2026-01-11

自己肯定には嘘が欠かせない... 自己責任にも逃げ道がなくっちゃ...

巷では、自己肯定感ってやつがもてはやされる。自己肯定に縋らないと生きて行けないのなら、人生は辛い。実際、こんな感覚は他人否定によって支えられている。
巷では、自己責任論が渦巻く。自己に責任を持てる人間がどれほどいるというのか。既に、こんな言葉はお前が悪いという意味で使われている。

自己を知るには勇気がいる。自ら演じた醜態を遠近法で眺め、羞恥心と距離を置けば、どちらが本当の自分やら。自己肯定感に嘘は欠かせない。自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、自我を失うのも容易い。これで自己責任論を免れ、めでたしめでたし!

自己責任ってなんだ。本当に自分に課したものなのか。自己を見つめずして、自己責任もあるまい。それは、何かに依存している自分を受け入れてこそ成り立つ。自己責任を明確にするために、説明責任を自己に課す。そんなことをしても、精神の縄張りを確認するだけ。そう片意地はらんと、自己責任にも逃げ道がなくっちゃ...

誰もが参加できる自由な形態にも、自己責任論が渦巻く。メーリングリストで「コーディング規約に従っていないので修正するように...」などと指摘された日にゃ... 指摘する側が自発的なら、指摘される側も自発的なだけに恥ずかしい思いをする。誰もが自由に参加できる!というのは、実はハードルが高い。実は、権威主義的な監視よりも民主主義的な抑圧の方が、はるかに厳しいのやもしれん。分散型リポジトリとは、自己責任型を言うのか。
確かに、自由な活動は自己肯定感をそそる。これを自己責任で背負うなら、ここにも逃げ道がなくっちゃ...

2026-01-04

すべては神のせい!神様はズボラでなくっちゃ...

不運な境遇を神のせいにすれば、救われるだろうか。重い病を神のせいにするのと運命論で片付けるのとでは、どちらが楽になれるだろうか...

一方で、幸運な出来事には、誰はばかることなく自分の力だ!と断言できる。なんとおめでたいことか。しかし、そうでも考えないと、生きてゆくのは難しい。やはり人間には、神が必要なようだ。しかも、沈黙しておられる。なんて都合のよい存在であろう。神の声が聞こえると主張する者にとっても、神を信じない者にとっても...
神という存在は、迷い心から生じるのか。いや、迷い心を鎮めてくれるものなら、なんでもあり。悪魔の囁きにも耳を傾け、無神論者にもなるさ...

宇宙の摂理は完全かもしれないが、人間が知りうる摂理は不完全ときた!
古代の哲学者たちは、そのことに思いを馳せ、人間は人間自身を知りうるか?と問い続けた。プラトンが、人間は羽のない二本足の動物である... と定義した時、それで人間の正体を確信したわけではあるまい。アリストテレスが、人間は社会的動物である... と定義した時、それで人間社会の実体を確信したわけではあるまい。パスカルが、人間は考える葦である... と定義した時、それで人間の存在意義を確信したわけではあるまい。言葉でうまく説明できないからといって、それをまったく知りえないということにもなるまいが...

デモクリトスが、原子論を唱えた時、そこに実存と空虚の対立を見る。存在認識とは、虚像との対置において成り立つものであろうか。精神や魂も、理性や真理も、徳や正義も、そして、神も...
神が不敬虔者を罰するなら、神にも悪意があるに違いない。神が不完全なら、人間にとっても親近感がわくし、信じる気にもなれる。神様はズボラでなくっちゃ!

2025-12-28

"有閑階級の理論" Thorstein Veblen 著

有閑階級とは、なんとも挑発的な用語だ。こっちときたら、貧乏暇なし!嫉み、妬みの類いは、ことのほか根深い。
アカデメイアやリュケイオンに学園が創設された時代、哲学のできる身分は生活にゆとりのある家柄であった。王族や貴族の時代、その階級に属すだけで社会的に威信をまとうことができた。21世紀の今、やはり裕福な家庭の方が教育費をかけられ、まったく羨ましい限り。それで賢くなれるかは知らんが...

資本主義社会では、金は天下の回りもの!なる言葉が大手を振る。巷には様々な所得形態に溢れ、生産の対価、卸売や流通の対価、取引手数料、不動産賃貸、広告収入、金利所得、配当金、年金、あるいは派生的な金融アルゴリズムに身を委ねるなど、ますます多様化が進む。不労所得という用語もあるが、労働の概念そのものが変化し、生産性と非生産性の境界も曖昧になっていく。直接的生産と間接的生産といった方が、当を得ているであろうか。経済の繁栄は、資本の循環こそ源泉。血液の流れのごとく。それで、浪費を正当化できるかは知らんが...

