2025-05-04

セントからロッキーへ鞍替え!いや、本家回帰か...

ショッキングな CentOS 終了宣告で CentOS Stream 9 に乗り換え、一年が過ぎた。安定感はまあまあ...
騒ぐほどのことでもなかったかなぁ... と同じ感覚で Stream 10 へアップデートすると、なんじゃこりゃ!GUI の不安定感は、Fedora 並み!?
リモートで使う分には問題なさそう。いや、怪しいかも?せっかくのマルチモニタ環境が... サーバ系とは、そういうものなのかなぁ... メジャーバージョンのアップデートがトラウマになりそう!
うん~、こんなことで愚痴ってるようでは... 

ここは思い切って、Rocky Linux 9.5 へ鞍替え!コミュニティにはお世話になってきたし...
今、Fedora から CentOS へ鞍替えした頃の感覚が蘇る。CentOS の名に不安定感は似合わない。やはり、こちらが本家か!
うん~、こんなことが精神安定剤になろうとは...

ネアンデルタール人は、時代の流れに翻弄されるばかり...
人生とは、寄り道、脇き道、回り道... いずれも奥深い道!などと自らに言い訳しながら生きる道。この道を楽しめぬようでは、まだまだ...

2025-04-27

"最適性理論" Alan Prince & Paul Smolensky 著

「最適性理論」とは、1993年、アラン・プリンスとポール・スモレンスキーによって提唱された言語学の理論だそうな。それは、「人間言語の普遍性をすべての言語に共通の制約の集合によってとらえ、言語間の差異を制約の優先順位の違いとして説明する理論」だという。
本書は、この理論の創始者による著作で、言語システムに集合論的な視点を与えてくれる。そして、もっぱら音韻論と形態論に関心を向け、人間の発する音素の配列から音節の合理性を探求し、人間言語の普遍性なるものを解き明かそうとする。
尚、深澤はるか訳板(岩波書店)を手に取る。

カントールやラッセルらによって構築された集合論は、等号 "=" の概念を抽象化してきた。伝統的な等式の定義は、両辺を同じ数学的対象とし、相互に変換可能とすることで、純粋数学の根幹である証明の原理を支えている。
一方、集合論は要素の順序を問わない。そればかりか要素自体の値を問わず、同型写像として見なすこともでき、対応関係が成立すれば、なんでもあり!
等号の概念が曖昧になっていくと、コンピュータによる証明も曖昧になっていく。もともと数学的な構造を持つコンピュータが、数学を根本的に特徴づける抽象性をどこまで許容できるか...

副題には「生成文法における制約相互作用」とあり、生成 AI にも通ずるものがある。音調やリズムをともなって依存関係を強める音素もあれば、意味や構文をともなって依存関係を強める語句もある。この依存性が、制約相互作用というものであろうか。
音空間は精神空間に大きな影響を与える。詩も、音楽も、ソノリティの在り方に発する。普遍言語なるものが存在するとしたら、そこには音律をともなうらしい。
語り手と聞き手の間に暗黙のルールのようなものがなければ、情報伝達は成立しない。情報工学で言うところのプロトコルが、それだ。自然言語の世界では、そのようなルールはどういう形で生じるのであろうか。それは、人間の DNA に組み込まれているのであろうか。母音と子音の配列に、DNA 配列を見る思い。

人間が話す言葉を、音素の順列や配列として捉えれば、数学的に関数で記述することもできる。例えば、最適性理論における文法構造を、このような形式で記述して見せる。

  (a) Gen(Ink) → {Out1, Out2, ...}
  (b) H-eval(Outi, 1 ≤ i ≤ ∞) → Outreal
  
Gen 関数は、普遍文法の固定部分で生成源を表す。ここに原子的要素と、要素間の関係性が記述される。
H-eval 関数は、要素の相対的な調和度を評価し、これら要素に優先順序をつける。
要するに、原初的な人間原則から発する要素を抽出し、これら要素間の調和性を分析することになろうか。言語の原子的な要素群を、一つの集合体、いや、一つの有機体と見なし、この群を数学的に最適化するような... 最適性理論をある種の群論とするのは、ちと大袈裟であろうか...

まず、人間の発する周波数は、口腔の物理構造に制約される。これに口の動きの自然さ、発音の流れのしやすさなどが加わり、さらに聴覚に与える音調の優しさ、親しみやすさといった感覚までも加わる。
それで、音素の組合せや順序が規定できるのかは知らんが、少なくとも、不快な音列は詩には使えない。
しかも、人間の聴覚は進化し、時代によって音の感じ方も変化していく。こうした音調、音韻、音律に、感情や意味が結びつき、文法を形成していく。あるいは逆に、文法から音律が生じることも。言語システムを論じる上での記法は、アルファベットや五十音のような文字記号よりも、本書でも多用される発音記号の方が重要なのやもしれん...

