2017-10-08

"意志と表象としての世界(全三冊)" Arthur Schopenhauer 著

アルトゥル・ショーペンハウアーの随筆をいくつか拾い読み、ようやく彼の大作に挑む下地ができたであろうか。実は、この大作を避けに避け、お茶を濁そうと目論んできたが、気まぐれには勝てそうにない。随筆のような形式を好むのは、本音を覗かせるところにあり、なにより著者の愚痴が聞こえてきそうなところにあるのだが、哲学書として構えられると、学識張っていてどうも近寄りがたい。プラトンの対話篇は学生時代から馴染んできたが、アリストテレスの学術書となると、手に取るまでにかなりの時間を要した。カントの三大批判書にしても、ゲーテをはじめとする文芸家や科学者たちの書で引用されているのを見かけるうちに衝動にかられ、ダンテの大叙事詩に出会えたのも、ルネサンス期を生きた美術家たちの言葉によって導かれた。
そして、ショーペンハウアーはというと、西欧ペシミズムの源流とも評され、ニーチェや森鴎外などの文芸書に、はたまた、シュレーディンガーやアインシュタインなどの科学書にも、その名を見かける。
ただ当時は、厭世主義、非合理主義、反動主義などとレッテルを貼られ、フェミニストからは女性の敵と叩かれ、有識者からは頽廃の哲学と非難されたようである。産業革命にはじまった合理的な生産社会は、明るい未来を想像させ、楽観主義を旺盛にさせたが、同時に、人間中心的な享楽主義によって自然への配慮を忘れさせてきた。ショーペンハウアーは、人類の浪費癖と、人間社会が自然物から乖離していく様を嘆いているが、そうした風潮は、21世紀の今日に受け継がれ、現代悲観主義を先取りしていたようにも映る。
俗世間では、楽観主義を、明るい... 積極的... などの形容詞と結びつけて肯定的に捉え、悲観主義を、暗い... 消極的... などの形容詞と結びつけて否定的に捉える風潮がある。ショーペンハウアーは、これに逆らうかのように積極的な悲観論を受け入れ、自己否定論にも臆することはない。むしろ現実を直視する立場にあり、見方をちょいと変えるだけで楽観主義と悲観主義が逆さまにもなる。狂気した社会に対抗するには、世間から狂人と呼ばれる立場に自ら身を置いてみることだ!と言わんばかりに。楽観論の渦巻く暴走社会において、唯一歯止めを利かすことができるとすれば、それは悲観論にほかなるまい。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... とはこの道か。ショーペンハウアーは、あえて世間の敵役を演じているのやもしれん...
尚、西尾幹二訳版(中公クラシックス)を手に取る。

ショーペンハウアーという人物は、自由ハンザ都市ダンツィヒの生まれだけあって自由を信条とし、何ものにも屈しない激しい気性の持ち主だったようである。ちょうどフランス革命の時期に生まれ、政治、経済、文化、宗教などあらゆる既成価値が崩壊していく時代。革命が急進化すれば、政敵は次々と断頭台へ送られ、恐怖政治と化す。民衆は革命派にも、保守派にも希望が持てず、もはや旧体制に戻ることすらできない。ショーペンハウアーの気性は、こうした時代を反映しているかのようである。特に、自由人は集団的性向を嫌うところがある。だからこそ、自己を徹底的に追求することができたとも言えそうか。近代的市民の自立性を体現しているような...
人生ってやつは、苦悩と退屈の二部構成の人間悲劇、いや人間喜劇。苦悩がなければ、人生は怖ろしく退屈なものとなり、暇が過ぎれば、ろくなことを考えない。主観と客観の葛藤も、あらゆる論争も、暇つぶしにはもってこい。ドグマに没頭するのは暇な理性のやることだ。人間ってやつは奇妙な存在である。役に立つとか、立たないとか、そんなことにこだわらないと生きられないのか?生きているだけで幸せとは思えないものなのか?... などと問わずにはいられないのも、これまた人間の悲しい性。意識が完全になるほど苦悩も露わになる。知識を高め、認識が明晰に達するほど苦悩も増す。芸術家が苦悩に悶えた挙句に自ら抹殺にかかるのも、天才であるがゆえの結末か。命の存続を望むのは、生への愛着だけではあるまい。死を忌み嫌うのは、恐怖からだけではあるまい。悲観主義を講じて虚無主義に進めば、いや皮肉主義に陥れば、酔いどれ天の邪鬼の共感をますます誘う...
「すべての幸福は本性のうえから消極的にすぎず、積極的なものではない。だからこそ永つづきする満足や幸せというものはあり得ず、いつもただ苦痛や欠乏から脱出し得たという思いがあるだけであって、その後に必ずつづいて起こるのは新しい苦痛か、さもなえればもの憂さ、空しい憧れ、そして退屈ですらある。」

