2012-02-26

"電撃戦 グデーリアン回想録(上/下)" Heinz Guderian 著

「Blitzkrieg(電撃戦)」の創始者といえば、ハインツ・グデーリアン。ただ、名付け親ではないようだ。ドイツ国の戦争資源の乏しさから即戦即決が必然であり、その猛進撃を敵側がこのように称したのであろうと、他人事のように回想している。ちなみに、理論そのものは古くからあるそうな。技術畑にいたことが、このような戦術を編み出す事に役だったという。本書は、ドイツ参謀本部の内側から見た回想録である。
全般的に淡々と綴られるが、情報量が多くて読むのも大変!軍事の素人には専門的で難しいところも多い。それでも、論理的に解説されるので、じっくり読めばなんとかなる。かなりこってりした書物だが、わりと好きなのだ。兵器の解説では理論的に、人物像では冷静に語られるものの、たまーに見せる感情的なところもなかなかいい。お偉いさんと議論する場面はなかなかの迫力もの。小説家も顔負けか。技術進歩への献身ぶりには職人気質を感じるし、なによりもプロフェッショナルの香りがする。
注文をつけるなら、付録の地図がもっと詳しくてもいいかなぁ。グルグルEarthで、地形情報と睨めっこしながら読み進める。まるで司令官にでもなった気分!これが電子書籍だとおもしろい可能性が見えてくる。そぅ、文章と立体マップの融合だ。

軍人というのは、古い伝統を精神の拠り所にするところがあるという。伝統を精神的に尊重するのではなく、成功例として真似するだけだそうな。しかし、ほとんどの分野でそういう傾向にあるだろう。安全志向というのは、人間の基本的な思考原理である。ましてや戦争ともなると失敗は許されない。新たな技術や戦術を取り入れるにしても一つの賭け。だが、硬直化した思考では、時代の変化に対処できないのも事実。グデーリアンは新たな戦術を導入するために陸軍司令部で奮闘する。そして、真っ先に理解を示したのがヒトラーだった。彼もまた、軍部の保守的な体質に我慢がならなかったのだ。そして、装甲部隊を中心に無線技術と爆撃機を組み合わせた三次元戦術を実現する。
しかし、ヒトラーの第六感に頼る戦略に軍部全体が振り回され、反対意見をする将校たちは次々に解任されていく。グデーリアンも例外ではなかった。バルバロッサ作戦での優柔不断さを直訴し、越冬を具申すれば罷免される。再びヒトラーから要請を受けて装甲兵総監として現役復帰するが、時すでに遅し。一年以上にも及ぶ非役期間(1941.12.26 - 1943.3.1)に、スターリングラード敗北、連合国北アフリカ上陸など、東西から反撃が始まろうかという最も重要な時期に不在だったことになる。復帰後も東部戦線の戦略をめぐってしばしば対立し、ツィタデレ作戦の失敗で敗戦は決定的なものとなる。後に連合軍を恐れさせるティーゲル戦車とパンテル戦車の登場に尽力したものの、ヒトラーがおもちゃのごとく扱い、まだ不備な状態で投入したために大打撃を受ける。戦争初期においてヒトラーの前線視察も頻繁に行われていたが、だんだん前線から遠ざかっていき、最後の1、2年はまるで姿を見せない。そして、皮肉なことに前線の方から近づいてくるのであった。不利な情報にまったく耳を貸そうとしないヒトラーと、あわや殴り合いになるかと思わせるほどの激しい議論が展開され、ついに解任。
それにしても、狂った爺さんに付き合う律儀さには感心させられる。実直にものを言う性格が、しばしば出世欲の強い将校たちの反感を買う。ギュンター・フォン・クルーゲ元帥とは決闘話まで持ち上がる。典型的なプロイセン軍人像といったところか。普通の人ならとっくに見切りをつけるだろうが、それでは軍人として国家に対する使命を放棄したことになる。さすがに自ら解任を申し出たところもあるけど。グデーリアンは、ヒトラーに仕えたのではなく国家に仕えたのだった。
「軍国主義とは、いたずらに軍隊の形式論をもてあそんだり、軍人の大言壮語や行き過ぎた軍人精神を市民生活に導入しようとすることしか考えていない。もとより真の軍人ならばそんなものは排斥する。軍人こそ戦争の恐ろしい結果を本当に知るものであって、だからこそ人間として戦争を否定するのであり、名誉心にかられての侵略や武力政策の思想は、およそ軍人とは縁遠いものなのである。」

