2017-10-15

"カルダーノ自伝 ルネサンス万能人の生涯" Gerolamo Cardano 著

自伝の類いでは、聖アウグスティヌスの「告白」、マルクス・アウレリウスの「自省録」、チェッリーニの「自伝」、ルソーの「告白」などに触れてきた。人生の終わりが見えてくれば、生きてきた証のようなものを残したいと考える。それは、遺言書の類いか...
しかしながら、なかなか勇気のいることでもある。どんな醜態にも弁解がつきまとい、美化、正当化の誘惑を免れない。たとえ偉人であっても。自伝を書く前で、誠実であれ!などと命ずる者はいない。いるとしたら自分自身だ。正直に書いたとしても、下手をすれば単なる暴露本になりかねない。書くほどのものなのかと問えば、それほどの人生を送ってきたのかと問わずにはいられない。実際、彼らはこれを問い続け、ジェロラーモ・カルダーノ自身もまたアウレリウスに触発されて書くといった旨を語っている...
尚、清瀬卓、澤井繁男訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

自伝を書く理由とは、なんであろう。自伝を書かずにはいられない心境とは、いかなるものであろう。そして、自伝を書く資格とは。ある作家は言った... それは、五十を過ぎてからにしなよ... と。人類の叡智という衝動が、そうさせるのか。魂が不滅だとしても、どのように不滅なのかは知らないし、それがどれほど大事な目論見なのかも知らない。ただ、読者は知っている。名誉というものが、いかに災いをもたらすかを。虚栄心とは、いわば人間の性癖の一つで、名誉欲と表裏一体。人から良く思われたいということは、人目を気にしながら生きているということ。これが、自伝を書く理由の一つでもある。もはや、ある種の依存症!あらゆる依存症は自立や自律を拒み、何よりも自由を犠牲にする。
とはいえ、生き甲斐を見つけるということは、依存できる何かを求めているということ。なによりも万人の夢みる幸福ってやつが、何かに依存している状態なのだ。人間にとって不幸のタネは二つあるという。一つは、万事は果敢なく空虚なものであるにもかかわらず、人間が手固く充実したものを追い求めようとすること。二つは、人間が知りもしないことを知っていると思い込むこと。あるいは、そうした振りをすること。
さらに、ものの考え方を変える要因は三つあるという。年齢と幸運と結婚がそれだ。なるほど、わざわざ自伝を書かずとも、人生に言い訳を求めてさまようことに変わりはなさそうだ...

1. カルダーノの業績
当時、カルダーノは医者として名声を博し、数学者、哲学者、占星術などに秀でた百科全書的な奇人。本書には賭博師ぶりが目につく。ダ・ヴィンチを友人にもつ父は法律家でありながら、数学など多くの学問に通じていたという。彼を万能人とさせたのは、父の影響が大きいようだ。ただ、カルダーノは父の研究主題について、気移りが激しいと指摘している。
カルダーノの方はというと、本業ではミラノ医師会から入会を拒否されたそうな。貧乏人が社会的地位を得るための最良の道だが、私生児という理由で拒否されたんだとか。処女作で医師たちの慣習や処方を批判し、多くの敵をつくったようである。異端の嫌疑をかけられたのも、キリストを星占いしたことに起因するらしい。結局才能が勝り、後に医師会会長になったものの。
しかしながら、カルダーノを有名にさせたのは、本業よりも数学の方であろう。まず、三次方程式の解の公式をめぐっての論争が挙げられる。この公式はニコロ・フォンタナ・タルターリアが長らく秘蔵していたが、カルダーノが公表しないと誓いを立てたので教えた。だが、カルダーノは自著でこれを公表したために、タルターリアとの間で論争となる。また、四次方程式の解を導いたのは、カルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリであった。
尚、三次方程式と四次方程式の代数的解法は、偉大なる技法を意味する「アルス・マグナ」に掲載され、タルターリアの名前もきちんと記載されているとか。この書は、虚数の概念を登場させた最初の書としても知られる。デカルトが初めて虚数という用語を持ち出したとされるが、概念そのものは既にカルダーノが記述していたのである。実数と虚数の組み合わせで表される複素数の概念は、電子工学においても物理量演算で絶対に欠かせず、ずっと悩まされてきたが、いまや数値演算言語やスクリプト言語でも扱えるようになり、ちょっぴり幸せを享受している。
しかしながら、数学史においては、初めて確率論を書したことの方が評価が高い。ベキ法則や事象概念などを初めて論じたのだから、いや、イカサマ論を記述したのだから、ギャンブラー理論の先駆者と言うべき存在なのだ。尤も当時は、確率論を数学の一分野に受け入れられていなかったようである。どうやら賭け事にのめり込みやすいタイプか。尤も賭け事が好きなのではなく、引きずり込まれたと言い訳めいたことを語っているけど...

