2025-10-12

"数学と算数の遠近法" 瀬山士郎 著

数学者瀬山士郎氏には、「数学にとって証明とはなにか」と題し、あの呪われた ε-δ 論法をほぐしていただいた(前記事)。
ここでは「数学と算数の遠近法」と題し、ちょいと風変わりな風景を物語ってくれる。その主旨は、「算数を通して数学を眺め、数学の広い高台から算数を眺めることで、抽象的な高等数学・現代数学と素朴な算数が地続きであると実感できる。」とさ...

本書で用いられる道具は二つ、「食塩水の濃度」「方眼紙」。どちらも小学校で馴染んだものだ。微分積分学を食塩水の濃度の延長上で、線形代数を方眼紙の延長上で眺めるという趣向(酒肴)である。
濃度という量は、長さや重さ、面積などとは、ちと違う性質を持っている。それは、全体量に対する割合や比で表される量。その意味では、速度も時間に対する距離という比で表されるので、扱いが似通っている。この比に極限という概念が加わると、そのまま微分積分学になるという寸法よ。
また、方眼紙を用いたお絵描きで、ユークリッド空間にベクトル量を適用すると、そのままアフィン幾何学を体現できる。小学生の頃に見た図形の風景を、幾何学の風景に写像するって寸法よ。
こうした視点は童心に帰る思い、脂ぎった天の邪鬼な心を少しばかり救ってくれる。

内包量こそが、微分積分学の先祖...
長さ、重さ、面積といった加算することに意味のある外延量を時間の関数に適用すれば、加算しても意味のない内包量に変貌させる。加法が成り立つということが、様々な局面でいかに役立つか。線形代数では欠かせない視点である。
内包量という概念は、高度な記号化と形式化された演算システムによって実数体での四則演算を可能ならしめ、さらには複素数体での四則演算へと拡張させる。
ちなみに、sin を微分すると、cos に、 cos を微分すると -sin に... これだけでフーリエ変換の偉大さを感じる。本書にはフーリエ変換という用語は登場しないけど...

あの呪われた ε-δ 論法を方眼紙を通して眺めれば...
正方形でパッキングして近似していくプロセスから、フィボナッチ数列を通して黄金比を見るような風景が見えてくる。
ちなみに、正方形を平行四辺形にすれば、そのままアフィン幾何学となる。すべての三角形はアフィン合同というわけか...

「一次変換という名の正比例」を論じれば...
正比例という概念が、正比例関数に拡張され、さらに多次元の正比例関数に昇華した時、固有値問題が匂い立つ。
ちなみに、本書には固有値や固有ベクトルという用語は登場しないけど...

  y = ax
  → y = Ax
  → Ax = λx

「平方完成という名のテーラー展開」を論じれば...
二次関数に平方完成を適用すると、2乗比例から座標変換系が得られる。解析学では欠かせない視点だ。

  y = a + bx + cx2
  → y + (b2 - 4ac) / 4c = c(x + b/2c)2

これを 2乗比例の形で捉えると、

  Y = y + (b2 - 4ac) / 4c,  X = x + b/2c
  → Y = cX2

まさに、xy 軸から XY 軸への座標変換を示している。
すべては、小学校で学んだ正比例からの地続きであったとさ...

そういえば、小学校の問題に「植木算」ってやつがあった。木を同じ間隔で植える時、必要な木の数やその間隔の長さを求めるってヤツだ。これを多面体に持ち込んで、頂点の数を p、辺の数を q、面の数を r、切断の数を s とすると、「オイラー・ポアンカレの定理」が見えてくる。

  p - q + r = 2 - s

これを曲面で眺めれば、トポロジーへの道筋が見えてくる。すべては、小学校で学んだ植木算からの地続きであったとさ...

2025-10-05

"数学にとって証明とはなにか" 瀬山士郎 著

おいらは数学の落ちこぼれ。その張本が、大学初等教育でいきなり出くわした ε-δ 論法だ!
本書の副題にも「ピタゴラスの定理からイプシロン・デルタ論法まで」とあり、この用語に引き寄せられる。怖いもの見たさか、ブルーバックスというのもあろう。それは一般向けの科学・理工学シリーズで、子供から大人まで楽しめるという趣向(酒肴)。学生時代、おいらはブルーバックス教の信者であった。やはり数学をやるのは楽しい。童心に返る思い...

「絵を描けなくても、名画を鑑賞することで、何が名画なのかを心の中に刻むことができる。作曲ができなくても、一流の音楽を鑑賞することで、音楽に対する感性が養われる...」

本書は、数学の肝である証明に焦点を当て、絵画や音楽のように鑑賞しようという趣向。基本となる論理構造に、演繹、帰納、仮説の三つを挙げ、論ずる技術に、数学的帰納法、背理法などを巡り、円周角不変の定理、ピタゴラスの定理、プトレマイオスの定理、デデキントの切断などを外観させてくれる。
そして、中間値の定理や区間縮小法の原理が登場すると、いよいよ ε-δ 論法が匂い立つ。

それは、論理学から、幾何学、解析学、代数学へと辿る巡礼の旅!
論理学の最も単純なやり方は三段論法、これを日常会話に持ち込めば、たちまち屁理屈屋に...
一方、幾何学の証明は純粋にワクワクさせてくれる。ちょいと補助線を加えるだけで物理構造を可視化し、新たな空間イメージが沸き立つ。
解析学は、微分積分学が発展した形で連続や無限の概念へと導く。無限を相手取れば、循環論法に陥るは必定。代数学でも無限が問題となるが、n 乗根の演算を相手取れば、別の世界へいざなう...