1. ドイツ参謀本部と政治観
ドイツ参謀本部は、ナポレオン戦争でプロイセン軍を指導したシャルンホルストと、その後任グナイゼナウによって創設された。その頃、クラウゼヴィッツの「戦争論」が出版される。この書は、戦争を政治の手段としたことから多くの批判に曝されるが、戦争哲学の最初の試みであった。ドイツ参謀本部は、この3人によって精神の支柱を成すという。そして、彼らの最高の遺児が大モルトケ元帥ということになる。
ここで注目したいのは、グデーリアンの目は外交や政治体制にも向けられていることである。ドイツの地理的事情からして、参謀本部は多面戦争の研究にならざるを得ない。ところが、旧参謀本部の作戦思想はもっぱら大陸に向けられ、航空兵器の発達による海洋を隔てた武力介入をほとんど考慮しなかったという。
近代戦ともなれば、地球の裏側まで軍隊を派遣することも珍しくない。ますます地理的影響は小さくなるだろう。軍司令官の未来像は、国際政治、あるいは地球規模の自然観までも視野を広げなければならない。現在、シビリアンコントロールが叫ばれる中、軍事のド素人が国防大臣になるという矛盾がある。近代兵器の破壊力は一瞬にして一国を滅ぼしてしまうほどで、生半可な世界観や決断力では務まらないにもかかわらずだ。政治の目的が、国民主権と基本的人権を最高に重んじるためだとするならば、人格と政治観の双方で優秀である必要があろう。だが、人物の評価では、人格よりも知能の方が優先される傾向がある。人格の優秀さを見抜けるほどの鑑識眼を持った人は稀であろうから。したがって、政治家はその場限りの知識をひけらかし、下手すると人格はまったく評価されない。そして、政治の舞台は天才演説家の独壇場となる。フランス革命後の共和政が恐怖政治と化すと、ナポレオンを登場させた。第一次大戦後、ワイマール共和制では対処できないほどの莫大な賠償金が国民を疲弊させると、ヒトラーの登場を見た。いずれも民主的な制度の元で独裁者を呼び込んだ結果である。経済的困窮に追い込まれると、国民は強烈な指導力を待ち望む。民主主義の暴走は、独裁政権と同じくらい危険であることを肝に銘ずるべきであろう。

