2024-11-17

"ビジョナリー・カンパニー ZERO" Jim Collins, William Lazier 著

「ビジョナリー・カンパニー」シリーズに出会ったのは、二十年以上前になろうか。「時代を超える生存の原則」、「飛躍の法則」、「自分の意志で...」と、いまだ本棚の隅っこで存在感を示してやがる。さすがに再読する気にはなれないが、ゼロを目にすれば回帰せずにはいられない。
相変わらず、教訓めいたフレーズのオンパレード!今更感が漂いつつも、またもやジム・コリンズにしてやられる...
尚、土方奈美訳版(日経BP)を手に取る。

「価値観から始まり、常に価値観に立ち戻る。」

「偉大な企業という目的地があるわけではない。ひたすら成長と改善を積み重ねていく、長く困難で苦しい道のりだ。」

「企業が追跡すべきもっとも重要な指標は、売上高や利益、資本収益率やキャッシュフローではない。」

「正しい事業のアイデアより、正しい人材のほうがはるかに重要だ。」

「リーダーシップとは、サイエンス(理屈)ではなくアート(技能)だ。」

「起業家の成功は『何をするか』ではなく、『何者であるか』によって決まる。」

副題に「ゼロから事業を生み出し、偉大で永続的な企業になる」とある。
しかし、だ。力量の遠く及ばない凡人がビジネス上の大成功物語を夢見ても詮無きこと。そもそも、ゼロから始める必要もなければ、偉大になりたいわけでもない。
それでも、自分が大切なものを知らないまま生きているのではないか、という不安感を少しばかり鎮めてくれる。自分の生き方に誇りを持ち、最期に有意義な人生であったと思えれば、それが幸せというものか。ビジネスがギャンブルなら、人生もまたギャンブル!それで、自分の価値観や世界観は人生を賭けるに値するか、などと自問してりゃ世話ない...

「根本的問いは『あなたが達成しようとしているビジョンは何か』だ。」
... 心理学者アブラハム・マズロー

ところで、企業の意義とはなんであろう。そこに所属する意義とはなんであろう。生活費のためというのは避けられない。だが、それだけでは寂しい。古代の叙事詩人ヘーシオドスが唱えたように仕事は人生と直結する。
そして企業は、人生観を体現する場ともなりうる。にもかかわらず、経済学者や金融アナリストたちは、効用最大化といった概念を崇めすぎる感がある。
本書はまず、人生哲学における価値観やビジョンといったものを掲げる。逆に言えば、価値観やビジョンに共感できなければ、関係を持つ意味を失うことになる。しかも、成長が良いものとは限らない。現実に、急成長が後に望ましくない結果を生み出すこともある。永続的であろうとすれば、問題とすべきは成長の中身!こうした視点は、このレトロな書が今更感を吹っ飛ばしてくれる...

「大多数の人は良い仕事をしたいと思っている。誇りを持てる事業に参画したいと願っている。困難な仕事に挑戦し、自分の力を証明する機会を欲しがっている。仲間に頼りにされれば、応えようとする。敬意をもって扱われれば、並外れた仕事をやってのける。」

「企業を利益という観点から定義すると、説明することはできない。(中略)利益最大化という概念は実のところ、無意味である。(中略)企業を評価する第一の指標は、利益を最大化しているか否かではなく、経済活動のリスクをカバーするのに十分な利益を生み出しているかだ。」
... ピーター・F・ドラッカー

2024-11-10

"専門家の予測はサルにも劣る" Dan Gardner 著

ダン・ガードナーという人は、なかなか挑発的なタイトルを掲げる。証券アナリストに対しても、似た表現を見かけるけど...
しかし、賢い専門家もいる。健全な懐疑心を持ち合わせ、無知の原理を心得た専門家もいる。本書の対象は、メディアで露出度の高い専門家だ。有名になればなるほど予測が当てにならないとは、これいかに...
はずしてばかりでは自然消滅しそうなもの。ところが、こと予測の世界ではそうはならない。自信満々に主張するからこそ視聴者は耳を傾け、格好よく断言するからこそ人は信用する。彼らはよく間違えるが、決して曖昧なことは言わない。要するに、当たろうが、はずれようが、どうでもいいってことだ。
聞き手はというと、同調する意見を自信満々に発言してくれれば、それで心地よくなれる。たとえ反対意見でも攻撃対象にすれば、それで心地よくなれる。メディアは視聴率が上がれば、それでいい。そもそもメディアとは、そうしたものだ。
もはや正しい予測は無用!正しく判断できれば、それでいい。だが、それが一番の難題!正しく予測する以上に...
尚、川添節子訳版(飛鳥新社)を手に取る。

「科学の最も重要な産物は知識である。しかし、知識の最も重要な産物は無知である。」
... 理論物理学者デイヴィッド・グロス

わずかでも合理的な懐疑心があれば、占星術や迷信の類いを信じたりはしないだろう。だが、専門家ってやつは優秀で知識の豊富な人種で、その思考法も合理的。少なくとも、そう見える。
聞き手も、正しいことを信じるのではなく、信じたいことを信じる。分かりやすく、ドラマチックな物語に惹かれる。おまけに、何もないところにパターンを見つけ、無作為な結果に意味を与えようとする。いくら自己欺瞞に満ちていようが...
こうした性質は、おそらく本能的なもので自己存在とも深く関わるのであろう。それは、自分の人生に意味を与えようとするのと、同じことやもしれん...

