2025-04-01

異次元めぐり... 俺に言わせりゃ、ロマンに欠けるなぁ!

今日、四月一日、次元を巡る...
巷では、異次元... 次元が違う... といった言い回しを耳にする。甚だしくレベルが違う、あるいは、桁が違う、といった意味である。

次元とは、摩訶不思議な概念だ!
人間の認識能力は、「三次元空間 + 時間」で構成される。時間という次元が、なかなかのクセ者。この次元だけが一方向性に幽閉され、巷では「時間の矢」などと呼称される。
そして、覆水盆に返らず!、後悔、先に立たず!、さらに、喰っちまったラーメンは胃袋の中!といった格言が、いつまでも廃れずにいる。人生とは、後の祭りよ!

時間とは、まったくエントロピーな奴だ!
人間の知識は、常にエントロピーな状況にある。熱力学の第二法則は告げる。物事の乱雑さは、増大する方向にあると...
知識ってやつは、度量の範疇で身に付ける分にはすこぶる心地良い存在だが、精神次元を超えた途端に厄介な存在となる。精神次元を安定させるには、暗黙で了解することも必要だ。つまりは、気分の問題よ。幸せになりたけりゃ、分かった気になること。何事も解釈することはできても、理解することはできないと認めつつ。このことを受け入れられれば、楽になれる。

空間は次元に呪われている...
次元の増加にともない、目的を特定するのに必要な訓練量が指数関数的に増える。
例えば、最も簡潔かつ高速な学習アルゴリズムとされる最近謗法は、二次元や三次元ではうまくいっても、それ以上の次元となると、すぐに行き詰まる。高次元では、サポートベクトルマシンが重み付きの k 近傍法に見えたり...

安定次元を辿ると、キス数によって決まる次元数というものもある。同時に何人とキスできるか?尤も、球体が同時に何個くっつくことができるか、という幾何学の充填問題である。二次元であれば、真ん中の円に 6 個の円がくっついて、キス数は 6 となる。平面では正六角形の格子点で安定するわけだ。三次元になるとなかなか難しい。12 個まではくっつくが、13 個目となると微妙に摩り替わる。接する相手が安定することはエネルギー的には自由度を示すことになるが、気分的にはキスの相手が摩り替わるのも悪くない。相手が固定されると不自由でかなわんよ...

さらに、異次元を辿ると、次元大介だ!
早撃ち 0.3 秒のプロフェッショナル。その境界条件は、帽子がゾウアザラシのオス四歳の腹の皮製でなければならないこと。

「おまえの銃は俺の銃より軽く、口径が小さい。つまり、俺とおまえの弾がぶつかれば、弾道変化が少ないのは俺の方だ。おまえがどれだけ軽い銃を使おうが知ったこっちゃないが、俺に言わせりや、ロマンに欠けるなぁ!」
...「次元大介の墓標」より

おまけ!異次元の会話を...

「女に裏切られたことがあるの?」 
「裏切らない女がいたらお目にかかりたいなぁ...」 
「アメリカに何がある?」
「自由があるわ!」
「金のあるヤツにはなぁ...」
「ジャズ、ロック、ミュージカル、ディスコ、ファッション、アメリカにはなんでもあるわ!」
「それに、ギャング、セックス、麻薬、暴力、暗殺、核兵器、なんだってあるさ!」
... ルパン三世「国境は別れの顔」より

2025-03-23

"アナロジー思考" 細谷功 著

発想を生む原動力に、二つの要素があるという。一つは、多様な経験や知識を持つこと。二つは、それらを対象とするものに結びつけること...

一芸に秀でた者が、多芸でも秀でたところを見せつけることがある。他ではつぶしの利かない狭小な専門家、いわゆる専門バカになってしまう人を尻目に、どの領域でもうまくこなしてしまう。両者を分けるのが、二つの目要素「結びつける力」だという。
一つの道を極めれば、その領域での経験や知識は半端ではない。そればかりか、一つ一つを具体的な知識で終わらせず抽象化した形で血肉と為し、完結した一つの世界を作り上げる。雑学博士で終わるかどうかは、二つ目の要素にかかっているというわけか。
すべての動機は、自分自身の関心事にできるかどうか。まずは、肩の力を抜いて...

アナロジー思考とは、類推性に発する用語で、別の分野からアイデアを拝借して問題解決の糸口とするといった思考プロセスのこと。アリアドネの糸のごとく。
例えば、他業界で成功しているコンセプトがヒントとなって、新たな事業を生み出すことがある。そこに至るには、様々な視点から課題や仮説を設定し、思考を巡らすことに。それには複雑な事象に潜む本質的な構造を見抜き、それを応用する力を必要とする。経験や知識が対象から遠くにあればあるほど、その関連性に気づくことが難しくなり、より抽象化した洞察力が求められる。その距離感こそ、アナロジー思考の肝というわけか。

「アナロジー」の語源を辿れば、比例を意味するギリシア語の「アナロギア」に発する。ちなみに、アナログも同じ語源。比例というといまいちピンとこないが、線形的な対比や同一性と捉えれば、類推メカニズムにも通ずる。
アナロジー思考は、論理的な推論ではないという。つまり、演繹法でも、帰納法でもないと。
科学哲学者チャールズ・パースは、演繹、帰納に続く第三の推論法として、「アブダクション」という思考法の存在を認めたという。しかも、科学的な発見に最も役立つと。邦訳すると、仮説的推論や仮説的発想となる。

発想力を促すには、まず心に遊びが欲しい。そこで、物事を結びつける手段の一つとして、言葉遊びがある。メタファーや謎掛けも、その類い。詭弁も紙一重か。アナロジー思考に長けた人は、案外ダジャレ好きやもしれん。
実際、難問に直面した時、偉人たちが遺してくれた名言に救われる。抽象度が高い言葉だけに、格言や金言となって説得力を持つばかりか、心の支えとなる。その抽象度の根底にあるのが哲学だ。

