くの分野で最適化の理論が幅を利かせる。言語学においても、「最適性理論」なるものがあるらしい。それが本当に最適な解をもたらすのかは知らんが、人間の持つ順応性は計り知れない。文法にも限界があり、暗黙のルールのようなものが生じる。言語の世界では、例外はつきもの。
そういえば、五十音の中でハ行だけが濁音と半濁音があるのも奇妙な話。ちなみに、プログラミング言語においても例外処理は欠かせない。

人間社会は、しばしば省略形を新語として出現させる。スマホやパワハラなど。こうした現象は、単純に効率性を促しているところもあるが、集団力学における合言葉のような意味合いもあろう。だから、知らない新語に出くわすとバカにされる。人間の優越主義は如何ともし難い。
ちなみに、パソコンはパーコンでも良さそうだが、長音のリズムが悪い。ワープロはワドプロでもよさそうだが、濁音が耳に障る。

文法は言語の規則とみなされているが、会話中に文法なんてものを意識しているだろうか。そういえば、文法は規則ではなく、規則性だ!と言い放った文学者がいた。文法を知らなくても用法を知っていれば、日常会話は成り立つ。単に、こんな風に言うとか、そんな風に言わないというだけのこと。それは、極めて慣習的で経験的なもの。

文字が主体か、音声が主体か、それは考え方にも影響を与える。そこで、思考のバリエーションを増やそうと思えば、他言語を学ぶというのも一つの選択肢となろう。周波数スペクトルの側面から、音楽を言語の一つとする手もありか。思考状態では、リズミカルな言葉が欲しい。名文や名言はたいてい音調がいい。心に響くものは、リズムをともなうらしい...

2026-02-01

"世界を数式で想像できれば - アインシュタインが憧れた人々" Robyn Arianrhod 著

言語の威力には、目を見張るものがある。思考やアイデンティティを自己確認するために欠かせないばかりか、世界を品定めするためにも...
まず、目の前の現実をどう見るか、どう意識するか、どう解するか。人は自然言語を通して推論する。日常会話で交わされる自然言語は極めて主観性が強く、暗黙的に共有される知識が渦巻く。これを補完し、確かな知識とする言語とは...
尚、松浦俊輔訳版(青土社)を手に取る。

「数学の言語で世界を想像する。」

ロビン・アリアンロッドは、客観性を帯びた数学という言語が、物理学で重要な役割を演じてきた歴史を物語ってくれる。
科学の主役といえば、やはり物理学であろうか。かつて科学は自然哲学と呼ばれ、古来、哲学者たちは、物理的な存在をめぐって論争を繰り返してきた。地球という存在、人間という存在、自己という存在を問えば、地球中心説、人間中心説、自己中心説を免れない。そこには、重力を介して存在の重みを感じる。

数学は、客観性において他の学問を凌駕する。自然言語との大きな違いは、予測的な扱いにせよ、数量的な扱いにせよ、その精度にある。そして、記述量の効率性ばかりか、無矛盾性を信奉とする。無味乾燥な学問と批判されることもあるが、自己顕示欲の強い人間には自省の念を抱かせるのに欠かせない。そのために、かつての科学者たちは宗教裁判の餌食にもされてきた。ちなみに、数学と無縁な哲学者を、おいらは知らない...

数学という言語の基本文法は、単純な算術の規則に基づいている。主役となる加法や乗法は、一般化され、抽象化され、数学者の関心事は数える対象から数の性質へと向かう。数の体系において、交換法則、結合法則、分配法則などが成り立つかとうかを問う方向へ。
そして、物理的な実体は、算術の対象になりうるか。人間の実存認識は、数の概念との結びつきがすこぶる強いと見える。

人間にとって、物理的な存在には大まかに二つある。目に見える存在と、目に見えない存在とが...
前者は見たまんま!これに、方程式が後ろ盾となれば、説得力を増す。厄介なのは後者だ。いくら方程式が後ろ盾になろうと、世間はなかなか受け入れちゃくれない。
正しく見るとは、どういうことであろう。一つには、ありのままに見るということがある。だが、それだけでは足りない。ありのままに見ようとして、却って解釈を誤ることもしばしば。そればかりか、人間には見たいものを見ようとする性癖があり、見たくないものは見えないのである。現実を結果として追認し、正確に描写することはできても、それで現象を理解したことにはならない。特に目に見えない領域では、物理的な直観よりも数学的な思考が優ることが多い。

