2025-07-06

"孤独な群衆(上/下)" David Riesman 著

世間で忌み嫌われる孤独。孤独死ともなれば、最悪の結末のような言われよう。しかしながら、集団の中にこそ孤独がある。
人間の性格には誰でも、ナルシス的な側面もあれば、独善的な側面もある。結局は、自己存在に対する意識の持ちよう。こうした性格をいかに克服するか。しかも、自問の過程で...
芸術の創造性は、たった一人のひたむきな情熱によって生み出されてきた。寂しささを知らなければ、詩人にもなれまい。満たされた人間には、悲痛感慨な文体を編むこともできまい。

人間ってやつは、何かに依存し、影響し合わなければ生きてはゆけない。たいていの人は社会福祉制度にたかり、属す集団を頼みとし、集団意識に縋って生きている。
アリストテレスは、人間をポリス的な動物と定義した。ポリス的とは、単に社会的というだけでなく、互いに善く生きるための共同体といった意味を含むのであろう。だが、実際は依存意識がすこぶる強い。ならば、何に依存して生きてゆくか...
ディヴィッド・リースマンは、「自律性」を強調する。うん~... これが最も厄介な代物。孤独を克服できれば、孤独死ですら理想的な死となるやもしれん...
尚、 加藤秀俊訳版(みすず書房)を手に取る。

「人間の敵たりうるのは人間だけである。人間の行為や生活の意味を奪うことのできるのは、かれじしんだけなのだ。なぜなら、その意味の存在を確認し、自由という現実の事実として、それを認識できるのは、かれだけだからである。」
... シモーヌ・ド・ボーヴォワール

リースマンは、人間の性格を大まかに「内部指向型」「他人指向型」に分類し、この二つの型に社会を特徴づける三つのタイプ「適応型、アノミー型、自律型」を絡めながら論ずる。
内部指向型の人間は、自分自身を人間以外の対象物との関係において考えるという。組織の中で、人との協力関係よりも、技術的、かつ知的なプロセスとして捉える傾向がある。
対して、他人指向型の人間は、仕事や組織を人との関係において考えるという。自我にはっきりとした核を持っていない。だから、自我からも逃避することができない。
世間体を気にする傾向が強いのは、他人指向型であろう。自律性においては、内部指向型の方が優位にも見える。だが、自己優越感は内部指向型の方が強く、客観的な視点から発する謙虚さでも優位とは言えない。

内部指向型は、農村部の伝統指向とも相性がいいらしい。頑固オヤジといった形容も当てはまりそうな。他人からの批判を恐れ、自己批判によって自己防衛する傾向もある。
他人指向型は、情報過多な大都市部に多いタイプだという。情報に敏感なのは、流行遅れを恐れてのことか。評判やカリスマ性に群がり、個人の思考が一本化して集約される傾向にある。人気投票的な消費行動を旺盛にし、ベストセラーに群がる傾向あり...

結局、自律を目指すのに、どちらの型が優位ということではなく、己を知るという問題を抱えたまま。そして、適応と自律を欠けばアノミーへ。自己を見失い、自己を破滅させるのは、型の問題ではなさそうだ...

「個人主義とは、ふたつのタイプの社会組織のあいだの過渡的な段階である。」
... W. I. タマス

また、本書に散りばめられる挑発的で皮肉じみた用語が目に付く。とりあえず、「内幕情報屋」「メッセージの卸し問屋」「まやかしの人格化」といったところを拾っておこう。
昔から蔓延る道徳屋は、内部指向型の傾向が強く、ネット社会でも理性の管理者となり、誹謗中傷で凶暴化する。
対して、内幕情報屋は、他人指向型の傾向が強いという。要人との人間関係から内部情報に詳しいだけで済む場合と、あわよくば間接的に要人を動かして社会を支配しようとする。そうした人間は、その種のサークルを作るという。記者クラブもその類いか。情報理論によると、メッセージにはノイズが交じることになっているが、現代風に「マスゴミ」という形容も当てはまる。
但し、超一流の扇動者は、けして嘘をつかない。些細なニュースを大袈裟に持ち上げ、重要なニュースをささやかに報じる。これが、世論を扇動できる報道原理か...