2. 官僚的戦略と二重体制
なぜ、陸軍総司令部とヒトラーの仲は悪いのか?ヒトラーはドイツ参謀本部を解体しろ!とまで言っている。その性格は、政治体制にもうかがえる。もともとドイツは連邦制であったはず。ナチ党は党管区によって行政区分を設け、当初は連邦制と党管区の二重行政だったようだ。国の隅々に渡ってナチ党化を図ろうと目論んでいたわけだが、互いに反目しあうと無政府状態に陥りかねない。
同じような二重構造が軍部にも見られる。それは武装親衛隊の設立で、国防軍の外にヒムラー管轄の陸軍が存在することになる。親衛隊は、一般親衛隊と武装親衛隊に区別されるという。名称からすると後者の方がおっかないように思えるが、実はそうではないらしい。武装親衛隊は優秀な戦闘部隊で、国防軍と協力する立場にある。だが、最新鋭の武器が優先して提供されることから疎まれる。それでも終戦間近では戦友意識があったという。一方、一般親衛隊は、役所的に裏仕事をこなす陰険な組織である。強制収容所などの重大犯罪を犯したのも彼ら。その残虐性から、しばしば武装親衛隊も一緒にされて罪を問われたという。
ヒトラーは、前大戦で塹壕戦を経験したことから奇妙にも天才軍略家だと自負し、従順しない陸軍参謀本部を毛嫌いしていた。そして、武装親衛隊に陸軍を組み込もうとする。ヒトラーもヒムラーも軍事の素人だけど。陸軍総司令部は、ヒトラーの口出しでことごとく窮地に追い込まれ、その都度責任をとらされる。
1938年、ブロンベルク罷免事件は、軍の高級将校の一群が、ばっさりと罷免された陰謀事件。ヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥が、売春婦と再婚したとして国防大臣を辞任。陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュが同性愛の容疑で罷免。いずれもヒトラーの外交政策に反対した将軍である。
1941年、その後任だった陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥もバルバロッサ作戦中に罷免。グデーリアンを後押ししたオスヴァルト・ルッツ大将も罷免。以降ヒトラーが兼務し、事実上陸軍総司令部は存在しない。せめて、国防軍総司令部総長カイテルと国防軍統帥部長ヨードルの二人が、ヒトラーに対して違った態度をとっていれば、ドイツ軍はこれほど汚点を残すことはなかっただろうという。この腰巾着どもが悪名高い「コミサール命令」を発っせさせたと。ソ連の政治委員(コミサール)を軍人とみなさず、捕虜にしたら即座に射殺せよ!という命令。しかし、そうだろうか?別の飼い犬を見つけるだけのことではないのか?
一方、側近の中でもシュペーアは自分の意見を述べる勇気を持っていて、早くから戦争に勝てないことを忠告していたという。それにしても、ボルマンの悪評は凄まじい。総統に面会するにはこの秘書を通さなければならないが、その苛立ちを隠せない。シュペーアの回想録にもあったが、最悪の癌はヒトラーが最も信頼したボルマンというのも皮肉だ。そして、総統直属の司令部が分散し、権限の奪い合いで政治的陰謀が渦巻く有様。最も官僚体質を嫌っていたはずのヒトラーが、独善主義によって巨大官僚体制を完成させたわけだ。

3. 装甲部隊と電撃戦理論
ヴェルサイユ条約によってドイツの装甲車両は制限され、理論研究ではイギリスやフランスの方がはるかに進んでいたらしい。1922年頃、ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー、リデル・ハート、マーテルらの書物を研究したという。尚、本書の訳では、連合軍側を機甲、ドイツ側を装甲と呼んでいるが、現代感覚とちょっと違うようだ。
当初、グデーリアンは戦車の知識がまるでなく、内部構造も見たことがなかったという。装甲車両と機械技術、それに航空部隊を加えた集合戦略論の研究を進めるが、周囲の反応は冷たい。過去の戦争における機動力といえば騎兵隊が中心である。古参将軍たちは、自動車の使い道は輸送ぐらいにしか考えていない。舗装された道路しか使えないからだ。装甲車両に至っては、前大戦における戦車の速度があまりに遅かったので、機動性というイメージが持てない。だが、1920年代、各国は戦車の研究に余念がなく急激に進歩した。装甲部隊の研究では国防省の理解がなかなか得られず、退役に追い込まれた将軍たちもいる。そんな時期に台頭してきたのがヒトラーで、自動車税の撤廃とアウトバーンの建設を国民に約束し、装甲兵種に強い関心を持ったという。グデーリアンは、斬新的な意見を受け入れる度量を好意的に見ている。
電撃戦の要めは、装甲と機動と火力の融合だとしている。そして、戦車部隊が単独で行動しても効果は薄く、歩兵や自動車やオートバイ隊などと行動を一体化しなければならないという。
「装甲兵器による攻撃によって従来よりも機動性が高まり最初の突破が成功した暁に、なおその機動を継続することが可能なこと、この点こそ、"奇襲戦法"の必須条件だと信じているのである。」
装甲部隊の成否の鍵は、機動がスムーズに継続できるかということ。それには、三つの重要な条件を挙げている。「適当な地形」、「奇襲」、「集結使用」。装甲があるからには、銃弾に対する防御は万全なので、前進するのは簡単。だが、対戦車砲や車両搭載火砲に対しては不安がある。一旦、前進が始まると止められないが、止められた時の脆さもある。地上戦において、戦車隊を止めることができるのは、その火力を上回る戦車隊だけだという。そして、兵器の優劣で戦局は決まり、兵器に技術を結集しなければならないと力説する。兵器開発こそ、戦争に勝つ手段だと。よって、奇襲の脅威を感じて各地点に応急的な火力を準備しても、ほとんど役に立たないという。