「どのようなケースでも必ず、賛成する理由と反対する理由があり、つまり、どちらを選択してもその反対理由を押し切って選んだことになる。こうなると不協和が生じるため、自分の結論に賛成する要素を過大に評価し、反対する方を小さく見ることで合理化しようとする。」

人間の認知能力には、必ずバイアスがかかる。確証バイアスに、現状維持バイアスに、後知恵バイアスに、ネガティビティバイアスに、利用可能性ヒューリスティックに... 枚挙にいとまがない。それは、心理的に避けられない性癖だ。
政治家の世界では、正しさは重要ではない。重要なのは大衆を確信させること。メディアが欲しいのは正しい意見ではない。専門家の意見がニュースを作成する側と一致しないことは、よくある。どちらにも、どうせ大衆はすぐに忘れてくれる!という思惑が渦巻いている...

「人間は未来が見えないと、待つことしかできないという不安な状態になる。」
... 心理学者ダニエル・ギルバート

人間は、不確実性を嫌う。それは、不安感と同期するからであろう。したがって、あらゆる商売戦略で不安を煽る風潮がある。どんな結果であろうと、未来を予測し、それに対処し、安心を買いたい!ただ、それだけのこと。
しかし、この心理学を人間の愚かさと吐き捨てるわけにはいくまい。迷信や宗教を拒絶し、楽観論や陰謀論を受け入れず、メディアや専門家の意見までも認めないとすれば、あとは何が残るというのか。自己はそれほど信頼に値するのか。自分自身しか信じられないとしたら、それこそ危うい事態だ。
いや、心配はいらん。自己正当化のパターンはいくらでもある。それこそ人類の偉大な創造性であり、進化の産物である。そして、この皮肉に満ちた楽観主義の言葉で終えるとしよう...

「同志たちよ!社会主義の勝利は間違いない。マルクスは時期を外しただけなんだ!」

2024-11-03

"ホモ・ルーデンス - 人類文化と遊戯" Johan Huizinga 著

人類には、「ホモ・サピエンス」という呼び名がある。知恵ある人、賢者といった意味で...
しかしそれは、人類に相応しい呼び名であろうか。金融アナリストが練りに練ったポートフォリオは、おサルさんのダーツ並とくれば、超エリートがこしらえた政策立案はことごとく裏目。ノーベル賞級の経済学者が国際規模の経済危機に陥れ、国家を代表する政治家が政治不信を増幅させる。そればかりか、教育家が教養を偏重させ、愛国者が敵対心を煽り、聖職者が神を擬人化し、博愛者が愛を安っぽくさせる。お節介な有識者どもよ!なに故、こうも社会をいじりたがる。どうやら、そこには見えざる手が働くと見える。

ちなみに、アンリ・ベルクソンは「ホモ・ファベル」という呼び名を用いたそうな。作る人、創造者といった意味で。確かに人類には、そうした一面もある。だが、あらゆる創造性には、どこか心に余裕めいたものがなければ...
そこで、ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」という呼び名を用いる。遊び心を持った人、遊戯人といった意味で。まさに遊び心から生まれた用語だ。彼は主張する。「人間は遊戯する存在である。先天的な模倣本能に從って...」と。そして、文化因子としての遊戯を問いながら、人間存在としての遊戯を問う...
尚、高橋英夫訳版(中央公論社)を手に取る。

「抽象観念なら、そのほとんど全部を否定し去ることも不可能ではない。正義、美、真理、善意、精神、神、何でもかまわない。また真面目、真摯というものを否定することもできる。だが、遊戯はそうはいかない...」

遊戯といっても、その定義となるとなかなか手ごわい。少なくとも、単なる遊びを超越している。単純な動機に発する衝動から、有り余る生命力の放出と解釈することもできよう。あるいは、緊張からの解放、克己や自制の訓練のための布石、有害な衝動を無害化する鎮静作用、さらに、自我の存在意義とその確認といった目的めいた解釈もできる。
しかしながら、遊戯の本質は、もっと単純で純真な人を夢中にさせる何か、ということになろうか。気まぐれは偉大だ。子供じみた本能に好奇心や興味といった情念があり、ひらめきや発明といったアイデアはここに発する。ワクワクするような雰囲気に包まれ、ささやかな秘め事を帯び、こうした感性こそ遊戯の源泉。日常や慣習から解き放たれ、もはや掟なんぞの及ぶ領域にない。
ちなみに、イギリスの諺に「好奇心は猫を殺す」というのがある。好奇心過ぎて身を滅ぼすといった意味で。御用心!御用心!

「遊戯とはあるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為、もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に從っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的拘束力を持っている。遊戯の目的は行為そのものの中にある。それは、緊張と歓びの感情を伴い、またこれは日常生活とは別のものだという意識に裏づけられている。」

人類は、長い年月をかけて文化を育み、言語を発明したおかげで、言葉と戯れる性癖を培った。言語によって成り立つ学問も、知と戯れる性癖の一つ。哲学対話も、科学論議も、政治論争も、社交遊戯の類い。
ホイジンガは、政治、法律、祭祀、芸術といったあらゆる文化的要素の源泉を遊戯に求め、人間の本質を遊戯で説明して魅せる。宗教の儀式もお祭りから、「政」の訓読みも「まつりごと」となれば、政治も遊戯。とはいえ、宗教的な残虐行為や戦争までも遊戯の延長とは...

ホイジンガは、ナチスがヨーロッパを席巻した過酷な時代を生きた。平然とやってのける残虐行為を目の当たりにすれば、すべてを道化の行為として説明せずにはいられないのだろう。競争や論争も遊戯の変形か。古代の戦争は、英雄伝を夢見ては名誉を競い合った。そうした競い合いも、互いに戯れ合う延長上にあったのかもしれない。好敵手という言葉もあるように...

