2025-08-03

"批評の解剖" Northrop Frye 著

「批評の...」と題しているが、批評一般ではなく、文芸批評が対象である。しかし、これは本当に批評論であろうか。批評の対象が文学作品であれば、批評の在り方も文学的、アリストテレスの詩学に発する詩学論の様相を呈す。

例えば、シェイクスピア、ミルトン、シェリーの三名を挙げれば... 技法と思想の深遠さで未熟という理由でシェリーを貶す。宗教的反啓蒙性と重苦しい教義が言葉の自然な流露を損なうという理由でミルトンを貶す。思想に無関心で人生の反映に終わっているという理由でシェイクスピアを貶す... かと思えば、完全な詩的ヴィジョンのためにシェイクスピアを褒める。深遠な信仰秘義の洞察でミルトンを褒める。より直接的に近代人の心に訴えるシェリーを褒める。

詩的な嗜好は、音楽の嗜好に似ている。なにゆえ人は、リズミカルな言葉を求めるのか。人間ってやつは、概してお調子者ってことか。人は、語呂、歯切れ、耳障りのよい文句を格言や座右の銘とする。
そして、文学的構想に浸り、言葉に物語を求める。この物語性こそ説得力の源泉。この伝統芸は、古代ソフィストたちの弁論術に発し、現代プレゼン技術に受け継がれる。そりゃ、大衆が単純明快なキャッチフレーズの乱立する劇場型政治に耽るのも無理はない...
尚、海老根宏、中村健二、出淵博、山内久明訳版(法政大学出版局)を手に取る。

「批評における決定論の一覧表を作ることは容易であろう。マルクス主義、トマス主義、リベラル・ヒューマニズム、新古典主義、フロイト主義、ユング主義、実存主義、それらのいずれの立場にたつ批評であれ、すべて批判的ポーズをもって批評に代えるものであり、文学の中に批評の概念を見出すのではなく、批評を文学外の雑多な枠組みの一つにはめ込もうとする。しかしながら、批評の公理と前提はそれが扱う芸術から生まれてくるべきものである。」

ノースロップ・フライは、詩における三つの世界を提示する。一つは、芸術、美、情緒、趣味の世界。二つは、社会的行動と社会的事象の世界。三つは、個人の思想と観念の世界。これらの世界に応じて、人間は意志、感情、理性を働かせ、歴史、芸術、科学および哲学を構築していくという。伝統的な聖書解釈では、リテラル(逐字的)、寓喩的、道徳的、神秘的な意味が引き出され、これらに応じて詩の象徴を相で捉えている。アリストテレス風に形相の趣を帯びて...

  • 逐字相と記述相... 動機(モチーフ)としての象徴と記号(サイン)としての象徴。
  • 形式相... 心象(イメージ)としての象徴
  • 神話相... 原型(アーキタイプ)としての象徴
  • 神秘相... 単子(モナド)としての象徴

「『理想的不眠に悩む理想の読者(フィネガンズ・ウェイクより)』とジョイスは言った。つまり批評家のことである。創造と知識、芸術と科学、神話と概念、これらの間の失われた連鎖を回復しようとする仕事こそ、私が心に描く批評の姿である。」

詩は、暗黙裡に自由の理念を掲げる。だが、その理念を定式化することはできないという。そのような社会を建設することも不可能であると。
では、詩は単に理想郷を夢想する手段に過ぎないのか。少なくとも、現実を客観的に照らすための手段は必要であろう。その限りにおいて詩は輝く。現実だって夢の中にあるのやも。だから、神話も、喜劇も、悲劇も、ロマンスも、アイロニーも、風刺も... 社会の象徴として輝く。

「教養教育は、教育を受ける精神のみならず、文化的作品そのものを解放する。人間の芸術は腐敗の只中から作り出されるし、その要素は永久に芸術の中に残るであろう。しかし芸術の想像的要素が、まるで聖人の遺体のように、腐敗にもかかわらずそれを保存する。美を論ずる時には、孤立した作品の中の形式的諸関係だけでおしまいにするわけにはゆかない。芸術作品は社会的努力の到達点、つまり完全な無階級文明の理念に参与するものであること、このこともまた、考慮されねばならぬ。倫理批評は、この完全な文明の理念を暗黙のうちに倫理的基準として、つねにこの基準に訴えるものである。」

なにゆえ人間は批評を好むのか。特に、批判を... 自己存在の確認のためか。だから、こんな記事を書いているのやもしれん。そしておいらは、シェイクスピア論にイチコロよ...