4. 西方戦役と奇怪な現象
1940年までの作戦はかなり制約されていて、機動的戦術に頼らざるを得なかったという。独ソ不可侵条約でポーランドは分割され、ひとまず東部戦線は落ち着くが、ヒトラーのソ連に対する敵意は根深い。
さて、次は西方へ。陸軍司令部は「黄色計画」を採用しようとしていた。これは「シュリーフェン計画」の踏襲だったという。シュリーフェン計画とは、1914年に失敗したとされる作戦。
そんな時、メヘレン事件発生。ベルギー領メヘレンに不時着した将校二人が持っていた機密書類に「第一次黄色計画」が含まれていた。二人は欠席裁判で死刑を宣告され、家族も幽閉される。だが、帰国すると二人は無罪になるという奇怪。そもそも、将校たちはミュンスターからケルンへ行く予定で、直線距離で150キロをわざわざ飛行機を使ったのはなぜか?参謀将校は機密書類を持って飛行機に乗ってはならない、という厳重な規則を破ってまで。連合軍を欺くための策謀だったのかもしれない。もともとヒトラーは陸軍司令部の作戦が気に入らなかったようだ。
そこで、計画を頓挫させて「マンシュタイン計画」が検討される。セダン付近のマジノ線に向かって進撃し、築城地帯を正面突破するという装甲部隊にとってはうってつけの作戦だ。尚、マンシュタイン元帥のような有能な軍人を側近に置きながら、使い切れないことが残念だと嘆いている。彼は、卓越した軍事能力を持ち、深慮遠謀、冷静な判断力を備えたドイツ軍最高の作戦頭脳だと評している。グデーリアンは、カイテルの代わりにマンシュタインを国防軍幕僚長に登用するように幾度となく具申している。
当時の戦車の保有数は、英仏がドイツに対して2倍だったという。装甲と火砲口径もフランス軍の方が優れていた。しかも、世界最強の防御線と言われたマジノ線がある。だが、マジノ線の築城から兵力の配置までよく観察していたので、弱点は把握している。
それにしても、ドイツ軍がポーランドで釘付けになっている間に、フランス軍はなぜドイツを攻めなかったのか?マジノ線に自信を持っていたのか?戦争は回避できると楽観視していたのだろうけど。ドイツ軍はマジノ線をあっさりと突破し海峡まで進撃したが、フランスが攻撃していたらどうなっていたかは分からないという。ほとんど奇跡だったと。しかし、今度はヒトラーが進撃中止命令を出す。ダンケルクの奇跡だ。イギリス軍が大小あらゆる艦船を利用して海岸要塞から立ち去るのを、ただ手をこまねいて見送るだけ。イギリスとの講和条約を結ぼうとしたのだろうが、むしろダンケルクで止めを指すことが和平交渉の近道であり、交渉が決裂したとしても英国本土侵攻の足がかりになったと指摘している。双方とも戦争の拡大は歓迎しなかったのだろうけど、初期段階の西部戦線は奇怪な現象が多い。