だが、近代戦争は非人間化を加速させていく。政治も法律も硬直した理性に支配され、人間味が薄れていく。知性が豊かになると、理性も高まりそうなものだが、実のところ、理性の凶暴化が始まるのかもしれない。ソーシャルメディアには理性の管理人に溢れ、人間社会には誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。エイプリルフール禁止令まで見かける始末。現代人は、遊び方を忘れちまったのか。理性の大衆化は滑稽だ。これぞホモ・ルーデンス!

そういえば、世阿弥の「風姿花伝」にも、滑稽が芸術の域に達する技芸が論じられていた。シェイクスピアの四代悲劇にしても、道化に真理を語らせる滑稽劇!滑稽こそ人間の本質か。そして、滑稽を高度に発達させた挙げ句に非人間化を成就させ、逆に、AI が人間化していくのやもしれん...

2024-10-27

"人間・この劇的なるもの" 福田恆存 著

人生とは、滑稽劇のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンに、エリートの仮面をかぶればエリートになりきり、セレブリティの仮面をかぶればセレブかぶれにもなる。あとは、幸運であればその流れに乗り、不運であればそれを糧とし、いかに達者を演じるか...
人生なんてものは、得体の知れぬ実存なだけに、こいつに意味を求めずにはいられない。それで、人生の意味を見つけたと信じて優越感に浸ってりゃ、世話ない。意識の権化はいずこに...

「自然のまゝに生きるといふ。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のまゝに生きることを欲してゐないし、それに堪へられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがつている。また演じてもゐる。たゞそれを意識してゐないだけだ。さういへば、多くのひとは反發を感じるであらう。芝居がゝった行為にたいする反感、さういふ感情はたしかに存在する。ひとびとはそこに虚偽を見る。だが、理由はかんたんだ。一口でいへば、芝居がへたなのである。」

自我の世界では、誰もが主役。だが、現実の世界では、誰もが主役を演じられるわけではないし、欲してもいない。主役でなければ生きる喜びが得られないわけでもない。それでも、何かを演じたがっている。その意識は、他人にも何かを演じさせなければ成り立つまい。
人間が欲しがっているのは、自己の自由ではないのか。ここでは、「自己の宿命」と表現される。自己の宿命を自覚した時のみ、自由感を味わえるものらしい。自己が居るべきところにある実感、それが宿命感というものらしい。
人は自由であることを信じる。幸福であると思い込む。そうやって現実と折り合いをつけ、自己を納得させながら生きている。成功しても、失敗しても、その結果を必然とし、自己を納得させる。それは、自己がそこに存在しているという実感が欲しいのか。これ以上の自己欺瞞はあるまい...

「人間存在そのものが、すでに二重性をもつてゐるのだ。人間はたゞ生きることを欲してゐるのではない。生の豊かさを欲してゐるのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味はふこと、それを欲してゐる。現實の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに關らずには、いかなる人生論も幸福論もなりたゝぬ。」

自由は、個人主義との結びつきが強い。本書は、シェイクスピア劇の主人公に個人主義の限界を見る。かの四大悲劇を渡り歩けば、ハムレットの復讐劇に、マクベスの野望劇に、オセローの嫉妬劇に、老王の狂乱劇と動機は単純。だから設定を複雑にせずにはいられないのか。前戯好きにはたまらん。
ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベスに至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。
四大悲劇の魅力といえば、なんといっても道化が登場するところ。真理を語らせるには、この世から距離を置く者が説得力をもつ。人間が語ったところで、言葉を安っぽくさせるのがオチ。ハムレットやリアの主張を聞いたところで、作者自身の声は聞こえてこない。シェイクスピアはいずこに...

「シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。シェイクスピアは私たちに、なにかを與へようとしてゐるのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしてゐるのである。それが、劇といふものなのだ。それが、人間の生きかたといふものなのだ。」

シェイクスピアの個人主義の限界に自由の許容範囲を重ねると、まったく正反対にある全体主義が見えてくる。自由主義者は、全体主義を忌み嫌う。だが、全体主義とは、個人を生かすための集合体として結成される。そして、集合体が維持できなければ、奥深い無意識の中で自由が悪魔と結託して個人を抹殺にかかる。
それは、シェイクスピア劇が見事なほどに再現してやがる。全体主義は個人主義の帰結であり、その延長上にあるというわけか...

「自由が正義によつて合理化され、目的として追求されはじめたとき、生命力は希薄になる。いや、個人のうちに全體との默契を可能ならしめる生命力が希薄になるにしたがつて、ひとびとは無目的な自由を恐れはじめ、身を守るために、それに目的や名目を與へて、正義の座に祀り上げるのだ。さうすれば、さうするほど、この形式的な威嚴のうちに機械化された自由が、弱體化した生命力を締めつけてくる。個人を解放するための自由が、個性を扼殺するのだ。」

人々は、全体主義と同様に、死を忌み嫌う。だが、死を遠ざけることによって、生は弱体化していく。生の終わりを考慮しない思想や観念は、幸福をもたらさないばかりか、行き過ぎたヒューマニズムを煽る。せめて、劇の中で臨終体験を...