ところで、証明とはなんであろう...
本書には、「証明とは、だれもが正しいと認める事実から出発して、新しい事実へと論理をつないでいくこと。」とある。
だが、その用い方は人それぞれ。相手を説得する手段、自分自身を納得させる手段、議論を高尚せしめる手段、あるいは論争で相手を貶めたり、論理で武装して煙に巻く手段... と。
いずれにせよ、ある事実が正しいことを確認する手続き、とすることはできよう。有無を言わさず正しさを強要しちまうので、自由を心棒する者には威圧的ですらある。M にはたまらんが...
証明のプロセスを味わうことは文章の読解力にも寄与する。論理思考のやり方においても参考になり、一つの命題に対して証明法がいくつもあれば、それだけ思考法が広がる。

しかしながら、証明の最も難しいのは存在証明であろう...
解の存在、中間値の存在、極限の存在を求め、手続きが行き詰まれば、存在の否定を仮定して、それを否定するという形を模索する。こうした試行錯誤が懐疑心を焚き付け、自己の存在、魂の存在を問い、神の存在証明に挑む羽目に。
となれば、直感を信じて、そのまま受け入れる方が幸せやもしれん。パスカルのように。まぁ、神が存在する方に賭けたところで失うものはあるまい。
数学の記号操作が記述を厳密にするが、その意味するものとなると、様々な解釈を呼ぶ...

「数学記号はこの世界をよく知るために人が考え出した言葉の一つです。これほどうまく作られた人工言語はない、と言ってもいいかもしれません。言葉には意味があります。その意味を追いかけることが証明の本質的な部分だと私は考えます。」

ついでに、あの忌々しいヤツにも触れておこう...
ε-δ 論法なんて、ギリシア文字で表記するから大層なものに見えちまう。だが、意味することは単純だ。xy 座標系において、連続関数の x の範囲を狭めていくと、y の範囲も狭まり、その極限が解、あるいは近似値となる。なんて当たり前なことを。あとは ε が y に δ が x に相当するたけのこと。連続していれば、必ず二等分できる、と言っているのと同じレベル!
連続性が保証されるからこそ大小関係が成り立ち、適当なところで切断でき、中間値も得られる。おぼろげな対象へのアプローチは、大雑把な大小関係から始まり、徐々に目標を絞っていくという考え方は実に単純だ。こうしたアプローチが重要視されるのは、微分方程式の多くが解けないという背景がある。
言うなれば、連続性の世界における万能な論法というわけだ。しかし、物事は単純で純粋なものほど、証明するのが難しい。そして、落ちこぼれは、数学を暗記科目にしちまったとさ...

2025-09-28

"生物のかたち" D'Arcy Wentworth Thompson 著

原題 "On Growth and Form"... 生物の成長のかたちは、数学に看取られているのだろうか...
ここに、モナリザや北斎画、ウィトルウィウス的人体図に見て取れる黄金比やフィボナッチ数列といった用語は見当たらない。それでも、蜂の巣が形作る幾何学構造や、オーム貝、有孔虫、放散虫が形作る球形や等角螺旋形に魅せられれば、自然が織りなす芸術品に物理学を感じずにはいられない。それは、重力の仕業であろうか。地球上に存在する生命体の大きさ、重さ、動きの速さ、そして形には、おそらく最適化の原理が働いているのだろう。これこそ自然淘汰というものか...
尚、柳田友道、遠藤勲、吉沢健彦、松山久義、高木隆司訳版(東京大学出版会 UP選書)を手に取る。

「数学を自然科学にもち込んだのは数学者ではなく、自然そのものである。」
... カント

それにしても、これは生物学の書であろうか。生物界のニュートン力学とでも言おうか。ダーシー・トムソンという人が生物学者であることは確かなようだが、文学の才にも長け、古典学、数学、博物学を調和させたような学者であったとか。ここでは、生物の成長を大きさと方向を持つベクトル量として捉え、時間の関数を適合させて魅せる。

一般的に相似関係にある二つの物体は、表面積は長さの平方に比例し、体積は立法に比例する。質量が大きくなるほど慣性力が増し、重力の影響も大きい。大きな生物ほど相応の水分や栄養を必要とし、生存競争で生き残ることも、環境の変化に適応することも難しくなる。ヒトの大きさ、昆虫の大きさ、バクテリアの大きさ等々、それぞれの世界に物理法則が働く...

また、細胞を取り巻くエネルギー帯の考察は興味深い...
細胞には多種多様なエネルギーが関与するが、中でも表面張力との関係に注目して曲率との関係を論じて魅せる。細胞が群らがると表面張力の総体となって複雑化し、平衡状態が不安定となるは必定。

「平衡状態はボルツマンがいったように確率の言葉で表現できる。すなわち、ある系で高い確率で最も存在しやすい状態、あるいは最も完全に維持できる状態というのが、まさしく平衡状態と呼ばれる状態なのである。」

さらに、生物界に生じる非対称性の考察も見逃せない...
例えば、生物から取り出したブドウ糖やリンゴ酸の分子構造は、偏光面が一方向に旋回するという。植物の代謝によって左旋性の L-リンゴ酸や右旋性の D-グルコースは生じるが、D-リンゴ酸や L-グルコースは生じないとか...

「片方の対称性をもつ物質を両方の対称性をもつ物質の混合から選び出すことは生命現象の特徴であり、生物のみがこれを成しうる。すなわち、非対称性をもつものだけが非対称な物質を合成できる。」

2025-09-21

"動物のことば" Nikolaas Tinbergen 著

原題 "Social Behaviour in Animals - With Special Reference to Vertebrates."
これに「動物のことば」との邦題を与えた翻訳センスはなかなか...
尚、渡辺宗孝、日高敏隆、宇野弘之訳版(みすず書房)を手に取る。

動物の社会的行動は、なんらかのシグナルを発する。シグナルは受け手と送り手が互いに反応しあうことで成立し、人間社会では、ことばが重要な役割を担う。
生物学の一分野に「動物行動学」というのがある。本来の生物学的な生理的、生態的な行動から少しばかり距離を置き、社会科学的な観点から集団行動に着目する。いわば、動物のコミュニケーションに。動物にとってのことばとは...