さらに、抽象度の高い学問といえば、数学。数学は、あらゆる学問の道具となり、科学法則から経済現象や社会統計に至るまで、コンピュータプログラムのごとく記述して魅せる。精神空間も幾何学で記述し、音響空間の中で癒やされる。アナロジー思考を促すには、空間認識の抽象化と具現化、あるいは理論と実践の調和をもって...
ちなみに、数学は哲学である... とういのが、おいらの持論である。

「抽象には問題を解決する力があるが、問題を生む力はない。これに対し具象には数学そのものを生み出す力がある。具象は難問を創造し、しばしば自分で作り出した困難にぶつかって立ち往生することがあるが、それ自体がまた新たな創造の契機である。」
... 高瀬正仁「数学における抽象化とな何か」より

人間のあらゆる思考が、真似事に始まるのは本当だろう。それは、子供の行動を観察すれば分かる。親を真似、先生を真似、友達を真似、活字や映像を真似ながら物事を学んでいく。
芸術の世界では若き日に、一流の画家が名画の模写を繰り返し、一流の音楽家が名曲の楽譜をなぞり、一流の作家が名文の虜になり、やがて独自の世界を覚醒させていく。
学問の世界でも、違う分野からアイデアを拝借するといった事例は枚挙にいとまがない。カルノーサイクルが滝の水にヒントを得、原子モデルが惑星軌道から発想を得、電磁気学が流体力学との類似性から発展し...
そして、バネの挙動を表す運動方程式と電気回路の微分方程式の類似性を改めて示されると、なんとも愉快!

 m  d2
 dts 
 + c  dx 
 dt 
 + kx = F
 L  d2
 dts 
 + R  dQ 
 dt 
 +   Q 
 C 
 = E

 x: 変位 → Q: 電荷
 F: 外力 → E: 電圧
 k: バネ定数 → 1/C: コンデンサの容量
 m: 質量 → L: コイルのインダクタンス
 c: 減衰定数 → R: 抵抗

2025-03-16

"アイデンティティと言語学習" Bonny Norton 著

言語には、自己の縄張り意識が如実に顕れる。言葉が違えば、よそ者扱い。ちょいと訛りがあるだけで、ちょいと流行り言葉を知らないだけで...
言葉の嵐が荒れ狂うソーシャルメディアの世界では、みんなでごっこ!沈黙ですら言葉を発し、忖度ごっこ!
デジタル交流が、しばしば自発的な自己形成を阻み、乱雑する自己同一性の中で自我を埋没させていく。人間の意識には、ほかならぬ自分であるという確信が必要だ。言語は、その証明ツールとなり、しばしばアイデンティティを代弁する...
尚、中山亜紀子、福永淳、米本和弘訳版(明石書店)を手に取る。

「言語とは社会的な組織の実際の形態や可能な形態、そして、それらの社会的、政治的な帰着が定義され、異論が唱えられる場である。そのうえでまた、自分自身が誰なのか、私たちの主体性が構築される場でもある。」

ボニー・ノートンは、 ジェンダー、人権、階級、民族、移民、権力などで周縁化される社会において、第二言語学習の在り方を論じて魅せる。いまや世界言語に位置づけられる英語。これを第二言語として学ぶ必要に迫られるのは非英語圏の人々である。高い動機を持ち、恥や外聞を捨て、言語特性に内包される曖昧さを受け入れ、しかも、あまり不安を感じない人が、積極的に言語に触れる機会を見い出す。
だが、それだけだろうか。機会平等なんてものは、ただの標語か。人には、どうしても避けられない境遇や、逆らえない運命めいたものがある。コミュニケーションするために言語を学ぶと同時に、言語を学ぶためにコミュニケーションする。この矛盾が、人間特有の差別社会で起きており、自由であるはずの学問さえも不平等を強いられる。

言語を習得するとは、その言語圏の文化を学び、世界観を学ぶこと。外国に行けば、その国の言語が簡単に会得できるわけでもない。学習者は物事を母国語のスキーマで捉えがちで、特に日本人は英語の習得が深刻な問題となる。英語圏の人々とは価値観も、宗教も、民族的な多様性とも相い反するところがあり、思考回路も真逆なことが多い。

おもてなし!が日本人特有の文化としながら、本音ではよそ者に冷いところもある。
例えば、介護の現場では、人手不足にもかかわらず外国からの人々を拒絶。日本語が上手くできないと資格すら与えない。痴呆症の老人相手に流暢な日本語が本当に必要なのか...
訪問介護の見学ルートにもなっていた我が家は、フィリピンやマレーシアからやって来た研修生たちに救われたものだ。日本語が口から出ない時は英語なり、母国語なり、独り言でも、愚痴でも遠慮なく発してください!と、こちらも片言英語で応える。駅前留学までしておきながら、日常会話の相手がいなければ元の木阿弥。何語であろうと、介護の場では片言の言葉が笑いを誘う...

母語の発話者は、言葉が相手に聞き取りやすいように配慮する。言葉のハンディを意識して。だからといって人間性でハンディを背負っているわけではない。第二言語を学ぶことで、海外の人々と接することで、アイデンティティが再構築されていく...

「言語はコミュニケーションの一形態、もしくは、ルール、語彙、意味からなるシステム以上のものである。言語は、人々が、他者との対話や関係の中で、意味を構築し、定義し、それをめぐって闘う社会的実践の能動的媒体である。言語はより大きな構造的文脈の中に存在するため、この実践は、部分的には、個人と個人の間に存在する継続的な力関係の中に位置づけられ、形づくられる。」

言語の習得には、教師がいて、生徒がいる、といった関係を超えたシステムが必要であろう。口は災いの元というが、沈黙が隠れ蓑となることも。精神とやらを獲得した知的生命体には、なんらかの防御シールドが必要だ。
本書で紹介されるダイアリースタディの体験談はなかなか。書くことは、自己分析にも役立つ。但し、書くことは、反抗心を助長したり、服従心を植え付けたりもする。御用心!