さらに、CV 理論の考察から一つの理想像を提示し、これに多様性を加味して普遍則なるものを見い出そうとする。CV 理論は、音節の周縁となる子音(C)と音節の頂点となる母音(V)という二項型に分類していく解析法で、音節の合理性を問う鍵となるようだ。
そして、子音と母音との間、あるいは、頭子音と末子音との間の規則的な現象や例外的な現象を概観していく。
ただ、どんな規則にも、例外はつきもの。音節に限らず、ある語が接辞とセットになっているパターンも多く、複合語や合成語、あるいは慣用句や格言といった形で制約されることもある。例外にも、普遍則のようなものがあるのだろうか。いや、言語現象に限らず人間が携わるあらゆる現象には、常にイレギュラーなパターンが生じる。となれば、例外こそが普遍則であろうか。これを多様性というのかは知らんが...
ちなみに、プログラミング言語には、常に例外処理がつきまとう...

2025-04-20

"生成文法" 渡辺明 著

言語学といえば、意味や構文、音声や語彙といったものの特徴や性質を探求する学問。一般的には国語や文学の類型とされるのであろう。
だが、ここでは科学する眼を要請してくる。人文科学という用語もあるが、人間が人間自身を知るには欠かせない視点。言語とは、本来そうしたものやもしれん...

人間の言語能力は計り知れない。生まれ出た赤ん坊が環境に応じて徐々に母国語を会得しく様は、生得的な能力であろうか。DNA には、そのようなプロセスが初めから組み込まれているのだろうか。カントは、時間と空間のみをア・プリオリな認識能力とした。言語能力にもそれに匹敵するような原始的なものを感じる。
しかし、そんな純真な能力も、立派な大人になると、第二言語、第三言語... と学ぶのが難しくなっていく。高収入を得るため、社会的地位を得るため、あるいは、見栄えをよくするため、などと欲望が脂ぎってくると、そうなっちまうのか...

さて、本書は言語学の研究動向を、「原理とパラメータ」のアプローチから「統語演算」のメカニズムを通して、初学者向けに物語ってくれる。そして、「生成文法」の成り行きを眺めていると、句集合が有機体のごとくうごめいて見える。生成 AI にも通ずるような...

1. 生成文法とは、なんぞや...
それは、文法的な構造理論とでもしておこうか。チョムスキーに発するこの学術的動向は、人類共通の普遍文法の解明を目標にするという。
人間の言語能力を、言語の形式的特性を扱う能力と定義し、その形式的特性を司るのか文法ってやつ。文法は、意味と音声を結びつけるシステムとして機能し、音声も、意味も、単独で形式的特性を有し、それぞれ文法の一部を成す。この両者をつなぐ中核の部分を「統合演算」と言うそうな。
統合演算は、意味解釈を与える単語の並べ方、すなわち、どうすれば文法的な表現、あるいは非文法的な表現となるかを決定するシステムとして機能するという。要するに、語彙の順列、組合せの問題か。論理演算風に... 

2. 原理とパラメータとは、なんぞや...
原理は、人類共通の言語能力を土台とした法則的なもの。パラメータは、語彙や音韻など選択できる知識や経験値といったもの。こうした視点は、コンピュータのプログラミング構造を彷彿させる。
プログラム言語の文法は、順次処理、条件分岐、反復処理でだいたい説明がつく。そこで重要となる要素は、これらの処理にひっかけるデータだ。データという概念も抽象的でなかなか手ごわいのだけど...
原理とパラメータの関係は、このようなプログラムの処理とデータの関係にも類似している。組合せに用いるパラメータは、基本的には二者択一の形をとり、パラメータが n 個あれば、可能な文法システムは 2n パターン存在することに。こうした見方は、シャノンが提示した 2 を底とする対数で記述される情報理論の定理に通ずるものがある。

3. 統語演算とは、なんぞや...
それは、主として「句構造(phrase structure)」「変形(transformation)」のメカニズムから成り立つという。
句構造は、名詞句、動詞句、形容詞句などの集合体として存在し、これをツリー構造で図式化する様は、まるでデータの階層構造。
変形は、例えば、英語の疑問文では語順を入れ替えればいいし、日本語では、文の頭から疑問を思わせたり、否定を匂わせる構造がある。例えば、「誰も返事をしなかった」という表現は、「誰も返事をした」とは言わない。それでも、「誰もが返事をした」というように、「が」が挿入されるだけで事情は変わってくる。句構造は、こうした変形を通じて、語の間に支配関係や依存関係が生じる。
さらに、名詞句の代わりに文を埋め込めば、入れ子構造となり、無限の再帰構造にもできる。ネストが深くなれば、人間にとって分かりにくく複雑な文となるが、人工知能が理解する分には問題あるまい。

4. C-Command 条件とは、なんぞや...
一般的には、文の構造上の関係を「C-Command 条件」というもので定義できるという。その事例を、否定極性表現の認可条件といった形で紹介してくれる。データベースのスキーマ風に。
C-Command 条件は、代名詞が何を指しているかといった場合に効力を発揮するという。例えば、「太郎は自分自身を責めた」というような再帰代名詞で。
また、ツリー構造の中に、名詞、動詞、形容詞、前置詞などをひっくるめて横棒で図式化する事例を紹介してくれる。こうした句構造の一般化を「Xバー理論」というそうな...

2025-04-13

"音声科学原論" 藤村靖 著

言語学には、言語の主な形は音声で、テキストは副次的な現象とする見方があるらしい。だが、過去は言い伝えだけでなく、記述で多くが語られてきた。歴史は、記述で刻まれてこそ碑文となる。
一方で、アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。ポリス的とは、単に社会的という意味だけでなく、互いに善く生きるための共同体といった意味を含む。共同体を成すには、コミュニケーションとしての話し手と聞き手の関係が自然に営まれる。音声を介して...