とはいえ、真実が必ずしも真実らしく見えるとは限らない。嘘の方が真実っぽく見えることも多々ある。現代社会では、真実っぽく見せる技術が重宝される。言葉を商品とすれば、コミュニケーション産業の小売業者となり、言葉を武器とすれば、特殊工作部隊の最前線を行く。
ネット検索ともなると能動的な活動だけに、自分の意志で考えていると思いがち。だが、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
では、マスコミを扇動しているのは誰か?広告屋か?それとも他に黒幕が?それこそ群衆自身なのやもしれん...

「現在にあっては人と同調しないこと、慣習の前にひざを屈しないことはそれ自体、ひとつの奉仕である。」
... J. S. ミル

2025-06-29

"物の体系 - 記号の消費" Jean Baudrillard 著

消費とは...
それは、物にかかわるだけの行動ではないという。豊かさを示す現象学でもないと...
では、なんであろう。ジャン・ボードリヤールは、すべてに意味作用を与える行動として定義する。人間の物への意識は、物的存在から記号的存在へ。流行や広告、あるいは社会的規範や慣習もその類い。消費への意識が記号へ向かえば、消費に限りがないことの説明もつく。
彼は、現代人の物への意識がイデオロギー的体系、あるいは、ある種の信仰として働いていることを指摘し、これにマルクス風の疎外論を絡めて論じて魅せる。そして、こう主張する。「消費される物になるためには、物は記号にならなければならない。」と...
尚、宇波彰訳版(法政大学出版局)を手に取る。

貧困層ですら日常生活にスマホが欠かせないとなれば、物は豊かさの基準とはならない。産業のすべてがサービス業化し、消費対象のすべてが、ガジェット化、アクセサリ化していく。現代社会では、物質エネルギーよりも情報エネルギーの方がはるがに強いと見える。
もはや人類は、AI に代表されるような機械の奴隷になることを恐れている場合ではあるまい。すでに物の奴隷に成り下がっていりゃ、世話ない。消費が抑えがたいのは、何かの欠如に依存していからであろうか...

「消費は今や多かれ少なかれ整合的な言説として構成されている。すべての物・メッセージの潜在的な全体である。消費はそれがひとつの意味を持つ限りにおいては、記号の体系的操作の活動である。」

人間の存在意識には、雰囲気の論理や居場所の論理が働く。本来、物といえば、機能性や操作性に注目するのであろうが、それ以上に浮遊的な何かに意識が向く。仮想的実体とでも言おうか。精神や魂と呼ばれるものが浮遊霊じみた存在だから、それが自然なのやもしれん...

「もしも現代の偽善が、自然の猥褻さを隠すものではないとすれば、それは記号の無害な自然性で満足すること、もしくは満足しようと努めることである。」

物を提供する側は、クレジットによる欲望戦略を煽り、毎日が購買のお祭り騒ぎ、購入者の所有意識を麻痺させる。
物を享受する側も負けじと、シリーズものやセット販売に群がり、その理由づけは様々... 時にはナルシス的に、時にはノスタルジックに、時にはコンプレックスを刺激し、あるいは収集癖に酔いしれて、自己に言い訳をしながら生きている。
消費は、物にかかわろうとするだけでなく、集団社会とかかわろうとする積極的な活動でもある。いや、後者の方がはるかに本質的か。こうした集団行動が、文化の基礎を成していることも確か。
そして、物のあり方を通して、自己のあり方を確認する。それで、自己に価値を見い出せない時の失望感ときたら。あとは、存在論的な弁証法にでも縋るさ...

「人間はつねに自分自身に嫉妬する。人間が守り、監視しているのは自己であり、自己を享受しているのである。」

2025-06-22

"消費社会の神話と構造" Jean Baudrillard 著

産業革命によってもたらされた生産社会。これに触発されて出現した消費社会。おかげで、人々の生活は豊かになった。
だが、事の発端は古代に遡る。貨幣の発明によって生み出された交換社会。おかげで、交換の対象となるものすべてに価値が見い出され、揉め事も命の代償までも貨幣で精算されるようになった。こうした価値の合理化は、人間どもをより利便性の高い代替物へと走らせ、仮想的な価値を肥大化させていく。仮想化社会の到来である。仮想化とは、愚像化の類いか。
そもそも精神ってやつが、ふわふわした得たいの知れない存在で、同類項というわけか。そりゃ、精神に支配された知的生命体が仮想価値に群がるのも無理もない。
おまけに、人よりも所有した気分になり、優越感にも浸り、生産過剰でも、消費過剰でも、なお満たされない。それで誇大妄想を膨らませてりゃ、世話ない...