「書くことは、発言をとらえ、捕まえて、離さないでおく一つの方法です。だから私は、会話の断片をひとつひとつ書き留めました。触りすぎて破れてしまった安い日記帳に思いを打ち明けて、私の哀しみの激しさ、発言の苦悩を表現して。それは、私が、いつも間違ったことを言ってしまったり、間違った質問をしてしまったから。私は自分の発言を本当に必要なことや私の人生で大切なことだけにとどめておくことはできなかったのです。」

言語の習得は、なにも人とのコミュニケーションのためだけではない。語彙を広げるのは自分を知るため、より的確に自己を語りたいがため。だから自己投資する。
言語学習に人間を相手にする必要はない。今では、AI が... 大昔から、人間はそうやって生きてきた。いつも代替物を追い求め、奴隷やペットがその役割を担ってきた。この寂しがり屋め!

人間ってやつは、どこかのグループに属していないと不安でしょうがない。家族、組織、共同体、国家...
なんでも繋がろうとする社会では、孤独に救われることが多い。理想的な死は、むしろ孤独死にあるのやもしれん。無縁墓の方が賑やかそうだし。孤独愛好家が増殖する社会では、孤独も一つの帰属グループとなり、独学には必要な要素やもしれん...

「多言語環境での社会的行為者は、コミュニケーション能力以上のものを作動させており、それがお互いの正確で、効果的で、適切な意思疎通を可能にしている。また、社会的行為者は、さまざまな言語コードやこれら言語コードの多様な空間的、時間的な共振を使いこなすのに、特に鋭敏な能力を発揮しているようだ。私たちはこの能力を『象徴的能力』と呼ぶ。」

2025-03-09

"美術史の基礎概念" Heinrich Wölfflin 著

「美術史の基礎概念」と題しておきながら、16 世紀の盛期ルネサンスと 17 世紀のバロックに対象が絞られる。この時代を注視すれば、近代美術の様式基盤がだいたい網羅できるというわけか...
尚、海津忠雄訳版(慶応義塾大学出版会)を手に取る。

美術の様式は個人の裁量にとどまらず、流派、地域、民族、時代など様々な角度から見て取れる。人間ってやつは、それだけ環境に影響されやすい動物だということだ。独自性や自立性を主張したところで詮無きこと。
ハインリヒ・ヴェルフリンは、美術様式の発展過程を五つの対概念で定式化して魅せる。線的から絵画的へ、平面的から深奥的へ、閉じられた形式から開かれた形式へ(構築的から非構築的へ)、多数的統一性から単一統一性へ、絶対的明瞭性から相対的明瞭性へ(無条件の明瞭性から条件付き明瞭性へ)... と。
いずれの概念も、従来様式の殻を破るかのように発展してきた様子が伺える。美術とは、まさに自由精神の体現!美術史に人間の情念遷移図を見る想い。芸術論とは、普遍的な人間学に属すのものなのであろう...

「人は常に自分が見たいように見ているのだとしても、このことはあらゆる変遷の中で一つの法則が作用している可能性を排除しない。この法則を認識することが、科学的美術史の主要問題であり根本問題である。」

人間は、刺激に貪欲である。斬新な手法に目を奪われるのは、いつの時代も同じ。芸術家は一層エゴイズムを旺盛にし、鑑賞者も負けじと新たな感動を求めてやまない。双方で高みに登っていこうというのか。いや、退屈病が苦手なだけよ。

芸術家たちは様々な手法を駆使して作品に息を吹き込む。あらゆる制約から解き放たれた瞬間、静的な芸術作品が動的な存在へ。ユークリッド空間で崇められる線や円の概念から脱皮して新たな空間感覚を刺激し... 陰影によって遠近法を際立たせたり、曲線に絶妙な歪を持たせてエキゾチックに演出したり、縁取りで存在感を強調していた主題を、境界線を曖昧にすることによって背景と同化させたり、主題の立ち位置が曖昧になれば、主役と脇役が逆転することも...
比例の概念までも歪ませれば、黄金比という数学の美へ導かれるのか。ダ・ヴィンチや北斎のように...
主題が自己主張を弱めると、逆に全体としての臨場感が増す。美術とは美の術と書くが、本物の自然物よりも、自然を模した人工物に感動しちまうとは。芸術美とは、激昂と静寂の調和のもとでなされる衝動と意企の駆け引き... とでもしておこうか。

そして、作品が雄弁に物語る術を会得すれば、もはや作者の手を離れ、作品自身が独り歩きを始める。コンピュータ工学には、マシンは意思を持ちうるか、という問い掛けがあるが、芸術作品にもそんな問い掛けが聞こえてきそうな。偉大な芸術作品とは、歴史の中で自ら独立墓碑を刻むものらしい...

「それぞれの芸術作品は一個の形成物であり、一個の有機体である。それの最も本質的な表象は、何も変更されたり、ずらされたりできず、すべてのものが在るがままでなければならない、という必然性の性質である。」

2025-03-02

"THE MASTER ALGORITHM" Pedro Domingos 著

マスターアルゴリズムとは...
それは、過去、現在、未来に渡るすべての知識を獲得できる万能学習器のこと。中でも重要なのは、未来に関する知識だ。人間の認識能力は時間の矢に幽閉されているのだから。いや、機械学習の次元では、そんなものに束縛されないのやもしれん...

かつて計算機に仕事をさせるには、まず目的に適ったアルゴリズムを書き下ろし、それを計算機に喰わせるというのが定番であった。機械学習は、これとは違う方針をとる。それは、データに基づいて計算機自身が推論し、自らアルゴリズムを編み出すことにある。さらにデータが不十分と見れば、その収集、分析までもやってのける。
万能チューリングマシンが演繹的であるのに対し、マスターアルゴリズムは極めて帰納的だ。経験値を積めば積むほど、人間の仕事はどんどん奪われていきそうな...

叙事詩人ヘシオドスは、こんなことを詠った。誠実な労働生活こそが人間のあるべき姿... と。仕事を失った人間は、どうなるのだろう。生き甲斐までも失っちまうのか。いや、仕事の定義も変わっていくだろう。究極の機械学習が編み出されれば、逆に人間が機械に問われるやもしれん。人間足るとはどういうことか?と。それで機械に説教されてりゃ、世話ない...