ところで、認識論の不完全性は科学的にも暗示されている。それは、不確定性原理の哲学的な解釈をめぐってのものだ。物理現象を観測するということは、純粋な物理系に観測系が加わってはじめて成り立つ、との主張は観察者効果と呼ばれ、不確定性原理とは一線を画すものの、人間がある存在を純粋のまま認識することは不可能だと言っている。精神がニュートン力学に幽閉されていれば、尚更だ。感覚器官で知覚することはできても、真の姿を知ることはできない。だから、耳鳴りがしたり、錯覚を見たり、霊感を感じたり、ついにゲシュタルト崩壊を起こす。時間にしても、空間にしても、相対的に認識することができるだけで、それは意識の産物でしかないのではないか、と疑いたくもなる。人間認識が介在した時点で純粋な現象ではありえないとすれば、プラトンの唱えるイデアを認識することも叶うまいし、それが無機的な存在か、有機的な存在かも分かろうはずがない。
そして、人間とは何であるか?精神とは何であるか?と根源的な存在を客観的に捉えようとしても、矛盾に辿りつくのが関の山。この矛盾こそが、哲学する者にとっての真理となり、心地よい矛盾となるのであろう。
対して、この酔いどれ天の邪鬼ときたら誤謬の奴隷であり続け、永遠に真理など見えてきそうにない。だから、幸せでいられるのだろう。ジョージ・バークリーはこう言ったという、「考える人は少ない。しかし誰もが意見をもとうとする」と...
迷いを断ち切るだけで、悩みの多くを削ることはできよう。謙虚とは、誇り高く過信しないことであり、それは断じて卑屈ではない。もし悔いなき生涯を送るとすれば、凡人には忘却の道しか残ってなさそうだ。悲しみを背負った者でなければ、魂に平和が訪れぬとすれば、悟りは悲観論の側にあるのやもしれん...

「世界そのものの声をもっとも忠実に復唱し、いわば世界の口述するところをそのまま写しとった哲学のみが真の哲学である。それはまた、世界の模写と反射にほかならず、なにか自分自身のものをつけ加えたりせずに、ただひたすら繰り返しと反響をなすだけのものである。」
... フランシス・ベーコン「学問の発達」より

1. ショーペンハウアー vs. ヘーゲル
ショーペンハウアーは、ヘーゲルと対立したことでも知られる。当時の書評にも、犬猿の仲のように描かれたそうな。世間ってやつは、対立構図を大袈裟に煽るのが好きなものだけど。ヘーゲルの方はというと、哲学界に確固たる地位を築きつつあり、まだ若造であったショーペンハウアーを意識した形跡はないらしい。そして二人の死後、ヘーゲル学派とショーペンハウアー学派の論争が激しさを増す。本書では、ヘーゲル学派への毛嫌い振りを、序文のカント批判に対する反論に垣間見ることができる。
「他人の叙述からカントの哲学を知ることができると思いこんでいるような人は、救いようのない謬見にとらわれている... ごく最近の数年において、ヘーゲル主義者によるカント哲学の解説の著書がわたしの目の前に現われたが、これはまことに他愛のない作り話に終わっている。」
両派の衝突は、どうやらカントの解釈をめぐってのものらしい。カントは、ア・プリオリという直観概念を持ち出して主観の偉大さを語った。それは、ユークリッド原論で唱えられた公理や公準の位置づけのように、これ以上証明のしようのない命題がこの世には存在するのだという純粋直観に通ずるものがある。
対して、ヘーゲルは、思弁的な立場から客観を重要視した。だからといって主観を完全否定したわけではないし、人間の論理的思考が永遠に矛盾と対峙する運命にありながらも、弁証法が輝きを失うことはあるまい。
ショーペンハウアーにしても、ヘーゲル式弁証法を真っ向から否定しているわけではあるまい。実際、本書では主観と客観の調和めいたものを唱え、彼の随筆集を読んでも思弁的な態度と相性が悪いようには映らない。
となると、同時代を生きたから、ライバル意識を燃やしたのだろうか。同じベルリン大学に在籍したことが、余計にそうさせたのだろうか。時間といい、空間といい、二人は近すぎたのやもしれん。カントぐらい少し離れた時代を生きれば、素直になれたのかも。
あるいは、カント哲学を信条とするだけに、ちょうど動揺を誘う的を射てしまったのか。人間なら誰しも、指摘されるとつい感情的になってしまう事柄を、一つや二つ抱えている。エピクロスは言っている、「人間の心を乱すのは事物ではなく、事物についての意見である」と...
主観と客観は表裏一体、争えば大きな災いとなり、協調すれば大きな力となる。尚、この酔いどれ天の邪鬼は... 哲学する者の資格は、啓発された利己心と健全な懐疑心に支えられていると信じており、前者がカント風の直観概念と、後者がヘーゲル風の弁証法的思考とすこぶる相性がいい... と考えている。
「理性によって正しく認識されたものが真理であり、悟性によって正しく認識されたものが実在である。真理はすなわち、十分な根拠をそなえた抽象的な判断のことである。実在はすなわち、直接的な客観における結果からその原因への正しい移行のことである。」