ソースティン・ヴェブレンは、「衒示的閑暇」「衒示的消費」という用語を持ち出す。衒示的とは、顕示的、誇示的といった意味らしい。つまり、見せびらかしの閑暇や見栄っぱりな消費である。
自己顕示欲は、ことのほか手ごわい。資本家階級は生活のための労働を免れ、学問やスポーツやレジャーに御執心。哲学を論じ、宗教を論じ、政治を論じ、軍事を論じ、愛国心を旺盛にしていく。近代化とは、そうした時代であろうか。社会的な威信をまとうために高価な商品を買い漁り、物財や儀式に神聖なるものを求め、並外れた富の所有や浪費によって名声を得ようとする。
ヴェブレンは、こうした有閑階級に対して反感を匂わせながらも、近代社会の経済的要因の一つとしての意義を論じて魅せる。有閑階級は、所有の意識とも強く結びついてきたという。有閑階級と奴隷階級の始まりは、鶏が先か卵が先かの関係にも似たり。いずれにせよ、私有財産制は、人間が人間を所有するという意識に始まったとさ...
尚、小原敬士訳版(岩波文庫)を手に取る。

「閑暇が、名声の手段としていちはやく優越したことは、高貴な職業と下賤な職業との古代の区別にさかのぼることができる。閑暇が名誉あることであって、至上命令となったのは、ひとつには、それが下賤な労働からの免除を示すからである。高貴な階級と下賤な階級との古い社会分化は、りっぱな職業と下賤な職業との上下の差別にもとづく。」

初期の財産意識は、戦利品に見ることができるという。征服欲は領土に留まらず、文化を征服し、人間を征服する。ここに奴隷制の原点を見る想い。
戦争をやるのが男どもなら、征服地の女は戦利品扱い。やがて戦争に勝つことが集団社会の誇りとなり、優越主義や民族主義を旺盛にしていく。ここに帝国主義の原点を見る想い。
人口密度が高まり、掠奪集団が一つの固定した産業共同体に成長していくと、財産権を支配する権威が増大していく。

やがて法が整備され、力で財産を掠奪することも不可能となり、行儀作法や礼儀作法を重んじる上流階級は、確固たる地位へ押し上げられていく。有閑階級が概して保守的なのも道理である。そして、下流階級がそれに憧れ、模倣するようになる。
自尊心と呼ぶところの自己満足感が、人からの尊敬を集めることを基礎とするなら御の字!だが、知性も、理性も、世間体の対象というのが本音であろう。
哲学とは、暇人の学問か。閑暇を得て、ディオゲネス哲学にでも耽り、犬のように気ままに生きたいものだ。しかし現実は、集団社会に尻尾を振り、社会制度に縋りながら生きている。人間の集団依存症は、ことのほか手ごわい...

では、すべての人間が有閑階級に昇華すれば、平和な社会になるだろうか。労苦のすべてをロボットに委ねれば、誰もが有閑階級に身を置くことができるだろうか。
一方で、別の力学が働く。生産性の欲求という力が。クリエイティブな職業に就き、活動的に生きたいという人は大勢いる。社会のために役立ちたいと考える人も少なくない。こういう人々に尊敬の目が集まるのも事実。こうした意識に、本書は「制作本能」という用語を当てる。
自己の存在意義を求めるのは、いわば人間の本能。かくして、有閑階級が人間性を高めるのか、堕落させるのか。人間が人間を所有するという意識に問題があるとするなら、すべての人間を AI の前で奴隷化しちまえば、人類が夢見てきた真の平等社会が実現できるだろうか...

「かつておこなわれたあらゆる機械的な発明が、人間の日常の労働を軽減させたかどうかは、いまにいたるまで疑問である。」
... J. S. ミル

2025-12-21

"シンメトリーの地図帳" Marcus du Sautoy 著

数学をミステリー仕立てに...
本書は、シンメトリーという幾何学的性質を群論と結びつけて物語ってくれる。群論とは、数学界で最もミステリーな存在とでも言おうか。定義そのものは、そう難しくはない。結合法則が成り立ち、単位元が存在し、逆元が存在する。ただそれだけのこと。だが、この単純さ故に自然数の深遠さを告げている。しかも、こいつが幾何学の美の象徴たるシンメトリーと密接に関係するというのだから、むしろ群論の地図帳というべきか。
シンメトリーの要素は、図形を決定づける辺の数や面の数といった集合で表され、これらの数の演算と変数で組み立てられる方程式が絡む。つまり、方程式の解をめぐる問題でもある。辺の数が素数の正多角形のシンメトリー群という視点は、素数からゼータ関数へ、さらに楕円曲線へと導かれる。なるほど、群論とは、シンメトリーな言語であったか...
尚、冨永星訳版(新潮社)を手に取る。

自然界は、多種多様なシンメトリーに看取られている。雨粒や雪の結晶から素粒子まで。それはエネルギー効率が良いからであろうか。巻き貝はフィボナッチ数に現れる黄金比に従って殻を成長させていく。ミツバチは、六角形のクレマチスの花や放射状花弁が並ぶデイジーやヒマワリといった回転シンメトリーに惹かれ、マルハナバチは、ランやフォックスグローブやマメ科の植物といった左右対称の鏡映シンメトリーに惹かれる。ハチの目が、こうした幾何学を識別できるほどに進化したのは、そこに滋養エネルギーを感じとるからであろうか。
人間もまた、美術や建築、あるいは異性に対してシンメトリーな幾何学美に惹かれる。カノンは、その定義からして並進シンメトリーの一例。バッハの対位法には対称性が渦巻き、ゴールドベルク変奏曲がシンメトリーを奏でる。
周りを意識する生物には、常に不安がつきまとう。この不安から逃れるために法則めいた安定した存在が求められる。シンメトリーな居心地とは、そうした類いであろうか。生命体が厳しい環境で生き抜くには、自然界に点在するシンメトリーを見分ける能力が必要なのかも...