機械学習の根本には、ヒュームの帰納問題が内包されている。それは、「すでに見たものを汎化して、まだ見たことがないものにも適用することを常に正当化できるか。」という問いである。それが正当化されないとしても、そこに人間は答えを出す。誤っていようとも。失敗を重ねながらも。そもそも学習とは、そうしたものであろうし、現在を生きるとは、そういうことであろう。
つまり、思考アルゴリズムには、ある程度の無駄も必要ということになる。何事にも遊びがなければ、心に余裕が生まれない。機械学習に心が芽生えるかは知らんが、そうした余裕のようなものが機械学習にも必要なのやもしれん。それが、帰納法的思考の本質なのやもしれん。
合理主義か経験主義か、理想論か現実論か、はたまた演繹法か帰納法か... こうした概念の狭間で人間の思考は揺れる。そして、機械学習の思考アルゴリズムもまた...

さて、しつこい前戯はこのぐらいにして...
本書は、機械学習の学派を大まかに五つに区分する。記号主義者、コネクショニスト、進化主義者、ベイズ主義者、類推主義者と。ペドロ・ドミンゴスは、この五つの学派を統合する視点から、より強力なアルゴリズムの構築を試みる。言うなれば、いいとこ取り...
尚、神嶌敏弘訳版(講談社)を手に取る。

それぞれの学術的立場は...
「記号主義者」は、すべての知識は記号化、言語化できるという信念のもとで人間の知能をモデリングする。それは、コンピュータの構造が数学的であることを最も忠実に再現しようとする立場と言えよう。
「コネクショニスト」は、ニューラルネットワークによる神経細胞の結合の強さなどを調整して、人間の脳をモデリングする。
「進化主義者」は、学習原理を自然淘汰に求め、人間が長い年月をかけて獲得してきた経験値から認識メカニズムを構築する。
「ベイズ主義者」は、すべての関心事を不確実性に絡め、事前確率をもとに確率的推論を組み立てる。ベイスの定理は、この不確実性と事前確率の関係を記述する。
「類推主義者」は、事象間の類似性を解析し、一つの類似点を見つければ、他にも類似している点があると仮定しながら知能モデルの幅を広げていく。

それぞれの最適化アルゴリズムは...
記号主義者は、論理を信条とした逆演繹法。
コネクショニストは、ニューラルネットを基軸とする誤差逆伝搬法や勾配降下法。
進化主義者は、適合度探索による遺伝的プログラム。
ベイズ主義者は、重み付き論理式を実装した確率伝搬法やマルコフ連鎖モンテカルロ法。
類推主義者は、最近謗法やサポートベクトルマシンを用いた制約付き最適化。

こうして各学派を渡り歩いていく中で、過学習、ノーフリーランチ定理、次元の呪い、バイアス - バリアンス分解、探索と活用のジレンマといった機械学習でよく見かける問題を紹介してくれる。

「過学習」とは、特定のデータパターンをあまりに多く覚え込んでしまったために、例外や未知のデータへの応用が利かなくなり、柔軟性を失うといった現象。
「ノーフリーランチ定理」とは、学習器がどれくらいうまく予測できるかについての制限を示すもので、「いかなる学習器も、無作為な推測よりよい予測はできない」と告げる。学習アルゴリズムには必ず偏向が見られ、あらゆる問題を汎用的に解決することは理論的に不可能であると。
「次元の呪い」とは、空間次元の増加に伴い、目的を特定するのに必要な訓練量が指数関数的に増えるというもの。例えば、最も簡潔かつ高速な学習アルゴリズムとされる最近謗法は、二次元や三次元ではうまくいっても、ちょいと次元が増えるだけで行き詰まったり。高次元では、サポートベクトルマシンが重み付きの k 近傍法に見えたりと。
「バイアス - バリアンス分解」とは、それぞれ「偏り」と「分散」に当たる語で、予測結果に対する調整の指標とされる。そして、判断材料とされるデータに、どれだけノイズが含まれるかが問われる。例えば、学習器が同じ誤りを繰り返すなら、バイアス傾向にあり、より柔軟性のある方向に調整する。あるいは、誤りに一定の傾向が見られなければ、バリアンス傾向にあり、より柔軟性を抑えた方向に調整する。
「探索と活用のジレンマ」とは、探索と活用のタイミングを問う問題で、例えば、うまくいった方法を一度見つけ、それをずっと続ければ、もっとよい方法に出会う機会を失う.... あるいは、他にもっと良い方法があるはずだと躍起になるあまり、過去に出会った最適な方法を見過ごしてしまう... といったこと。

こうした機械学習が抱える問題は、そのまま人間の認識に当てはまる。知識が多すぎるために、判断を誤ったり、行動を躊躇したり。学問の専門化が進めば、逆に視野が狭くなって全体像が見えなくなったり。調査活動に夢中になるあまり肝心な行動が鈍ったり、行動を急ぐあまり調査が不十分であったり。理想の人との出会いを求めるあまり、最良の人との出会いを不意にしたり...
パターン化と柔軟性、調査と行動、専門性と汎用性といったものには、少なからずトレードオフの関係にある。そして、情報量が増えれば、ムーアの法則のごとく指数関数的に選択肢も増え、混乱も増える。

「生命を計算機と捉えて考えると、多くのことが明らかになる。計算機にとっての先天性とは、その上で実行するプログラムであり、後天性とは、計算機が取得するデータである。どちらが重要かという疑問は滑稽である。プログラムとデータの両方がなければ出力結果は得られないし、出力結果の 60% がプログラムによるもので、40% がデータによるものという類いのものでもない。これは、線形モデルに囚われた思考の一種であり、機械学習に慣れ親しめば克服できる。」

しかしながら、これら五つの学派をもってしても、共通した欠陥があるという。それは、正しい答えを教えてくれる教師が必要だということ。人間とて、先生に教わらずして学ぶことは難しい。
その証拠に、手っ取り早く学ぶためにノウハウセミナーはいつも活況で、ハウツー本はいつも大盛況ときた。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで。多忙とは、威厳をまとった怠惰に他ならない... とは誰の言葉であったか。
大量のデータにもめげず、自己分析を地道にやり、真に独学を実践するという点では、人間よりも機械学習の方が得意であろう。そして、真に自立型アルゴリズムへの道は... 一つの方程式が石碑に刻まれる。過去を振り返るな!と...