2. 意志と表象
人間の定義となると、すこぶる難しい。それだけに偉人たちは多くの名言を残してきた。デカルトは、「思惟する存在」とした。ショーペンハウアーは、「意志こそ第一のもの」としている。そして、意志と表象は表裏一体であると...
「表象」という用語は、なかなか手強い。単なる現象ということもできるわけで、自由意志ってやつは崇めるほどのものなのか。哲学では、こうした精神現象を形而上学の名の下で語り、物質的な存在を形而下と呼んで差別する。原子論に照らせば、どちらも単なる物理現象にしか見えてこないのだけど...
また、「意志は完全に自由である」としている。いっさいの目標がないということ、いっさいの限界がないということ、これが意志の本質であると。意志は、終わることを知らない努力というわけである。そして、意志の段階ではまったく認識を欠いていて、盲目的で、抑制不可能な衝動に過ぎないという。
「後悔はけっして意志の変化から生じるのではなく、認識の変化から生じる。」
意志は、けして変化するような代物ではないというのだ。純粋な衝動は無限をまったく恐れず、意志は普遍的であり続け、だから、ひたすら邁進することができるのか。プラトンのイデアとは、そのようなものを言うのかもしれない。そして、意志の継承が人類の叡智と呼ばれるのであろう。
さらに、意志が知識を得て認識に変化した時、不自由を感じるという。となれば、不自由を感じて行動が変化するのも、やはり意志なのでは?福音などというものは認識だけが残った状態で、意志が消えてなくなってしまった状態にほかならない。自己に命じることのできるのは、福音でもなければ、プラトンでも、カントでも、ましてやメフィストフェレスでもない。自分自身だ。そして、意志の命ずるままに、死を恐怖して生きるか、死を覚悟して生きるか、それが生き様というもの。生死を超越した「意志と表象」の思想は、ニーチェの永劫回帰を想わせる。だから、この酔いどれ天の邪鬼は、自らの意志である衝動を「崇高な気まぐれ」と呼んでいる...
「意志はつねに努力して止まない。努力こそ意志の唯一の本質であるからだ。目標に到達しても努力に終止符が打たれることはない。努力はしたがって最終的な満足を覚えることはできず、ただ阻止されることによって止まり得るだけで、そのままにしておけば限りなく進んでいく。」

3. 正義 vs. 良心
人間社会における規定おいて正義や道徳なんてものがあるが、これに良心とやらがなんとなく加わって独特な規定を構成してやがる。人間の自然状態に近いのは、正義よりもはるかに良心の方であろう。しかしながら、現実社会では良心よりもはるかに正義の方が力を持つ。だから、扇動者は正義という言葉を巧みに利用する。良心が優っていれば、けして言葉で欺瞞しようなどとは考えないはずだが...
不正を被りたくないという自己の意志が、他人に対する不正を抑制するところがある。あいつは死んでもいい!などといじめ抜くとしたら、自分が殺されたって文句は言えないってことだ。したがって、目には目を歯には歯を!という信条が法典となるのも、伝統的に不正の程度に対して罰則が規定されるのも、社会合理性が含まれている。
「誰も不正を行おうとはしない、ということが個人の場合における正義のあり方であると思うが、誰も不正をこうむりたくないので、そのために適切な手段が完全に講じられている、ということが国家の場合における正義のあり方である。」
法の執行は、復讐代行業として機能しているところが多分にある。だから、優秀な法律家を金で囲おうとする。本当に法が平等ならば、そんな手の込んだことをやる必要はないし、そもそも法律家の腕で決定されるものではないはず。
自然状態における人間本来の所有権というものは、おそらく存在するのだろう。だが現実に、本当に所有権なるものが存在するかも疑わしい。復讐業の類いが映画やドラマの題材とされ、大盛況となるのは、大衆がそう認識しているからであろう。実際、民主主義社会で求められるのは強力な指導者であって、それは言い換えれば、健全な、いや健全そうに見える独裁者であって、すでに民主主義と矛盾している。理性は、辛うじて良心が砦となり、その砦を正義がことごとく破壊していく。そして救世主は、正義、同情、聖者、裏稼業の順に出現する...
「国家は、人間のエゴイズム一般ないしエゴイズムそのものとは逆の方向を向いているものではなく、それどころか国家は、万人のエゴイズムに端を発している。」

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