「自然のなかのシンメトリーは、いわば言語なのだ。動物や植物はシンメトリーを使って、遺伝的な優位から栄養に関する情報まで、実に多様なメッセージを伝えることができる。シンメトリーは、なんらかの意味があるという印であり、ごく基本的な... いや、ほとんど原始的といってもいい... コミュニケーション形態なのである。」

ところで、シンメトリーとはなんぞや。幾何学的な美的感覚の内にあることは確かだ。これを知りたければ、その構造を分解し、幾何学的な元素として分類していく。まずは、バラバラにして構成要素に還元せよ!人間の美に対する還元主義は旺盛と見える。自然数を素数で因数分解するように、シンメトリーの素数なるものを探求する。
しかしながら、シンメトリーの分類定理ができたとしても、化学の周期表のようにはいくまい。容易に化合物を作ったりはできないのだから。
そこで本書は、「...表」ではなく「アトラス(地図帳)」という語を用いてシンメトリー群のマッピングを試みる。アトラスとは、ギリシア神話の巨人神になぞらえてのことであろうか。正多角形にまとわりつく有限回転群から、ガロア群、リー群、マシュー群を辿り、196883 次元空間にして数論のモンスターが姿を現す。自然は偉大だが、自然数もまた偉大と言わねばなるまい...

2025-12-14

"ものぐさ数学のすすめ" 森毅 著

これは、数学の本ではない。数学が主題でもない。数学者が、ものぐさな態度で綴る随筆集である。随筆には、それを寄せ集めると、一つの生態系のようなものが生じる。しかも、達人が書くと、一冊の哲学書を成す。尤も、数学は哲学である... というのがおいらの持論。やっぱり、これは数学の本やもしれん...

「少なくとも、難しくても楽しめることが、あってよい。たとえばファインマンの『物理学』、内容は高度だし、難しすぎてようわからんことが至るところにあるのに、全体としてなにやら楽しく読める。難しくってわからんのは、まあしゃあない。わからんでも面白く、苦労せずに楽しめる、せめて数学もそうなってほしい。」

太平洋戦争中からシラケっぱなし、イジケっぱなしの数学教授が物申す。シラケるのは、巷に正義の士がはびこるから。忠君愛国少年やら正義愛国青年やらが叱咤してくれば、シラケてでもないと身が持たない。それで、非国民呼ばわれ...
今の時代とて、集団的熱狂にうんざりする人は少なくない。冷めた批判精神こそが時代を切り開く原動力となってきたのも確か。天の邪鬼には、たまらん...

人生そのものは、深刻なもの。自殺を考えなくて済めば結構なことだが、考えたからといって異常でもあるまい。自殺は、たいてい些細なきっかけで阻止できる。まずは冷めた目で自己を見つめること。人は冷笑に救われることが多い。
人生には向上心が重要であることも確か。だが、それだけでは足りない。下を向いて学ぶことも必要だ。一つの方向にしか目が向いていないと、人生の視野も狭くなる。シラケたり、イジケたりするのも、その方法論というわけか。
人生ってやつは、道化になりきってこそ、その本質が見えてくるようである...

ちなみに、たいていの数学者は、計算が苦手だそうな。だから、計算をあまり必要としない抽象数学へ向かうのだとか。
QED... という決まり文句で納得する数学者も少ないそうな。定理の証明手続きと、それを自分のものにして納得するのとでは、まるで次元が違うという。
とはいえ、自分を納得させるために、こだわりの哲学を実践するのは、ことのほか難しい。やはり人間には、分かった気になることも必要だ。こだわりの呪縛から自らを解き放つために...

さて、著者は「森一刀斎」と号して、正義論、文化論、教育論、読書論、自殺論、大学論などをぶちまける。ちょいと気に入ったところを拾っておこう...

「その頃の教訓として、あらゆる暴力の中で、もっとも恐ろしいのが、正義の名のもとの暴力であったことだけは忘れない。不良少年の暴力よりは、教師の暴力の方が悪い。ヤクザの暴力よりは、警察の暴力の方が悪い。暴徒の暴力よりは軍隊の暴力の方が悪い。暴力には、正義よりは、血の臭いがふさわしい。血のけがれを正義の幻想で洗い流すことだけは許さない。これ、かつての弱虫ダメ人間からの告発。」
... 「ダメな人間のバラード」より

「いつか、ルネサンス期の大学について論じあっていて、医師に牧師に弁護士それに教師は詐欺師の仲間、と言っていたら、師と士はどう違うかというのに、師の方は欺されたい人間を欺す商売で、士の方は欺されたくない人間を欺す商売だ、という卓抜な学説が生まれた。いまは医師と弁護士と教師が代議士に出世する時代である。」
... 「文化のエコロジー」より

「怒りや嘆きより、人間にとって根源的なものは、むしろ笑いのはずだ。秩序とは、笑いによってだけ攻撃可能なのであって、人民の怒りなどといった代物が革命的帝国主義へ行きついた歴史を、あまりにも多く見てしまったではないか。当節、怒りの攻撃性が有効などと、きみはまだ信じているのか。」
... 「楽屋の思想」より