「生はかならず死によつてのみ正當化される。個人は、全體を、それが自己を滅ぼすものであるがゆゑに認めなければならない。それが劇といふものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにさういふふうに生きてきたし、今後もさういふふうに生きつゞけるであらう。」

2024-10-20

"マイケル・ポランニー「暗黙知」と自由の哲学" 佐藤光 著

暗黙知 "Tacit Knowledge" という言葉に惹かれて...

「われわれは語るよりも多くのことを知ることができる。」

マイケル・ポランニーとは、どんな人物であろう。物理化学者と紹介されるが、経済論、知識論、宗教論、芸術論、神話論などと、その視界は広すぎるほどに広い。ナチズムからスターリン体制下のソ連時代という苦難の時代を生きたユダヤ系ハンガリー人ということもあって、様々な方面で考えを巡らさずにはいられなかったのであろう。人間社会ってやつは、自由主義に内包される責任に耐えられなくなると、権威主義や全体主義に傾倒していくらしい...

認識過程において、言語で表すこのできない領域がある。だが、哲学者や思想家たちは、言語による明証、説明、論証を最高の手段としてきた。客観性を熱く主張すれば、その主張自体が個人的な主張を強めてしまう。人間ってやつは、思考する限り主観性からは逃れられない。それでも、主観から導かれる客観の領域がある。形式化と非形式化、言語領域と非言語領域、その狭間をもがきつつも辿り着く知の領域がある。

本書は、知識の根源を「分節化されたもの」「分節化されないもの」をダイナミックな相乗効果として物語ってくれる。分節化とは、文章化や記号化できる明確な知のことで、暗黙知に対して明示知としている。
人間の知るという技芸は、分節化されない領域でなんとなくイメージされたものが多分に混在しているものと思われる。誰にでも生じる思い込みという現象も、こうした暗黙の領域で説明がつきそうだ。沈黙の力も...

とはいえ、暗黙知というのは思考プロセスに位置づけられるものであって、そこから導かれる哲学的思考の方が重要やもしれん。
ポランニーが自由を信奉した人であることは間違いあるまい。だが、当時のリベラリズムにも二種類あるという。それは、英米系リベラリズムとヨーロッパ大陸系リベラリズムである。彼は前者を肯定し、後者を否定したとか。英米系リベラリズムは、ミルトンやロックによって定式化され、教会をはじめとする権威からの脱却と、科学をはじめとする思想の自由を擁護する。ただ、宗教の自由を唱えても、カトリックとプロテスタントに寛容なだけで、無神論者を否定する立場。
一方、ヨーロッパ大陸系リベラリズムは、ヴォルテールや百科全書学派などによって定式化され、英米系よりもはるかに真面目で、厳密で、反権威主義と哲学的懐疑の原則を究極にまで適用する。権威という権威を徹底的に排除すれば自由の権威までも否定し、懐疑的思考を徹底的に膨張させれば、あらゆる書物や聖書までもが否定される。

反自由も独裁も、それを行う者にとっては自由の一形態と言えなくもない。マルクス主義は、人権、自由、平等を過剰なまでに要求し、ジャコバン主義は、フランス革命の下で旧体制を完全に葬り去ることを目的とする過激派に変貌した。ナチズム、ファシズム、共産体制も、こうした流れに位置づけている。行き過ぎた自由が自由主義を破壊し、行き過ぎた平等が平等主義を破壊する。行き過ぎた正義が正義を堕落させ、行き過ぎた倫理観が非人道的行為に走らせる。そこに政治と宗教の原理がある。本書では「道徳的反転」「宗教的反転」と表記され、いずれも自己破壊がもたらした結果というわけである。

「現代思想はキリスト教的信仰とギリシア的懐疑の混合物である。キリスト教的信仰とギリシア的懐疑は論理的に両立不可能であり、両者の葛藤が、先行する諸思想よりもはるかに、西洋思想を活性化させ創造的なものとしてきた。しかし、この混合物は不安定な基礎である。現代の全体主義は宗教と懐疑主義の葛藤の極限の姿である。それは、われわれの道徳的熱情の遺産を現代の唯物論的諸目的の枠組みのなかに組み入れることによって、この葛藤を解決しようとする。」
...マイケル・ポランニー

ポランニーは「開かれた社会」を批判する立場を表明しているという。すべての価値観に開かれているという理想は、人間が特定の価値を必要とする以上、実行不可能な要請であると...
開かれた社会を理想像に掲げる有識者は多い。だが、理想が高すぎるがゆえに破綻することもしばしば。すべてを受け入れれば、全体主義も受け入れることになり、リベラリズムは非リベラリズムへと傾倒していく。その結果、どのような世界観も信じることのできないニヒリズムを助長させることに...

「ポランニーにとっての自由社会は、すべての価値を無差別に認めるような『開かれた社会』ではなく、自由社会に伝統的な諸価値への積極的献身(dedication)を求める、ある種の『閉ざされた社会』だった。」

人間社会で自由主義が機能している場の一つに、経済活動が挙げられる。市場原理は、自由な取引によって価格を決定し、自由な生産活動を促進する。だが現実には、自由競争は弱肉強食と化し、独占や寡占が横行、新たな奴隷制度が組み込まれる。その反発から、マルクス主義的唯物論が生じることに...
ポランニーはケインズ主義を表明し、完全雇用のために公共投資の必要性を唱えたようだ。だがこれもまた、行き過ぎたケインズ主義が公共事業を無理やり創出しては、族議員を蔓延らせることに。大衆民主主義を利用してのし上がるのが政治屋の常套手段。失業問題をあっさりと解決したヒトラーも...

