産業革命によってもたらされた生産社会。これに触発されて出現した消費社会。おかげで、人々の生活は豊かになった。
だが、事の発端は古代に遡る。貨幣の発明によって生み出された交換社会。おかげで、交換の対象となるものすべてに価値が見い出され、揉め事も命の代償までも貨幣で精算されるようになった。こうした価値の合理化は、人間どもをより利便性の高い代替物へと走らせ、仮想的な価値を肥大化させていく。仮想化社会の到来である。仮想化とは、愚像化の類いか。
そもそも精神ってやつが、ふわふわした得たいの知れない存在で、同類項というわけか。そりゃ、精神に支配された知的生命体が仮想価値に群がるのも無理もない。
おまけに、人よりも所有した気分になり、優越感にも浸り、生産過剰でも、消費過剰でも、なお満たされない。それで誇大妄想を膨らませてりゃ、世話ない...
ジャン・ボードリヤールは、提言する。
人間の消費という意識が、単に物に向かうだけでなく、集団社会における能動的様式であることを。それは、文化の上に成り立つ体系的活動であり、包括的反応であることを...
尚、今村仁司、塚原史訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。
「消費はひとつの神話である。現代社会が自らについてもつ言葉、われわれの社会が自らを語る語り口、それが消費だ。」
現代社会には大量のモノと情報が氾濫し、主役を演じるは広告塔と報道屋。これを影で操る者が社会を牛耳る。影とは誰か。集団的な意志がそう仕向けているのか。つまり、意志なき意志が...
集団性が悪魔じみているのは、悪魔が実際に存在することではなく、そう信じ込ませることにある。消費社会での主な消費は、必然的な消費ではなく、ステータスとしての消費。かつて貴族階級の特権だった見栄や外聞の類いが大衆化すると、人々は流行に乗り遅れまいと強迫観念に取り憑かれる。貧困で喘いでいる人々ですらスマホなどの電子機器が必需品とされ、人とのつながりを強制された挙げ句に息苦しくなる。自由意志なんてものは、もはや幻想か...
無論ジャーナリストや広告業者ばかりを悪者にはできない。誰の言葉だったか、大衆は欺瞞することが容易なのではなく、騙されることを喜ぶ!ってのは本当らしい。お茶の間という安全地帯で、ジャーナリズムが悲壮感を煽る殺人、戦争、細菌感染などの不幸事を映画のように鑑賞する。これが人間の性(さが)か...
豊かな社会と言いながら、なにゆえ自殺が減らない。幸福であることが当たり前!いや、幸福でなければならない!そう思い込むことで自己を追い詰める。多くのモノは場違いに存在するために、その豊富さが逆に欠乏を感じさせる。消費社会の大きな代償は、消費活動そのものに蔓延する不安感ということか。これも、マルクスの言う疎外の類いか。
消費の熱狂の渦で、常に前のめりの姿勢を崩さない経済学者と理想を掲げてやまない福祉論者の狼狽ぶりは、いつの時代も教訓となろう...
「消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。モノの使用はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造させる価値ははるかに大きなものとなる。それゆえ破壊は根本的に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない。消費は自らを乗り越えて破壊に変容しようとする強い傾向をもっている。そして、この点においてこそ、消費は意味あるものとなる...」