科学者たちの豊かな想像力は、無味乾燥な記述にも向けられてきた。目に見える世界は... 星座であったり、惑星であったり、リンゴであったり、これをガリレオやニュートンが...
目に見えない世界は... 電気であったり、原子であったり、量子であったり、これをファラデーやマクスウェルが...
そして、双方に関わる世界では、宇宙全体を思い描いたアインシュタインが...
彼らの想像力に幾何学と代数学の統合を見る。
幾何学的な視点は、ベクトル空間や、これを拡張したテンソル空間に...
代数学的な視点は、三角関数や微分積分学の記述に...

「アインシュタインをして、『ニュートンが理論物理学を創始して以来、われわれの物理的実在の構造のとらえ方が経た最大の変化は、ファラデーとマクスウェルによる電磁現象の研究に発する』と言わしめた。」

「場」の概念は、回転(rot)、発散(div)、勾配(grad)といった幾何学の操作に、微分演算子(∇)といった微積分学の記述が絡み、想像の世界を広げてきた。電磁場を記述するマクスウェル方程式しかり、重力場を記述するアインシュタイン方程式しかり。やはりマクスウェルの想像力には、目を見張るものがある。電気や磁気にも、光のような波の性質を想像させるのだから...

今となっては光も電磁波の一種だが、人間の目に見えるか見えないかの違いは大きい。放射線も電磁波の一種だが、人体への影響は如何ともし難い。物理法則に照らせば同類項でも、周波数が違うだけで人間社会での扱いは雲泥の差ときた。
本書は、かの四つの方程式で記述される電場と磁場の共演(饗宴)を、ウィリアム・ブレイクの四行詩になぞらえる...

 一粒の砂に世界を、
 野の花に天を見るべく、
 手のひらに無限を
 いっときで永遠をつかむ

2026-01-25

"イブの迷宮(上/下)" James Rollins 著

ジェームズ・ロリンズのシグマフォースシリーズに触れるのは、11 作目。このシリーズの作品番号は 0 から数えるので 10 番目ということになる。最初の邦訳版が刊行されたのが、2005年!20年かけてようやく追いついてきたか...
最先端の科学と古代から語り継がれる歴史を融合させる手腕は相変わらず。翻訳者桑田健(竹書房)との相性も相変わらず。そして、徹夜明けのブラックコーヒーも。今日も仕事にならんことも...

原題 "The Bone Labyrinth"...
Bone とは、アダムのものか、イブのものか。いずれにせよ、ホモ・サピエンスの祖先を巡る旅へといざなう。つまりは、人類の知能の起源を辿る旅へ...
意識という現象は、どのように説明できるだろうか。サピエンスは、ラテン語で「賢い」という意味。ヒト属で現存する唯一の種は、地球上で最も支配的な存在となった。言語能力は知能のバロメータとなり、人間が編み出した学術的論理は、生存競争の勝者を正統化する。小才の利く者が集団の中でうまく立ち回り、人が好く、愚直なだけが取り柄の者は踏み台とされる。これが、賢い種の社会か!狡猾な者が勝ち組となる論理は、市場経済や軍事においても実証済みときた。

人類の脳の発達過程は、約二十万年前のホモ・サピエンスの出現まで遡ることができよう。しかし、約五万年前に突然、武器や道具などの創意工夫、芸術や音楽といった嗜好が生まれ、文明なるものが出現した。脳の大きさや形は、それよりずっと昔からほぼ同じだったにもかかわらず。いや、過去一万年の間に脳のサイズは、むしろ 15% ほど縮小しているらしい。人類は、半導体のように集積度を上げ、よりコンパクトで合理的な構造を獲得しようとしているのか。人類学者は、この進化的な突然変異を「大躍進」と呼ぶ...