「シェイクスピアの喜劇の筋の運びが、しばしばどこか不条理な、残酷な、あるいは非合理な法律ではじまっていることに気づく。『間違いの喜劇』のなかのシラクサ人を殺す法律、『夏の夜の夢』の強制的な結婚の法律、シャイロックの契約を確認する法律、人々を正しくするために法を制定しようとするアンジェロの試みなど、喜劇が進行するに従って、人々はこれらを巧みにすり抜けたり、無効にしたりする。契約とはふうう、主人公の社会がめぐらす謀議のことであり、証言とは、会話を盗み聴いたり、特殊な情報をもっているものたちなどで、喜劇的な発見をつくり出すための、いちばんありふれた技巧である。」

2025-07-27

"パーソナル・インフルエンス" Elihu Katz & Paul F. Lazarsfeld 著

社会学者ポール・ラザースフェルドは、コミュニケーションには二段の流れがあるという。そして、集団や個人の意思決定に関与するオピニオン・リーダーの存在を唱える。
ただ、原書の刊行は、1955年とある。既にこの時代に... これは、コミュニケーション研究を方向づけた記念碑的な書だそうな...
尚、竹内郁郎訳版(培風館)を手に取る。

「いろいろな観念はラジオや印刷物からオピニオン・リーダーに流れ、さらにオピニオン・リーダーから活動性の比較的少ない人びとに流れることが多い。」

ソーシャルメディアが勢いづく現在、個人への注目度が増し、インフルエンサーという用語が飛び交う。その道の専門家よりも洗練された情報や知識を伝える人も少なくないが、その一方でマスコミがマスゴミ化していく。戦時中、国民は洗脳されていたという評論を耳にする。だから、特攻のような無謀な戦術がまかり通り、侵略地で残虐行為が正当化された、と...
だが、それは本当だろうか?そして現在は?大本営は厄介な存在だが、大本営の乱立は、もっとタチが悪い。一本化していれば、欺瞞から逃れやすいものを。
そもそも人間社会において、まったく洗脳されていない時代ってあるのだろうか...

二段の流れ説は、情報源であるマスコミへの批判に対して、責任回避にも利用される。すべては自己責任で... と。そして、自己責任という用語まで、お前が悪い!という意味で使われる始末。
いまや、いいね!や星の数、あるいはクチコミやフォロワーが世論を煽り、所々にカリスマ師が湧いて出る。情報拡散は発信者自身ではなく、それを後押しする同調者たちが、いや、それ以上に反論者たちが、いやいや、理性の検閲官どもが... そして、あらゆるメディアで、コメンテータ排除論がくすぶる...

オピニオン・リーダーは、権限や制度が後ろ盾になった職務上のリーダーとは違い、インフォーマルな集団で発生するという。無秩序の中に秩序をもたらすとは、これぞ真のリーダー像か。彼らは、情報源となるメディアと情報消費者の間を媒介し、情報収集に重要な役割を担う。
しかしながら、その立ち位置は微妙で、世論の扇動者にもなりうる。それは、人の姿をしているとは限らない。商品や映画であったり、新聞やテレビであったり、書籍やネットであったり、様々な形に扮して仕掛けてくる。
ヤラセやサクラといった手口は古くから散見するが、情報過多の時代では、誇大広告のみならず虚偽広告やステルスマーケティングなど、手口はますます巧妙化していく。情報発信源ばかりか、オピニオン・リーダーの存在までもステルス化してりゃ、世話ない...

なにゆえ、人は情報に群がるのか。ただ知りたいだけか。それとも、情報を共有することによって自己の居場所でも求めているのか...
オピニオン・リーダーは、自分がリーダーであることを自覚している場合もあれば、無意識に行動している場合もあり、ある時は情報の発信源となり、ある時は着想の裁定者となり、ある時は思案の伝道師となる。
情報は言語や記号に形を変えてメッセージとなり、人は言葉に惑わされ、映像に惑わされる。言葉の暴力という形容もあるが、これほど力強いものはあるまい。小集団の中では合言葉や流行語が生まれ、帰属意識を高める。所有意識と相いまって。共感できる連中の中にいると居心地がよい。自己を意識すればするほど。人はみな、孤独ってやつが大の苦手と見える。
相互依存関係をもった人々は、相互に同調を要求するという。互いに類同性を維持しようと。類は友を呼ぶ... とは、よく言ったものである。

2025-07-20

"メディアの法則" Marshall McLuhan & Eric McLuhan 著

メディアとは、なんであろう...
巷では、マス・メディアという用語が飛び交い、もっぱら、新聞やテレビの報道の在り方、あるいは、ネット上で荒れ狂う虚偽情報との葛藤といった大衆媒体としての側面から論じられる。
だが、マクルーハン親子が論じているのは。こうしたメディア論とは一線を画す。普遍的と言うべきか、本能的と言うべきか。アリストテレスの伝統に倣い、メディア詩学とするべきか...
尚、高山宏監修、中沢豊訳版(NTT出版)を手に取る。

「次の世代のための科学と芸術と教育の目標は、遺伝子コードの解読ではなく、知覚コードの解読でなければならない。グローバルな情報環境においては、『答えを見つける』式の古い教育パターンでは何の役にも立たない。人間は、電子のスピードで動き変化する答え、それも数百万という答えに囲まれている。生き残れるか、コントロールできるかは、正しい所にあって正しい方法で探査(プローブ)できるか、問いを発することができるかにかかっている。環境を構成する情報が絶え間なく流動しているのを前に必要なのは、固定した概念ではなく、かの書物『自然という書物』を読みとる古(いにしえ)よりの技(スキル)、未だ海図のない、海図が存在し得ない魔域行く航海術である。」

メディアの法則は、四つの素朴な質問で構成される。
  • それは何を強化し、強調するのか?
  • それは何を廃れさせ、何に取って代わるのか?
  • それはかつて廃れてしまった何を回復するのか?
  • それは極限まで押し進められたとき何を生み出し、何に転じるのか?

