2025-08-31

"破壊(上/下) - 人間性の解剖" Erich Seligmann Fromm 著

かつて、アインシュタインはフロイトに問うた。「ヒトはなぜ戦争をするのか?」と...
それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡るもので、そこに物理学者と精神科医の対決を見た。一つの答えは、人間はもともと獣であったというもの。他の動物も、自己防衛のために攻撃的になるし、相手を敵と見なす意識は本能的に備わっている。
しかし、だ。空腹でもないのに快楽のためだけで殺すような動物が、他にいるだろうか。しかも、同じ種を。生物学的に同じ種でも、人間の意識は違う。とはいえ、人間は生まれつき殺し屋というわけでもあるまい。
では、何が人間をそうさせるのか。社会の集団性が、そうさせるのか。高度な文明が、そんな意識を覚醒させちまったのか。人間はパンドラの箱らしきものを次々に開けちまっているのか。人類は、破壊の種子なのか...

エーリッヒ・フロムは、精神解剖の過程で人間の本性に根ざした残酷性と攻撃性を論じて魅せる。彼は、過酷なナチスの時代を生きた。ユダヤ系ということもあり、思うところがあったのであろう。
本書は、悪性の情熱から、ナルシシズム、サディズム、マゾヒズムなどの性癖を探り、ネクロフィリアにまで至る。ネクロフィリアとは、死体に性愛感情を抱くこと。そして、人間の存在条件とは何か... 人間を人間たらしめるものとは何か... を問う。
尚、作田啓一、佐野哲郎訳版(紀伊国屋書店)を手の取る。

「人間の情熱は、人間を単なる物から英雄に、恐るべき不利な条件にもかかわらず人生の意味を悟ろうと努める存在に変貌させる。自らの創造者となって、自分の未完成の現状をある目的を持った状態に変貌させ、自らある程度の統合を獲得しうることを望む。」

人間が自らの主人であることは難しい。恐怖から逃れるためなら、人はなんでもやる。ドラッグ、性的興奮、集団化... そして、恐怖を襲撃に転化させ、攻撃は自由と結びつく。知能が高くなるにつれ、物事を柔軟に捉え、反射的な反応や本能的な考えが薄れていく。好奇心、模倣、記憶、想像力を合理的に利用し、環境により適合しようとする。自意識を強め、過去と未来、生と死について考え、精神的な抽象作用を働かせ、言葉を操って、道徳、倫理を考える。
人間を動機づける情熱は、愛、優しさ、連帯感、自由など、そして真理を求める努力に多くを傾ける。だが同時に、支配欲、破壊欲、自己愛、貪欲、野望などに心が奪われる。妄想ばかりか、宗教、神話、芸術を材料に...
個人の在り方を問うと耐え難い退屈感が襲い、集団の在り方を問うと耐え難い無力感が襲う。そして、疎外感に見舞われ、仕舞いには自己破壊へ。それは、認識能力を高めていく知的生命体の宿命であろうか...

人間は奴隷を求める。自分の思い通りになる存在を求め、自分の身代わりを求めてやまない。その対象が、人間であろうが、ペットであろうが、ロボットであろうが、それは文明人の特性か。
文明は階級をつくる。そこに秩序が生まれ、安定性が生まれる。これが社会の特性。同時に、階級は腐敗の温床となり、生まれ、家柄、言語、能力、名声、肩書、専門性など様々な優劣関係で不平等契約を強いる。これが社会の現実。
人間は、人の犠牲を強いてまで幸福を求める。都合が悪くなると人のせいにし、組織のせいにし、社会のせいにする。一旦、攻撃性を露わにすると、批評は批判へ、批判は誹謗中傷へ。連中は理性の皮をかぶり、知性を装って論争を仕掛ける。追い打ちをかけるようにマスメディアが餌をばらまき、これに大衆が喰いつく。
情報過剰や人口密集がもたらすストレスは計り知れない。理性も正義もストレス解消の手段に成り下がる。その反動かは知らんが、人間だけがいい加減な動機に誘われて破壊に快感を覚える。コロッセウムでは血臭い演出がなされ、グラディエーターも命がけ。闘犬や闘牛では物足りぬと見える。もはや古代ローマ方式の「目には目を...」という掟を破り、倍返しという理屈で過剰防衛に出ては、攻撃は最大の防御という理屈で無差別攻撃までも正当化する。