ジャン・ボードリヤールは、提言する。
人間の消費という意識が、単に物に向かうだけでなく、集団社会における能動的様式であることを。それは、文化の上に成り立つ体系的活動であり、包括的反応であることを...
尚、今村仁司、塚原史訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

「消費はひとつの神話である。現代社会が自らについてもつ言葉、われわれの社会が自らを語る語り口、それが消費だ。」

現代社会には大量のモノと情報が氾濫し、主役を演じるは広告塔と報道屋。これを影で操る者が社会を牛耳る。影とは誰か。集団的な意志がそう仕向けているのか。つまり、意志なき意志が...
集団性が悪魔じみているのは、悪魔が実際に存在することではなく、そう信じ込ませることにある。消費社会での主な消費は、必然的な消費ではなく、ステータスとしての消費。かつて貴族階級の特権だった見栄や外聞の類いが大衆化すると、人々は流行に乗り遅れまいと強迫観念に取り憑かれる。貧困で喘いでいる人々ですらスマホなどの電子機器が必需品とされ、人とのつながりを強制された挙げ句に息苦しくなる。自由意志なんてものは、もはや幻想か...

無論ジャーナリストや広告業者ばかりを悪者にはできない。誰の言葉だったか、大衆は欺瞞することが容易なのではなく、騙されることを喜ぶ!ってのは本当らしい。お茶の間という安全地帯で、ジャーナリズムが悲壮感を煽る殺人、戦争、細菌感染などの不幸事を映画のように鑑賞する。これが人間の性(さが)か...

豊かな社会と言いながら、なにゆえ自殺が減らない。幸福であることが当たり前!いや、幸福でなければならない!そう思い込むことで自己を追い詰める。多くのモノは場違いに存在するために、その豊富さが逆に欠乏を感じさせる。消費社会の大きな代償は、消費活動そのものに蔓延する不安感ということか。これも、マルクスの言う疎外の類いか。
消費の熱狂の渦で、常に前のめりの姿勢を崩さない経済学者と理想を掲げてやまない福祉論者の狼狽ぶりは、いつの時代も教訓となろう...

「消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。モノの使用はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造させる価値ははるかに大きなものとなる。それゆえ破壊は根本的に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない。消費は自らを乗り越えて破壊に変容しようとする強い傾向をもっている。そして、この点においてこそ、消費は意味あるものとなる...」

2025-06-15

"les objets singuliers - 建築と哲学" Jean Baudrillard & Jean Nouvel 著

のどかな春風に誘われ、アンティークな古本屋を散歩していると、哲学者と建築家がなにやら談義を始めた様子。春風駘蕩たるとは、こういうのを言うのであろうか...

哲学とは、真理を探求する学問、いわば理想を求める世界。建築とは、現実に照らした技術、いわば妥協を生きる世界。互いに相い容れぬ世界にも見える。が、哲学のない技術は危険である。
哲学者ジャン・ボードリヤールは、建築家ジャン・ヌーヴェルに問い掛ける。「建築にとって真実は存在するだろうか...」と。それが不毛な問答であったとしても、大切なのは問い続けること。そして両者は、美学において共通項を見いだすのであった。創造の美学に、破壊の美学に、普遍の美学に、消滅の美学に...
尚、塚原史訳版(鹿島出版会)を手に取る。

「対話を無からはじめるわけにはいかない。というのも、論理的には、無とはむしろ到達点であろうから...」
... ジャン・ボードリヤール

近代化は、生産社会をはじめ、何もかもラディカルに進展させてきた。建築界も例に漏れず。この流れに反発するかのように、近代からの脱却を目指すポストモダニズムとが錯綜する。だが、真にラディカルなのは、無であるという。空白こそが...