本書は、この四つの問い掛けにテトラッド・アナリシス(Tetrad Analysis)を仕掛ける。良き質問は良き思考へ導く... と言わんばかりに。
テトラッドとは、生物学で言う四分染色体のことで、四要素の相同組換えをしながら解析していく。つまり、遺伝子解析の手法を文体構造の解析に応用しようという試み。ここでは二次元平面上に、上下に「強化」対「回復」、左右に「反転」対「衰退」を配置し、上下左右の関連性を考察していく。
例えば、アリストテレスの因果性では、目的因、質料因、形相因、動力因を配置。他にも、絵画の遠近法、記号論、動的空間、冷蔵庫、ドラッグ、群衆... さらには、マズローの法則、キュビズム、コペルニクス的転回、ニュートンの運動法則、アインシュタインの時空相対性など数十以上もの事例が紹介される。

「コールリッジが、すべての人間はプラトン主義者かアリストテレス主義者のどちらかに生まれると言ったとき、彼はすべての人間は感覚の偏向において、聴覚的か視覚的かのどちらかであるということを言おうとしていたのである。」

「メディアはメッセージ」であるという...
あらゆる人工物が何らかのメッセージを発するとすれば、そこには必然的に言語構造が見て取れ、その構造やパターンを通して世界を観てゆく。人類は、メッセージを伝えるための多彩な技術を編み出してきた。詩も一つの技術。心に響くように修辞技法を乱用し、回りくどい隠喩を用いた日にゃ... 結局は言葉遊びか。その言葉遊びこそが人の意識を高める。ルイス・キャロル風に言語遊戯に励み、ライプニッツ風に普遍記号に狂い...

一方で、真剣な物言いが人を追い詰める。他人ばかりか自分自身をも...
言葉の暴力という形容もある。集団社会では言葉の伝染が猛威をふるう。ネット検索は能動的な活動だけに、自分の意志で考えていると思い込みがち。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど都合のよいものはない。言語の発明が、人間をこんな風にしちまうのか。人類は本当に進化しているのか。人類は自然法則に反する存在になっちまったのか。神になろうとする野心家は、その反動で悪魔になっちまう...

「言語は、経験を蓄積するのみならず、経験をひとつの様式から別の様式に翻訳するという意味で隠喩である。通貨は技能と労働を蓄積するとともに、ひとつの技能を別な技能に翻訳するという意味で隠喩である。しかし、交換と翻訳の原理あるいは隠喩は、われわれの感覚のどれかを別な感覚へと翻訳する理性の力がこれを管掌するが、われわれはこれを一生のあらゆる瞬間にやっているのである。アルファベットであれ車輪であれコンピュータであれ、特別な技術的拡張物にともなう代償があって、それはこうした大規模な感覚拡張物は閉鎖系になるということである。」

2025-07-13

"グーテンベルクの銀河系" Marshall McLuhanl 著

グーテンベルクの銀河系... それは、活版印刷に始まったとさ。
発明者の名は、ヨハネス・グーテンベルク。著者マーシャル・マクルーハンは、この発明を境界に社会の大変革を物語る。活字人間の出現に、コピー世界の膨張に、そして、ルネサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学革命へと...
尚、森常治訳版(みすず書房)を手に取る。

歴史とは、言葉で編まれた閉じられた系とすることができよう。その記述が万民に広まると集団作用が働く。言語化は論理的思考を活性化させるが、その反面、言語量が増大すると集団意識を歪め、暴走を始める。詭弁が雄弁に語り、その語りに自我が飲み込まれ、沈黙の力までも押し潰していく...

「もし感覚器官が変るとしたら、知覚の対象も変るらしい。
 もし感覚器官が閉じるとしたら、その対象もまた閉じるらしい。」
... ウィリアム・ブレイク

活字はメディアを煽り、メディアは大衆を煽る。活版印刷の活用が拡張されると、言語統制が始まり、人々の世界観は固定化されていく。画一的な国民生活、中央集権主義、そして、ナショナリズムへ。だが同時に、個人主義や反体制意識を芽生えさせる。
そして、世界は二極化へ。人間ってやつは、なにかと善と悪で分裂させる二元論がお好きと見える。精神分裂病もまた、言語使用が招いた必然であろうか...