記述と音声は、対照的な物理現象を成す。記述は言語記号の配列として離散的に存在し、音声は音波現象として連続的に存在する。とはいえ、その境界は微妙。記述は、発声をともなってリズムを奏で、楽譜のような役割を担うことも。
さらに音声は、口と喉の物理構造に依存し、唇や舌の調音運動を通して、声道という管楽器を演じる。双方の物理現象では、無にも意味を与える。口は災いの元と言うが、静かな物言いが説得力を発揮し、沈黙でさえも何かを語る。あのナザレの御仁が示してくれたように...
記述では、空白さえも何かを物語り、行間が読めなければ、書き手の意図も汲み取れない。多種多様な表現上のテクニックを尻目に、無にこそ無限の意味を与え、無限の解釈や無限の意図へといざなう...

さて、本書は音響工学の視点から、振幅と位相、音波の多重性と重ね合わせ、共鳴といった物理現象を通して、音声というものを物語ってくれる。
まず、発話者の心理的、生理的な性質から、音韻情報に含まれる、疑問、怒り、賞賛といった感情との結びつきに触れる。
次に、空気を動力とするアクチュエータを模した機械学的な観点から、母音と子音のスペクトル、フーリエの定理、フォルマント構造、インパルス応答、シラブル三角形といった電気工学的な見方を提示する。
音波の周波数スペクトルを追えば、フーリエ解析やフォルマント周波数といった観点が重要となる。インパルス応答は、線形システムでは有用な概念で、スピーカやデジタルフィルタの設計に欠かせない。シラブルは、自然に発音できる最小単位を言うらしい。

「音声の本質は単に静的な状態の連結という、いわゆる区分的な形で充分に捉えられるものではなく、動き、あるいは時間的変化が重要である。特に子音の性質を論ずるためには、動的な現象を充分に理解する必要がある。オェーマンは 1967 年に発表した論文で、母音の流れに乗った子音動作の局所的な擾乱という考え方を提唱して、観測された調音運動を定量的に説明することを試みた。後述の C/D モデルも、この流れを汲む考え方で、母音と子音とを基本的に別種の特性として記述するところにその特徴の一つがある。」

そして、C/D モデル(変換/分配モデル: Converter/Distributer model)という音声の実装モデルを紹介してくれる。それは、ある種の計算機モデルの様相を呈す。音声はコミュニケーション手段として大きな役割を担うが、情報理論の観点から伝達の効率性というものがある。言葉の交換を論じれば、できるだけ冗長性を省こうとする。
ただ、人間にとっての合理性には、物理的合理性と精神的合理性がある。舌、唇、口蓋、下顎をニュートン力学で論じれば、調音運動を動的な時間関数として記述できるが、音韻の波長や強度は、ストレスや高揚といった精神状態にも大きく左右される。精神の安住に配慮すれば、音声にもある程度のノイズが必要なのやもしれん。人生にも無駄ってやつが...

2025-04-06

"アブダクション" 米盛裕二 著

論理的思考の様式には、一般的に演繹法と帰納法の二つがある。
論理学者で科学哲学者のチャールズ・パースは、これに続く第三の思考法が存在することを提唱した。それが、"Abduction" ってやつだ。
邦訳では「仮説形成法」や「仮説的推論」といった語が当てられるそうだが、今では、そのまま「アブダクション」という用語が定着している。
また、パースは、しばしば "Retroduction" という用語を併用したという。邦訳すると「遡及推論」。つまり、「リトロダクション」とは、結果から原因へ遡及する推論を意味する。

こうした思考法は、記号学に基づいているらしい。記号とは何であろう。とりあえず、なんらかの意味合いを表す表現体とでもしておこうか。
人間の論理思考は、本質的に記号処理過程に発するという。それは、複雑で多様な世界を認識するためのプロセスであり、言語記号の優れた特性は、曖昧かつ不明瞭なものまでも把握でき、不明確で不確実な状況に応じて判断を下すために機能する。曖昧だからこそ思考は広がる。不明確だからこそ熟慮しようとする。

本書は、推論法を分析的推論と拡張的推論に分類し、演繹を前者に、帰納とアブダクションを後者に位置づけている。拡張性において、アブダクションを帰納より上としながら。アブダクションは、科学的発見や創造的思考において最も重要な役割を果たすという。仮説的推論法こそ、真理に近づく第一歩というわけか。かのニュートン卿は仮説を嫌ったと伝えられるが、仮説そのものを嫌ったというより、仮説を表明することを嫌ったのであろう...

「現実の人間の思考においては、諸概念の意味は類比やモデルやメタファーなどによって絶えず修正され拡張されているのであり、前提から結論にいたる合理的ステップは通常は非論証的で、つまり帰納的、仮説的、類推的思惟によって行われている。」

論理的思考の王道といえば、おそらく演繹法であろう。それは三段論法といったシンプルな手続きに見て取れる。だが、演繹的思考は問題そのものを生まない。いや、行き詰まった時に問題が生まれると言うべきか。
対して、帰納的思考は問題から始まる。それ故、より現実に沿った思考が展開できる。なにしろ現実世界は、問題だらけなのだから。しかも未解決のまま...