「知能の物差しとは変わることのできる能力だ。」
... アルバート・アインシュタイン

本書のテーマは、古代に生じた大躍進の原因を探求し、さらに第二の大躍進が生じる可能性を模索しようというもの。それは、なにが人間たらしめるか、を問うことに要約できる。
物語は、ネアンデルタール人やヒト科の亜種との交雑に始まり、遺伝子の組み換え技術に至る。どちらが亜種かは別としても、人間のゲノムにはネアンデルタール人や複数のヒト科絶滅種のゲノムが含まれていることが、科学的に判明しているという。なるほど、乱交パーティ遺伝子は現代人にも組み込まれていると見える。
ちなみに、チベット族が高地でも生活できるのは、デニソワ人という絶滅種の遺伝子のおかげだとか...

「知能とは進化における偶然の産物であって、必ずしも優位とは限らない。」
... アイザック・アシモフ

生物学には、「雑種強勢」という用語がある。それは、二つの異なる種が交わると、生まれた子供はどちらの親の種よりも形質的に強い特徴を持つというもの。例えば、メスの馬とオスのロバの間に生まれるラバは、空間的知能が馬やロバよりも優れているのだとか。
それで、人類とネアンデルタール人との間に、どんな雑種強勢がもたらされたというのか。ネアンデルタール人は、単なる原始的な穴居人ではない。ある研究によると、虫歯の痛み止めに、鎮痛効果のあるサリチル酸を含む植物や天然の抗生物質であるアオカビを口にしたことが報告されているという。食人の習慣があったことも...

遺伝子の良いとこ取りとくれば、生命体そのものがまるで遺伝子の方舟!
DNA の欠片さえあれば、人間はクローンを創るだろう。いつか必ず!生殖細胞レベルでの制御はドーピング問題も意味をなくすだろうし、放射能下でも生きられる遺伝子までも求めるだろう。
古くから人間は、象や猛獣を兵器とし、ネズミのような小動物を病原菌をばらまく兵器に利用してきた。バイオテクノロジーによる軍拡競争は激化するばかりで、はるかに凶暴な種を創り出しては軍事利用するやもしれん。絶滅種を対象とすれば、ジェラシック・ワールドも現実味を帯びる。そして、遠い昔の偉人たちが蘇るとすれば...

人間の好奇心は、ことのほか手ごわい。純粋な好奇心は、いずれ脂ぎった欲望と結びつく。人間は、自ら編み出した技術によって人間自身をどこへ導こうというのか。進化の歴史は、単純な右肩上がりではなさそうだ。何事も進化の過程には、退化の時期も必要なのであろう。自省の意識を植え付けるためにも... 自浄遺伝子を育むためにも...

「ここに眠りしはアダムの骨、人類の父。永遠(とわ)の眠りを妨げることなきよう祈る... さもなくば、世界は終わりを迎えるだろう。」

2026-01-18

人生という名の雑用...

人生とは、それほど大層なものなのか。雑用に負われる日々を思えば、くだらない疑問に憑かれる。
「この世に雑用なんてものはない。雑な仕事があるだけだ!」とは、誰の言葉であったか。自由なんてものは高等過ぎて、いざ与えられても、何をやっていいのか、よう分からん。才ある者は、雑用までも喜びにしちまうのであろう。雑用はなるべくあったほうがいい。なくしちまうと退屈病に襲われ、痩せ細っちまう...

大人どもは、いつも文句を垂れる。具体的に示せ!と。誰かに当たる性癖は依存症の表れ。政治家に当たってはお前のやり方が悪いと憤慨し、道徳家に当たっては空想論もいい加減にしろと糾弾し、教育家に当たってはお前のしつけが悪いと誹謗中傷を喰らわせ、芸術家に当たっては人類を救え!などとふっかける。

巷にはハウツー本が溢れ、ノウハウセミナーはいつも大盛況。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで。移り気の激しい凡人は、洪水のごとく押し寄せる流行りの知識に右往左往するばかり。仕舞には消化不良でゲロを吐き、もっと分かりやすくしろ!と文句を垂れる。

一方、才能豊かな連中ときたら、哲学者の曖昧な言葉を金言にしてやがる。何をヒントにするかは自由と言わんばかりに...
これほど無意識の領域が広大だというのに、なにゆえ自由なんてものが信じられるのか。真の自由なんぞ、この世にありゃしない。あるのは自己満足感だけだ。人生に意味や目的があるのかは知らん。それを求めてやまないのは人生に意味があると信じ、自己存在感を噛み締めたいだけだ。自分の人生が無駄ではないと...