5. バルバロッサ作戦で右往左往
ソ連は、独ソ不可侵条約に乗じて、バルト三国を併合、フィンランド攻撃、ルーマニアからサラヴィアの割譲を要求。ルーマニアがソ連に落ちるぐらいなら独立を認める。ドイツにとってルーマニアのプロエシュチ油田は生命線である。
更に、ムッソリーニが単独でギリシャに戦争を仕掛けた。この軽率さにヒトラーは激怒したという。ソ連侵攻を計画していたが、余分な兵力をバルカン半島に回す必要があるからだ。かつて、ヒトラーは1914年の作戦を批判していたという。つまり、東西の二正面戦争は間違いであったことを。そのヒトラー自身がバルバロッサ作戦を決行しようとしている。作戦名は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の渾名「バルバロッサ(赤髭)」に由来。ヒトラーは、イギリスを打倒できぬ今、まずヨーロッパ大陸において決定的な勝利が必要であると熱弁し、8週から10週間で制圧できると豪語する。ナポレオンしかり、ヴィルヘルム2世しかり、ヒトラーしかり。彼らは「不可能」という文字を辞書から抹殺したかったようだ。
おもしろいことに、1941年春、ヒトラーはソ連の視察団を招き、戦車工場と最新鋭の4号戦車を見せたという。兵力で圧倒していることを見せつけたかったようだが、視察団は最新式戦車を隠していると不満を漏らし質問を浴びせたという。あまりにもしつこい質問に、ソ連ではもっと重量のある戦車が開発されているのではないか、と訝ったという。その年の7月には、最新鋭T-34戦車がお目見えすることになるのだけど。
さて、ムッソリーニのおかげで、作戦は1941年5月15日から6月22日に延期された。ヒトラーは、その場の思いつきで兵器生産や戦略を命令する傾向があるという。この作戦も例外ではなく、目標すらはっきりしない。グデーリアン上級大将率いる第2装甲集団とホート上級大将率いる第3装甲集団の進撃が始まる。ミンスクは6日で陥落。早くもスモレンスクに向かう途中、ドニェプル川を渡河するあたりでクルーゲ元帥と作戦面で衝突する。
7月、スモレンスクを攻略。そのままモスクワへ向かうのかと思えば、ヒトラーはゴメリを包囲せよと命令。すなわち、キエフ方面への進撃でモスクワとは反対方向。このあたりから、広大なロシアを数百キロに渡って右往左往が始まる。グデーリアンをはじめとする将校たちは、モスクワこそ主戦場だと主張する。対して、ヒトラーはウクライナの資源と食糧、あるいはクリミア半島の油田が重要だと主張する。それも一理あるが、ならば最初から進撃ルートを考えろよ!と現場は言いたくなるだろう。レニングラードからウクライナまで1200キロにも及ぶ戦線拡大は、あまりにも無計画。装甲部隊の分散は電撃戦理論にも反する。
9月、キエフ攻略。必然的に冬季戦を覚悟しなければならない。10月初旬、初雪。オリョルとブリヤンスクを攻略。第6軍はハリコフへ。ムツェンスクでは、T-34型戦車の優秀さを初めて味あわされたという。10月下旬、ウィヤジマ = ブリヤンスク二重包囲作戦で戦果をあげる。いよいよモスクワの南門トゥーラへの進撃だが、道路は戦車の連続通過に耐えられない。しかも、ソ連軍が退却の際、あらゆる橋を爆破し地雷原を設置していた。11月になると気温は零下22度の厳寒。おまけに燃料不足。そして、シベリア部隊が出現。とうとうドイツ軍の進撃が止まる。12月になると気温は零下50度という想像を絶する寒気が襲う。グデーリアンは総統本営へ飛び直談判する。軍人が命をかけるとは、それだけの意義があってこそであって、どんな専制君主であろうとも、目的に釣り合わない犠牲を強いることはできない...といったことを陳述。対するヒトラーの答えは...物事を広く見よ!目先の兵士の苦しみに惑わされるな!防寒具不足、補給不足といった簡単な問題ですら、ヒトラーに理解させるのは困難。実際、ゲッペルスが国民から防寒具を集めるキャンペーンを実施していたが、前線には物が届かない。とうとう、第一線の将校たちを国防総司令部や陸軍総司令部の参謀将校と交替させてはどうかと提案する。そして、罷免された。
やがてスターリングラードまで戦線を拡大することになるが、スターリンの街という名前に釣られたかどうかは知らん。ところで、冬季の進撃を中止して、越冬を計画していたらどうなっていただろうか?