  P = ew・n / Z

左辺は、確率 P。右辺は、重みベクトル w とその個数 n の内積に指数関数を適用して、全ての積の総和 Z で割る。マルコフ過程に基づいた言語認識プログラムは、方程式を並べ立てればモデル化できそうな予感。ここには、一つの呪文が透けてくる。すべての機械学習器が自己無矛盾である必要があるのか?と...

「さあ我等が治める地を一つにせん。そなたは我が規則に重みを加えられよ。さすれば、この地の果てまでも新たな表現が満ちるであろう。... そして、我等が世継ぎは、マルコフ論理ネットワークとならん!」

2025-02-23

"ポスト・ヒューマン誕生" Ray Kurzweil 著

Google 社の AI 開発で陣頭に立つレイ・カーツワイル...
彼は、指数関数的に成長を続けるテクノロジーは、いずれ「シンギュラリティ」に至ると予見する。それは、人間であることの意味を拡張させ、遺伝という生物の枷を取り払い、知性が高みに登りつめることを意味するらしい。この指数関数的な進化を「収穫加速の法則」と命名。しかも、その時期は近い!と...
それは理想郷でもなければ、地獄でもない。では、信仰の問題か。いや、理解の問題だ。コンピュータ科学は、もはやコンピュータを研究する分野にとどまらない。おそらく、あらゆる学問がそうなのであろう。つまり、学問する主体自身を理解しようという。そして、人間には人間自身を理解する能力があるのか、が問われる。シンギュラリティは近い。だが、人類には、ちと早すぎる...

シンギュラリティを邦訳すると「技術的特異点」となる...
特異点といえば、数学的なアトラクターや物理学的なブラックホールを想起させる。例えば、周期的に安定状態にあるシステムが、微妙なズレやゆらぎのために周期性を徐々に失っていき、突如、ある種の不動点に嵌ってしまうことがある。そうした状態に一度でも嵌まると、抜け出すことはほぼ不可能。市場価値の歪みから生じる金融危機などは、その典型パターンと言えよう。
しかし、ここでの特異点は、ちと明るい未来を想像させてくれる。人類に明るい未来が相応しいのかは知らんが...
尚、井上健監訳、小野木明恵、野中香方子、福田実共訳版(NHK出版)を手に取る。

人工知能やロボットが人間の能力を超えると、社会のあり方が問われるようになる。そんな状況を想定することは難しくない。現実に、将棋界や囲碁界でそうした事態を目の当たりにする。
しかし、マシンが知性や理性までも人間を超越するとなれば、それはどんな社会であろう。人間足るとは、どういうことか?などと逆にマシンに問い詰められ、憂鬱感を蔓延させた社会となるか、あるいは、マシンが統治者となることを従順に受け入れ、それこそ人類が夢見てきた真の平等社会となるか。いずれにせよ、明るい未来は見通せそうにない。

だがそれは、人間とマシンが別物だと思い込んでいるからそう思うのであって、人間とマシンが融合したハイブリッド型生命体として進化していくとすれば、どうであろう。人間が自ら造り出したテクノロジーと合体する臨界点では、どんな生命体が形成されるだろうか。コンピュータが得意とする記憶量、正確さ、高速性といったものを人間が身にまとえば、最強の生命体となろう。それでも、人間性だけは見失わずにいたい。
ご都合主義の人間のことだ。サヴァン症候群のような天才的な能力のみを寄せ集め、欠点は徹底的に排除にかかる。愛などという微妙な属性を崇め、都合の良い性癖だけは手放せず。人間が思い描く合理性が宇宙の合理性に適っているかは知らんが...

「まず、われわれが道具を作り、次は道具がわれわれを作る。」
... マーシャル・マクルーハン

科学は人間の地位を蹴落としてきた。人間の棲家である地球中心説を放棄させ、人間中心説を放棄させるに至れば、知性や理性なんぞ、人間だけに与えられた特別な性質などとは言ってられまい。
人間には意思がある。少なくとも、そう思っている。マシンには意思がない。少なくとも、そう思ってきた。だが構造的には、人間も、マシンも、同じ原子の集合体。突き詰めれば、宇宙に存在する物体すべてが同じ構成要素で形成され、運動する物体のすべてはエネルギーの燃焼と放出を繰り返す熱機関として君臨する。はたして精神や魂は、人間固有のものなのか?
知的生命体の進化の過程が宇宙の進化そのものだとすると、宇宙空間に充満する原子の集合体が、一つの意思を持っていても不思議はない。カーツワイルは、進化の過程で鍵となる三つのテクノロジーを挙げている。それは、G(遺伝子工学)、N(ナノテクノロジー)、R(ロボット工学)で、GNR 革命と称す...

「シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ。」

では、シンギュラリティに達した精神は、普遍性に則したものとなろうか...
人類は技術力をムーアの法則に従って進化させてきた。それにともなって精神を進化させてきたと言えるだろうか。いまだソクラテス時代の哲学が輝きを失わずにいる。仮に、マシンの部分だけが進歩し、人間性が取り残されているとすれば、あまりにバランスを欠く。
人間は、環境への適合という意味では進化しているだろう。寿命が延びていることも、その一因と思われる。身体を自己修復機能を搭載したサイボーグで再構築すれば、寿命は限りなく延びていくだろう。
ナノボット・テクノロジーが、病原体を破壊し、DNA エラーを修復し、放射能に強い皮膚をまとい、ニューロンを超高速素子に置き換え、身体を超人的にアップグレードする。血液の酸素を運ぶ効率を大幅に改善したプログラムできる人工赤血球を注入すれば、凡人がオリンピック選手の記録を上回る能力を獲得できる。そうなると、オリンピックの存在意義が問われるであろう。

手も足もいらない。そればかりか、肺は必要か、心臓は本当に必要か。老化や死を限りなく遠ざけることができれば、生の意味を与えてきた死を正当化する必要もなくなる。おそらく人間のことだ!死の概念を遠ざけ、その意識を疎かにすれば、戦争をおっぱじめる。地球最強の生命体は、宇宙戦争を引き起こす史上最悪の生命体になるやもしれん...