真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。正義感に操られては非難癖がつき、倫理感に憑かれては意地悪癖がつき、理性や知性までもうっぷん晴らしの手先となる。自由に生きるよりも、人のせいにし、社会のせいにし、神のせいにしながら生きる方がはるかに楽ってもんよ。

すべては自己の正当化!凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼ごときが、自由が欲しい!と大声で叫んでいる間も、才能豊かな連中は静かに自由を謳歌してやがる。どう足掻いても奴隷に成り下がるのであれば、そこから逃げだすさ。どうせ人生なんてものは、雑用よ!

2026-01-11

自己肯定には嘘が欠かせない... 自己責任にも逃げ道がなくっちゃ...

巷では、自己肯定感ってやつがもてはやされる。自己肯定に縋らないと生きて行けないのなら、人生は辛い。実際、こんな感覚は他人否定によって支えられている。
巷では、自己責任論が渦巻く。自己に責任を持てる人間がどれほどいるというのか。既に、こんな言葉はお前が悪いという意味で使われている。

自己を知るには勇気がいる。自ら演じた醜態を遠近法で眺め、羞恥心と距離を置けば、どちらが本当の自分やら。自己肯定感に嘘は欠かせない。自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、自我を失うのも容易い。これで自己責任論を免れ、めでたしめでたし!

自己責任ってなんだ。本当に自分に課したものなのか。自己を見つめずして、自己責任もあるまい。それは、何かに依存している自分を受け入れてこそ成り立つ。自己責任を明確にするために、説明責任を自己に課す。そんなことをしても、精神の縄張りを確認するだけ。そう片意地はらんと、自己責任にも逃げ道がなくっちゃ...

誰もが参加できる自由な形態にも、自己責任論が渦巻く。メーリングリストで「コーディング規約に従っていないので修正するように...」などと指摘された日にゃ... 指摘する側が自発的なら、指摘される側も自発的なだけに恥ずかしい思いをする。誰もが自由に参加できる!というのは、実はハードルが高い。実は、権威主義的な監視よりも民主主義的な抑圧の方が、はるかに厳しいのやもしれん。分散型リポジトリとは、自己責任型を言うのか。
確かに、自由な活動は自己肯定感をそそる。これを自己責任で背負うなら、ここにも逃げ道がなくっちゃ...

2026-01-04

すべては神のせい!神様はズボラでなくっちゃ...

不運な境遇を神のせいにすれば、救われるだろうか。重い病を神のせいにするのと運命論で片付けるのとでは、どちらが楽になれるだろうか...

一方で、幸運な出来事には、誰はばかることなく自分の力だ!と断言できる。なんとおめでたいことか。しかし、そうでも考えないと、生きてゆくのは難しい。やはり人間には、神が必要なようだ。しかも、沈黙しておられる。なんて都合のよい存在であろう。神の声が聞こえると主張する者にとっても、神を信じない者にとっても...
神という存在は、迷い心から生じるのか。いや、迷い心を鎮めてくれるものなら、なんでもあり。悪魔の囁きにも耳を傾け、無神論者にもなるさ...

宇宙の摂理は完全かもしれないが、人間が知りうる摂理は不完全ときた!
古代の哲学者たちは、そのことに思いを馳せ、人間は人間自身を知りうるか?と問い続けた。プラトンが、人間は羽のない二本足の動物である... と定義した時、それで人間の正体を確信したわけではあるまい。アリストテレスが、人間は社会的動物である... と定義した時、それで人間社会の実体を確信したわけではあるまい。パスカルが、人間は考える葦である... と定義した時、それで人間の存在意義を確信したわけではあるまい。言葉でうまく説明できないからといって、それをまったく知りえないということにもなるまいが...

デモクリトスが、原子論を唱えた時、そこに実存と空虚の対立を見る。存在認識とは、虚像との対置において成り立つものであろうか。精神や魂も、理性や真理も、徳や正義も、そして、神も...
神が不敬虔者を罰するなら、神にも悪意があるに違いない。神が不完全なら、人間にとっても親近感がわくし、信じる気にもなれる。神様はズボラでなくっちゃ!