「しかるに、世の多くのリベラリストは、本末転倒にも、自由社会あるいは反全体主義社会を構想するにあたって、私的自由を基本あるいは究極目的として、その上に公的自由を積み上げようとしている。こうした思想は、じつは、全体主義者、ファシスト、共産主義者にとって少しも脅威ではないのであり、多くのリベラリストは自分で自分の墓穴を掘っていることになる... これが、ポランニーの主張の要点である。」

宗教を論じれば、その存在意義を問わずにはいられない。多種多様な人間の在り方を、融合せしめるのが宗教であるはず。なのに、あらゆる紛争の火種となるのは、どういうわけか。無宗教や無神論の方が合理的ではないのか。
一つの人間を崇めれば、他の人間を否定することになり、一つの宗教を崇めれば、他の宗教を否定することになる。ならば、絆で結ばれるより距離を置く方がましではないか。その結果、ニヒリズムや人間嫌いを助長させても...
宗教が不要だとは言わない。人間である以上、なんらかの信仰を持って生きている。無神論者であっても、宇宙の絶対的な存在を感じないわけではない。科学界も、産業界も、非宗教的に振る舞ってはいるが、宗教的信仰と無縁ではない。底なしの無信仰に陥ったり、狂信の世界に埋没したりすることはあっても、人間である以上、なんらかの信仰を持ち続けている。

本書の興味深いところは、宗教論をシェイクスピア劇のような虚構や芝居との類似性において考察している点である。それも、儀式という形態の中で。神の世界へ導くというより、俗界からの解放の方が意味がありそうだ。聖なる時間を取り戻すというより、苦悩に満ちた俗なる時間からの解放を。現世で救われなければ、普遍的な世界に縋るほかはない。その儀式的行為が慣習化すると、盲目的に崇めることに。それで心が安住できるなら、精神的合理性というものか...

「宗教とは、儀礼(rites)、儀式(rituals)、教義(doctrines)、神話(myths)、礼拝(worship)と呼ばれるものを含んだ想像力の広汎な作品(work)であることがわかる。したがって、それは、われわれがこれまで考察してきた他のどのようなものより、はるかに複雑な『受容(acceptance)』の形態なのである。」
... マイケル・ポランニー

2024-10-13

"エフォートレス思考" Greg McKeown 著

本書は、「エッセンシャル思考」の続編。前編では、何をやるかを伝授してくれた。ここでは、どうやるか、その事例を紹介してくれる。
コンセプトは、「努力を最小化して成果を最大化!」。極力無駄を省こうというわけだが、現実は厳しい。あまり無駄をなくすことに執着するのもどうであろう。極論を言えば、生きていること自体が無駄、人類の存在そのものが無駄という見方もできる。
また、物事は、あまり単純でもつまらない。難問に立ち向かうことに喜びを感じたり、我武者羅にやってみたいという衝動に駆られることもある。頑張って努力したことが自信につながることもあれば、我武者羅にやっているうちに、今まで見えなかったものが見えてくるってこともある。

とはいえ、アドレナリンジャンキーはゴメンだ!燃え尽き症候群もゴメンだ!
懸命な努力が成果につながることも事実だが、それには限界がある。無駄をなくすというより、脳にゆとりをもたせようという意味合いであろうか。仕事というより、趣味のような生き方を!無駄から学べれば、無駄ではなくなる。
本書も、失敗から多くを学べるので第一歩を気軽に踏み出そう... 失敗なくして習得なし... と励ましてくれる。どんなに優れた書き手でも、言葉ですべてを言い尽くすことは不可能であろう。その奥に、バランス感覚と中庸の哲学が読み取れる。あまり力まず、肩の力を抜いて、人生を謳歌しよう... これがコンセプトだと解している。
古くから人生論に「ビッグロックの法則」が囁かれてきた。器に小さな石から入れると、大きな石が入らなくなる、優先すべきものを考えよう... まさに、そんな教訓を物語ってくれる。
尚、高橋璃子訳版(かんき出版)を手に取る。

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」
... マタイ福音書、11章30節

ポイントは三つ...
  • エフォートレスな精神... 余裕のマインドを手に入れ、難易度を下げることに抵抗しない。
  • エフォートレスな行動... 最も効率のよいポイントで実行する。
  • エフォートレスな仕組み... 行動パターンを自動化し、成果が勝手についてくる仕掛けをこしらえる。

アジャイル開発は、無駄をなくし、難解な部分を簡略化する戦略だが、エフォートレス思考は、この戦略に適合しそうである。
エフォートレスな仕組みでは自動化戦略を物語り、直線的な、直接的な成果よりも、累積的な成果を求める。この自動化を、おいらは習慣化と解す。累積的な成果とは、小さな努力の繰り返し。アリストテレスは、こんな言葉を残した。「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為でなく習慣である。」と...

認知心理学に「知覚的負荷」という概念があるそうな。
ソーシャルメディアが荒れ狂う社会では、余計な知覚を捨てることはすこぶる難しい。シンプルに考え、シンプルに行動するには、余計な情報を捨て去った方が幸せになれそうだ。
努力の価値が過大評価されているのも事実。成功するために心身を酷使して働かなければならないというのは、社会の集団幻覚か。現代人は、なにかと多忙だ。おまけに、慢性的な睡眠不足ときた。そして、すぐに結論に飛びつく。現代人の多くは、人生のリズムを集団の中で乱している。しかも、自ら...