「大学へ入ってまず心得ねばならぬことは、教師の言うことを聞かないことである。もっともこれは古典的な逆説で、そう言っているのが当の大学教師なのだから世話がない。しかしながら、少しまともなことはたいてい、逆説によってしか語ることができないものでもあるのだ。『読書案内』なんてのもそうしたもので『大学生として読むべき本』なんてのがそもそも矛盾した概念で、『読むべき本』などを他人に教えてもらったりしないのが、大学生というものではないか。」
...「反読書案内」より

「あとで迷いをなくすには、先に迷っておくものだ。はじめに迷わずに進んで、最後の段階で迷いだすのが一番つまらん。」
... 「森一刀斎の受験道場」より

「専門というなら、最低の条件は自律だ。ライセンスなんかの問題ではない。医者の専門性は診断を自分ですることで、裁判官の専門性は判決を自分ですることだ。判断をまわりにお伺いをたてる教師に、専門性を言う資格はない。自分の判断で教育するのが、教師の専門性である。」
... 「教育養成大学を志望するきみたちに」より

2025-12-07

"電気革命" David Bodanis 著

電気とは何か。それを見た者はいない。だが、その存在を感じることはできる。物体が帯びる電磁場、あるいは、それを取り巻くエネルギー場を通して...
電気が走る... という表現もある。それは気配のようなものか。それは魂のようなものか。人間の意思を自由電子の集合体とするなら、そうかもしれん。
ところで、電流と電圧の違いとは、なんであろう。それは、しびれるか、しびれないかの違いさ...

本書は、雷に電気の種を見たフランクリン、電気の力場に居場所を求めたファラデー、愛の告白のために電話を発明したベル、電磁波の放射に遠隔作用を見たヘルツ、電子の振る舞いに万能機械を夢見たチューリング、物質の結晶格子に電気特性を見たショックレー、そして、彼らの発明や技術が軍事と結びついてきた背景を物語る。
また、電気の基本単位アンペア、ボルト、ワットに名を冠する電気屋さんたちの逸話も見逃せない...
尚、吉田三知世訳版(新潮文庫)を手に取る。

電気革命において、最も社会貢献した技術とは何か?と問えば、トランジスタを挙げる人は少なくない。つまり、半導体素子を。この発明がデジタル社会の幕開けを告げた。主役に躍り出た物質はシリコン。この結晶格子が持つバンドギャップを利用すれば、電子を流したり、止めたりすることができる。原子レベルでオンオフ制御ができれば、チューリングが夢見た超高速の論理スイッチも実装できる。しかも、この結晶を組み合わせることによって、ほぼ無限の多段等価回路が形成され、高密度化への道が開ける。そして、ムーアの法則を呼び込むことに...

それにしても、電気とは摩訶不思議な存在である。力場に存在する正の電荷と負の電荷は同じ数だけ存在し、両者はよく釣り合い、普段は無であるかのように振る舞う。電荷の効果が生じるのは、そのバランスが崩れた時。この「場」を研究したのがファラデーなら、場の中で伝搬する「電磁波」を研究したのがヘルツである。

宇宙には、電磁波が満ちている。光も電磁波の一種だが、これを伝搬するための媒体は存在するのだろうか。宇宙空間には、何かが充満しているのだろうか。マクスウェルは、エーテル説を信じて電磁理論を展開したが、エーテルが存在しなくても成り立つことで苦悩したと伝えられる。それは、エーテルの存在を否定したのではなく、あってもなくてもいいってことか。かつて物理学は、エーテルの存在を否定したが、今ではダークマターの存在が囁かれている。それはエーテル代替説か。宇宙を説明するには、従来の物質とは違う概念が必要なようである。
電磁波は、人体にも満ちている。自己複製能力を備える生命体もまた電荷で形成され、細胞や神経伝達系、DNA までも電磁場に包まれる。人間は電子の振る舞いによって思考し、気分までも動かされる。そして、この電気特性がそのまま医療技術に投影される。

電気を取り巻く力場の研究では、ファラデーが電磁場の基礎理論を確立し、マクスウェルがあの四つの方程式のもとで電磁気学という一分野を確立した。
電気というものの存在が初めて唱えられた時、こんなものがなんの役に立つのかと馬鹿にされたことだろう。ファラデーは、いずれ税金がかけられるだろう... と言ったとか、言わなかったとか。そして、現代社会の利便性は電気によってもたらされる。
だが、どんな利便性も、そのまま社会的リスクとなる。価値交換の利便性は、そのまま犯罪の利便性に。善と悪は共存し、すべてはイタチごっこ!これが人間社会というもの。
最先端の科学技術には、まずもって軍事利用されるという皮肉な歴史がある。その相殺のために人間は神を必要とするのか。但し、神もまたサイコロを振るらしい...

今や、電気のない社会を想像することはできず、ムーアの法則のごとく電気依存を加速させていく。なんにせよ過度の依存症は恐ろしい。いずれ、太陽フレアが大規模で発生したり、小天体の接近で地球の電磁場が削られたりして、かつてない大停電を経験することになるのか。二百年以上かけて築き上げてきた電子社会も、一夜にして崩壊する日が来るのやもしれん...

