2017-10-22

"学問の進歩" Francis Bacon 著

"scientia est potentia (知識は力なり)" との格言を残したフランシス・ベーコン。彼は人類に奉仕するために生まれてきたと信じていたようで、ルネサンス人によく見られる傾向である。万能人という特質が、そのような使命を駆り立てるのか。そして、知識の発見や知識を生かす技術に着目して学問の尊厳と価値を説き、さらには、学問の進歩のために何がなされ、また何が欠けているかを論じる。学問と知識の喜びを語り、まがいものの快楽とは違うと...
学問には、主観的で感情的な精神に、冷静な目を向けさせる役割がある。冷静さとは、ちょいと客観性を混ぜ合わること。主観をほんの少し遠慮がちにさせることができれば、自己から粗野と野蛮を取り払うことができよう。古来、哲学者たちが語ってきた... 謙遜は悪徳を知ってからでなければ身につかない... というのは本当かもれない。
「疑いもなく、学芸の忠実な履修は、品性を柔和にし、たけだけしさをなくさせる」
... オウィディウス「黒海のほとりから」

徳を知っていても、徳を身につける手段と、これを用いる方法を知らなければ、ものの役には立たない。学問が導くものはこれか。したがって、学問は、経験的で帰納法的なプロセスをとり、試行錯誤の上で省察となるであろう。
客観性へと導く論理学には、根本的な思考原理に三段論法ってやつがある。こいつは人間精神と非常に相性がよく、大前提、小前提、そして結論へと導くやり方が妙に説得力を与える。それゆえ、古くから熱病のごとく研究されてきた。おそらく論理学の王道は演繹法であろう。人間の能力だけで世界を完全に説明できるならば、演繹法だけで済むはずだ。
しかしながら、現実世界を説明するならば、帰納法に頼らざるをえない。ベーコンの学問の立場は、まさに観察や実験を重んじる帰納法的考察にある。彼は、理論傾向の強かった哲学を、実践傾向へと向かわせた。散歩するがごとく自由に試行錯誤することが、学問の真髄と言わんばかりに。
ただ、このルネサンス人をもってしても、やはり真理を語ることは難しいと見える。その証拠に、学問の進歩を語る段になるとアフォリズムを展開し、過去の偉人たちの言葉に縋る。既に真理は語り尽くされていると言うのか。いや、そうするしかなかったのだろう。学問の道は、真っ直ぐすぎてはつまらない。寄り道、回り道があってこそ道となる...
アリストテレス曰く、「わずかなことしか考慮しない人びとは、容易に意見をいえるものだ。」

尚、ここで言う説明とは、存在意義や合目的を問うことであって、最も説明の難しい手強い相手が人間精神そのものである。古来、偉大な哲学者たちは、自己を説得するために弁証法なるものを用いてきた。弁証法とは、矛盾と対峙する上で有効な弁明術とでもしておこうか。人間は、人間自身の存在意義を求め、その言い訳をしながら、学問を進歩させてきたのである。
それゆえ、学識が人を傲慢にすることもしばしば。知らない相手を小馬鹿にしたり、有識者たちの議論でさえ知識の応酬に執着したりと、結局は自己存在を自己優越に変えてしまう。人間が編み出した知識が永遠に完全になりえないとすれば、学べば学ぶほど謙虚になりそうなものだが、そうはならないのが人間の性。答えの見つからない命題があれば、いかようにも解釈できる。
そして、説明に困った挙句に登場させるのが、完全なる神の存在である。神とはなんであろう。万能の知識といえば、そうかもしれない。科学や数学といった客観的知識が、主観的知識を拒んで無神論者にさせ、今度は宇宙法則の偉大さという側面から、絶対的な存在を受け入れる。これを神と呼ぶ者もいるが、少なくとも既存の宗教が定義しているような存在ではない。
「浅はかな哲学の知識は人間の精神を無神論に傾かせるが、その道にもっと進めば、精神はふたたび宗教にたちかえるということも確実な真理であり、経験から得られる結論である。」

ベーコンは、学問に対する功績ある事業や行為には、三つあるという。それは、学問の行われる場所、学問をおさめる書物、そして、学問をするその人である。
古来、実に多くの学院や図書館が建てられてきた。学問の体系化ではアリストテレスの功績が大きく、その流れから学問分野は細分化され、多彩な専門科目を生んできた。
子供たちには、義務教育の名の下で一般教養が強要される。真の教養は強要からは導けないだろうが、知識が強要されるべき時期は必要であろう。ガリレオは言った... 人にものを教えることはできない。できることは、相手のなかにすでにある力を見いだすこと、その手助けである... と。
では、大人はどうだろう。自分自身で学ぼうとしなければ同じこと。鉄は熱いうちに打て!というが、大きな子供ほどタチが悪い...

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