「不運な出来事が起こったとき、それをあきらめて受け流すのは難しい。どうしても不満や怒りが湧いてくる。不満を言うのは簡単だ。あまりに簡単なので、多くの人は不平不満を言うのが日常になっている。... 不満をぶちまけるのは、一種の快感だ。ソーシャルメディアを見れば、ありとあらゆる不満が並んでいる。みんなが攻撃的になっている。巻き込まれまいとしても、知らず知らずに影響を受けてしまう。」

脳科学や心理学によると、「今」として体験される時間は約 2.5 秒だそうな。人生は、2.5 秒の繰り返しというわけか。この短い時間に、スマホを置き、ブラウザを閉じ、深呼吸することができる。この 2.5 秒をモノにして、最初の一歩を有利に踏み出そう!というわけか...

「難しいのは、聞くことではない。聞きながらその他のことを考えないことだ。難しいのは、その場にいることではない。そこにいながら過去の出来事や未来の予定に気を取られないことだ。難しいのは、何かを見ることではない。雑多な情報を無視して、見るべきものだけを見ることだ。」

2024-10-06

"芸術作品の根源" Martin Heidegger 著

ハイデッガーが生きた時代は、二つの大戦を経て、ナチスの高官どもがヨーロッパ中の美術品を漁りまくった時代。もはや芸術は死んじまった!との愚痴が聞こえてきそうな芸術論に出くわす。
芸術に自由精神は欠かせない。だが、束縛の反発として自由精神が生起することだってある。芸術の根源を探求すれば、芸術そのものの在り方を問い、その本質に立ち向かうことになる。本質に立ち向かえば、真理を問うことに...
ここでは「真理の生起」と表現され、芸術作品は「現実性」においてのみ存在しうるとしている。そして、カント風の主観的普遍性の域に達すると、不滅たる作品に昇華させると...
尚、 関口浩訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

「作品そのものが、作者の巨匠たることを証明する、ということはすなわち、作品がはじめて芸術家を芸術の支配者として登場させる... 芸術家は作品の根源である。作品は芸術家の根源である。一方なしには他方もない。それにもかかわらず、両者のいずれもが単独で他方を支えることはない。芸術家と作品とは、各々それ自体の内で、そしてそれらの交互連関の内で、第三のものによって存在する。」

「現実性」という表現も、なかなか微妙である。芸術は現実性に支配されているんだとか。
しかし、リアルとリアリティでは、似ているようで違う。例えば、コンピューティングの分野には仮想現実(VR)や拡張現実(AR)といった空間世界があり、人間の認識はこの空間に現実性を見る。また別の空間では、夢を見ている間は現実と区別ができないほどリアリティに満ちている。
人間の認識能力は、心理的にも、生理的にも、誤魔化しが利き、現実でなくても現実性と見なすことができちまう。それは、「真理」とて同じことやもしれん。真理めいたものは大いに語りまくるが、本当の真理となると沈黙せざるを得ない。そもそも、真理ってやつは人間が発明した言語体系で記述できるものなのか。言語の限界に挑めば、暗号めいた叙述となるは必定。それは哲学の宿命か。
神は意地が悪い。人間と真理は絶妙な距離感を保ち続け、近づけそうでなかなか近づけない。弁証法をもってしても、真理の探求はすぐに行き詰まる。そして、永遠に探求し続ける羽目に。馬の鼻先に人参をぶら下げるかのように...

ところで、真理とはなんぞや?どうやら、真なる本質を言うらしい。芸術を探求する過程で、伏蔵性と不伏蔵性の狭間でもがく。
美学は、真理が不伏蔵性としての本質を発揮する一つのやり方だという。原因から結果へ写像していくうちに、不伏蔵性という明確な存在から伏蔵性という内なる存在を感じられるようになるんだとか。論理性からの脱皮とでも言おうか。真理への開眼とでも言おうか。芸術への道は甚だ遠し...

2024-09-29

"いまだない世界を求めて" Rodolphe Gasché 著

原題 "In View of a World"...
これを「いまだない世界」とするのは、これから来たるべき... という希望が込められている。それは、ある種のユートピアか。いまだ人類は、普遍的な世界に辿り着いていない。だがそれは、永遠に辿り着けないのかもしれない。現実社会は、異なる世界が複雑に絡み合う乱雑な世界。すべての人に開かれた世界でもなければ、万人が歓迎できる世界でもない。
ロドルフ・ガシェは、マルティン・ハイデッガーの美学の概念、カール・レーヴィットの世俗化の概念、ジャック・デリダの責任の概念という三者三様の思索を通じて、新たな世界を探る。そして、人々が共有できる価値観を模索しようと、哲学の有り方、哲学の限界といった哲学本来の意義に着目し、デリダ風の脱構築に活路を見い出す...
尚、吉国浩哉訳版(月曜社)を手に取る。

ところで、哲学とはなんであろう。こいつが真理と相性がいいのは、確かなようである。哲学ってやつは、文学にも、歴史学にも、政治学にも、倫理学にも、技術にも、はたまた仕事や日常にも結びつく。あるいは逆に、哲学の方が主体となって文学になったり、芸術になったりと、自ら主役を演じたり、脇役を演じたり変幻自在。哲学が真理と結びつけば、哲学をともなわない科学技術は危険となろう。そして、哲学をやれば、真理と対峙し、言語の限界、さらに人間の限界に挑むことになる。
では、真理とはなんであろう。弁証法は、循環論から救ってくれるだろうか。その先に、いまだない世界を見せてくれるだろうか。
ちなみに、コンピューティングの分野には、仮想現実や拡張現実という世界がある。天邪鬼には、そのぐらいの世界で留めておく方がよさそうか...