「言語は、経験を備蓄するのみならず、経験を一つの形式から他の形式へと翻訳するという意味でメタファーであるといえよう。貨幣も、技術と労働とを備蓄するだけでなく、一つの技術を他の技術へと翻訳するという点でやはりメタファーである。」

文字を発明すれば、それを刻む媒体を求めずにはいられない。活版印刷以前は、写本によって知識が伝授された。
だが、著名な図書館は焼かれてきた歴史がある。その代表格がアレクサンドリア図書館。ハインリッヒ・ハイネの警句が頭をよぎる。「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる。」と...

写本が機械的に複写できるようになれば、たった一箇所の知の宝庫が焼かれても、人類の叡智はどこかに残る可能性がある。さらに大量生産の時代を迎えると、知識は庶民に広がり、広大な知の宇宙が形成される。おかげで、電車で移動中に本が読める幸せにも浸れる。
そして現在、知識の電子化が進むと、情報の嵐が吹き荒れ、マーク・トウェインの皮肉が聞こえてくる。「真実が靴をはく間に、嘘は地球を半周する。」と...

人間の成長過程には基本的な行為がある。幼児の学習は、大人の行為を真似ることに始まる。本能と言うべきか。大人だって、技術や知識を身につけるために熟練者や達人から学ぶ。教師となるものは、なにも人間とは限らない。ハウツー本は、いつも大盛況。恋愛レシピから幸福術、人生攻略法まで...
感受性豊かな人間ともなると、哲学者が語る曖昧な言葉までも金言にしちまう。人間の認識能力が記憶のメカニズムに頼っている以上、人間は過去から学ぶほかはない。ダ・ヴィンチも、ラファエロも、ミケランジェロも、偉大な作品を写生することによって技術ばかりか、自ら精神を磨いた。もはや純粋な独創性なんてものは、幻想なのやもしれん。ましてや情報過多の時代では、健全な懐疑心を持つのも、啓発された利己心を保つのも難しい...

「弁証法は技術の技術であり、また科学の科学である。それはカリキュラムのあらゆる主題を貫く原則へ導く道である。なぜならば弁証法のみがほかのすべての技術の諸原則についての蓋然性を論ずるのであり、かくて弁証法はまずもって学ぶべき最初の学でなければならない。」
... ペトルス・ヒスパヌス「論理学要目」より

2025-07-06

"孤独な群衆(上/下)" David Riesman 著

世間で忌み嫌われる孤独。孤独死ともなれば、最悪の結末のような言われよう。しかしながら、集団の中にこそ孤独がある。
人間の性格には誰でも、ナルシス的な側面もあれば、独善的な側面もある。結局は、自己存在に対する意識の持ちよう。こうした性格をいかに克服するか。しかも、自問の過程で...
芸術の創造性は、たった一人のひたむきな情熱によって生み出されてきた。寂しささを知らなければ、詩人にもなれまい。満たされた人間には、悲痛感慨な文体を編むこともできまい。

人間ってやつは、何かに依存し、影響し合わなければ生きてはゆけない。たいていの人は社会福祉制度にたかり、属す集団を頼みとし、集団意識に縋って生きている。
アリストテレスは、人間をポリス的な動物と定義した。ポリス的とは、単に社会的というだけでなく、互いに善く生きるための共同体といった意味を含むのであろう。だが、実際は依存意識がすこぶる強い。ならば、何に依存して生きてゆくか...
ディヴィッド・リースマンは、「自律性」を強調する。うん~... これが最も厄介な代物。孤独を克服できれば、孤独死ですら理想的な死となるやもしれん...
尚、 加藤秀俊訳版(みすず書房)を手に取る。

「人間の敵たりうるのは人間だけである。人間の行為や生活の意味を奪うことのできるのは、かれじしんだけなのだ。なぜなら、その意味の存在を確認し、自由という現実の事実として、それを認識できるのは、かれだけだからである。」
... シモーヌ・ド・ボーヴォワール

リースマンは、人間の性格を大まかに「内部指向型」「他人指向型」に分類し、この二つの型に社会を特徴づける三つのタイプ「適応型、アノミー型、自律型」を絡めながら論ずる。
内部指向型の人間は、自分自身を人間以外の対象物との関係において考えるという。組織の中で、人との協力関係よりも、技術的、かつ知的なプロセスとして捉える傾向がある。
対して、他人指向型の人間は、仕事や組織を人との関係において考えるという。自我にはっきりとした核を持っていない。だから、自我からも逃避することができない。
世間体を気にする傾向が強いのは、他人指向型であろう。自律性においては、内部指向型の方が優位にも見える。だが、自己優越感は内部指向型の方が強く、客観的な視点から発する謙虚さでも優位とは言えない。

内部指向型は、農村部の伝統指向とも相性がいいらしい。頑固オヤジといった形容も当てはまりそうな。他人からの批判を恐れ、自己批判によって自己防衛する傾向もある。
他人指向型は、情報過多な大都市部に多いタイプだという。情報に敏感なのは、流行遅れを恐れてのことか。評判やカリスマ性に群がり、個人の思考が一本化して集約される傾向にある。人気投票的な消費行動を旺盛にし、ベストセラーに群がる傾向あり...