アブダクションは、さらに抽象度を深め、まったく無関係と思われる領域にまで視野を広げる。帰納の正当性は、自己修正的な思惟において示される。すべての思考が演繹できれば、人類の進化も覚束なかったであろう。
哲学の鬼門は、なんといっても矛盾である。これを無理やり解決して魅せるのが、弁証法ってやつだ。いや、解決した気分にさせてくれる。精神を獲得しちまった人間にとった気分は重要だ。存在意識を安定させ、自我を安泰せしめるのだから...

推論には、厳密な推論もあれば、厳密でない推論もある。論理学者は前者を相手取るが、人間精神は後者に意味を与えようとする。心理的にも、生理的にも。
そして、論理的思考は、心との調和を求めながら、矛盾との折り合いにおいて発展してきた。それは、妥協でもある。自己修正こそ進化の指針となろう...

「仮説は思想の感覚的要素を生み出す、そして帰納は思想の習慣的要素を生み出す... 帰納は規則を推論する。さて、規則の信念は習慣である。習慣がわれわれのうちに作用している規則であることは明らかである。したがって帰納は習慣形式の生理学的過程を表す論理式である... 仮説は心を統一し開放する情態的性質を生み出し、帰納は規則や習慣を形成する過程を表す。」

2025-04-01

異次元めぐり... 俺に言わせりゃ、ロマンに欠けるなぁ!

今日、四月一日、次元を巡る...
巷では、異次元... 次元が違う... といった言い回しを耳にする。甚だしくレベルが違う、あるいは、桁が違う、といった意味である。

次元とは、摩訶不思議な概念だ!
人間の認識能力は、「三次元空間 + 時間」で構成される。時間という次元が、なかなかのクセ者。この次元だけが一方向性に幽閉され、巷では「時間の矢」などと呼称される。
そして、覆水盆に返らず!、後悔、先に立たず!、さらに、喰っちまったラーメンは胃袋の中!といった格言が、いつまでも廃れずにいる。人生とは、後の祭りよ!

時間とは、まったくエントロピーな奴だ!
人間の知識は、常にエントロピーな状況にある。熱力学の第二法則は告げる。物事の乱雑さは、増大する方向にあると...
知識ってやつは、度量の範疇で身に付ける分にはすこぶる心地良い存在だが、精神次元を超えた途端に厄介な存在となる。精神次元を安定させるには、暗黙で了解することも必要だ。つまりは、気分の問題よ。幸せになりたけりゃ、分かった気になること。何事も解釈することはできても、理解することはできないと認めつつ。このことを受け入れられれば、楽になれる。

空間は次元に呪われている...
次元の増加にともない、目的を特定するのに必要な訓練量が指数関数的に増える。
例えば、最も簡潔かつ高速な学習アルゴリズムとされる最近謗法は、二次元や三次元ではうまくいっても、それ以上の次元となると、すぐに行き詰まる。高次元では、サポートベクトルマシンが重み付きの k 近傍法に見えたり...

安定次元を辿ると、キス数によって決まる次元数というものもある。同時に何人とキスできるか?尤も、球体が同時に何個くっつくことができるか、という幾何学の充填問題である。二次元であれば、真ん中の円に 6 個の円がくっついて、キス数は 6 となる。平面では正六角形の格子点で安定するわけだ。三次元になるとなかなか難しい。12 個まではくっつくが、13 個目となると微妙に摩り替わる。接する相手が安定することはエネルギー的には自由度を示すことになるが、気分的にはキスの相手が摩り替わるのも悪くない。相手が固定されると不自由でかなわんよ...

さらに、異次元を辿ると、次元大介だ!
早撃ち 0.3 秒のプロフェッショナル。その境界条件は、帽子がゾウアザラシのオス四歳の腹の皮製でなければならないこと。

「おまえの銃は俺の銃より軽く、口径が小さい。つまり、俺とおまえの弾がぶつかれば、弾道変化が少ないのは俺の方だ。おまえがどれだけ軽い銃を使おうが知ったこっちゃないが、俺に言わせりや、ロマンに欠けるなぁ!」
...「次元大介の墓標」より

おまけ!異次元の会話を...

「女に裏切られたことがあるの?」 
「裏切らない女がいたらお目にかかりたいなぁ...」 
「アメリカに何がある?」
「自由があるわ!」
「金のあるヤツにはなぁ...」
「ジャズ、ロック、ミュージカル、ディスコ、ファッション、アメリカにはなんでもあるわ!」
「それに、ギャング、セックス、麻薬、暴力、暗殺、核兵器、なんだってあるさ!」
... ルパン三世「国境は別れの顔」より

2025-03-23

"アナロジー思考" 細谷功 著

発想を生む原動力に、二つの要素があるという。一つは、多様な経験や知識を持つこと。二つは、それらを対象とするものに結びつけること...

一芸に秀でた者が、多芸でも秀でたところを見せつけることがある。他ではつぶしの利かない狭小な専門家、いわゆる専門バカになってしまう人を尻目に、どの領域でもうまくこなしてしまう。両者を分けるのが、二つの目要素「結びつける力」だという。
一つの道を極めれば、その領域での経験や知識は半端ではない。そればかりか、一つ一つを具体的な知識で終わらせず抽象化した形で血肉と為し、完結した一つの世界を作り上げる。雑学博士で終わるかどうかは、二つ目の要素にかかっているというわけか。
すべての動機は、自分自身の関心事にできるかどうか。まずは、肩の力を抜いて...