2025-11-30

"バナッハ - タルスキの密室" 瀬山士郎 著

数学の本をミステリー仕立てとは、なかなかの趣向(酒肴)。定理に至るプロセスは推理過程そのもの。数学とミステリーは、すこぶる相性がよいと見える。
登場人物は、推理小説ではお馴染みのシャーロック・ホームズと、その記録係ジョン・ワトスン。ここでは、バナッハ - タルスキの定理をホームズ探偵譚で物語ってくれる。
見ることと観察することは、はっきりと違うのだよ... ワトスン君!

これは、錬金術に惑わされる人々の物語である。人間の欲望本能がそうさせちまうのか。かのニュートン卿は錬金術の研究に没頭したと伝えられる。「自然哲学の数学的原理」を書した人物までも...
人類は、実に多くの仮想的な価値を編み出してきた。市場取引で貨幣の倍増を目論むのも、ポイントを貯めて貨幣と見なすのも、ネット社会に出現した分散型通貨も錬金術の類い。いや、貨幣そのものが仮想的な存在。いやいや、資本主義経済そのものが価値を自然増殖させちまうシステム。したがって、人間社会にインフレ現象はつきもの...

「単純なものにほど人は騙されやすい。これは奇術の常識さ!」

ホームズは、犯罪組織のボス、モリアーティ教授とライヘンバッハの滝で最後の対決をし、それから三年もの間、失踪する。死亡説も囁かれたが...

1. 最初の偽錬金術師事件
最初に登場する錬金術師は、ホームズの失踪と同時に現れたシャイロット・ヘルメスという男。そこの奥さん!ちょいと、見て見て見て!ここに取りい出したるは、賢者の石の粉末!これをニュートン卿の霊に導かれて手に入れたのよ。どうやって手に入れたか?って。それは営業秘密ね!この粉末を使って、過去の錬金術師がやろうとしたように鉛を金に変えることはできないよ。だけど、目の前にある金を増やすことはできちゃう!
そして、不器用な手付きで、正方形の金の延べ板を適当に切って長方形に並び替えると、なんと面積が増えちゃった。

  8 x 8 = 64 を 5 x 13 = 65 に並び替え、1 マス分、増えている。

まさに、幾何学的トリック!不器用ってところが、本当っぽく見せるのよ...
これを「ボヤイ - ケルヴィンの定理」で反証する。

「平明図形 A をいくつか切って並び替えて平面図形 B ができるための必要十分条件は、A と B の面積が等しいことである。」

これを三次元に拡張したのがヒルベルト 23 問題の三番目のヤツ。ここで、その反証に用いられた「デーンの定理」を持ち出す。

「正四面体を切ってどんなに並び替えても立方体にはならない。つまり、同じ体積の正四面体と立方体は分割合同ではない。」

この分割合同を球体に適用すると「バナッハ - タルスキの定理」が強烈に匂い立つ。

それはさておき、ヘルメスに金をだまし取られたのは、モリアーティ教授にかかわる悪徳貴族ばかりだったとか。ホームズは失踪から帰還するも、ヘルメスは行方をくらまし、取り逃す。ヘルメスが世間を騒がした時期とホームズが失踪した時期が重なるのは、単なる偶然か?ワトスンは、この事件の真相を記録する勇気がなかったとさ...

2. 次に、偽降霊術師の密室事件
自称降霊術師の両手には手錠がかけられ、手錠は窓の手すりに鎖でくくりつけられている。部屋には死体と降霊術師しかいない。まさに密室!事件解決に、殺された男の霊を呼び出して事情を聞こうと...
確かに手錠は外せない。だが、くくられた鎖との関係から紐解くことができる。手錠は閉空間をなし、鎖も閉空間をなすが、これらを両手という開空間で結びつければ... またもや幾何学的トリック!
ホームズは「ライデマイスター移動」という結び目の定理を持ち出し、トポロジーを絡めるが、ちと大袈裟な。知恵の輪か、あやとりの類いでは...

3. 最後に、本物の偽錬金術師事件... 本当に本物?
大学の研究室で日系数学者の森屋氏が不可解な事故死を遂げた。直径が 2 メートルもある岩で圧死したという。この巨大な岩を外から部屋へ持ち込む方法は皆無。一度家をぶっ壊せば話は別だが。つまり、巨大な岩は最初から部屋にあったことになる。
ここで、取りい出したるは「バナッハ - タルスキの定理」。この定理には、二つのバージョンがある。拡大バージョンと複製バージョンとが...
前者は「球面を分解して組み立て直すと、大きさの違う球体を作ることができる」と告げ、後者は「一つの球面を分解して組み立て直すと、二つの球面を作ることができる」と告げる。
こうした現象は、球面に実存する各点を集合として捉え、これらが群と絡まった時に生じる。それは、無限のなせる仕業か...
群とは、一言で言えば、ある演算の対象となる数の体系。球面を適当に回転すると、回転群ができる。回転の仕方は軸の取り方次第で、それこそ無限にある。