ところで、こいつは本当に動物を物語ったものであろうか...
社会構造の発達において、様々な協同形態を外観しながら、「機能、仕組み、進化」という三点から考察を加えていく。その過程で孤立性と社会性が入り乱れ、捕食者に対して防衛姿勢や威嚇行動が生じ、同種間で求愛行動や調節作用が生じる。昆虫社会に高度化した隷属国家を見、動物社会に社交化した大衆国家を見、まるで人間社会!

但し、人間社会の場合、敵は捕食者ではなく、むしろ同種!
知能の発達に伴い、縄張り意識が強まり、所有の概念を巧妙化させ、なにかと衝突が生じる。そればかりか、考え方や生き方の違いをより意識させ、同種といえども差別せずにはいられない。様々な人が入り乱れれば、それだけ敵も増えるというわけだ。
ことばを解せないということが、いかに平和であるか。どうりで、文句を垂れないペットに愛着を深めていく。動物と人間の違いとは、敵と同種の区別の仕方、その意識の違い、それだけのことやもしれん...

社会的とは、互いに反応しあって、何らかの秩序が保たれる状態を言うらしい。一番単純な協同は同じことをすること。餌を漁るのも、移動するのも、眠るのも... 動物にも社会構成がある証拠は、いくらでも見つかる。短時間の性的つながり以上に発達していない動物もいれば、社交場に群れては統率者が現れたり、長ったらしい儀式めいたものが生じたり、説き伏せや甘えといった行動まで見て取れる。
そして、昆虫国家に高度に統制された分業社会を見る。

「分業はミツバチの社会こそその極致であろう。卵を生むのは女王ばかり、また雄は処女の女王に授精する他に役目はない。その他のすべての仕事は働蜂、すなわち不妊症の雌がひきうける。働蜂には巣室を作るもの、幼虫の世話をするもの、また巣を守り侵入者を追い払うもの、飛び出して蜜や花粉を集めるもの、その他さまざまなものがいる。云々... 雄の求愛行為が刺激となって雌も協同動作をなし、雌雄は交尾器の合致ばかりでなく、実際の交尾動作においてもよく合致する。いろいろな動物においてこの協同がなされるその方法たるや、まさに無数...」

多くの動物は、リリーサーの機能を持っているという。色合い、鳴き声、匂い、仕草のパターンといったものが触発要因となる。他種の動物を誘い込む動物もいれば、逆に誘いを回避する動物もいる。姿形をカムフラージュすれば、まるで兵士戦術。
一方、人間はというと、化け物に扮す。お化粧もその類いか...

求愛行動にも、大きな役割がある。まず雄雌一匹ずつが出会い、両者の間で時間的な調整が行われ、互いに身体に触れても嫌がることなく、さまざまな共有が生まれる。そして何よりも、種間の交雑を防ぐことが重要となる。配偶行動にしても、交尾だけでなく、先立つ長い予備行動が含まれている。
そして、多くの動物は家族よりも大きな群れをつくる。集団でいると何かと御利益があり、一番の利点は捕食者からの防衛であろう。個体間の合図による信号系は、集団間においても機能する。
競争や闘争にも、それなりに役割があるらしい。個体間だけでなく集団間においても適当に距離を置き、有害な密集を防ぐといった、種族にとって大きな効用をもたらす。

また、動物の行動パターンに「つつきの順位」というものがあるそうな。それは、直線的で直接的な順位付けをいうらしい。本能的な意識とも言えそうだが、こうしたものが闘争の機会を減らす要因になるという。例えば、自分より優位にある個体を避けることを早く学習することが長生きの秘訣というわけだ。
人間の意識にも様々な順位が見て取れ、優劣関係と絡む。家柄や出生の優劣、経済的優劣、能力の優劣、男女の優劣など。こうした優劣の間で階級闘争が生じる。生殖闘争は自由や平等といった感覚を遠ざけるようだ...

「つつきの順位を決める行動にはかなり興味深い面がある。ローレンツはコクマルガラスで次のようなことを見出した。すなわち、下位にある雌がずっと上位の雄と婚約すると、この雌はすぐ雄と同列にまで昇進し、この雄よりも下位にある個体はすべて、たとえ以前この雌よりも上位にあった個体でも、この雌を避ける。」

2025-09-14

"文学とは何か" Jean-Paul Sartre 著

書くとはどういうことか... 何ゆえ書くのか... 誰のために... 誰しも理由があろう。ある者は逃避のために... ある者は征服のために... それでいったい何から逃避しようというのか、何を征服しようというのか。サルトルは、素朴な問い掛けによって彼自身が悶々とする世界に読者を引きずり込む。文学とは、牢獄への道連れか...
尚、加藤周一、白井健三郎、海老坂武訳版(人文書院)を手に取る。

「われわれは瞞着の時代に生きている。社会構造に帰因する根本的瞞着があり、二次的な瞞着がある。社会秩序はこんにち、無秩序がそうであるのと同じように、もろもろの意識の瞞着の上にやすらっている。」

ある登山家は言った。そこに山があるから... と。そこに筆があるから、そこに紙があるから、あるいは、読者がいるから、希望を求めて、単なる独り善がり.. と、いくらでも理由はつけられる。しかも、作家は一人では作品を完成しえない。作家には読者が必要なのだ。作家の主観性を読者の客観性で補い、双方とも高みに登ろうと、まるで登山家気取り。そして、書く芸術を偏見なしに観賞することの難しさを思い知る。