建築は、それを彩る空間をともなって、はじめて成り立つ。いかにして空間を組織し、その空間を満たすか。数学的に言えば、充填問題とすることもできよう。真の空白から、すなわち、無から有を成す... これを考える機会に恵まれることこそが建築の醍醐味というものか。
それは、水平方向や垂直方向といった幾何学的な問題だけではない。自然空間や精神空間に及ぶ随伴の問題でもある。建築の創造物は、単独では存在できない。その意味で自由はない。建築家も、芸術家のような自由はない。建築基準法を無視するわけにはいかないし、様々な様式に制約されるのだから...

実際、そこにポツリと出現しては、景観を損なうオブジェが乱立する。不整合でアンバランスな存在として。歴史的な街並みや伝統的な様式から外れ、それ自体は肯定も否定もせず、ただそこに立ち並び、もはや異物!
その有り様を本書は「特異性」と表現する。それは、芸術的な独創性とは違うという。では、数学的な特異点のようなものか。生物学的な突然変異のようなものか...

大衆化の危険は、建築ばかりか、広範な文化に及ぶ。誰でも出来の悪い文章は書ける。この点でテキスト化は危険な行為となる。建築家だって大袈裟な装飾を施しては、自らの幻想に耽っているケースも少なくない。それは、自己陶酔ってやつか。
この幻想はバーチャルとは違うらしい。バーチャルは、むしろハイバーリアリティで、心理空間の可視化だという。物質的なフォルムに位置づけるだけでなく、非物質的なものを介して感知できるような空間認識を呼び覚ますことこそ、建築の真髄というものか...

「解放は、自由とはおなじものではあり得ない。... 解放されて、実現された自由を生きていると信じたとき、それは罠にすぎない。目の前には、可能性の実現という幻想があるだけだ...」

一方で、特異性に反発するかのような現象がある。オブジェはオリジナル性を失い、複製に次ぐ複製のオンパレード。モデルハウスも、その類い。建築ばかりか、あらゆる文化が記号化され、高度なデータ処理によってクローン化されていく。もはや、幻想を見いだすことすらできない。建築家が意図するオブジェが、自らを成り立たせる空間だけでなく、周辺をも巻き沿いにしていく...

「運命の皮肉だろうか、あなたの喜ぶ表現によれば、宿命的なもののアイロニーだろうか、私は東京湾の対岸数キロの海面だけによって隔てられた場所に、向かい合うようにして、非物質化された巨大タワーを建設することになった。このビルから、私は地平線に私の格子の配置と、数学的で人為的な私の日没を観るだろう!」
... ジャン・ヌーヴェル

2025-06-08

"バッハ - 神はわが王なり" Paul du Bouchet 著

バッハに目覚める...
そう思えるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたりであろうか。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ... 目覚めも悪くなる。
ルター派教義のエヴァンゲリストが音符で福音を刻めば、聖トマス教会の高くて広々とした天井空間が威光を放ち、臨場感あふれる音響効果を演出する。卓越した知性が、神との対話の場を求めるのか。対位法とは、神との対話術であったか...
尚、高野優訳、樋口隆一監修版(創元社)を手に取る。

「神の言葉を除けば、ただ音楽だけが称賛されるに値する。... 悲しみに沈む者を慰める時、喜びに溢れる者を恐れさせる時、絶望した人々に勇気を与え、高慢な人々を打ち砕く時、恋人たちの気持ちを静め、憎みあう者たちの心をやわらげる時... 音楽以上に効果を発揮するものがあろうか...」
... マルティン・ルター「音楽礼賛」より

宗教音楽といえば、通常、教会で定められた規則に従い、典礼で演奏される音楽のことを言うのであろう。しかし、バッハの宗教音楽は違う。そんな枠組みを超越した何かがある。神と語り合うのに、神聖も世俗もあるまい。
但し、神の声を聞くには、資格がいるらしい...