1. 芸術作品の根源... ハイデッカー
芸術は、既に死んでしまったのか。美学に奪われてしまったのか。ヘーゲルやハイデッカーによると、そういうことらしい。芸術作品は伝統的な哲学的意義を見失い、単なる感受性の対象に成り下がってしまったという主張である。19世紀から20世紀にかけての政治の在り方に照らせば、そういう見方もできそうか。
とはいえ、哲学を内包した美的価値を持ち続けた芸術家もいるし、その延長で政治批判や宗教批判として描かれた作品も少なくない。ドイツ語の "Ästhetik(美学)" のニュアンスもなかなか手ごわい。そして、ここに一つの美学批判を見る。
ガシェは、芸術作品は現実性を帯びてこそ価値が見い出せるとしている。しかも、作品の固有な現実性は、真理が生起することによってのみ効力を発揮すると...
それにしても、この表現は痛烈だ!
「美学とは死体を愛することである。そこでは、偉大な芸術の屍臭が漂っている。」

「ヘーゲルにとっては、芸術の現実性は抽象的な理念と具体的で感性的な現実との統一に基づいている。これに対し、ハイデッガーにとっては、芸術とは、もしもそれが一つの世界の根源にあるのならば、つまり事物、人間、神々の関係がなす有意味な複合体の根源に芸術があるのならば、それは現実的である。」

2. 信仰の残余... レーヴィット
レーヴィットの宗教論議は、摂理や終末論をともなうキリスト教的な歴史観が前提されているようだ。世俗化とは現実化であり、その意味合いもキリスト教の枠組みからは脱していない。人間の罪と神の救済とが結びつき、原罪と救済が結びつかなければ、この枠組みは成立しない。唯一神を信仰すればこそ、神の意志と人間の意志の不一致を問題にできる。神の声を聞くことのできる人間が、あるいは、その資格のある人間がどれほどいるかは知らんが...
近代の歴史哲学は、「キリスト教信仰の哲学的世俗化」だという。そこでガシェは、もう少し踏み込んで世界宗教という観点から論じようと試みる。一旦、古代ギリシア哲学とキリスト教から断絶して...
だからといって、マルクス主義的観念論に陥ることはない。かくして、宇宙論は人類を救うであろうか...

3. 限界なき責任... デリダ
責任とは、なかなか奇妙な概念である。この概念が哲学で議論され始めたのは、比較的新しいようだ。18世紀末、フランス革命の文脈として出現し、哲学的概念となったのは、19世紀だとか。元来、政治や法律用語であったが、キェルケゴールやニーチェにも見い出すことができる。そして、フッサールの絶対的自己責任に始まり、ハイデッカーの原初的な責任を経由して、デリダの限りなき責任へという流れ。
そういえば、仕事をやっていると、使命感のようなものが芽生える。良心の呵責とも結びつきそうな。それは本能か、自己の正当化か。責任を負うためには、まずそれを知らなければなるまい。責任という概念が、本質的に善から創出されるならば、客観的な知識と結びつくであろう。
しかしながら、ソクラテスの時代から論じられてきた無知の知という問題は如何ともし難い。おかげで、責任と自我の肥大化は、すこぶる相性がいい...

「責任が知識に従属するのならば、いかなるものであってもそれは無化されてしまう。また、責任は理論的規定の位相をも超越しなければならない。この位相なしに、責任は不可能であるにもかかわらず...」

2024-09-22

"五輪書" 宮本武蔵 著

どんな場面でも、なにかに対する時、観察力が問われる。兵法とは、それを体現する場。敵を知り己を知れば百戦危うからず!
だが、兵法を学んでも、それを役立てるかどうかはその人次第。それは、すべての知識について言えること。自然科学もまた、観察哲学を体現する場と言えよう。

さて、無の境地に達した剣聖の書とは、いかなるものか。一旦、刀を抜けば、相手を殺すしかない。それが剣術の道。「五輪書」とは、あまりに殺伐とした世界を純真に捉えた故に、あまりに馬鹿正直に生きた故に、生まれ落ちた書やもしれん。
戦いには間合いと拍子があるという。間合いを計り、拍子を知り、これに即した勝つ理を捉え、それを体現する技芸。これが兵法というものだそうな。
それは、人生とて同じ。組織や人との距離を計り、あらゆる行為のリズムを知り、これに即した理を捉えるのが人の生きる道というものか。
六十余度にわたる生死をかけた真剣勝負で会得した「二天一流」と称す奥義とは...

尚、本書には、原文と訳文に加え「兵法三十五か条の書」と「独行道」が併録され、佐藤正英校注・訳版(ちくま学芸文庫)を手に取る。

「われ三十を越えて跡を思ひみるに、兵法至極して勝つにはあらず。おのづから道の器用ありて天理を離れざる故か。または他流の兵法不足なるところにや。その後、なほも深き道理を得むと朝鍛夕錬してみれば、おのづから兵法の道に合ふこと、われ五十歳の頃なり。それより以来(このかた)は、尋ね入るべき道なくして、光陰を送る。兵法の利に任せて諸芸・諸能の道となせば、万事においてわれに師匠なし。」

五輪書は、地(ち)、水(すい)、火(くわ)、風(ふう)、空(くう)の五巻より構成される。
地の巻では、兵法の道を説き、大きなるところより小さきを知り、浅きところより深きに至る。能芸や管弦に拍子があるように武芸にも拍子があり、鉄砲や乗馬にも拍子があるという...

