2017-10-01

"読書について 他二篇" Arthur Schopenhauer 著

ショウペンハウエルは、これで四冊目。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼は、暗示にかかりやすいのだ。この厭世哲学者ときたら、とことん積極的なネガティブ思考を仕掛ておきながら、奇妙なポジティブ思考へと誘なう。怖いもの見たさのような。悲観主義を徹底的に貫くと、楽観主義に辿りつくというのか。それは、楽して儲けようという人種が、そのために情報収集に努め、社会システムを駆使し、結局は勤勉になるようなものか。彼の主著「意志と表象としての世界」があまりに分厚いので、お茶を濁そうと随筆ばかりに手を出してきたが、この大作へ向かう衝動を抑えられそうにない。
ところで、障害が大きいほど燃える!というが、それは本当だろうか?愛の場合はそうかもしれん。だが、速読術は速愛術のようにはいかんよ...
尚、本書には、「思索」、「著作と文体」、「読書のついて」の三篇が収録され、斎藤忍随訳版(岩波クラシックス)を手に取る。

ショウペンハウエルは、警句箴言の大家と見える。ホラティウスやゲーテといった偉人たちの言葉を引用しては、皮肉たっぷりに余人に問う。それだけ彼が多読してきた証でもある。そして、「読書」には「思索」という言葉を対立させ、読書は思索の代用品に過ぎない!と吐き捨てる。
「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。」
いつの時代でもハウツー本は盛況ときた。考えることを面倒臭がり、愚鈍で怠惰な人間ほど、読書は危険な行為となろう。安全な道を模索して他人の経験を犠牲にし、手っ取り早く結論に飛びつく。そして、同じ過ちを繰り返すのである。著作家もまた報酬を求めて書き始めれば、読者を欺くことになる。そんな書群が巷を騒がせば、ショウペンハウエルが愚痴るのも分かるような気がする。
しかしながら、いまや読書にも至らない時代。ちょいとググれば知識はいつでも手に入るし、知識を会得することよりも検索術の方が評価される。考える力までも仮想空間へ追いやられるとしたら、人間とはどんな存在なのだろう。なぁーに、心配はいらない。仮想空間が幻想だとすれば、魂だって、精神だって、同じことではないか。そもそも、人間存在に対して明瞭確実に説明できる哲学を、おいらは知らない。ちなみに、宗教にはよく見かけるけど...
一方で、永遠の生命が吹き込まれたような書物がある。もはや著作家の意志から独り歩きをはじめ、幽体離脱したような。自分で考え抜いた哲学だと思っていても、古典に触れているうちに、既に過去に編み出されていたことに気づかされ、がっかりすることはよくある。それでも、すぐに思い直して、それが却って心地よかったりするもので、普遍的な抽象原理にはそうした力がある。意志の継承こそ人類の叡智。この領域に、報酬や著作権などという概念はない。ちなみに、A. W. シュレーゲルの警句に、こんなものがあるそうな...
「努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし。」

ところで、「読書」というからには、本を選ぶという行為がともなう。多少なりと興味がなければ、その本を選ぶこともできない。学校教育などで強制的に読まされるのでもなければ。興味があるということは、似たような思考性向を既に持っているのでは。それは、思索のための題材に飢えているような、いわば暇つぶしに苦慮した心境とでも言おうか。類は友を呼ぶ... という言うが、本を選ぶのにも似たところがある。心を打つ言葉に出会った時、既にその言葉を受け入れる度量が具わっていたことを意味する。もし、心の準備が整っていなければ、偉大な芸術を目の前にしても何も感じることはなく、この作者はいったい何がいいたいのか?などと最低な感想をもらすのがオチだ。寂しがり屋は、そこに共感めいたものを期待し、本を漁っては立ち読みを繰り返す...
「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがある。」

思索の段階では、言葉を探そうとする行為がある。もやもやした思考の中から具体的な言葉を発見した瞬間、思考から真剣さが失せ信仰の段階へ。多読に費やす勤勉な人ほど次第に自分でものを考える力を失っていく。これが、大多数の学者の実状だと指摘している。
思索は主観性の領域にとどまり、知識を獲得すると客観性の領域へと引き出される。思考中は、衝動的なつながりと気分的なつながりを感じながら悶え苦しむことになるが、それでもある種の快感を得ることはできよう。ドMなら尚更だ。それは、酔いどれ天の邪鬼が最も崇拝している「崇高な気まぐれ」を実践している状態とでもしておこうか。
そして、ショウペンハウエルの読書に対する態度を、勝手にこう解釈するのであった... 自己知識に対して常に、カント的な批判的態度とヘーゲル的な懐疑的態度を見失いわないこと。そして、最も純粋な哲学、すなわち思索の最も基本的な態度は、自問であるということ... と。ちなみに、ショウペンハウエル自身は、ヘーゲル学派を毛嫌いしているようだけど...
「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。」

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