宇宙に目的があるかは知らんが、生命体の目的は生存にある。それは、構造やメカニズムの最適化によって成される。はたして非生物的なメカニズムが、生命のデザインを受け継ぐであろうか。やはり、宇宙は合理的にできていそうだ。複雑になり過ぎれば崩壊させられ、原子レベルに分解されちまう。アインシュタインも言っている。「できるだけ単純に、ただし単純すぎてもいけない。」と...
そして、人間の根源とは何か?と問い直さずにはいられない。それで、精神を病んでりゃ、世話ない。まったく精神ってやつは、厄介だ。いや、すべてが合理化されれば、精神も必要なし!今、脳のリバースエンジニアリングに迫られる...

「忘れてはならないのは、未来に出現する知能は、人間の文明の表れであり続けるということだ。その人間の文明が、すでに、人間と機械が融合した文明であってもだ。言い方を変えれば、未来の機械は、もはや生物学的な人間ではなくとも、一種の人間なのだ。これは、進化の次なる段階である。次に訪れる高度なパラダイム・シフトであり、知能進化の間接的な作用なのだ。文明にある知能のほとんどは、最終的には、非生物的なものになるだろう。今世紀の末には、そうした知能は、人間の知能の数兆倍の数兆倍も強力になる。しかし、だらかといって、しばしば懸念が表明されているように、生物としての知能が終わりを告げるというわけではない。たとえ、進化の頂点から追い落とされようとも。非生物的なものの形態ですら、生命の設計を受け継ぐ。文明は人間的なものであり続けるだろう。しかも、多くの点で、今日にもまして、人間的と見なされるものをより典型的に示すようになる。ただし、人間的という言葉は、本来の生物学的な意味合いを超えて使われるようになりはするが...」

2025-02-16

"力学的な微分幾何" 大森英樹 著

本書は、物理現象を数学で捉えようとする試み。それは、教科書や解説書といったものではなく、あくまでも副読本に位置づけたものだという。音楽でいえば、楽譜のようなものだとか。楽譜は演奏者に次のイメージを開かせるための補助手段に過ぎず、演奏者は読者に過ぎず... と、いささか挑発的。
とはいえ、客観性では他を寄せ付けない数学を、人間の認識、すなわち主観性の側面から物語ってくれるところが、いかにも愉快。それだけ、毒しているとも言えるのだけど...

「数学者と物理学者と哲学者とを、凝り深さという性質で序列をつけるとすれば、哲学者が一番凝り深く、数学者がそれに次ぎ、物理学者が一番凝り深くないということになると思われる。しかし、人間は人間であるかぎり根源的に哲学するものである。誰しも小中学校の頃に 1 + 1 はなぜ 2 なのか?などという素朴な疑問にとりつかれたことがあるはずだ。」

数学者とは、自然数に内包される論理性以外は真実と認めない人たちを言うそうな。
物理学者とは、空間概念のみならず、時間、質量、力、電荷量、熱量、温度、エネルギーといった概念を疑いようのない正当なものと信じる人たちを言うそうな。
となれば、物理学者は数学者よりも現実主義者と言えそうか...

物理量は、数学的には実数、ベクトル、行列、関数といったもので記述され、単位記号が付随して物語となる。その意味で、数学の記述は無味乾燥な道具に過ぎない。しかも、具体的な記述法は、最初に考案した数学者に委ねられる。純粋な定理なのに難解な記述を強いるとは、このエゴイストめ!
いや、純粋だからこそ、人間が理解できるように記述することが難しいのやもしれん。本書には、こんな文句が散りばめられる。

「神がそれを好むからではなく、人間がそれを好むからだ!」

数学を学ぶには、直感とイメージが大切である。だが、直感がついていけくなると、奇妙な圧迫感が生じる。別の直感を磨く必要に迫られるあまり、却って直感を鈍らせることに。やはり何かを学ぶには、面白くなくっちゃ!楽しくなくっちゃ!

さて、力学と微分幾何の物語は...
まず、ユークリッド空間において曲面上に幽閉された束縛運動の考察に始まる。束縛力は、接平面に垂直に働く。その支点において、接ベクトルで記述される第一基本量と、法線ベクトルで記述される第二基本量から、曲面の曲がり具合を行列で定義し、距離的に最も効率的な測地線の運動方程式を探る。こうした考察を眺めているだけで、リーマン多様体を予感させる。

ちなみに、等距離図法の不可能性についての考察は興味深い。つまり、地球上のある領域において、二点間の距離がどこでも正確な縮尺率で地図を作ることが可能か?という問題である。その不可能性をガウスが証明したとさ...

次に、微分形式ってやつが、熱力学や電磁気学といかに相性がいいかを味わわせてくれる。熱力学の第一法則と第二法則が一次元的な運動として、一次形式や線積分での記述を容易にし、電場や磁場、あるいは電磁誘導が曲面的な運動として、二次形式や面積分での記述を容易にする。
そして、ガウスの発散定理とガウスの法則で二次微分形式との相性の良さを外観し、マクスウェル方程式が二次微分形式によって簡単な記述となる... といった流れ。
ちなみに、おいらは学生時代、ガウスの法則で赤点をとっちまった!

