のどかな春風に誘われ、アンティークな古本屋を散歩していると、哲学者と建築家がなにやら談義を始めた様子。春風駘蕩たるとは、こういうのを言うのであろうか...
哲学とは、真理を探求する学問、いわば理想を求める世界。建築とは、現実に照らした技術、いわば妥協を生きる世界。互いに相い容れぬ世界にも見える。が、哲学のない技術は危険である。
哲学者ジャン・ボードリヤールは、建築家ジャン・ヌーヴェルに問い掛ける。「建築にとって真実は存在するだろうか...」と。それが不毛な問答であったとしても、大切なのは問い続けること。そして両者は、美学において共通項を見いだすのであった。創造の美学に、破壊の美学に、普遍の美学に、消滅の美学に...
尚、塚原史訳版(鹿島出版会)を手に取る。
「対話を無からはじめるわけにはいかない。というのも、論理的には、無とはむしろ到達点であろうから...」
... ジャン・ボードリヤール
近代化は、生産社会をはじめ、何もかもラディカルに進展させてきた。建築界も例に漏れず。この流れに反発するかのように、近代からの脱却を目指すポストモダニズムとが錯綜する。だが、真にラディカルなのは、無であるという。空白こそが...
建築は、それを彩る空間をともなって、はじめて成り立つ。いかにして空間を組織し、その空間を満たすか。数学的に言えば、充填問題とすることもできよう。真の空白から、すなわち、無から有を成す... これを考える機会に恵まれることこそが建築の醍醐味というものか。
それは、水平方向や垂直方向といった幾何学的な問題だけではない。自然空間や精神空間に及ぶ随伴の問題でもある。建築の創造物は、単独では存在できない。その意味で自由はない。建築家も、芸術家のような自由はない。建築基準法を無視するわけにはいかないし、様々な様式に制約されるのだから...
実際、そこにポツリと出現しては、景観を損なうオブジェが乱立する。不整合でアンバランスな存在として。歴史的な街並みや伝統的な様式から外れ、それ自体は肯定も否定もせず、ただそこに立ち並び、もはや異物!
その有り様を本書は「特異性」と表現する。それは、芸術的な独創性とは違うという。では、数学的な特異点のようなものか。生物学的な突然変異のようなものか...
大衆化の危険は、建築ばかりか、広範な文化に及ぶ。誰でも出来の悪い文章は書ける。この点でテキスト化は危険な行為となる。建築家だって大袈裟な装飾を施しては、自らの幻想に耽っているケースも少なくない。それは、自己陶酔ってやつか。
この幻想はバーチャルとは違うらしい。バーチャルは、むしろハイバーリアリティで、心理空間の可視化だという。物質的なフォルムに位置づけるだけでなく、非物質的なものを介して感知できるような空間認識を呼び覚ますことこそ、建築の真髄というものか...
「解放は、自由とはおなじものではあり得ない。... 解放されて、実現された自由を生きていると信じたとき、それは罠にすぎない。目の前には、可能性の実現という幻想があるだけだ...」
一方で、特異性に反発するかのような現象がある。オブジェはオリジナル性を失い、複製に次ぐ複製のオンパレード。モデルハウスも、その類い。建築ばかりか、あらゆる文化が記号化され、高度なデータ処理によってクローン化されていく。もはや、幻想を見いだすことすらできない。建築家が意図するオブジェが、自らを成り立たせる空間だけでなく、周辺をも巻き沿いにしていく...
「運命の皮肉だろうか、あなたの喜ぶ表現によれば、宿命的なもののアイロニーだろうか、私は東京湾の対岸数キロの海面だけによって隔てられた場所に、向かい合うようにして、非物質化された巨大タワーを建設することになった。このビルから、私は地平線に私の格子の配置と、数学的で人為的な私の日没を観るだろう!」
... ジャン・ヌーヴェル