「私は自由から生れ、自由を目的とする感情を高邁とよぶ。かくして読書とは、高邁な心の行使である。作者が読者から要求するものは、抽象的な自由の適用ではなく、読者の全人格をそっくり贈与することである。その情念、その偏見、その共感、その性的欲望、その価値の尺度を贈与することである。ただその人格は高邁な心でおのれを与え、自由はこの人格のあらゆる部分に浸透して、その感受性のもっとも暗いかたまりさえも変形する。活動性はよりよく対象をつくりだすために受動的となるので、受動性は逆に行為となる。読書をする人間は、そうして、自己を最高のところまでたかめる。」

文才は、退屈な日常までも物語にしちまう。幸せな人間に、こんな芸当ができるはずもない。不幸の自覚もなさそうだ。自分の不運を愛し、自分の不遇に酔い、自分の傷を舐めるように書く。狂人ゆえに書かずにはいられないのか。我が道を狂信的なまでに追求せずにはいられないのか。だから幸せだというのか...
書くということは、啖呵にすぎないのやもしれん。具現化した文体と抽象化した思考の狭間で、現実社会と個人的ヴィジョンを対峙させ、自己の中で直感と論理がせめぎ合う。その過程で人間の限界をつきつけられ、時には理性を崩壊させ、時には狂気にすがり、死に救われることも。作家とは、病める人間を言うのか。読者を巻き添えに...

読者は読者でより大きな刺激を求め、この退屈病は如何ともし難い。喜劇よりも悲劇に感動を求め、楽観よりも苦悩を欲し、仕舞には人類を救え!とふっかける。
作家の理性に限界を知るや、批判の態度に活路を見いだす。だが、批判自体は肯定的な解決をもたらさない。そればかりか、くだらぬ非難の応酬に、誹謗中傷を喰らわす。
芸術には抽象化によって高尚さを装う技術があるが、作家もまた批判から逃れるために対象を曖昧にし、自己を曖昧にする技法を旺盛にしていく。かくして作家は、イデオロギーに蝕まれ、ドグマに毒され、偏狭に埋もれる読者を救えるだろうか...

「純粋の文学とは、かくのごときものである。即ち客観性の形をとって胸中を打ち明ける主観性、奇妙なしかけで沈黙と同じ意味をもつ言説、自分自身に意義を唱える思想、狂気の仮面にすぎない理性、おのれは歴史の一契機でしかないということをほのめかしている永遠、内幕を曝け出すことによって突如永遠の人間を指し示す歴史の一契機、たえざる教育、だが教える人々の明白な意志に反しておこなわれる教育...」

2025-09-07

"第三身分とは何か" Emmanuel-Joseph Sieyès 著

フランス革命前夜、エマニュエル=ジョゼフ・シィエスは聖職者や貴族が保持する特権身分を批判し、国民議会の設立を唱える。歴史を動かした書というものがあるが、本書もその一つに数えられるそうな...
尚、稲本洋之助、伊藤洋一、川出良枝、松本英実訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書の構想は単純なもので、三つの論考によって組み立てられる。
  • 第三身分とは何か... 全てである。
  • 第三身分は、これまで何であったか... 無であった。
  • 第三身分は何を要求しているのか... 何がしかのものになることを。

フランスには、もともと三部会というものがあり、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成される。王権と教皇権の争いのさなか、国王が国民の支持を得て優位に立とうと開催したものだが、絶対王政の時代ともに廃れていった。ルソーの社会契約論は知識人に広く知られていたものの、当時はまだ国民相互間の契約ではなく、支配者との服従契約という意味合いが強かったようである。
シィエスは、こうした世情に苦言を呈し、モンテスキュー風に法の下での平等を強調する。そして、国民主権、代議制、憲法制定議会と通常議会の区別といった概念を論じる。彼が提唱するものは、現在では民主主義の基本原理として自明とされるものだが、これらを実践するとなると、未だ...

「モラルに関しては、簡素で自然な手段に代わりうるものはない。しかし、人は無益な試みに時間を費やせば費やすほど、やり直すという考えを恐れるようになる。もう一度はじめからやり直しやりとげるよりも、時にはことのなりゆきに任せ浅薄な策を弄する方がよいとでも言うかのように。このようなやり方をいくら繰り返しても、一向に進歩はない!」

本書は、革命前夜のパンフレットらしく、急進的な発言が目につく。第三身分こそ国民であるべき、いや、国民ならば第三身分であるべき。したがって、特権身分は国民ではない。聖職者特権であぐらをかく輩と、国王にへつらって租税を免れる貴族どもは、もはや有害!奴らを国民議会から排除せよ!と...
21世紀の現在でも、よく耳にするのが、政治家は庶民生活がわかっていない... というもの。それを言うなら、庶民だって政治家という人種をわかっちゃいない。わかりたいとも思わんが。既得権益に守られた輩が蔓延る世情もまた、あまり代わり映えしない。民主主義への道はまだまだ遠いということか。いや、人類が背負うには重過ぎるのやもしれん...

「人間は、一般に、自分より上位にある者全てを自分と平等にしようと強く願う。そこでは、人は、学者として振る舞う。ところが、同じ原理が彼らより下位にある者によって主張されるのに気づくや、この平等という言葉は、彼らにとって忌まわしいものとなる。」

国民の側にしても、何か要求したいのだが、何を要求すべきかが分からない。そもそも、国民がどうあるべきを分かっていない。それは、経済活動における消費者心理にも見受けられる。新商品は企業が提案するもので、これに満足するか、難癖をつけるか、多くの消費者はオススメと評判に動かされる。こうした構図は、政治とて同じ。どんな政策を望むかより、提案された政策に賛同するか、拒否するか、そういう形でしか自分の意思が確認できない。
そう、「何がしかのものになることを...」望むのである。あえて言うなら、最低限の人権ということになろうか。第三身分、すなわち、真の国民がこれまで無であったのなら、これを有に変えるには、かなりの意識改革が必要なようである...