こうした空間概念が無限次元に拡張されると、自然に多様体の世界へと導かれる。支点を記述する微分と運動を記述する積分の関係は、次元に束縛されないとさ。
しかし問題は、微分可能性にあり、それが極めて確率的に低いことにある。方程式ってやつは、記述できりゃええってもんじゃない。微分方程式が厄介なのは、そこだ。

次元数が無限へと解き放たてると、陰関数定理ってやつが役立つ。陰関数定理は、多項式を多変数の式と見なすことができ、解析学では近似的に見ることもでき、重宝される。
そして、ニュートン力学は、ラグランジュ系で再定義され、ルジャンドル変換を通してハミルトン系へと導かれる。
ただ、ニュートン力学にしても、ラグランジュ系にしても、ハミルトン系にしても、乱暴に言えば座標系が違うだけ。それは、観測者の慣性系が違えば運動の見え方も違うと告げる相対性理論の考え方にもつなり、一般相対性理論の運動方程式がハミルトン系で記述できるのも頷ける。演算を簡単にするために力学系を変換していると見るなら、やはり人間のご都合主義か...

さらに、時間を想定した時、これも慣性系に幽閉されることになる。
では、ビッグバンのような宇宙の始まりを論じようとすれば、何か基準となる時間軸が必要になりそうだが、それで絶対時間のようなものが存在することになるのだろうか。
いや、時間のみならず、標準や常識、さらには価値観や世界観、おまけに宇宙論なんてものも、記述できるものすべてが人間のご都合主義なのやもしれん。
少なくとも人間が編み出した学問は、何らかの記述ができなければ成り立たない。それで言語体系の限界に挑んでは新たな専門用語を編み出し、その定義で悩まされてりゃ、世話ない。これは、ある種の病理学か。おそらく人間の認知能力は、言葉や記号で表せない領域が思いのほか広大なのであろう。微分不可能な領域のように...

「自然法則は、『A という原因が起これば、必ず B という結果が生じる』という形の因果関係を記述するものが多い。これを『A ならば B である』という数学の命題と同義とみるためには、どうしても時間は一次元的でかつ循環せず線形的に発展するものと約束してしまわねばならない。」

2025-02-09

腕に新相棒、その名はアテッサ!人生をシンプルに刻む...

腕の相棒では、"SKAGEN SKW6106" や "KLASSE14 Volare Vintage Gold VO18VG004M" でヴィンテージ感に浸ってきた。北欧デンマーク発に南欧イタリア風味を加えて...
新たに、国産でエレガント風味を加え、庶民のささやかな贅沢感に浸る。

モノは、"CITIZEN ATTESA BY1004-17X"
ブラックチタンシリーズとの比較で悩ましいところ。ここは、ちょいと遊び心で...
このモデルは、光の当たり具合で表情が変わるのがいい。外出時は和装が多く、本体の光沢感と黒革ベルトが着物によく合う。カタログでは製品を良く見せようと、光の当て具合などで誤魔化されたりするが、実物の方がいいケースは珍しい。写真では見栄えが伝わりにくい色彩なのかも...
価格抜きで、第一感はこのモデル。YouTube で開発者の談話も参考にしたが、やはり第一感はこのモデル。気まぐれ崇拝者にとって、第一感こそ決め手だ!


*写真右は、電球色の照明下で、夜光機能がやや働く程度に光を絞ってみた。
うん~... 微妙!


こだわった機能は、エコドライブと電波時計。電池交換や時間を合わせる行為は、シンプルな人生に合わない。
重さは、59g と軽い。厚みは、10.8mm とアテッサシリーズでは比較的薄い。腕が細いので、ゴッツいのは勘弁!
発電持続時間は、約2.5年(カタログ値)と余裕あり過ぎ。
夜光機能もいい。但し、文字盤や針に蓄光塗料が施され、光を蓄える仕掛けなので、薄暗闇生活者には期待薄かも...

クロノグラフはいらない。ネアンデルタール人には故障の原因となるイメージがあるが、近年はそうでもないらしい。どうせ、最初に遊ぶぐらいなもの...
インダイヤルに日付や曜日の表示もいらないが、自動補正なら邪魔にならない。
月齢表示機能「ルナプログラム」ってやつが搭載されているが、これも自動計算なら邪魔にならない。いや、むしろエレガント感を演出してくれる。
ダイレクトフライト機能は、なくてもいいか... と思っていたが、電波時計では必須!ダブルダイレクトフライトだと、ホームと現地の時間が瞬時に切り替えられるようで尚いいが、それは贅沢というものか...

懸念事項は、革ベルト!ヘタった時の交換は?
馴染みの時計屋さんが言うには、「ベルトは純正である必要はないし、いろんなものが試せる面白味もありますよ!」と見本を見せてくれた。これで安心!
留め具の三ツ折れプッシュタイプもなかなか...

さて、これで人生も... と行きたいところだが、持ち物がエレガントだからといって人生もエレガント!というわけにはいかんよ...

2025-02-02

"信頼性の高い推論 - 帰納と統計的学習理論" Gilbert Harman & Sanjeev Kulkarni 著

どの学問分野に分類すべきか、時折、そんな悩ましい書に出くわす。いや、分野に縛られない自由さこそ学問というものか。
本書の由来は「学習理論と認識論」と題した講義にあるという。哲学、人文学、情報工学、統計学、認知科学などの学生を対象に。著者には、哲学研究の専門家ギルバート・ハーマンと情報科学の専門家サンジェーヴ・クルカルニの名が連なる。知的活動に文系も理系もあるまいが、あまりに学際的。認識論的な思考過程として演繹法と帰納法の意味を探ることに始まり、機械学習的な思考過程としてニューラルネットワークやサポートベクターマシンを論じ、さらにトランスダクションにも触れる。そこには、確率論的な数式やベイズルールが散りばめられ、VC 次元のお出ましとくれば、とりあえず数学に分類しておこう。
ちなみに、数学は哲学である... というのが、おいらの持論である。
尚、蟹池陽一訳版(勁草書房 - ジャン・ニコ講義セレクション)を手の取る。

本書の記述が数学的な側面が強いとはいえ、やはり認識論の領域であろう。あらゆる学問が、人間の認識能力に発するのも確か。この宇宙に存在する一切の事物、あらゆる現象に、意味や意義なんてものはあるまい。おそらく。
だが、人間ってやつは、何事にも意味を与えずにはいられない。精神や魂といった概念を編み出しては、これに縋り、自分の人生に意味を与えずにはいられない。
それはきっと、認識能力を獲得したせいであろう。すべてを神のせいにして楽になれるなら、神の存在意義も絶大となる。結局、どう認識するか、どう解釈するか、ということに帰着する...