アナロジー思考とは、類推性に発する用語で、別の分野からアイデアを拝借して問題解決の糸口とするといった思考プロセスのこと。アリアドネの糸のごとく。
例えば、他業界で成功しているコンセプトがヒントとなって、新たな事業を生み出すことがある。そこに至るには、様々な視点から課題や仮説を設定し、思考を巡らすことに。それには複雑な事象に潜む本質的な構造を見抜き、それを応用する力を必要とする。経験や知識が対象から遠くにあればあるほど、その関連性に気づくことが難しくなり、より抽象化した洞察力が求められる。その距離感こそ、アナロジー思考の肝というわけか。

「アナロジー」の語源を辿れば、比例を意味するギリシア語の「アナロギア」に発する。ちなみに、アナログも同じ語源。比例というといまいちピンとこないが、線形的な対比や同一性と捉えれば、類推メカニズムにも通ずる。
アナロジー思考は、論理的な推論ではないという。つまり、演繹法でも、帰納法でもないと。
科学哲学者チャールズ・パースは、演繹、帰納に続く第三の推論法として、「アブダクション」という思考法の存在を認めたという。しかも、科学的な発見に最も役立つと。邦訳すると、仮説的推論や仮説的発想となる。

発想力を促すには、まず心に遊びが欲しい。そこで、物事を結びつける手段の一つとして、言葉遊びがある。メタファーや謎掛けも、その類い。詭弁も紙一重か。アナロジー思考に長けた人は、案外ダジャレ好きやもしれん。
実際、難問に直面した時、偉人たちが遺してくれた名言に救われる。抽象度が高い言葉だけに、格言や金言となって説得力を持つばかりか、心の支えとなる。その抽象度の根底にあるのが哲学だ。

さらに、抽象度の高い学問といえば、数学。数学は、あらゆる学問の道具となり、科学法則から経済現象や社会統計に至るまで、コンピュータプログラムのごとく記述して魅せる。精神空間も幾何学で記述し、音響空間の中で癒やされる。アナロジー思考を促すには、空間認識の抽象化と具現化、あるいは理論と実践の調和をもって...
ちなみに、数学は哲学である... とういのが、おいらの持論である。

「抽象には問題を解決する力があるが、問題を生む力はない。これに対し具象には数学そのものを生み出す力がある。具象は難問を創造し、しばしば自分で作り出した困難にぶつかって立ち往生することがあるが、それ自体がまた新たな創造の契機である。」
... 高瀬正仁「数学における抽象化とな何か」より

人間のあらゆる思考が、真似事に始まるのは本当だろう。それは、子供の行動を観察すれば分かる。親を真似、先生を真似、友達を真似、活字や映像を真似ながら物事を学んでいく。
芸術の世界では若き日に、一流の画家が名画の模写を繰り返し、一流の音楽家が名曲の楽譜をなぞり、一流の作家が名文の虜になり、やがて独自の世界を覚醒させていく。
学問の世界でも、違う分野からアイデアを拝借するといった事例は枚挙にいとまがない。カルノーサイクルが滝の水にヒントを得、原子モデルが惑星軌道から発想を得、電磁気学が流体力学との類似性から発展し...
そして、バネの挙動を表す運動方程式と電気回路の微分方程式の類似性を改めて示されると、なんとも愉快!

 m  d2
 dts 
 + c  dx 
 dt 
 + kx = F
 L  d2
 dts 
 + R  dQ 
 dt 
 +   Q 
 C 
 = E

 x: 変位 → Q: 電荷
 F: 外力 → E: 電圧
 k: バネ定数 → 1/C: コンデンサの容量
 m: 質量 → L: コイルのインダクタンス
 c: 減衰定数 → R: 抵抗

2025-03-16

"アイデンティティと言語学習" Bonny Norton 著

言語には、自己の縄張り意識が如実に顕れる。言葉が違えば、よそ者扱い。ちょいと訛りがあるだけで、ちょいと流行り言葉を知らないだけで...
言葉の嵐が荒れ狂うソーシャルメディアの世界では、みんなでごっこ!沈黙ですら言葉を発し、忖度ごっこ!
デジタル交流が、しばしば自発的な自己形成を阻み、乱雑する自己同一性の中で自我を埋没させていく。人間の意識には、ほかならぬ自分であるという確信が必要だ。言語は、その証明ツールとなり、しばしばアイデンティティを代弁する...
尚、中山亜紀子、福永淳、米本和弘訳版(明石書店)を手に取る。

「言語とは社会的な組織の実際の形態や可能な形態、そして、それらの社会的、政治的な帰着が定義され、異論が唱えられる場である。そのうえでまた、自分自身が誰なのか、私たちの主体性が構築される場でもある。」

ボニー・ノートンは、 ジェンダー、人権、階級、民族、移民、権力などで周縁化される社会において、第二言語学習の在り方を論じて魅せる。いまや世界言語に位置づけられる英語。これを第二言語として学ぶ必要に迫られるのは非英語圏の人々である。高い動機を持ち、恥や外聞を捨て、言語特性に内包される曖昧さを受け入れ、しかも、あまり不安を感じない人が、積極的に言語に触れる機会を見い出す。
だが、それだけだろうか。機会平等なんてものは、ただの標語か。人には、どうしても避けられない境遇や、逆らえない運命めいたものがある。コミュニケーションするために言語を学ぶと同時に、言語を学ぶためにコミュニケーションする。この矛盾が、人間特有の差別社会で起きており、自由であるはずの学問さえも不平等を強いられる。