「上位二身分にも、第三身分の権利回復が、利益となることは確かである。公の自由の保障は真の力が存するところにしか存在しえないということに、目をつぶってはならない。われわれは、人民とともに、かつ、人民によってでなければ、自由たりえないのである。」

2025-08-31

"破壊(上/下) - 人間性の解剖" Erich Seligmann Fromm 著

かつて、アインシュタインはフロイトに問うた。「ヒトはなぜ戦争をするのか?」と...
それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡るもので、そこに物理学者と精神科医の対決を見た。一つの答えは、人間はもともと獣であったというもの。他の動物も、自己防衛のために攻撃的になるし、相手を敵と見なす意識は本能的に備わっている。
しかし、だ。空腹でもないのに快楽のためだけで殺すような動物が、他にいるだろうか。しかも、同じ種を。生物学的に同じ種でも、人間の意識は違う。とはいえ、人間は生まれつき殺し屋というわけでもあるまい。
では、何が人間をそうさせるのか。社会の集団性が、そうさせるのか。高度な文明が、そんな意識を覚醒させちまったのか。人間はパンドラの箱らしきものを次々に開けちまっているのか。人類は、破壊の種子なのか...

エーリッヒ・フロムは、精神解剖の過程で人間の本性に根ざした残酷性と攻撃性を論じて魅せる。彼は、過酷なナチスの時代を生きた。ユダヤ系ということもあり、思うところがあったのであろう。
本書は、悪性の情熱から、ナルシシズム、サディズム、マゾヒズムなどの性癖を探り、ネクロフィリアにまで至る。ネクロフィリアとは、死体に性愛感情を抱くこと。そして、人間の存在条件とは何か... 人間を人間たらしめるものとは何か... を問う。
尚、作田啓一、佐野哲郎訳版(紀伊国屋書店)を手の取る。

「人間の情熱は、人間を単なる物から英雄に、恐るべき不利な条件にもかかわらず人生の意味を悟ろうと努める存在に変貌させる。自らの創造者となって、自分の未完成の現状をある目的を持った状態に変貌させ、自らある程度の統合を獲得しうることを望む。」

人間が自らの主人であることは難しい。恐怖から逃れるためなら、人はなんでもやる。ドラッグ、性的興奮、集団化... そして、恐怖を襲撃に転化させ、攻撃は自由と結びつく。知能が高くなるにつれ、物事を柔軟に捉え、反射的な反応や本能的な考えが薄れていく。好奇心、模倣、記憶、想像力を合理的に利用し、環境により適合しようとする。自意識を強め、過去と未来、生と死について考え、精神的な抽象作用を働かせ、言葉を操って、道徳、倫理を考える。
人間を動機づける情熱は、愛、優しさ、連帯感、自由など、そして真理を求める努力に多くを傾ける。だが同時に、支配欲、破壊欲、自己愛、貪欲、野望などに心が奪われる。妄想ばかりか、宗教、神話、芸術を材料に...
個人の在り方を問うと耐え難い退屈感が襲い、集団の在り方を問うと耐え難い無力感が襲う。そして、疎外感に見舞われ、仕舞いには自己破壊へ。それは、認識能力を高めていく知的生命体の宿命であろうか...

人間は奴隷を求める。自分の思い通りになる存在を求め、自分の身代わりを求めてやまない。その対象が、人間であろうが、ペットであろうが、ロボットであろうが、それは文明人の特性か。
文明は階級をつくる。そこに秩序が生まれ、安定性が生まれる。これが社会の特性。同時に、階級は腐敗の温床となり、生まれ、家柄、言語、能力、名声、肩書、専門性など様々な優劣関係で不平等契約を強いる。これが社会の現実。
人間は、人の犠牲を強いてまで幸福を求める。都合が悪くなると人のせいにし、組織のせいにし、社会のせいにする。一旦、攻撃性を露わにすると、批評は批判へ、批判は誹謗中傷へ。連中は理性の皮をかぶり、知性を装って論争を仕掛ける。追い打ちをかけるようにマスメディアが餌をばらまき、これに大衆が喰いつく。
情報過剰や人口密集がもたらすストレスは計り知れない。理性も正義もストレス解消の手段に成り下がる。その反動かは知らんが、人間だけがいい加減な動機に誘われて破壊に快感を覚える。コロッセウムでは血臭い演出がなされ、グラディエーターも命がけ。闘犬や闘牛では物足りぬと見える。もはや古代ローマ方式の「目には目を...」という掟を破り、倍返しという理屈で過剰防衛に出ては、攻撃は最大の防御という理屈で無差別攻撃までも正当化する。

「献身の対象への要求には、神や愛や真理への献身によって... あるいは破壊的偶像の崇拝によって... 答えることができる。結びつきへの要求は愛とやさしさによって... あるいは依存、サディズム、マゾヒズム、破壊性によって... 答えることができる。統一と根を下ろすことへの要求には、連帯、同胞愛、愛、神秘的体験によって...、あるいは酔っぱらったり、麻薬にふけったり、人格を喪失することによって... 答えることができる。有能であろうとする要求には、愛や生産的な仕事によって... あるいはサディズムや破壊性によって... 答えることができる。刺激と興奮への要求はには、人間、自然、芸術、思想への生産的な関心によって... あるいは常に変化する快楽を貪欲に追求することによって... 答えることができる。」

権威主義や官僚主義の下では、サディズムとマゾヒズムは、すこぶる相性がいいらしい。
サディズムは、思いのままになる者を愛し、思いのままにならぬ者を抹殺にかかる。この場合の愛し方は命令して従わせることで、権力欲や支配欲との結びつきが極めて強い。
マゾヒズムは、信頼する者や崇拝する者に特別に愛されることを望み、自ら思いのままになろうとする。そのために自己の立ち位置を強く意識し、出世欲との結びつきが極めて強い。

どんな残虐行為も、劣等人種、あるいは人間以下と見做さない限り、やれるものではあるまい。差別好きな人間は、必要な人間と不要な人間とで線引きする。古代都市国家スパルタでは、未熟児や奇形児が廃棄された。優生学との境界も微妙で、他族を劣等種族とみなすカルト教団もあれば、民族優越説を唱えて最終的解決に手を染めた国家もある。連中は歪曲した正義に取り憑かれ、異教徒や異民族の破壊を義務とし、使命を果たす。これは人間特有の性癖であろうか...
おいらだって子供の頃戦争ごっこをやったし、半世紀以上生きた今でも戦争映画を観ては過激な戦闘シーンにリアリズムを求める。人間は飽きっぽい。もっと刺激を求めてやまない。こんな性癖に絶対的な権力が結びつけば、ヒトラーやスターリンのようになっちまうのやもしれん。
となれば、悪の根源は、人間の集団性と権力の在り方ということになろうか。いや、まだ何か足りぬ...