「球面から可算集合を取り除いた残りの球面と元の球面とは分解合同になる。」

カントールが集合論を編み出したのは、無限を手懐けるためだったのか。なにしろ、直線上の点の数と平面上の点の数が同じだというのだから尋常ではない。無限集合から選ばれしものを一つの集合と見なした時、その選ばれしものの正体は... 「選択公理」ってやつが、大きさや数量といった概念を崩壊させちまうのか...
人間の思考に無限が絡むと、実存主義なんぞ自己崩壊しちまう。無限とは、得体の知れない存在という意味では、魂のごとく。
群は恐ろしい。群れは恐ろしい。それは人間社会とて同じこと。どんな良い事でも、人間が集まり過ぎると碌な事がない。群衆には、個々の意志とはまったく別の意志が働く。群衆という一つの個体が生まれたかのように。そして、この集団力学はことのほか強大だ。これも、ある種の群論であろうか...

それはさておき、森屋教授は密室でバナッハ - タルスキ分解を実践して見せたというのか。実は、森屋というのはモリアーティ教授の変名であったとか。なんと強引なオチ!数学の定理と駄洒落は、すこぶる相性がよいと見える...

2025-11-23

"バナッハ - タルスキーのパラドックス" 砂田利一 著

こいつぁ、定理か?それとも逆説か?
バナッハ - タルスキーの定理には、二つのバージョンがあるという。拡大バージョンと複製バージョンとが...

「球体を適当に分割し、それらを適当な方法で寄せ集めると、大きさの違う球体を作ることができる。」
あるいは、
「球体を適当に有限個に分割して寄せ集めることにより、元の球体と同じ球体を二つ作ることができる。」

大きさの違う球体とは... 野球のボールのような小さな球体から、地球のような巨大な球体が作れるとでもいうのか。どうやらそうらしい。
同じ球体を二つとは... 同じ理屈でいくつでも球体を作ることができるというのか。どうやらそうらしい。
これは、存在の定義を問うているのか。実存からの解脱を意味しているのか。宗教家ともなると、言葉では語り得ぬ事柄については、逆説をもって語ってみせる...

「不合理なるが故に信ずる。」... 教父テルトゥリアヌス

数学史を紐解いてみると、それは矛盾との葛藤の歴史とも言えよう。ゼノンに始まるアキレスと亀の徒競走には、瞬間という微分的思考と積算という積分的思考が交錯し、無限の影をちらつかせる。瞬間という無限小の概念を通して眺めれば、飛んでいる矢だって止まっている状態を定義できる。時間の流れを瞬間の集まりと捉えるなら、ここに集合論が匂い立つ...

集合論では、二つの集合を比較する時、要素を一対一で対応させ、対応できない余った要素があれば、そちらの集合の方が大きいとする。実に当たり前な考え。
では、無限集合ではどうであろう。カントールは、無限集合を自身の真部分集合と一対一で対応できるものと見なした。対角線論法が、それだ。
しかも、無限集合の大きさに濃度、ℵ(アレフ)という概念を持ち込む。
例えば、自然数の集合と一対一で対応できる状況が作れれば、同等の無限集合ということに。そして、整数、奇数、偶数も可算集合として同じ濃度 ℵ0 ということに...
直観的に同じであるはずもないが、数学の証明においては、こういうことが起こる。同じ理屈で、二次元平面上に存在する有理数は一次元の直線上にマッピングできる。多次元でも同じこと。カントールは、無限を手懐けることで、うまいこと有理数に居場所を与えたものだ。
そして、無理数という不可算集合を考察すれば、実数は有理数よりも大きくなり、この手の集合を ℵ1 ということに。ある集合より大きな集合は、集合の集合の... 冪集合!さらに次元の高い無限集合!無限の無限!寿限無!寿限無!と呪文を唱える羽目に...

こうなると、無限なんてものが本当に実在するのかも疑わしい。それは数学でしか扱えない代物か。単なる証明技術に過ぎないのか。
仮に定義を単純化して、有限でなければ無限!とするなら、有限で不可能なことは無限ではすべて可能!と解することもできる。数学の本質がその自由さにあるとすれば、なんでもありか。宗教じみてもくる...

「無限には二種類ある。否定的無限と真無限である。否定的無限は果てしのない進行をいい、これは有限を越えて進むが、どこまで進んでも有限に止まる。これに対して、真無限とは他者のうちにおいて自己自身に止まるところの普遍者、有限なものを契機として止揚している精神・絶対者である。」
... ヘーゲル

似たような思考実験は、幾何学にも見られる。辺の長さや角度といった概念を取っ払えば、トポロジーの世界へ。バナッハ - タルスキーの定理は、この幾何学の領域にある。
鍵となるのは、「選択公理」というやつ。証明に至る計算は正しそうだ。論理的にも間違ってなさそうだ。
しかしながら、選択公理の適用においては狐につままれた気分。こいつぁ、数学の技術か。姿や形なんてものは、要素の選択の仕方でどうにでもなるというのか。まさに人生そのもの。人生もまた矛盾に満ち満ちてやがる...