6. 装甲兵総監に任命される
ヒトラーは、複雑な装備で多機能な戦車を好むという。T-34のコンパクトな設計とは真逆の発想か。製作段階で絶えず変更が命じられたので、雑多な形式の戦車が多く生産されることになる。製造工程も複雑化する。しかも、多くの補充部品がつけられたために、野外での戦車修理がほとんど不可能になったという。ただ、ティーゲル戦車に関しては、低伸弾道の88mm長カノン砲の有効性を主張したりと、鋭い意見もある。やがて装甲戦略が行き詰まると、誰かは知らんが、グデーリアンが戦前にあらわした著書をヒトラーの机の上に置いたという。1943年、退役中のグデーリアンが呼ばれることに。ちょうど、スターリングラードで大敗した頃。
任命されるにあたり、条件を提示している。無益な権力争いに懲りて、装甲部隊を参謀総長や補充軍司令官の指揮下におかず、総統直属にすることを要求。更に、陸軍総司令兵器局と軍需大臣に対する指導権を要求。そして、ティーゲルとパンテルの増産に奮闘する。
ヒトラーは、グスタフ列車砲のデモでわくわくしたとか。巨大80cm口径だが、装填に45分かかるのに、戦車に太刀打ちできる道理がない。実用性のない巨大おもちゃの好きな爺さん!この時期、ヒトラーはすっかり老けこんでいて、しっかりした足取りではなく、言葉も吃りがちで、左手が絶えず震えていたという。戦後、収容所で会った医師たちの話によると、興奮性麻痺症またはパーキンソン病だったとか。

7. ツィタデレ(城塞)作戦と東部戦線の崩壊
1943年、マンシュタイン元帥がハリコフ奪還で成功すると、クルスクあたりにソ連軍の突出部が生じた。ツィタデレ作戦は、陸軍総司令部参謀長クルト・ツァイツラーの発議によるもので、この突出部を奪還して東部戦線を安定させようというもの。しかし、グデーリアンは今更クルスクにこだわる必要はないと主張する。むしろ東部戦線は縮小すべきで、西側の上陸作戦に備えるべきだと。マンシュタインも同調するが、カイテル元帥とクルーゲ元帥は、ティーゲルとパンテルがあれば圧倒できると主張する。パンテル隊は新製品にありがちな様々な問題点を露呈し、実践投入はまだ早いと反対したが、押し切られる。おまけに、ティーゲルは携行の砲兵弾薬や機関銃装備がないため接近戦で弱点を露呈し、カノン砲で雀を撃たなければならない有様。この敗北で完全に主導権はソ連側に移る。
1943年の暮、ヒトラーは我を忘れたように、歩兵師団に充分な対戦車装備を与えなかったことを後悔したという。
「君の予言は正しかった。君は九ヶ月も前にこのことを私に具申してくれていたのに、私が決を下さなかったのはなんとしても残念千万だ」
ようやくヤークトティーゲル(重駆逐戦車)、ケーニヒスティーゲル(王虎)がお目見えするが、いかんせん遅すぎた。ヒトラーが反撃を決意する時は、きまって充分な兵力を集めずに衝動的に始めてしまう。これが悪い癖だと指摘している。