人間の認知能力が、あらゆる知識、事象、現象を分類したり、抽象化したりする。それは、機械学習のアルゴリズムが、ラベル付けされたデータから規則性を見つけ、定義し、分類する振る舞いと似ている。ニューラルネットワークやサポートベクターマシンは、ラベル付けされたデータ、分類化されたデータを用いる。つまり、扱うデータは、経験値がきちんと記述できる形になっているわけだ。
しかし、人間の認知能力は、記述できない、言葉にできない領域にまで広がる。そこで、トランスダクションという概念は、そうした領域にまで手を広げるものとして紹介される。
人間の推論メカニズムは、きわめて線形的で、連続的ではあるが、時には、分類の困難な、非線形な、矛盾や不合理までも相手取る。気まぐれってやつも、その類いであろうか...

物質に素粒子という素があるように、認識にも素となる命題めいたものがある。
例えば、ユークリッド原論の公準がそれだ。それは、これ以上証明のやりようのない純粋な要請であり、論理学の限界を示している。第五公準はおいといて。幾何学は、この公準を基点として組み立てられてきた。
その際、証明手順に演繹法と帰納法とがある。前者はきわめて純粋で、証明の王道といえば、おそらくこちらであろう。だが、現実は後者の方が有用なことが多い。誰もが疑いようのない明確な論理的過程よりも、経験を蓄積し、分析し、学習し、知識の精度を上げていく過程の方が実践的でもある。

ここでの関心事は、帰納法的学習の信頼性である。推定の難しさ、複雑さとして、VC 次元を持ち出し、その意味は「粉砕」によって説明される。
「粉砕」ってなんだ?大数の法則のようなものか?うん~... エントロピーに埋没しちまいそうな。推定の難しさは、簡単に言えばコンピュータの計算量ということにもなろうか。
「反省的均衡」という用語にも注目したい。それは、積分的な思考とでも言おうか。帰納法の目的が、これだ!と言ってもいい。帰納的な思考過程では、信念バイアスがかかることも留意しておこう。
そして、枚挙したデータ群から誤差を最小化する思惑、反証可能性の程度、単純な仮説の想定、正弦則による予測、カーブフィッティングを用いた実数値の推定など、基本的には線形性を想定した確率論的な推論を軸に検討が進み、やがて非線形や離散的なデータをも取り込む。トランスダクション・モデルに至っては、道徳的個人主義にも適応できるとさ...
いま、アラン・チューリングの問いかけを想起せずにはいられない。機械は意思を持ちうるか、と...

「統計的学習理論の最も偉大な発見の一つ、規則集合のヴァプニク - チェルヴォーネンキス次元、すなわち、VC 次元の重要性の発見。規則集合の豊かさの測度。反証可能性の度合いに反比例。VC 次元を持つ時、背景にある統計的確率分布が何であろうと、十分な証拠を条件付きとしてうまく得られる。」

2025-01-26

"フーコーの振り子" Amir D. Aczel 著

どんな数学的証明よりも、どんな科学的論証よりも、説得力のある実験がある。まさに、見たまんま!それは、振り子の振動面がゆっくりと回転していく正弦則にあったとさ...
尚、水谷淳訳版(早川書房)を手に取る。

いまや地球が自転しているなんて常識中の常識。
だが、これを証明するとなると、コペルニクス、ケプラー、デカルト、ガリレオ、ニュートンらを悩ませてきた。自己中心説から人間中心説、そして地球中心説を覆そうものなら、まさに命がけ。誰もが納得する証拠を叩きつけられなければ、宗教裁判の餌食よ。
レオン・フーコーとて、当初、権威ある学者連に馬鹿にされたという。アマチュア科学家が、居丈高な専門家どもに理論の後づけを強いる物語は、まさに痛快!

科学界のアウトローは、ひたすら興味本位で実験を繰り返す。その後ろ盾となったのは、ルイ・ナポレオン。伯父ナポレオンの失脚後、亡命と獄中生活を送るも、革命によって返り咲く。皇帝ナポレオン三世となった彼は、自分の不遇な人生をフーコーに重ねたのか、排他的なパリ科学界に一石を投じる。
しかし、皇帝の失脚とともに、フーコーの運命も.... 振り子が触れるがごとく。

振り子が揺れるのはいい。それは重力がある証拠。そりゃ、リンゴだって落ちるさ。
では、その振動面がゆっくりと回転する現象をどう説明するか。縦だけでなく、横にも G が働いている。横に G が働くとはどういうことか。振り子は天球の日周運動の方向に移動する。球面上において、移動方向に垂直に作用する奇妙な力の正体とは...

地球が自転しているという前提知識の上では、三角関数を用いた数学的な説明もできれば、円錐形を用いた幾何学的な説明もできるし、コリオリの力による物理学的な説明だってできる。証明の王道といえば演繹法だが、人間のほとんどの知識は経験の積み重ねで、帰納法とすこぶる相性がいい。科学的知識ってやつは、時間とともに後出しジャンケンのような状況にある。それで現代人が賢いとは、笑止!

自転する物体が織りなす空間は、独立した一つの小宇宙をつくる。それは、外部からの視点と内部からの視点という二つの観測課程の距離感として現れ、相対性の概念を呼び起こす。物理学において重要な思考法の一つに、様々な現象に座標系を仮定するというやり方がある。ある座標系から観察した物理運動は、別の座標系から観測したものとは違って見え、こうした視点が相対性理論と結びついた。
人間の発明では、ジャイロスコープに一つの小宇宙を見る。スピンを持つ素粒子にも、そこに一つの小宇宙があるのやもしれん。

フーコーの振り子は世界各地の博物館や教育機関などに設置され、観光の名所ともなっている。高い天上から吊り下げられ、永遠に揺れ動く様子を眺めていると、なんとなく崇高な気分になれる。小宇宙の中でぽつりと埋没する自我を感じながら...