言語を習得するとは、その言語圏の文化を学び、世界観を学ぶこと。外国に行けば、その国の言語が簡単に会得できるわけでもない。学習者は物事を母国語のスキーマで捉えがちで、特に日本人は英語の習得が深刻な問題となる。英語圏の人々とは価値観も、宗教も、民族的な多様性とも相い反するところがあり、思考回路も真逆なことが多い。

おもてなし!が日本人特有の文化としながら、本音ではよそ者に冷いところもある。
例えば、介護の現場では、人手不足にもかかわらず外国からの人々を拒絶。日本語が上手くできないと資格すら与えない。痴呆症の老人相手に流暢な日本語が本当に必要なのか...
訪問介護の見学ルートにもなっていた我が家は、フィリピンやマレーシアからやって来た研修生たちに救われたものだ。日本語が口から出ない時は英語なり、母国語なり、独り言でも、愚痴でも遠慮なく発してください!と、こちらも片言英語で応える。駅前留学までしておきながら、日常会話の相手がいなければ元の木阿弥。何語であろうと、介護の場では片言の言葉が笑いを誘う...

母語の発話者は、言葉が相手に聞き取りやすいように配慮する。言葉のハンディを意識して。だからといって人間性でハンディを背負っているわけではない。第二言語を学ぶことで、海外の人々と接することで、アイデンティティが再構築されていく...

「言語はコミュニケーションの一形態、もしくは、ルール、語彙、意味からなるシステム以上のものである。言語は、人々が、他者との対話や関係の中で、意味を構築し、定義し、それをめぐって闘う社会的実践の能動的媒体である。言語はより大きな構造的文脈の中に存在するため、この実践は、部分的には、個人と個人の間に存在する継続的な力関係の中に位置づけられ、形づくられる。」

言語の習得には、教師がいて、生徒がいる、といった関係を超えたシステムが必要であろう。口は災いの元というが、沈黙が隠れ蓑となることも。精神とやらを獲得した知的生命体には、なんらかの防御シールドが必要だ。
本書で紹介されるダイアリースタディの体験談はなかなか。書くことは、自己分析にも役立つ。但し、書くことは、反抗心を助長したり、服従心を植え付けたりもする。御用心!

「書くことは、発言をとらえ、捕まえて、離さないでおく一つの方法です。だから私は、会話の断片をひとつひとつ書き留めました。触りすぎて破れてしまった安い日記帳に思いを打ち明けて、私の哀しみの激しさ、発言の苦悩を表現して。それは、私が、いつも間違ったことを言ってしまったり、間違った質問をしてしまったから。私は自分の発言を本当に必要なことや私の人生で大切なことだけにとどめておくことはできなかったのです。」

言語の習得は、なにも人とのコミュニケーションのためだけではない。語彙を広げるのは自分を知るため、より的確に自己を語りたいがため。だから自己投資する。
言語学習に人間を相手にする必要はない。今では、AI が... 大昔から、人間はそうやって生きてきた。いつも代替物を追い求め、奴隷やペットがその役割を担ってきた。この寂しがり屋め!

人間ってやつは、どこかのグループに属していないと不安でしょうがない。家族、組織、共同体、国家...
なんでも繋がろうとする社会では、孤独に救われることが多い。理想的な死は、むしろ孤独死にあるのやもしれん。無縁墓の方が賑やかそうだし。孤独愛好家が増殖する社会では、孤独も一つの帰属グループとなり、独学には必要な要素やもしれん...

「多言語環境での社会的行為者は、コミュニケーション能力以上のものを作動させており、それがお互いの正確で、効果的で、適切な意思疎通を可能にしている。また、社会的行為者は、さまざまな言語コードやこれら言語コードの多様な空間的、時間的な共振を使いこなすのに、特に鋭敏な能力を発揮しているようだ。私たちはこの能力を『象徴的能力』と呼ぶ。」

2025-03-09

"美術史の基礎概念" Heinrich Wölfflin 著

「美術史の基礎概念」と題しておきながら、16 世紀の盛期ルネサンスと 17 世紀のバロックに対象が絞られる。この時代を注視すれば、近代美術の様式基盤がだいたい網羅できるというわけか...
尚、海津忠雄訳版(慶応義塾大学出版会)を手に取る。

美術の様式は個人の裁量にとどまらず、流派、地域、民族、時代など様々な角度から見て取れる。人間ってやつは、それだけ環境に影響されやすい動物だということだ。独自性や自立性を主張したところで詮無きこと。
ハインリヒ・ヴェルフリンは、美術様式の発展過程を五つの対概念で定式化して魅せる。線的から絵画的へ、平面的から深奥的へ、閉じられた形式から開かれた形式へ(構築的から非構築的へ)、多数的統一性から単一統一性へ、絶対的明瞭性から相対的明瞭性へ(無条件の明瞭性から条件付き明瞭性へ)... と。
いずれの概念も、従来様式の殻を破るかのように発展してきた様子が伺える。美術とは、まさに自由精神の体現!美術史に人間の情念遷移図を見る想い。芸術論とは、普遍的な人間学に属すのものなのであろう...