「聖と俗の飽くなき共存。バッハの音楽の魅力の根源は、まさにこの矛盾にあるのかも知れない。」
... 樋口隆一

時は、西洋音楽界がイタリアオペラを中心とした時代、ルネサンス音楽からバロック音楽へ...
バロックといえば、建築や彫刻の世界で、複雑で矛盾に満ちた人間の情念を総合的に表現しようとして生まれた様式。建築物では曲線を多用し、過剰とも思える装飾を施す。
こうした傾向が音楽の世界にも波及し、当時、音楽後進国だったドイツにおいて、情熱的なイタリア様式と合理的なフランス様式とを統合する形で花開く。
バッハは、この潮流に乗って、ポリフォニーの伝統を集大成した。しかしながら、当時の聴衆は、かなり困惑した様子。カルチャーショックか!
飾りっ気が多く、複雑な構造に、技巧過剰、主声部がどこにあるのかも分からない... といった批判に晒される。
バッハの性格は、宗教書を読み耽る深い精神の中にあり、人々と温和に接するも、こと音楽となると妥協を許さず、あたり構わず怒りを爆発させる側面があったという。斬新な手法を見せつければ、音楽家の中にも敵が多い。
だとしても、演奏家には珍しく、教育家としても優れた資質を持ち、鍵盤楽器の運指法を伝授する。21世紀ともなれば、YouTube などで実演が観覧できるものの、理想的な指運びが困難を克服できるかという問題は、いつの時代にもまとわりつく。
そして、バッハに還れ!と標語めいたものが、未だに語り継がれる。

「ベートヴェンのソナタは新約聖書である。そして、バッハの平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書である。」
... 指揮者ハンス・フォン・ビューロー

バッハが綴る音符配列に、数学の法則を見る...
協和音と不協和音の融合に多声部が複雑に絡み合うという、一見矛盾した構造が調和に満ちたポリフォニーを奏でる。作品には長調と短調が入り乱れ、進行形と反行形が共存しながら、ときおり鏡像のごとく回転し、音符列を長く拡大するかと思えば、音符列を短く縮小して魅せ... まるでユークリッド幾何学。こうした図形操作に、カノンからフーガに至る流れを観る。
そして、シェーンベルクが体系化した十二音技法を巧みに操り、独創的な平均律を編み出す。平均律クラヴィーア曲集には、バッハ自身がこのような表題を付したという...

「平均律クラヴィーア曲集。すなわち、長 3 度(ド、レ、ミ)と短 3 度(レ、ミ、ファ)をともに含む、すべての全音と半音による前奏曲とフーガ。学習を望むすべての若い音楽家に、そしてすでに熟練した技術を持つ音楽家の楽しみのために...」

2025-06-01

"マタイ受難曲" 礒山雅 著

クラシック音楽に目覚めたのは、小学生の頃であったか。ドヴォルザークに始まり、ベートーヴェンに、チャイコフスキーに、モーツァルトに、ショパンに嵌った記憶がかすかに蘇る。
しかしながら、バッハとなると、ずっと敬遠してきたところがある。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ...
ヤツは、ルター派教義のエヴァンゲリストか。音符で綴る福音主義者か。説教臭が漂ってやがる。
それでも、バッハに癒やされるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたり。巨匠が奏でる音空間には、音楽を超えた何かがある。信仰を超越した何かがある。卓越した知性が神との対話へと誘ない、救済を超えた何かが...
本書は、マタイ福音書の受難物語を通して、バッハが思い描いたであろう情景を物語ってくれる。

「深沈とした管楽曲の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる悲痛な合唱... マタイ受難曲といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれのマタイに対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜならマタイ受難曲の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど大胆なものだから...」

大合唱が終わると、福音書記者が口を開く...
時は、ユダヤ教の大祭、過越祭の二日前、イエスは受難を預言する。信仰厚い女が香油を注ぐ。香油は涙となり、受難曲は懺悔と悔悛へと流れゆく。人間は、罪を背負う定めにあるのか...
十二人の弟子の中に裏切り者が...
ユダの密告。過越の聖なる食事が、最後の晩餐に。パンとぶどう酒は、キリストの身体と血に還元される。晩餐の後の讃美歌、続いてオリーブ山での弟子たちとの語りをコラールで綴る。ゲッセマネの園では、受難を前にしたイエスの深い人間的苦悩を歌う。苦悩の原因はわれわれ自身の中に...