結局、自律を目指すのに、どちらの型が優位ということではなく、己を知るという問題を抱えたまま。そして、適応と自律を欠けばアノミーへ。自己を見失い、自己を破滅させるのは、型の問題ではなさそうだ...

「個人主義とは、ふたつのタイプの社会組織のあいだの過渡的な段階である。」
... W. I. タマス

また、本書に散りばめられる挑発的で皮肉じみた用語が目に付く。とりあえず、「内幕情報屋」「メッセージの卸し問屋」「まやかしの人格化」といったところを拾っておこう。
昔から蔓延る道徳屋は、内部指向型の傾向が強く、ネット社会でも理性の管理者となり、誹謗中傷で凶暴化する。
対して、内幕情報屋は、他人指向型の傾向が強いという。要人との人間関係から内部情報に詳しいだけで済む場合と、あわよくば間接的に要人を動かして社会を支配しようとする。そうした人間は、その種のサークルを作るという。記者クラブもその類いか。情報理論によると、メッセージにはノイズが交じることになっているが、現代風に「マスゴミ」という形容も当てはまる。
但し、超一流の扇動者は、けして嘘をつかない。些細なニュースを大袈裟に持ち上げ、重要なニュースをささやかに報じる。これが、世論を扇動できる報道原理か...

とはいえ、真実が必ずしも真実らしく見えるとは限らない。嘘の方が真実っぽく見えることも多々ある。現代社会では、真実っぽく見せる技術が重宝される。言葉を商品とすれば、コミュニケーション産業の小売業者となり、言葉を武器とすれば、特殊工作部隊の最前線を行く。
ネット検索ともなると能動的な活動だけに、自分の意志で考えていると思いがち。だが、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
では、マスコミを扇動しているのは誰か?広告屋か?それとも他に黒幕が?それこそ群衆自身なのやもしれん...

「現在にあっては人と同調しないこと、慣習の前にひざを屈しないことはそれ自体、ひとつの奉仕である。」
... J. S. ミル

2025-06-29

"物の体系 - 記号の消費" Jean Baudrillard 著

消費とは...
それは、物にかかわるだけの行動ではないという。豊かさを示す現象学でもないと...
では、なんであろう。ジャン・ボードリヤールは、すべてに意味作用を与える行動として定義する。人間の物への意識は、物的存在から記号的存在へ。流行や広告、あるいは社会的規範や慣習もその類い。消費への意識が記号へ向かえば、消費に限りがないことの説明もつく。
彼は、現代人の物への意識がイデオロギー的体系、あるいは、ある種の信仰として働いていることを指摘し、これにマルクス風の疎外論を絡めて論じて魅せる。そして、こう主張する。「消費される物になるためには、物は記号にならなければならない。」と...
尚、宇波彰訳版(法政大学出版局)を手に取る。

貧困層ですら日常生活にスマホが欠かせないとなれば、物は豊かさの基準とはならない。産業のすべてがサービス業化し、消費対象のすべてが、ガジェット化、アクセサリ化していく。現代社会では、物質エネルギーよりも情報エネルギーの方がはるがに強いと見える。
もはや人類は、AI に代表されるような機械の奴隷になることを恐れている場合ではあるまい。すでに物の奴隷に成り下がっていりゃ、世話ない。消費が抑えがたいのは、何かの欠如に依存していからであろうか...

「消費は今や多かれ少なかれ整合的な言説として構成されている。すべての物・メッセージの潜在的な全体である。消費はそれがひとつの意味を持つ限りにおいては、記号の体系的操作の活動である。」

人間の存在意識には、雰囲気の論理や居場所の論理が働く。本来、物といえば、機能性や操作性に注目するのであろうが、それ以上に浮遊的な何かに意識が向く。仮想的実体とでも言おうか。精神や魂と呼ばれるものが浮遊霊じみた存在だから、それが自然なのやもしれん...

「もしも現代の偽善が、自然の猥褻さを隠すものではないとすれば、それは記号の無害な自然性で満足すること、もしくは満足しようと努めることである。」

物を提供する側は、クレジットによる欲望戦略を煽り、毎日が購買のお祭り騒ぎ、購入者の所有意識を麻痺させる。
物を享受する側も負けじと、シリーズものやセット販売に群がり、その理由づけは様々... 時にはナルシス的に、時にはノスタルジックに、時にはコンプレックスを刺激し、あるいは収集癖に酔いしれて、自己に言い訳をしながら生きている。
消費は、物にかかわろうとするだけでなく、集団社会とかかわろうとする積極的な活動でもある。いや、後者の方がはるかに本質的か。こうした集団行動が、文化の基礎を成していることも確か。
そして、物のあり方を通して、自己のあり方を確認する。それで、自己に価値を見い出せない時の失望感ときたら。あとは、存在論的な弁証法にでも縋るさ...