「楽観主義とは疎外された形の信念であり、悲観主義とは疎外された形の絶望である。もし人間とその将来に対してほんとうに反応するなら、すなわち関心と責任を持って反応するなら、信念あるいは絶望によってしか反応できないはずである。合理的信念は合理的絶望と同様に、人間の生存に関連したあらゆる要因についての、最も完全で批判的な知識に基づいている。人間に対する合理的な信念の根拠は、救済の現実的可能性の存在である。合理的な絶望の根拠は、このような可能性が見られないという知識であろう。」

2025-08-24

"悲劇の死" George Steiner 著

悲劇の死... それはまさに悲劇!
作家たちは、なにゆえ悲劇を書くのか。自分の不幸を愛し、絶望感に浸る自我に酔い、自分の傷口を舐めるように書く。心の叫びを聞いてくれ!と。ただの寂しがり屋か。そんな芸当のできる人間は、あまり幸福ではあるまい。そもそも幸福な人間が、小説や戯曲などというものを書けはしまい。ものを書く人は、好意的な批評を前にした時でも、反抗的な態度をとりがちだという...
尚、喜志哲雄、蜂谷昭雄訳版(筑摩書房)を手に取る。

「文芸批評は厳格さだの証明だのとは無縁だと私は信じている。正直な文芸批評とは、強烈な個人的体験によって他人を納得させようとすることである。」

ジョージ・スタイナーは、オーストラリア系ユダヤ人の家に生まれ、あの過酷なナチスの時代を生きた。彼は、自らの体験から現代における三つの傾向を指摘する。
第一に、悲劇は本当に死んでしまったということ。
第二に、技術的形式の変化はあっても、悲劇の基本的な伝統は生き残っているということ。
第三に、悲劇は生き返るかもしれないということ...

「言語については、骨格のこわばりが明らかに見てとれると、私は思う。われわれの文化における言語的習慣の多くは、もはや現実に対する新鮮な反応や創造的な反応ではなく、様式化されたしぐさにすぎない。人間の知性は今なおそれを能率的にやってのけるが、それによって得られる新しい洞察や新しい感情という報酬は逓減する一方である。われわれの用いる言葉はすり切れて手垢のついたものに感じられるのだ。それはもはやもとの無垢さや啓示力を内に秘めていない。そしてわれわれの言葉は倦み疲れているから、ダンテやモンテーニュやシェイクスピアやルターがかつて言葉に担わせた新しい意味と複雑さという重荷に、もはやたえられそうもない。」

そもそも悲劇とは、なんであろう。こいつの定義となると、なかなか手ごわい。痛ましい結末や惨めな結末で締めくくれば、それだけで悲劇と言えるだろうか。涙を誘えば悲劇、笑いを誘えば喜劇といった単純化にも抵抗がある。理不尽な運命を強いられ、なんで?なんで?と無意味に問い続けるしかないとすれば、実に哀れだが、主人公が間抜けなだけという解釈もできよう。非業な死というのもあるが、運命論に身を委ねるのもどうであろう。裏切り、奸策、騙し討ち、裏工作などが繰り広げられれば、まさに滑稽芸!そんな中で苦悩し、絶望し、様々な人間模様を曝け出せば、まさに人間喜劇!拡大解釈すれば、ロマンスにも悲劇の要素がある。
こうして、悲劇は喜劇に上書きされていくのか。悲劇の概念が曖昧になると、喜劇の概念までも曖昧になる。悲劇の死は喜劇の死をも意味するのであろうか。いや、二項対立で捉えることもあるまい。悲劇的な要素と喜劇的な要素は十分に共存できるし、なにより人間性に根ざしている。そして作家たちは、そんな枠組みに囚われず、リアリズムへと傾倒していく...

「芸術作品があらゆる私的ヴィジョンをとり囲んでいる柵を越えることができるのは... 芸術作品が詩人の鏡を一つの窓となしうるのは... 芸術家が何らかの信仰や仕来たりの枠組を作品の受容者と共有している場合だけである。それは、私が神話と呼んで来たものが生きた力をもっている場合にだけ可能なのだ。」

悲劇を中世風に定義すると、「大いに栄えながら、高位より没落して逆境に入り、悲惨な最期を遂げる物語」となるらしい。ダンテは、「悲劇と喜劇は逆方向に進む。」としたとか。その理屈からすると、あの「神曲」を喜劇とした意図も頷ける。地獄から煉獄を経て天国へと昇天していくのだから。ダンテは皮肉屋か!
では、シェイクスピアはどうであろう。ハムレットの復讐劇に、マクベスの野望劇に、オセローの嫉妬劇に、リア王の狂乱劇とくれば、これらは本当に悲劇なのか。四大悲劇と呼ばれながら、その魅力はなんといっても道化が登場するところ。真理の語りは、この世から距離を置くものの言葉に重みがある。人間に語らせれば、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。

悲劇と呼ばれる偉大な作品は、悲しみと喜び、堕落していく悲哀と、そこから這い上がってくる歓喜とが、その結末において溶け合う。そのおかげで、鑑賞者は救われる。人間は老いてゆく運命にあり、実人生もまた悲劇に満ちている。
ならば、自ら滑稽に振る舞い、道化でも演じていないと、やってられんよ。苦難をも笑いにする奥義を会得できれば... こうして悲劇が克服できるとしたら、まさに悲劇の死!