「人は常に自分が見たいように見ているのだとしても、このことはあらゆる変遷の中で一つの法則が作用している可能性を排除しない。この法則を認識することが、科学的美術史の主要問題であり根本問題である。」

人間は、刺激に貪欲である。斬新な手法に目を奪われるのは、いつの時代も同じ。芸術家は一層エゴイズムを旺盛にし、鑑賞者も負けじと新たな感動を求めてやまない。双方で高みに登っていこうというのか。いや、退屈病が苦手なだけよ。

芸術家たちは様々な手法を駆使して作品に息を吹き込む。あらゆる制約から解き放たれた瞬間、静的な芸術作品が動的な存在へ。ユークリッド空間で崇められる線や円の概念から脱皮して新たな空間感覚を刺激し... 陰影によって遠近法を際立たせたり、曲線に絶妙な歪を持たせてエキゾチックに演出したり、縁取りで存在感を強調していた主題を、境界線を曖昧にすることによって背景と同化させたり、主題の立ち位置が曖昧になれば、主役と脇役が逆転することも...
比例の概念までも歪ませれば、黄金比という数学の美へ導かれるのか。ダ・ヴィンチや北斎のように...
主題が自己主張を弱めると、逆に全体としての臨場感が増す。美術とは美の術と書くが、本物の自然物よりも、自然を模した人工物に感動しちまうとは。芸術美とは、激昂と静寂の調和のもとでなされる衝動と意企の駆け引き... とでもしておこうか。

そして、作品が雄弁に物語る術を会得すれば、もはや作者の手を離れ、作品自身が独り歩きを始める。コンピュータ工学には、マシンは意思を持ちうるか、という問い掛けがあるが、芸術作品にもそんな問い掛けが聞こえてきそうな。偉大な芸術作品とは、歴史の中で自ら独立墓碑を刻むものらしい...

「それぞれの芸術作品は一個の形成物であり、一個の有機体である。それの最も本質的な表象は、何も変更されたり、ずらされたりできず、すべてのものが在るがままでなければならない、という必然性の性質である。」

2025-03-02

"THE MASTER ALGORITHM" Pedro Domingos 著

マスターアルゴリズムとは...
それは、過去、現在、未来に渡るすべての知識を獲得できる万能学習器のこと。中でも重要なのは、未来に関する知識だ。人間の認識能力は時間の矢に幽閉されているのだから。いや、機械学習の次元では、そんなものに束縛されないのやもしれん...

かつて計算機に仕事をさせるには、まず目的に適ったアルゴリズムを書き下ろし、それを計算機に喰わせるというのが定番であった。機械学習は、これとは違う方針をとる。それは、データに基づいて計算機自身が推論し、自らアルゴリズムを編み出すことにある。さらにデータが不十分と見れば、その収集、分析までもやってのける。
万能チューリングマシンが演繹的であるのに対し、マスターアルゴリズムは極めて帰納的だ。経験値を積めば積むほど、人間の仕事はどんどん奪われていきそうな...

叙事詩人ヘシオドスは、こんなことを詠った。誠実な労働生活こそが人間のあるべき姿... と。仕事を失った人間は、どうなるのだろう。生き甲斐までも失っちまうのか。いや、仕事の定義も変わっていくだろう。究極の機械学習が編み出されれば、逆に人間が機械に問われるやもしれん。人間足るとはどういうことか?と。それで機械に説教されてりゃ、世話ない...

機械学習の根本には、ヒュームの帰納問題が内包されている。それは、「すでに見たものを汎化して、まだ見たことがないものにも適用することを常に正当化できるか。」という問いである。それが正当化されないとしても、そこに人間は答えを出す。誤っていようとも。失敗を重ねながらも。そもそも学習とは、そうしたものであろうし、現在を生きるとは、そういうことであろう。
つまり、思考アルゴリズムには、ある程度の無駄も必要ということになる。何事にも遊びがなければ、心に余裕が生まれない。機械学習に心が芽生えるかは知らんが、そうした余裕のようなものが機械学習にも必要なのやもしれん。それが、帰納法的思考の本質なのやもしれん。
合理主義か経験主義か、理想論か現実論か、はたまた演繹法か帰納法か... こうした概念の狭間で人間の思考は揺れる。そして、機械学習の思考アルゴリズムもまた...

さて、しつこい前戯はこのぐらいにして...
本書は、機械学習の学派を大まかに五つに区分する。記号主義者、コネクショニスト、進化主義者、ベイズ主義者、類推主義者と。ペドロ・ドミンゴスは、この五つの学派を統合する視点から、より強力なアルゴリズムの構築を試みる。言うなれば、いいとこ取り...
尚、神嶌敏弘訳版(講談社)を手に取る。