「分割は存在するが、その構成法はない。」

矛盾に遭遇すれば憂鬱にもなるが、無批判に信じてきたものに疑念を抱かせ、反省を促すこともある。人類は、矛盾を手懐けるために、様々な思考技術を編み出してきた。
例えば、存在が証明できなければ、一旦存在を否定し、そこに矛盾を見い出して否定の否定を真とする。背理法がそれだ。
あるいは、系に内包される矛盾を論理的に乗り越え、自ら統一した見解を無理やり見い出そうとする。弁証法がそれだ。
こうした思考法が新たな境地を開いてきたのも事実だが、存在をめぐる論理は相も変わらず隙だらけ。自己の存在すら確かなものではないし、精神や魂の存在すら物理的に説明できずにいる。自己存在を確実に説明できなければ、自己言及によって矛盾に陥るは必定。人間の認識すべてが...
無限を相手取るには、存在の定義をたった一つで限定するより、多くの奇妙なことを容認しなければならないようだ。シュレーディンガーの猫のように...

「存在証明に適用される背理法は、具体的構成法には拘らない論理であるが、現代数学はさらに究極的とも言える論理上の約束事を使うことがある。それは『選択公理』という、集合論に現れる大前提である。...(略)... 選択公理は、選ぶという人間の行為を超越した、まさに『御神託』とも言える約束事なのである。」

2025-11-16

"微積分読本" 田村二郎 著

秋風立つ今日この頃、いつもの古本屋で散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。数学を読み物にする本とは... 読本の定義も微妙だが、それは読み手次第ということであろうか。今、童心に返る思い...

「現実の世界を支配している自然法則に対して、われわれが一度十分に透徹した理解に到達するならば、これらの法則はただちに、最も透明な単純さと、最も完全な調和をもつ数学的関係として表現される; この事実は幾何学のなかだけではなく、それにも増して物理学のなかで、驚くほど繰り返し示されてきた。この単純さと調和に対する感覚は、今日、理論物理学において欠くことのできないものであり、これを養うことが数学教育の主な任務であると私には思われる。」
... ヘルマン・ワイル

本書は、六つの基本関数を典型的な物理現象に照らしながら物語ってくれる。六つの関数とは、一次関数、二次関数、cos 関数、sin 関数、指数関数、対数関数。物理現象とは、物体の一様な運動で、自由落下、放物体、等速円運動、振り子、放射性核の崩壊など。微積分が対象とするのは連続関数で、動的な関数の挙動や動く量に対する感覚を要請してくる。

物理現象の変化は時間の関数で記述され、それを瞬間的に捉えようとすれば時間で微分することになり、大局的に捉えようとすれば時間で積分することになる。
連続性は、人間の認識能力にとって根源的な性質であり、「瞬間」という見方と「変化率」という捉え方で、距離、速度、加速度を時間の関数で記述することができる。そう、ニュートン力学の第二法則だ。

空間認識を記述するには、ベクトル空間の概念がしっくりくる。ベクトル分解の概念は、座標に関数を投影する感覚で捉えることができ、多次元に適用できる。ベクトルの加法が登場すれば、可換群が匂い立つ。そう、あのアーベル群だ。本書にアーベルの名は見当たらにないが、ここでは匂わせてくれるだけで十分。

cos 関数と sin 関数の相関では、ともに二階微分すると符号が変わる特性に照らして、そのまま向心力と遠心力に適用できる。そう、ニュートン力学の第三法則だ。cos と sin はセットで相殺特性があり、解析学で鍵となる分解特性が匂い立つ。そう、フーリエ変換だ。本書にフーリエの名は見当たらないが、ここでは匂わせてくれるだけで十分。

指数関数と対数関数の相関では、考古学や地質学で用いられる年代決定法などに照らして、相対変化率や減衰率といったものを味わわせてくれる。

しかしながら、微分方程式には、いつまでもつきまとう問題がある。解の存在と一意性の問題である。微分方程式を相手にすれば、その多くは解くことができない。少なくとも、おいらには解けない。
となれば、対象の範囲を狭めて、解に近づこうとする思考法が有効となる。そう、ε-δ論法の思考法だ。あの忌々しい... 呪われた... おいらを数学の落ちこぼれにしやがった... 本書では、そんな感覚にも目を細める。それを振り子の運動で体現させてくれる。単振動の微分方程式の解で、初期条件を満たすものは一つしかないと...

2025-11-09

"越境する巨人ベルタランフィ - 一般システム論入門" Mark Davidson 著

生物学者として紹介されることの多いルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ。彼をどのカテゴリで捉えるかは悩ましい。
ここでは... 二つの大戦と東西冷戦の時代を生き、ヒトラー主義、スターリン主義、マッカーシズム、盲目的愛国主義、狂信的排外主義に反対し、科学万能主義の高慢を糾弾した科学者で、生物学主義の遺伝万能論を否定した生物学者で、経験主義の絶対価値に異議を唱えた実験研究者で、物質主義を拒否した不可知論者で、個人主義を擁護した社会的計画の支持者で、システム科学が全体主義のために使われる可能性があることを警告したシステム科学の先駆者などと紹介される。
純粋な好奇心をもって学に励み、孤高であるがゆえに、あらゆる世界から距離を置いて物事を観る眼を持ち得たのであろう。健全な懐疑心を保ち、啓発された個人主義を貫くことは難しい。これぞ、遠近法人生か!
尚、鞠子英雄、酒井孝正、共訳版(海鳴社)を手に取る。