8. 大西洋防壁の崩壊
大西洋防壁は、ロンメルの貢献が大きいという。海岸線を主戦闘線とみなし水中障害物を設置し、後方地域には敵空挺部隊の降下に備えて「ロンメルのアスパラガス」と呼ばれる障害杭を設け、広範に地雷を敷設する。ロンメルは、公明正大にして正直な性格であるばかりでなく、勇敢な軍人、偉大な指揮官で、最も共感しあったという。1942年9月、彼が病気で本国に帰還した時、罷免されたのを知っていながらグデーリアンを代役に推薦したという。しかし、拒否されたのは幸運だった。その後エル・アラメインは崩壊し、ロンメルでさえ阻止できなかっただろうから。ただ、対上陸作戦に関しては、二人の意見は食い違っている。ロンメルは、機動反撃は不可能だとし、試みようともしなかったという。上陸地点もソンム河口北方と決めていたという。カレー近辺という点ではヒトラーと同じ意見だったようだ。
そして、Dデー。ロンメルはヒトラーへの報告のために旅行中。ヒトラーは習慣として就床が遅く、第一報が届いても、睡眠を妨げるわけにはいかない。ヨードルが作戦指導を代行するはずだったが、国防予備軍をつぎこむ決心がつかない。第21装甲師団は上陸地点の正面にいたが、ロンメルの許可を待つばかりで空挺部隊に反撃を加える絶好の機を逸した。グデーリアンの案は、西方戦線の全装甲部隊を二群に分け、パリの南と北で、敵の侵攻正面に向かって夜間行軍で迎え撃つというもの。実際は海岸線で兵力を分散し過ぎたと指摘している。しかし、この案が採用されなくても、明確な目標を掲げて作戦指導すれば、成果を上げることはできたとしている。上陸開始後二週間たってもなお、各装甲師団は目標に向かっていないという有様。

9. 暗殺未遂事件「ヴァルキューレ」
1944年7月20日の暗殺事件にグデーリアンは批判的だ。加担者の中に軍部を動かせる人物が一人もいないと指摘している。国家元首に予定されていたルートヴィヒ・ベック将軍を優柔不断と評していただけに、このような大計画に参加していることが意外だったようだ。また、やるとしたら主要幹部を徹底的に排除すべきだが、計画が未熟すぎたと。
加担者たちは軍事法廷ではなく、フライスラー長官の人民法廷で裁かれた。いやゆる「名誉法廷」というやつ。委員には、ルントシュタット元帥を長にカイテルらがいる。グデーリアンもその不愉快な委員の一人に加えられたとか。なんとか理由をつけて会議を避けていたようだけど。この審問は、法の正義とは程遠いものだったという。審議官たちは、憎悪と侮蔑のまじりあった観念で名誉欲に駆られた連中。実行犯たちは仕方がないにしても、助けられる者は助けようと努力し、ルントシュタット元帥も他の委員たちも同調したという。だが、既に刑は確定していた。加担者となんらかの面識があるというだけで、「知りながら密告しなかった」という罪に。疑いをかけられただけで多くの人が処刑された。ついでに反抗分子も一掃されたことだろう。そして、ロンメルまでも。ただ、首謀者の一人ゲルデラー博士は、グデーリアンのところにも訪問している。この時、なんとなく匂わせていたようだけど、普段の態度からするとグデーリアンも疑われた可能性があっただろう。
さて、暗殺が成功していたら、どうなっていたか?それを答えられる者はいない。ただ、当時のドイツ国民はヒトラーにまだ信頼をつないでいたという。そして、暗殺者たちは国民の敵とされたという。また、連合国の態度が好転したかは期待できない。既に1943年1月、カサブランカ会談で無条件降伏が宣言されていたし。では、どうすればよかったのか?反対意見がこれほど多いにもかかわらず、ヒトラーの面前で反対した者がいなかった。それこそ、やらねばならなかったと指摘している。
しかし、だ。1933年に全権委任法が成立した時点で、後の祭りではないのか?一人の人間を神として崇めよ!と定めているようなもので、既に法治国家を放棄しているではないか。1944年の時点でやれることといったら、暗殺ぐらいしかないような気もする。ヒトラーだけを殺したところで、ゲッペルスやヒムラーやゲーリングあたりが代行するだろうけど。ゲッペルスなら、あまり変わり映えがしないか。ヒムラーなら、ベルリンをあっさりと見捨てて親衛隊の勢力圏のプラハあたりで、更に残酷な抵抗を続けていたかも。ゲーリングなら、その無能ぶりで戦争の終結を早めたかも。

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