「第10番目のヘ短調は、温和で落ち着いていると同時に、深く重苦しく、なにかしら絶望と関係があるような死ぬほどの心の不安をあらわすように思える。加えてこの調には、並外れて人の心を動かす力がある。ヘ短調は、暗く救いようのないメランコリーをみごとに表現し、ときおり、聴き手に恐怖心や戦慄を感じさせる...」

ついにナザレのイエス、群衆に捕らわる。ユダよ!あなたは接吻で人を裏切るのか...
大祭司邸での審問では、沈黙するイエスにツバを吐きかけ、顔面を殴り。おまけに、ペトロの否認!イエス?そんな人は知らぬ。だが、主を否認したことを悔いる。涙は傷ついた心の血!
そして、イエスの死刑宣告。ペトロの嘆きに憐れみのアリアを歌い、ユダの自殺に憐れみのアリアが続く...
悔い改め、懺悔すれば、すべてチャラ!これがキリスト教の教えか。そして、復活を見据えずにはいられない。

イエスはというと...
他人を助けて自分自身が救えないとなれば、その無力さが死に値するというのか。いや、穢れた人間社会から解放され、自由の身になれたのやもしれぬ。血まみれた十字架を前に、己の愚かさを思い知る人間ども。日蝕まがいの闇があたりを覆う。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです...

「主の怒りは燃え上がり、大地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。... 本当にこの方は、神の子だったのだ。」

愛とはなにか。周知のものでありながら、疑いなく実感できるものでありながら、その真なるものを知らぬ。自己を愛せぬ者に他人を愛せるのか。他人を愛せぬ者に自己を愛せるのか。自己を知らねば、盲目であり続けるほかはない。永遠に...
人間ってやつは、己の身体を墓とし、己の心で墓標を刻む、そんな存在なのやもしれん。ここに、INRI を掲げた十字架像とともに受難曲の完成を見る...

"IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM"
(ナザレのイエス、ユダヤ人の王)

2025-05-25

"統辞構造論" Noam Chomsky 著

言語学の革命と称される生成文法理論の誕生は、「統辞構造論」という一冊の小冊子によって告げられたという。それは、当時流行していた二つの理論の限界を示しつつ、これらに論理構造という視点を加味する形で展開されるとか...
尚、本書には「言語理論の論理構造 序論」も併録され、福井直樹、辻子美保子訳版(岩波文庫)を手に取る。

二つの理論とは、初歩的な生成文法としての形態音素論と、有限状態マルコフ過程に基づく形式文法である。そこには、「変換」という概念からのアプローチが披露され、語句の置換や代入、挿入や削除といった操作は、まるで代数学!
ノーム・チョムスキーの視点は、ソシュールの構造主義を踏襲しているのだろうか。言語システムを一つの集合体として捉え、それが有機体のごとくうごめくような。言語の運用と能力、そしてなによりも、その慣習に人間の姿を投射して魅せる。
あるいは、句構造のツリー分解、再帰的特性や巡回、語彙羅列や文脈依存、同義性と多義性、音素的弁別性と意味特性の結びつきなどの考察は、哲学と数理論理学の融合を思わせる。言語学は、いや、あらゆる学は、自然科学であるべし!と告げるかのように...

おそらく、自然言語には普遍法則なるものが存在するのだろう。文法構造には、完全に規定できる変換法則なるものがあるのだろうか。例外を認めれば、それに近いものはあるだろう。生得的に学習できる何かがが。帰納的に組み込まれた何かが...
言語には、数学で言うところの不完全性の問題を孕んでいるものの、各国語の文法は、VO型、SOV型、VSO型などで規定され、英語で言うところの WH 疑問文のような雛形もある。
そして、意味を与えることなく文法を与えることはできるのか、という疑問がわく...