「ベルタランフィは、おそらく二十世紀において最も知られていない知的巨人であろう。一般システム論として知られる学際的な思想の父として、彼は生物学、医学、精神医学、心理学、社会学、歴史、教育、哲学に重要な足跡を残した。にもかかわらず、彼は人生の大半を日陰の中で過ごし、今日ほとんど脚注の中で生き長らえている...」

システム論的思考は、なにも真新しいものではない。アリストテレスが遺した言葉に「全体は部分の総和以上」というのがあり、ヒポクラテスもまた医療の基礎に、患者を取り巻く空気や水から、食生活、性衝動、政治的姿勢といった行動原理を重視したと伝えられ、古代の哲学思想に統合的に物事を捉える思考原理を辿ることができる。
しかしながら、人間というものを手っ取り早く理解しようとすれば、機械論に埋没するやり方が効率的ではある。少なくとも人体構造は、それで説明できる。
おまけに、社会科学、精神科学、心理科学、人文科学などとあらゆる学問分野に科学が結びつくと、研究した気にもなれる。人間が編み出した科学が万能だとすれば、人間そのものが万能だということか。そりゃ、神にでもなった気分にもなろう...

「人間というものは、自分以外のものには驚くほど能率的に対処できるのに、こと自分自身のことになると、その取組みは途端に不器用になってしまう。」

とはいえ、機械論的思考が科学進歩の原動力となってきたのも確か。それはベルタランフィも認めている。ここでは、情報理論、ゲーム理論、オートマトン理論などのシステム理論に触れ、特にサイバネティックスの数学モデルの役割に注目している。
ベルタランフィの著作「人間とロボット」では、サイバネティックスの基本概念はフィードバックと情報にあるとしていた。サイバネティクス・モデルは、情報との関係においては開放系であるが、環境との間では閉鎖系であると(前記事)。
機械に自己調整機構を実装するためには、フィードバックは欠かせない。だが、生命システムの維持では、それだけでは不十分。動的に相互連携する自動調整機構が必要となる。
人間精神ともなると、自己実現や自己啓発、自発性や創造性など、環境による刺激だけでは説明のつかない特性がある。胚の発育を一つとっただけでも、生命活動にはエントロピーの法則に反するところがあり、確率の低い秩序から確率の高い秩序へ向かうとは限らない。生命体は、負のエントロピーという矛盾を突きつける。かのシュレーディンガーもまた、「有機体が食料としているものは、負のエントロピー!」としたとか...

「システムの特性は、その構成要素からだけ由来するものではない。むしろ、構成要素の配列あるいは相互関連から生まれる特性の方が重要である。」

ベルタランフィは、生物システムの中でも人間を「シンボルを創造する独自の存在」と規定している。シンボルこそが人間の文化的遺産であり、人間の存在証明であり、人間精神を創造する原動力であると...
そもそも人間の認識アルゴリズムは、シンボリズム的である。ブランドや流行に流されるのも、象徴的な存在を求めてのこと。なにより人間が育んできた言語文化がシンボリズム的で、人生の指針に格言や名言を引き、コミュニケーションに合言葉を用い、理性や知性に模範的な理念を求める。国家や宗教といった枠組みも象徴的な存在。価値観、世界観、イデオロギーといった意識も、これらの反発として生じるニヒリズムや疎外といった情念も。生や死にも象徴的な意味が与えられ、人間像そのものがシンボリズム的と言えよう。
但しそれは、言語の枠組みを超え、文化の恩恵となるばかりか、自ら破滅をもたらすことも...

「あらゆる知識は、究極的実在の近似でしかない。」

本書は、ベルタランフィが描いた「新しい人間像」というものを紹介してくれる。多様化し、複雑化し、混沌としていく人間社会において、また、進化し続ける科学技術と共存していく中で、実存というものが曖昧になっていき、人間性を見失いがち。こうした状況下で、多種多様な視点とアプローチが試され、新しい人間像を模索する。一般システム理論は、そのアプローチと傾向において複雑で難解な多様性を持つ。これを、ベルタランフィは「豊穣なカオス」と形容したそうな...

また本書は、様々なキーワードを提示してくれる。有機体論、フィードバック、負のエントロピー、開放系の自己制御的定常状態、シンボリズム、システム、遠近法主義など...
最も注目したいキーワードは、「オーガニゼーション」である。生物の本質は、その組織化、すなわちオーガニゼーションにあるという。自発的組織化、自己調整、自己修復、さらに自己実現、自己啓発といった特性は、オーガニゼーションにかっかているというわけだ。
自己浄化できない組織に未来はない。それは、あらゆる組織に言えること。今、ベルタランフィが提示する人間像は、自己組織化によってもたらされるもの... と勝手に解している。これこそ生命の偉大さであろう...

「ベルタランフィの新しい人間像は、あらゆる面で人間精神の開放を宣言するものだ。生物としての人間と一人一人に与えられた固有の創造性を科学的に確認する試みである。新しい人間像はまた、人間自身が負うべき責任の確認でもある。それまでの人間性を否定するような、自分の将来を脅かすようなねじ曲げられた自我像を乗り越える責任である。」