2025-08-17

"脱領域の知性 - 文学言語革命論集" George Steiner 著

脱領域とは何か。どんな領域から脱しようというのか...
人間性からの脱皮か。理性からの逃避か。実存主義からの脱却か。価値や実体は仮想空間に追いやられ、存在の何もかもが曖昧になっていく。精神の存在ですら実感できずにいるのだ。
それでも人間は、自我との対決を強いられる。もっとも手強い相手に真っ向から立ち向かわねばならぬ。だが、人間にそんな度量はない。こんな無防備な状態で、頼れるものと言えばなんであろう。やはり言葉か...
今、コンピュータ科学の洗練度に反比例するかのように、人間の定義が曖昧になっていく。多くの人は、何かから脱したいと、おぼろげに考えているようだ。それは現代社会が、なんとなく息苦しいからか。ストレス社会で現代人を蝕むもの、その正体も見えず、ただもがく...

かの言語学者チョムスキーによれば、言語現象は人間独自のものらしい。それどころか、人間を規定するものとする言語学者も少なくない。文学や詩学に限らず、芸術、音楽、数学、科学、技術など、あらゆる学や術が言語や記号によって成り立っている。そして、その記述法は時代とともに変化していく。
今日、AI で持てはやされる「生成文法」の概念は、もともとチョムスキーに発する。ア・プリオリな能力として。つまり人間は、「言葉によって生成する」動物というわけである。
ジョージ・スタイナーは、チョムスキーの唱える言語能力の視点から、人間というものを問い直す。彼はチョムスキーに同意しておきながら、その言語学の束縛からも脱しようと...
尚、由良君美ほか訳版(河出書房新社)を手に取る。

言語現象は、文化や環境と深く結びつく。英語で思考すれば、そのプロセスは英語的となり、日本語で思考すれば、そのプロセスは日本語的となる。こうした思考プロセスに、第二言語や第三言語に触れる意義が生まれる。
確かに、人間は言語を用いて思考する。が、言語を超えた領域にも知がある。言語の限界で思考を試みる達人たちは、新たな造語を次々と編み出す。まったく人騒がせな。おいらは、ア・プリオリやらエントロピーやらといった用語をなんとなく感覚で捉えていても、自分の言葉でうまく説明できないでいる。言語現象で人間を規定できるというなら、言語運動のみで理性を保つことができそうなものだが、それも叶うまい...

印刷技術の発明が、人々の目線を移す。作者から書物へ。古代の歴史は写本の写本で受け継がれ、ルネサンス時代の芸術は模倣の模倣によって磨かれた。やがてラジオやテレビが影響力を持ち、さらにソーシャルメディアが猛威を振るう。そして、模倣から猿真似へ、猿真似から拡散へ。巷には、非人間的なメッセージに溢れ、広告の嵐が吹き荒れる。
かのマルクスは「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として...」と語った。コピーのコピーもまた冷笑たる喜劇か...

「いまや、われわれは深刻な変化の過程のなかにいる。時間と個のアイデンティティーの不安定な過渡的状態、自我と肉体的死亡の不安定な過渡的状態は、言語の権威と範囲とに影響を与えるだろう。もしもこれらの歴史的普遍概念が変化し、知覚の統語論的基礎が修正されるなら、伝達の諸構造もまた変化することになろう。変形のこのレベルから眺めるならば、議論百出の的であった電子メディアの役割云々など、ただの前駆症状であり先駆にすぎなかったものになるだろう。」

本書はまず、四つの作家論を通して、脱するに足る領域を見定める。それは、ウラジーミル・ナボコフ論に見る母国語からの脱却、サミュエル・ベケット論に見る荒涼たるモノローグに彩られたヴィジョンからの脱皮、ホルヘ・ルイス・ボルヘス論に見る鏡に映し出された自己閉塞感からの逃避、ルイ=フェルディナン・セリーヌ論に見る人種主義や民族主義からの解放、といったところ。
美化された母国語にしても、偏狭な世界観や価値観にしても、過剰な自己認識にしても、愛国心に憑かれた優越主義にしても、人間を屈折させるに充分。脱領域の精神は、多種多様な他の領域との接触に始まる。

次に、脱領域のための重要な知的活動に、音楽、数学、チェスの三つを挙げている。音楽は音素を操り、数学は記号を操り、チェスは論理を操り、これらの調和とハーモニーをもって知を高めるという。そして、バッハの風景に染まった対位法に、オイラーの純粋な多面体方程式に、チェス盤(個人的には将棋盤)の正方形に幽閉された世界に癒やされる。

また、人間というものを言語機能から紐解こうとすれば、文学論を避けるわけにはいくまい。アリストテレス風に詩学と文節の調和を論じ、プラトン風にメタファーの効能を語り、言語とアイデンティティの深い結びつきを探求し...
文学作品は思考の材料を与えてくれる。この新たな思考体験は文法と語彙に制約されるが、達人の言葉使いに刺激され、そこに名言や格言が生まれる。
だが、その逆もしかり。集団的暴力は言葉によって操られる。人が嘘をつくことができるのも、言語能力のおかげ。他の動物に嘘や偽りといった概念があるかは知らん。獲物を獲得するために周囲に身を隠す術も偽りの行為と言えば、そうかもしれんが...

さらに、言語革命を科学革命になぞらえる。ついに、科学によって言語学の領域から脱するか。しかしながら、科学は万能ではない。構造的な分析にしても、還元主義の堂々巡り。学問の越境が革命の突破口となるだろうか...