2. 苦難の宿命から天啓へ
自伝を書くなら、やはり苦難や不幸事がなければ締まらない。時代は、神聖ローマ皇帝カール5世とフランス国王フランソワ1世のイタリア支配権を巡る戦乱のさなか。おまけに、宗教改革やら、対抗宗教改革やら、異端の嵐が荒れ狂う。この時代に多くの万能人を輩出したのは偶然ではあるまい。それは、夢や幻への逃避なんぞではなく、真理を渇望した結果であろう。
カルダーノは、自身の呪われた宿命を語る。まず、母は中絶を試みて失敗したという。そして、黒死病が流行り、母はミラノからパヴィアへ移ってカルダーノを産んだと。金星と水星が太陽の下に位置し、奇形児の生まれやすい位置関係で生を授かったと。彼の不幸ぶりを列挙すると、先天的な病に後天的な病、長男の無残な死、不肖の次男、娘の不妊、そのうえ性的不能に加えて絶えざる困窮、さらに誹謗中傷や名誉毀損の奸策を被り、ひっきりなしの訴訟事件、おまけに投獄体験ときた。
カルダーノは逆境を生き抜くための術に、「天啓」という言葉を持ち出す。あらゆる学問への興味は閃きと守護霊の恩恵であり、天啓を完全なものにしようという努力であったと。好きな事とやりたい事を分けるものが、これだ。好きな事は、少々の苦難があると挫折してしまうが、本当にやりたい事は、苦難をもろともしないばかりか、底知れぬ力に変えてしまう。天才には、何か途轍もないものが取り憑くようである...
「自分の境遇を嘆く権利などない。アリストテレスの言葉を信じるならば、重大な事実について確実でしかも稀な知識を豊富に持っていることからすれば、わたしはほかの人々よりずっと恵まれていると自認している。」

3. 万能人に欠けるもの
この万能人にして、欠けているものが多すぎると告白してやがる。自分の内気な性格や気難しい両親を嘆き、友人や頼みとする家族を欠いたうえに、記憶力や身のこなしが欠落していたと。あまりにも卑屈すぎはしないか。いや、その反骨精神が万能人たる所以なのか。凡人は欠けているものを隠そうとするものだけど。
カルダーノに取り憑いた守護霊だって、理性を欠いた獣の霊と化すこともあれば、欺瞞に動かされることもある。霊魂ってやつは公然と警告してはくれない。自問している自分が答えるだけだ。
そして、社会を嘆き、人間を嫌い、自己嫌悪に陥り、反社会分子的な性格を覗かせる。この万能人には、占星術師らしい中世の神秘主義者と、その中世の価値観を否定するルネサンス人が共存するかのようである。
さらに、ラテン語の習得が遅れていたことを嘆く。この時代の文献といえば、ニュートンのプリンキピアを思わせるような整然としたラテン語で書くのが慣例であるが、自伝の原書は、俗語とも古典ラテン語ともつかぬラテン語で残されるそうで、中世ラテン語と呼ばれるとか。カルダーノは、あえて俗語的なラテン語で世に問おうとしたのだろうか...
「さて、読者諸君へのお願いが一つある。この書物をざっと飛ばし読みして、その目的が人間の束の間の栄光であると考えてもらっては困る。かえって、われわれの惨めで難儀な一生をすっぽり覆っている重苦しい暗闇を、広大な地上と天体とに比較してほしい。そうすれば、わたしが物語っていることがいくら奇跡めいているとはいっても、信じがたいことは何も含んでいないとたやすくわかってもらえるはずだ。」

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