それぞれの学術的立場は...
「記号主義者」は、すべての知識は記号化、言語化できるという信念のもとで人間の知能をモデリングする。それは、コンピュータの構造が数学的であることを最も忠実に再現しようとする立場と言えよう。
「コネクショニスト」は、ニューラルネットワークによる神経細胞の結合の強さなどを調整して、人間の脳をモデリングする。
「進化主義者」は、学習原理を自然淘汰に求め、人間が長い年月をかけて獲得してきた経験値から認識メカニズムを構築する。
「ベイズ主義者」は、すべての関心事を不確実性に絡め、事前確率をもとに確率的推論を組み立てる。ベイスの定理は、この不確実性と事前確率の関係を記述する。
「類推主義者」は、事象間の類似性を解析し、一つの類似点を見つければ、他にも類似している点があると仮定しながら知能モデルの幅を広げていく。

それぞれの最適化アルゴリズムは...
記号主義者は、論理を信条とした逆演繹法。
コネクショニストは、ニューラルネットを基軸とする誤差逆伝搬法や勾配降下法。
進化主義者は、適合度探索による遺伝的プログラム。
ベイズ主義者は、重み付き論理式を実装した確率伝搬法やマルコフ連鎖モンテカルロ法。
類推主義者は、最近謗法やサポートベクトルマシンを用いた制約付き最適化。

こうして各学派を渡り歩いていく中で、過学習、ノーフリーランチ定理、次元の呪い、バイアス - バリアンス分解、探索と活用のジレンマといった機械学習でよく見かける問題を紹介してくれる。

「過学習」とは、特定のデータパターンをあまりに多く覚え込んでしまったために、例外や未知のデータへの応用が利かなくなり、柔軟性を失うといった現象。
「ノーフリーランチ定理」とは、学習器がどれくらいうまく予測できるかについての制限を示すもので、「いかなる学習器も、無作為な推測よりよい予測はできない」と告げる。学習アルゴリズムには必ず偏向が見られ、あらゆる問題を汎用的に解決することは理論的に不可能であると。
「次元の呪い」とは、空間次元の増加に伴い、目的を特定するのに必要な訓練量が指数関数的に増えるというもの。例えば、最も簡潔かつ高速な学習アルゴリズムとされる最近謗法は、二次元や三次元ではうまくいっても、ちょいと次元が増えるだけで行き詰まったり。高次元では、サポートベクトルマシンが重み付きの k 近傍法に見えたりと。
「バイアス - バリアンス分解」とは、それぞれ「偏り」と「分散」に当たる語で、予測結果に対する調整の指標とされる。そして、判断材料とされるデータに、どれだけノイズが含まれるかが問われる。例えば、学習器が同じ誤りを繰り返すなら、バイアス傾向にあり、より柔軟性のある方向に調整する。あるいは、誤りに一定の傾向が見られなければ、バリアンス傾向にあり、より柔軟性を抑えた方向に調整する。
「探索と活用のジレンマ」とは、探索と活用のタイミングを問う問題で、例えば、うまくいった方法を一度見つけ、それをずっと続ければ、もっとよい方法に出会う機会を失う.... あるいは、他にもっと良い方法があるはずだと躍起になるあまり、過去に出会った最適な方法を見過ごしてしまう... といったこと。

こうした機械学習が抱える問題は、そのまま人間の認識に当てはまる。知識が多すぎるために、判断を誤ったり、行動を躊躇したり。学問の専門化が進めば、逆に視野が狭くなって全体像が見えなくなったり。調査活動に夢中になるあまり肝心な行動が鈍ったり、行動を急ぐあまり調査が不十分であったり。理想の人との出会いを求めるあまり、最良の人との出会いを不意にしたり...
パターン化と柔軟性、調査と行動、専門性と汎用性といったものには、少なからずトレードオフの関係にある。そして、情報量が増えれば、ムーアの法則のごとく指数関数的に選択肢も増え、混乱も増える。

「生命を計算機と捉えて考えると、多くのことが明らかになる。計算機にとっての先天性とは、その上で実行するプログラムであり、後天性とは、計算機が取得するデータである。どちらが重要かという疑問は滑稽である。プログラムとデータの両方がなければ出力結果は得られないし、出力結果の 60% がプログラムによるもので、40% がデータによるものという類いのものでもない。これは、線形モデルに囚われた思考の一種であり、機械学習に慣れ親しめば克服できる。」

しかしながら、これら五つの学派をもってしても、共通した欠陥があるという。それは、正しい答えを教えてくれる教師が必要だということ。人間とて、先生に教わらずして学ぶことは難しい。
その証拠に、手っ取り早く学ぶためにノウハウセミナーはいつも活況で、ハウツー本はいつも大盛況ときた。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで。多忙とは、威厳をまとった怠惰に他ならない... とは誰の言葉であったか。
大量のデータにもめげず、自己分析を地道にやり、真に独学を実践するという点では、人間よりも機械学習の方が得意であろう。そして、真に自立型アルゴリズムへの道は... 一つの方程式が石碑に刻まれる。過去を振り返るな!と...

  P = ew・n / Z

左辺は、確率 P。右辺は、重みベクトル w とその個数 n の内積に指数関数を適用して、全ての積の総和 Z で割る。マルコフ過程に基づいた言語認識プログラムは、方程式を並べ立てればモデル化できそうな予感。ここには、一つの呪文が透けてくる。すべての機械学習器が自己無矛盾である必要があるのか?と...

「さあ我等が治める地を一つにせん。そなたは我が規則に重みを加えられよ。さすれば、この地の果てまでも新たな表現が満ちるであろう。... そして、我等が世継ぎは、マルコフ論理ネットワークとならん!」