「人間はつねに自分自身に嫉妬する。人間が守り、監視しているのは自己であり、自己を享受しているのである。」

2025-06-22

"消費社会の神話と構造" Jean Baudrillard 著

産業革命によってもたらされた生産社会。これに触発されて出現した消費社会。おかげで、人々の生活は豊かになった。
だが、事の発端は古代に遡る。貨幣の発明によって生み出された交換社会。おかげで、交換の対象となるものすべてに価値が見い出され、揉め事も命の代償までも貨幣で精算されるようになった。こうした価値の合理化は、人間どもをより利便性の高い代替物へと走らせ、仮想的な価値を肥大化させていく。仮想化社会の到来である。仮想化とは、愚像化の類いか。
そもそも精神ってやつが、ふわふわした得たいの知れない存在で、同類項というわけか。そりゃ、精神に支配された知的生命体が仮想価値に群がるのも無理もない。
おまけに、人よりも所有した気分になり、優越感にも浸り、生産過剰でも、消費過剰でも、なお満たされない。それで誇大妄想を膨らませてりゃ、世話ない...

ジャン・ボードリヤールは、提言する。
人間の消費という意識が、単に物に向かうだけでなく、集団社会における能動的様式であることを。それは、文化の上に成り立つ体系的活動であり、包括的反応であることを...
尚、今村仁司、塚原史訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

「消費はひとつの神話である。現代社会が自らについてもつ言葉、われわれの社会が自らを語る語り口、それが消費だ。」

現代社会には大量のモノと情報が氾濫し、主役を演じるは広告塔と報道屋。これを影で操る者が社会を牛耳る。影とは誰か。集団的な意志がそう仕向けているのか。つまり、意志なき意志が...
集団性が悪魔じみているのは、悪魔が実際に存在することではなく、そう信じ込ませることにある。消費社会での主な消費は、必然的な消費ではなく、ステータスとしての消費。かつて貴族階級の特権だった見栄や外聞の類いが大衆化すると、人々は流行に乗り遅れまいと強迫観念に取り憑かれる。貧困で喘いでいる人々ですらスマホなどの電子機器が必需品とされ、人とのつながりを強制された挙げ句に息苦しくなる。自由意志なんてものは、もはや幻想か...

無論ジャーナリストや広告業者ばかりを悪者にはできない。誰の言葉だったか、大衆は欺瞞することが容易なのではなく、騙されることを喜ぶ!ってのは本当らしい。お茶の間という安全地帯で、ジャーナリズムが悲壮感を煽る殺人、戦争、細菌感染などの不幸事を映画のように鑑賞する。これが人間の性(さが)か...

豊かな社会と言いながら、なにゆえ自殺が減らない。幸福であることが当たり前!いや、幸福でなければならない!そう思い込むことで自己を追い詰める。多くのモノは場違いに存在するために、その豊富さが逆に欠乏を感じさせる。消費社会の大きな代償は、消費活動そのものに蔓延する不安感ということか。これも、マルクスの言う疎外の類いか。
消費の熱狂の渦で、常に前のめりの姿勢を崩さない経済学者と理想を掲げてやまない福祉論者の狼狽ぶりは、いつの時代も教訓となろう...

「消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。モノの使用はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造させる価値ははるかに大きなものとなる。それゆえ破壊は根本的に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない。消費は自らを乗り越えて破壊に変容しようとする強い傾向をもっている。そして、この点においてこそ、消費は意味あるものとなる...」

2025-06-15

"les objets singuliers - 建築と哲学" Jean Baudrillard & Jean Nouvel 著

のどかな春風に誘われ、アンティークな古本屋を散歩していると、哲学者と建築家がなにやら談義を始めた様子。春風駘蕩たるとは、こういうのを言うのであろうか...

哲学とは、真理を探求する学問、いわば理想を求める世界。建築とは、現実に照らした技術、いわば妥協を生きる世界。互いに相い容れぬ世界にも見える。が、哲学のない技術は危険である。
哲学者ジャン・ボードリヤールは、建築家ジャン・ヌーヴェルに問い掛ける。「建築にとって真実は存在するだろうか...」と。それが不毛な問答であったとしても、大切なのは問い続けること。そして両者は、美学において共通項を見いだすのであった。創造の美学に、破壊の美学に、普遍の美学に、消滅の美学に...
尚、塚原史訳版(鹿島出版会)を手に取る。

「対話を無からはじめるわけにはいかない。というのも、論理的には、無とはむしろ到達点であろうから...」
... ジャン・ボードリヤール

近代化は、生産社会をはじめ、何もかもラディカルに進展させてきた。建築界も例に漏れず。この流れに反発するかのように、近代からの脱却を目指すポストモダニズムとが錯綜する。だが、真にラディカルなのは、無であるという。空白こそが...