「科学革命とは、いわば移行運動を行なうようなものだ。甲という主要な知覚の扉・高い窓をあとにして、乙という扉や窓に、精神が向ってゆく。すると風景はまったくあらたな視界のなかに見え、いままでとは異なる光や影のもとで、あたらしい等高線と短縮法のなかに見えてくる。これまで顕著だった様相が、いまや第二義的なものに見えてくるというか、あるいは、いっそう包括的な形のなかの、ただの要素として認識されてくる。これまでは見落されてきたり、たまたまひとつに括られていた細部が、支配的な焦点をおびてくる。世界のグリッドが一変するわけなのだ...」

2025-08-10

"文芸批評論" T. S. Eliot 著

今宵、T.S.エリオットのアンソロジーに、してやられる...
批評論はありがたい。批評対象となる作品群が、そのまま目録となる。批評する価値もなければ、取り上げはしまい。ただ、原作と批評の間のギャップを埋めるのは、読者自身でしかない...

尚、本書には、「伝統と個人の才能」,「完全な批評家」,「批評の機能」,「批評の実験」,「批評の限界」,「宗教と文学」.「形而上詩人」,「アーノルドとペイター」,「パスカルの『パンセ』」,「ボドレール」の十篇が収録され、矢本貞幹訳版(岩波文庫)を手の取る。

エリオットは、どんな詩人も、どんな芸術家も、その人だけで完結した意義を持つ者はいないと主張する。過去の芸術家との間で対照し比較することは、ただ歴史的批評というだけでなく、美学的批評の原理であると...
偉大な芸術作品は、それだけで理想的な体系を整えているかに見える。だが、その完成度の高さにもかかわらず、解釈となると時代とともに変化していく。過去に批判された作品が現在では賞賛されることもあれば、その逆も...
偉大な芸術家たちは気の毒だ。ソーシャルメディアが旺盛となり、自己主張を強める現代人が優勢となるは必定。そして、いつまでも欠席裁判を強いられる...

「ある人は言った... 現代のわれわれは過去の作家たちよりもはるかに多くのことを知っている、だから過去の作家たちはわれわれから遠く離れたところにいる... まさにそうである。しかもわれわれの知っていることというのは、その過去の作家たちのことなのである。」

現在と過去の関係を断ち切ることは難しい。それは、人間の認識能力が記憶に頼っているから。現在は過去によって導かれ、過去もまた現在によって修正されていく。それは、秩序の問題でもあろう。文芸と批評の関係も、この原理に従う。
自分の制作に没頭できる者だけが、芸術家たりうる。となれば、芸術を批評する者もまた、そうした資質の持ち主なのであろう。文学を批評するには、文学的センスを持ち合わせていなければ...

「批評には限界があって、ある方向でそれを越えると、文芸批評が文学的でなくなり、また別の方向でそれを越えると、文芸批評が批評でなくなる。」

なにゆえ、人は批評を好むのか。自己確認か、自己強調か。いずれにせよ、自己の存在意識と深く関わる行為であることは確かなようである。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体が自己を知るには、他者との比較から試みるほかはない。
ただ、もう少し正確に言えば、人は批評よりも批判を好む。論争を好む。さらに揉め事を好む。おまけに人は、他人への攻撃を外野席から観覧するのを好む。遠近法ってやつは、芸術だけでなく、批評にも必要な視点のようである...

「文芸批評で理解ということばかり重んじていると、理解から単なる説明に滑り込む危険がある。その上、そんなことはあるはずもないのに批評をまるで科学のように扱う危険もある。また享受の方を重んじすぎると、主観的、印象的傾向に陥りやすく、享受は単なる娯楽や気晴らしぐらいにしかためにならないだろう。」

巷には、批評論や試論といった類いの書が溢れている。そのために作品に直接触れず、手っ取り早く解説書に走っちまう。大作となれば、尚更。それで要点だけを掻い摘んで批評するといった悪趣味も生じる。批評の多くは、解釈することを主とする。それで誤った解釈や解釈不能といったことも生じる。批評では様々な意見が錯綜しそうなものだが、伝統的に凝り固まった批評もある。そして、詩人の批評は散文に荒らされる。
詩人エリオットの憂いが、こんなところに... 彼は、過ぎ去った時代や世代を正しく評価することはできないという。批評という行為は実験的にならざるを得ないと。これに 付け加えて、人生すべて実験としておこう...

「われわれが人間である限り、われわれのすることは善か悪かのどちらかに違いない。また善か悪かをする限り、われわれは人間である。逆説的な言い方だが、何もしないよりは悪をした方がよい、少なくともわれわれはそうして生きているのだ。人間の栄光は救済をうける可能性だということは本当だが、その栄光は罰をうける可能性だということもこれまた本当である。政治家から窃盗にいたるまでたいていの悪人について言えるいちばん悪いことは、この悪人たちが永劫の罪をうけられるだけの人間でないということだ。」

本書は、パスカルの「パンセ」にも触れているが、これほど批評の対象とされる書も少なかろう。神の存在や永遠の沈黙をめぐる議論は、ヴァレリーも参戦していた。文才という人種は、文才に釣られて何か言いたくなるものらしい...

「科学者と誠実な人間と、神を求める熱情を持った宗教的性質とが正しく結合したから、パスカルというユニークな存在ができたのである。パスカルはデカルトが失敗したところで成功している。デカルトには幾何学的精神の要素が多過ぎるからだ。この本の中でデカルトについてのべた少しばかりの言葉を見ると、パスカルは弱点を正しく指摘している。」

ボドレール論も、やや辛辣ながらなかなか。ボドレールは「未完成のダンテ」とも呼ばれているそうな。
ダンテを愛読する人の多くは、ボドレールも愛読するとか。
ここでは、「おくれてきたゲーテと言ったらもっと真実に近いだろう」と評される。