「拍子の間(あひ)を知ること... これ、無念無想なり。」
...「兵法三十五か条の書」より

水の巻では、水を手本とし心を水となし、「有構無構」の教えを説く。心の内を邪念で濁さず、心を広く持ち、広いところに智恵を置くべし。構えありて構えなし!とは、水の流れのごとく...
ちなみに、子連れ狼こと拝一刀の水鴎流とは関係なさそうだ。

火の巻では、「二天一流」の戦い様を火になぞらえ、勝つ理を説く。

風の巻では、我が道を一流とせず、様々な兵法の流れを見渡す。昔の風、今の風、家々の風、世の風など様々な流儀を。他流を知らずして、一流の道に達し得ない。その奥に善悪を知り、是非を知る。何事にも長所と短所があるというわけか...

空の巻では、何が兵法の奥義か、何が表か、何が基本かなど言い当てるまでもない。空(くう)の心で、道理を得ては道理を離れ、己の能力を体得し、自然体で拍子を捉えては剣術を自由自在に謳歌する。思うがままに打ち込むべし!これぞ無の境地か...

「空といふ心は、もの毎のなきところ、知れざることを空と見立つるなり。もちろん空はなきなり。あることろを知りて、なきところを知る。これすなはち空なり。
  -- <略> --
心(しん)・意(い)二つのこころを磨き、観(くわん)・見(けん)二つの眼を研ぎ、少しも曇りなく迷ひの雲の晴れたるところこそ、実(まこと)の空と知るべきなり。」

また、兵法の道は、武士に限ったものではないという。世に士農工商があれば、農耕の道、職人の道、商いの道がそれぞれあり、出家であれ、女人であれ、下賤の身であれ、義理を知り、恥を知り、死を潔くする者は実に多い。むしろ武士の方に心得なき者が多いと嘆く。
そういえば、新渡戸稲造は、「武士道」という書で日本人の心を海外に紹介した。西洋式に宗教に頼らずとも、道徳観や倫理観が育まれることを。本書にも、武士道精神が庶民にまで浸透していた様子が見て取れる。

「道において、儒者・仏者・数奇者・しつけ者・乱舞者、これらのことは武士の道にてはなし。その道にあらざるといふとも、道を広く知れば、もの毎に出合(いであ)ふことなり。いづれも、人間においてわが道々をよく磨くこと肝要なり。」

戦国時代から江戸初期にかけて、数多くの剣術の流派が百花繚乱を競う。大まかには、一刀流、神道流、陰流の三系統に区分されるとか。柳生石舟斎宗厳の柳生新陰流もその一派。武蔵の「二天一流」がどの流れを汲むかは不明のようだが、「五輪書」に先立つ十一年、柳生宗矩が書した「兵法家伝書」と同じ境地に達しているらしい。
兵法を上中下で格付けすると、「身や太刀の強さ・速さや構えの多さをひけらかすのは下位の兵法、細密な技や拍子のよさを衒い、きらびやかで見事なのは中位の兵法、強くも弱くもなく、人目を惹く見事なところもなく、大きく、真直ぐで、静かなのが上位の兵法」と武蔵は説く...

2024-09-15

"福翁百話" 福澤諭吉 著

自伝もいいが、随筆はさらにいい。達人が書けば尚更。自由奔放に筆を振るうだけに、自分自身に言い聞かせている所もあろう。自省心がなければ、為せない技か。自伝は生きた時間の流れに乗り、随筆は気分の流れに乗る。独立自尊を謳歌するように...
尚、服部禮次郎編集版(慶應義塾大学出版会)を手に取る。

「自由は不自由の間に在りと云う。凡そ人生には自主自由の権あり、上は王公貴人、富豪大家より下は匹夫匹婦の貧賤に至るまで、智愚強弱、幸不幸の別はあれども、名誉生命私有の権利は正(まさ)しく同一様にして、富貴巨万の財産も乞食の囊中にある一文の銭も、共にその人に属する私有にして之を犯すべからず。生命も斯くの如し、名誉も斯くの如し。」

「学問のすゝめ」(前々記事)に至った動機を伺いつつ、「福翁自伝」(前記事)を経て、「福翁百話」+「福翁百余話」に至る。
自伝では、ユーモアと愚痴を交えた改革精神に魅せられた。
百話では、宇宙を語り、万物を語り、無始無終の変化を語り、自然の無常を語り、道徳を語り、政治を語り、その先に自得自省、独立自尊の道を説いて魅せる。そして、思想の中庸を唱え、智徳の独立を説き、無学の不幸を知るべし!と励ましてくれる。

「人間世界の有形無形、一切万般を物理学中に包羅して、光明遍照、一目瞭然、恰も今世の暗黒を変じて白昼に逢うのを観あるや疑うべからず。故に今日の物理学の不完全なるもその研究は正(まさ)しく人間絶対の美に進むの順路なれば、学者一日の勉強一物の発明も我輩は絶対に賛成して他念なき者なり。」

独立精神を育むのは、結局は自分次第なのであろう。誹謗中傷の嵐が荒れ狂う社会にあって、他人を貶めて自己を安泰ならしめるなら、独立自尊なんぞ程遠い。不徳というより無知というべきか。
しかしながら、無知でいることが、いかに幸せであるか。集団社会では尚更。であるなら、自分の無知を承知して、無知者らしく無知を謳歌したいものである...

「人生は至極些細なるものにして蛆虫に等しと云うは、他人の沙汰に非ず、斯く云う我身も諸共に蛆虫にして、他の蛆虫と雑居し以て社会を成すことなれば、蛆虫なりとて決して自から軽んずべからず。」