元々、言語システムには変化の余地が組み込まれている。
語句や文体の使われ方は時代とともに変化し、誤用の方が庶民の圧倒的支持を得れば、それが主流となる。文法の正当性を組織化することは、国語辞典や文法事典などでは心もとない。この変化の余地は、言語が精神の投射装置として機能している以上、避けられまい。そもそも精神ってやつの実体が完全に解明できない限り、言語もまた完全な体系として説明することはできまい。そして、それは人類にとっての永遠のテーマの一つとなろう。己を知るというテーマとして...
こうした状況を尻目に、小説家たちは新たな表現様式を次々と編み出してくる。言語の競争原理としての表現のテクニックや派生のおかげで、言葉が豊かになるのも確か。これこそが言語の本質やもしれん...

そして、本書とは関係ないが、あるフレーズが頭に浮かぶ...

「文法は言語の規則とみなされている。だが、日本語をしゃべっている者がその文法を知っているだろうか。そもそも文法は、外国語や古典言語を学ぶための方法として見出されたものである。文法は規則ではなく、規則性なのだ。... 私は外国人のまちがいに対して、その文法的根拠を示せない。たんに、"そんなふうにはいわないからいわない"というだけである。その意味では、私は日本語の文法を知らないのである。私はたんに用法を知っているだけである。」
... 「定本 柄谷行人集、ネーションと美学」より...

2025-05-18

WinScreeny との戯れ!ジャンクコマンドに癒やされる...

気分転換に、WinScreeny...
それは、Cygwin 版 ScreenFetch といったところ。そう、unix 系でお馴染みのアスキーアートだ。CLI 環境が手放せずにいるネアンデルタール人の憩いの場!
人生とは、無駄をいかに楽しむか!ということであろうか。それで、無駄も無駄ではなくなるような...

さて、こいつの良いところは、なんといっても bash で書かれていること。おかげで、いかようにもカスタマイズできる。つまり、Cygwin である必要もないのだ。これぞ自由感!
我が環境では、二つほど warning が出力されるが、コードを見れば一目瞭然!勉強にもなって、ありがたや!ありがたや!
尚、GitHub からダウンロードできる。


 1. 出力は、こんな感じ...
● WinScreeny for Cygwin

#! /bin/bash
screeny
figlet -w 110 -f slant -c "CYGWIN x64"



● ScreenFetch for Roccky Linux(参考まで)

#! /bin/bash
screenfetch-dev
figlet -w 110 -f slant -c "Rock Linux 9"



2. 押さえておきたいワザは、二つ...
● 一つは、変数 "display" で宣言した項目数でループをかけて、detect*() 関数をアクティブ化。

  ...
#display=( Host Cpu OS Arch Shell Motherboard HDD Memory Uptime Resolution DE WM WMTheme Font )
display=( Host Cpu OS Arch Shell Motherboard HDD Memory Uptime Resolution DE WM WMTheme Font GPU Kernel )
  ...

detectHost () { ... }
detectCpu () { ... }
  ...
detectGPU () { ... }
detectKernel () { ... }
  ...

# Loops :>
for i in "${display[@]}"; do
  [[ "${display[*]}" =~ "$i" ]] && detect${i}
done
  ...
尚、GPU と Kernel を追加してカスタマイズ。

● 二つは、文字色と背景色をエスケープシーケンスのカラーコードで抽象化。

  ...
f=3 b=4
for j in f b; do
  for i in {0..7}; do
    printf -v $j$i %b "\e[${!j}${i}m"
  done
done
  ...

cat << EOF
    ...
  ${f1}OS: ${f3}${os} ${arch}
  ${f1}CPU: ${f3}${cpu}
    ...
EOF

# ---- 文字色変数 $f* ----
# $f0 =>  "\e[30m  :Black
# $f1 =>  "\e[31m  :Red
# $f2 =>  "\e[32m  :Green
# $f3 =>  "\e[33m  :Yellow
# $f4 =>  "\e[34m  :Blue
# $f5 =>  "\e[35m  :Magenta
# $f6 =>  "\e[36m  :Cyan
# $f7 =>  "\e[37m  :White

# ---- 背景色変数 $b* ----
# $b0 =>  "\e[40m  :Black
# $b1 =>  "\e[41m  :Red
# $b2 =>  "\e[42m  :Green
# $b3 =>  "\e[43m  :Yellow
# $b4 =>  "\e[44m  :Blue
# $b5 =>  "\e[45m  :Magenta
# $b6 =>  "\e[46m  :Cyan
# $b7 =>  "\e[47m  :White
尚、printf 文は、-v オプションで変数に直接代入できるんだぁ...