建築は、それを彩る空間をともなって、はじめて成り立つ。いかにして空間を組織し、その空間を満たすか。数学的に言えば、充填問題とすることもできよう。真の空白から、すなわち、無から有を成す... これを考える機会に恵まれることこそが建築の醍醐味というものか。
それは、水平方向や垂直方向といった幾何学的な問題だけではない。自然空間や精神空間に及ぶ随伴の問題でもある。建築の創造物は、単独では存在できない。その意味で自由はない。建築家も、芸術家のような自由はない。建築基準法を無視するわけにはいかないし、様々な様式に制約されるのだから...

実際、そこにポツリと出現しては、景観を損なうオブジェが乱立する。不整合でアンバランスな存在として。歴史的な街並みや伝統的な様式から外れ、それ自体は肯定も否定もせず、ただそこに立ち並び、もはや異物!
その有り様を本書は「特異性」と表現する。それは、芸術的な独創性とは違うという。では、数学的な特異点のようなものか。生物学的な突然変異のようなものか...

大衆化の危険は、建築ばかりか、広範な文化に及ぶ。誰でも出来の悪い文章は書ける。この点でテキスト化は危険な行為となる。建築家だって大袈裟な装飾を施しては、自らの幻想に耽っているケースも少なくない。それは、自己陶酔ってやつか。
この幻想はバーチャルとは違うらしい。バーチャルは、むしろハイバーリアリティで、心理空間の可視化だという。物質的なフォルムに位置づけるだけでなく、非物質的なものを介して感知できるような空間認識を呼び覚ますことこそ、建築の真髄というものか...

「解放は、自由とはおなじものではあり得ない。... 解放されて、実現された自由を生きていると信じたとき、それは罠にすぎない。目の前には、可能性の実現という幻想があるだけだ...」

一方で、特異性に反発するかのような現象がある。オブジェはオリジナル性を失い、複製に次ぐ複製のオンパレード。モデルハウスも、その類い。建築ばかりか、あらゆる文化が記号化され、高度なデータ処理によってクローン化されていく。もはや、幻想を見いだすことすらできない。建築家が意図するオブジェが、自らを成り立たせる空間だけでなく、周辺をも巻き沿いにしていく...

「運命の皮肉だろうか、あなたの喜ぶ表現によれば、宿命的なもののアイロニーだろうか、私は東京湾の対岸数キロの海面だけによって隔てられた場所に、向かい合うようにして、非物質化された巨大タワーを建設することになった。このビルから、私は地平線に私の格子の配置と、数学的で人為的な私の日没を観るだろう!」
... ジャン・ヌーヴェル

2025-06-08

"バッハ - 神はわが王なり" Paul du Bouchet 著

バッハに目覚める...
そう思えるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたりであろうか。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ... 目覚めも悪くなる。
ルター派教義のエヴァンゲリストが音符で福音を刻めば、聖トマス教会の高くて広々とした天井空間が威光を放ち、臨場感あふれる音響効果を演出する。卓越した知性が、神との対話の場を求めるのか。対位法とは、神との対話術であったか...
尚、高野優訳、樋口隆一監修版(創元社)を手に取る。

「神の言葉を除けば、ただ音楽だけが称賛されるに値する。... 悲しみに沈む者を慰める時、喜びに溢れる者を恐れさせる時、絶望した人々に勇気を与え、高慢な人々を打ち砕く時、恋人たちの気持ちを静め、憎みあう者たちの心をやわらげる時... 音楽以上に効果を発揮するものがあろうか...」
... マルティン・ルター「音楽礼賛」より

宗教音楽といえば、通常、教会で定められた規則に従い、典礼で演奏される音楽のことを言うのであろう。しかし、バッハの宗教音楽は違う。そんな枠組みを超越した何かがある。神と語り合うのに、神聖も世俗もあるまい。
但し、神の声を聞くには、資格がいるらしい...

「聖と俗の飽くなき共存。バッハの音楽の魅力の根源は、まさにこの矛盾にあるのかも知れない。」
... 樋口隆一

時は、西洋音楽界がイタリアオペラを中心とした時代、ルネサンス音楽からバロック音楽へ...
バロックといえば、建築や彫刻の世界で、複雑で矛盾に満ちた人間の情念を総合的に表現しようとして生まれた様式。建築物では曲線を多用し、過剰とも思える装飾を施す。
こうした傾向が音楽の世界にも波及し、当時、音楽後進国だったドイツにおいて、情熱的なイタリア様式と合理的なフランス様式とを統合する形で花開く。
バッハは、この潮流に乗って、ポリフォニーの伝統を集大成した。しかしながら、当時の聴衆は、かなり困惑した様子。カルチャーショックか!
飾りっ気が多く、複雑な構造に、技巧過剰、主声部がどこにあるのかも分からない... といった批判に晒される。
バッハの性格は、宗教書を読み耽る深い精神の中にあり、人々と温和に接するも、こと音楽となると妥協を許さず、あたり構わず怒りを爆発させる側面があったという。斬新な手法を見せつければ、音楽家の中にも敵が多い。
だとしても、演奏家には珍しく、教育家としても優れた資質を持ち、鍵盤楽器の運指法を伝授する。21世紀ともなれば、YouTube などで実演が観覧できるものの、理想的な指運びが困難を克服できるかという問題は、いつの時代にもまとわりつく。
そして、バッハに還れ!と標語めいたものが、未だに語り継がれる。