2025-05-11

xdotool との戯れ!Window ID の取得で、ちと悩むものの...

起動位置やウィンドウサイズを記憶してくれないアプリケーションがある。
gnome-terminal のように、--geometry オプションが使えるとありがたいが、できないアプリケーションもある。すべてのウィンドウ配置をコマンドラインで制御したいというのは、いまだ awk や sed が手放せずにいるネアンデルタール人の感覚か... 

ちなみに、nautilus や mutter では、痒いところに手が届かない。
ウィンドウのサイズは、nautilus から...
$ dconf-editor
org/gnome/nautilus/window-state に "initial-size" があり、自動で変化する模様。
ウィンドウの起動位置は、mutter から...
$ dconf-editor
org/gnome/mutter に "center-new-windows" の on/off しか見当たらない。

0. てなわけで、xdotool を試す...

$ sudo dnf install xdotool

尚、環境は...
OS: Rock Linux 9.5 (Blue Onyx)
Kernel: 5.14.0-503.38.1.el9_5.x86_64
Gnome Version: 40.4.0
Gnome 環境: スタンダード(X11ディスプレイサーバー)

1. 手順は、こんな感じ...
  1. Window ID を取得: xdotool search --name(or --class) "ウィンドウ名"
  2. Window ID を指定して移動: xdotool windowmove "Window ID" X Y
Window ID さえ取得できれば、なんとかなりそう...

2. 例えば、chrome では、素直にうまくいく。
$ xdotool search --neme chrome
39845892
$ xdotool windowmove 39845892 100 200

3. しかし例えば、baobab「ディスク使用量アナライザ」では、うまくいかない。
尚、baobab は、ウィンドウサイズは記憶してくれるが、起動位置は記憶してくれない。
$ xdotool search --name baobab
33554433
$ xdotool windowmove 33554433 100 200
これで反応なし!
xwininfo で確認すると、Window ID の取得に問題あり...

そして、こうやると、うまく取得できる。
$ xdotool selectwindow
=> 対象ウィンドウをクリック!
33554680
これは、xwininfo の取得値(16 進表記)と同じ。

さらに、こうやると、二つの値が得られる。
$ xdotool search --class baobab
33554433
33554680
欲しいのは、下の ID...

そして、こうやると、ビンゴ!
$ xdotool search --onlyvisible --class baobab
33554680
尚、"--class" を "--classname" としても結果は同じだが、違いは微妙か...

4. 結果、コードはこんな感じ... とりあえず、めでたし!めでたし!
#! /bin/bash
baobab /home/username &
sleep 1s
window_id=$(xdotool search --onlyvisible --class baobab)
xdotool windowmove $window_id 100 200

2025-05-04

セントからロッキーへ鞍替え!いや、本家回帰か...

ショッキングな CentOS 終了宣告で CentOS Stream 9 に乗り換え、一年が過ぎた。安定感はまあまあ...
騒ぐほどのことでもなかったかなぁ... と同じ感覚で Stream 10 へアップデートすると、なんじゃこりゃ!GUI の不安定感は、Fedora 並み!?
リモートで使う分には問題なさそう。いや、怪しいかも?せっかくのマルチモニタ環境が... サーバ系とは、そういうものなのかなぁ... メジャーバージョンのアップデートがトラウマになりそう!
うん~、こんなことで愚痴ってるようでは... 

ここは思い切って、Rocky Linux 9.5 へ鞍替え!コミュニティにはお世話になってきたし...
今、Fedora から CentOS へ鞍替えした頃の感覚が蘇る。CentOS の名に不安定感は似合わない。やはり、こちらが本家か!
うん~、こんなことが精神安定剤になろうとは...

ネアンデルタール人は、時代の流れに翻弄されるばかり...
人生とは、寄り道、脇き道、回り道... いずれも奥深い道!などと自らに言い訳しながら生きる道。この道を楽しめぬようでは、まだまだ...