「ベートヴェンのソナタは新約聖書である。そして、バッハの平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書である。」
... 指揮者ハンス・フォン・ビューロー

バッハが綴る音符配列に、数学の法則を見る...
協和音と不協和音の融合に多声部が複雑に絡み合うという、一見矛盾した構造が調和に満ちたポリフォニーを奏でる。作品には長調と短調が入り乱れ、進行形と反行形が共存しながら、ときおり鏡像のごとく回転し、音符列を長く拡大するかと思えば、音符列を短く縮小して魅せ... まるでユークリッド幾何学。こうした図形操作に、カノンからフーガに至る流れを観る。
そして、シェーンベルクが体系化した十二音技法を巧みに操り、独創的な平均律を編み出す。平均律クラヴィーア曲集には、バッハ自身がこのような表題を付したという...

「平均律クラヴィーア曲集。すなわち、長 3 度(ド、レ、ミ)と短 3 度(レ、ミ、ファ)をともに含む、すべての全音と半音による前奏曲とフーガ。学習を望むすべての若い音楽家に、そしてすでに熟練した技術を持つ音楽家の楽しみのために...」

2025-06-01

"マタイ受難曲" 礒山雅 著

クラシック音楽に目覚めたのは、小学生の頃であったか。ドヴォルザークに始まり、ベートーヴェンに、チャイコフスキーに、モーツァルトに、ショパンに嵌った記憶がかすかに蘇る。
しかしながら、バッハとなると、ずっと敬遠してきたところがある。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ...
ヤツは、ルター派教義のエヴァンゲリストか。音符で綴る福音主義者か。説教臭が漂ってやがる。
それでも、バッハに癒やされるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたり。巨匠が奏でる音空間には、音楽を超えた何かがある。信仰を超越した何かがある。卓越した知性が神との対話へと誘ない、救済を超えた何かが...
本書は、マタイ福音書の受難物語を通して、バッハが思い描いたであろう情景を物語ってくれる。

「深沈とした管楽曲の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる悲痛な合唱... マタイ受難曲といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれのマタイに対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜならマタイ受難曲の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど大胆なものだから...」

大合唱が終わると、福音書記者が口を開く...
時は、ユダヤ教の大祭、過越祭の二日前、イエスは受難を預言する。信仰厚い女が香油を注ぐ。香油は涙となり、受難曲は懺悔と悔悛へと流れゆく。人間は、罪を背負う定めにあるのか...
十二人の弟子の中に裏切り者が...
ユダの密告。過越の聖なる食事が、最後の晩餐に。パンとぶどう酒は、キリストの身体と血に還元される。晩餐の後の讃美歌、続いてオリーブ山での弟子たちとの語りをコラールで綴る。ゲッセマネの園では、受難を前にしたイエスの深い人間的苦悩を歌う。苦悩の原因はわれわれ自身の中に...

「第10番目のヘ短調は、温和で落ち着いていると同時に、深く重苦しく、なにかしら絶望と関係があるような死ぬほどの心の不安をあらわすように思える。加えてこの調には、並外れて人の心を動かす力がある。ヘ短調は、暗く救いようのないメランコリーをみごとに表現し、ときおり、聴き手に恐怖心や戦慄を感じさせる...」

ついにナザレのイエス、群衆に捕らわる。ユダよ!あなたは接吻で人を裏切るのか...
大祭司邸での審問では、沈黙するイエスにツバを吐きかけ、顔面を殴り。おまけに、ペトロの否認!イエス?そんな人は知らぬ。だが、主を否認したことを悔いる。涙は傷ついた心の血!
そして、イエスの死刑宣告。ペトロの嘆きに憐れみのアリアを歌い、ユダの自殺に憐れみのアリアが続く...
悔い改め、懺悔すれば、すべてチャラ!これがキリスト教の教えか。そして、復活を見据えずにはいられない。

イエスはというと...
他人を助けて自分自身が救えないとなれば、その無力さが死に値するというのか。いや、穢れた人間社会から解放され、自由の身になれたのやもしれぬ。血まみれた十字架を前に、己の愚かさを思い知る人間ども。日蝕まがいの闇があたりを覆う。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです...

「主の怒りは燃え上がり、大地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。... 本当にこの方は、神の子だったのだ。」

愛とはなにか。周知のものでありながら、疑いなく実感できるものでありながら、その真なるものを知らぬ。自己を愛せぬ者に他人を愛せるのか。他人を愛せぬ者に自己を愛せるのか。自己を知らねば、盲目であり続けるほかはない。永遠に...
人間ってやつは、己の身体を墓とし、己の心で墓標を刻む、そんな存在なのやもしれん。ここに、INRI を掲げた十字架像とともに受難曲の完成を見る...

"IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM"
(ナザレのイエス、ユダヤ人の王)