「献身の対象への要求には、神や愛や真理への献身によって... あるいは破壊的偶像の崇拝によって... 答えることができる。結びつきへの要求は愛とやさしさによって... あるいは依存、サディズム、マゾヒズム、破壊性によって... 答えることができる。統一と根を下ろすことへの要求には、連帯、同胞愛、愛、神秘的体験によって...、あるいは酔っぱらったり、麻薬にふけったり、人格を喪失することによって... 答えることができる。有能であろうとする要求には、愛や生産的な仕事によって... あるいはサディズムや破壊性によって... 答えることができる。刺激と興奮への要求はには、人間、自然、芸術、思想への生産的な関心によって... あるいは常に変化する快楽を貪欲に追求することによって... 答えることができる。」

権威主義や官僚主義の下では、サディズムとマゾヒズムは、すこぶる相性がいいらしい。
サディズムは、思いのままになる者を愛し、思いのままにならぬ者を抹殺にかかる。この場合の愛し方は命令して従わせることで、権力欲や支配欲との結びつきが極めて強い。
マゾヒズムは、信頼する者や崇拝する者に特別に愛されることを望み、自ら思いのままになろうとする。そのために自己の立ち位置を強く意識し、出世欲との結びつきが極めて強い。

どんな残虐行為も、劣等人種、あるいは人間以下と見做さない限り、やれるものではあるまい。差別好きな人間は、必要な人間と不要な人間とで線引きする。古代都市国家スパルタでは、未熟児や奇形児が廃棄された。優生学との境界も微妙で、他族を劣等種族とみなすカルト教団もあれば、民族優越説を唱えて最終的解決に手を染めた国家もある。連中は歪曲した正義に取り憑かれ、異教徒や異民族の破壊を義務とし、使命を果たす。これは人間特有の性癖であろうか...
おいらだって子供の頃戦争ごっこをやったし、半世紀以上生きた今でも戦争映画を観ては過激な戦闘シーンにリアリズムを求める。人間は飽きっぽい。もっと刺激を求めてやまない。こんな性癖に絶対的な権力が結びつけば、ヒトラーやスターリンのようになっちまうのやもしれん。
となれば、悪の根源は、人間の集団性と権力の在り方ということになろうか。いや、まだ何か足りぬ...

「楽観主義とは疎外された形の信念であり、悲観主義とは疎外された形の絶望である。もし人間とその将来に対してほんとうに反応するなら、すなわち関心と責任を持って反応するなら、信念あるいは絶望によってしか反応できないはずである。合理的信念は合理的絶望と同様に、人間の生存に関連したあらゆる要因についての、最も完全で批判的な知識に基づいている。人間に対する合理的な信念の根拠は、救済の現実的可能性の存在である。合理的な絶望の根拠は、このような可能性が見られないという知識であろう。」

2025-08-24

"悲劇の死" George Steiner 著

悲劇の死... それはまさに悲劇!
作家たちは、なにゆえ悲劇を書くのか。自分の不幸を愛し、絶望感に浸る自我に酔い、自分の傷口を舐めるように書く。心の叫びを聞いてくれ!と。ただの寂しがり屋か。そんな芸当のできる人間は、あまり幸福ではあるまい。そもそも幸福な人間が、小説や戯曲などというものを書けはしまい。ものを書く人は、好意的な批評を前にした時でも、反抗的な態度をとりがちだという...
尚、喜志哲雄、蜂谷昭雄訳版(筑摩書房)を手に取る。

「文芸批評は厳格さだの証明だのとは無縁だと私は信じている。正直な文芸批評とは、強烈な個人的体験によって他人を納得させようとすることである。」

ジョージ・スタイナーは、オーストラリア系ユダヤ人の家に生まれ、あの過酷なナチスの時代を生きた。彼は、自らの体験から現代における三つの傾向を指摘する。
第一に、悲劇は本当に死んでしまったということ。
第二に、技術的形式の変化はあっても、悲劇の基本的な伝統は生き残っているということ。
第三に、悲劇は生き返るかもしれないということ...

「言語については、骨格のこわばりが明らかに見てとれると、私は思う。われわれの文化における言語的習慣の多くは、もはや現実に対する新鮮な反応や創造的な反応ではなく、様式化されたしぐさにすぎない。人間の知性は今なおそれを能率的にやってのけるが、それによって得られる新しい洞察や新しい感情という報酬は逓減する一方である。われわれの用いる言葉はすり切れて手垢のついたものに感じられるのだ。それはもはやもとの無垢さや啓示力を内に秘めていない。そしてわれわれの言葉は倦み疲れているから、ダンテやモンテーニュやシェイクスピアやルターがかつて言葉に担わせた新しい意味と複雑さという重荷に、もはやたえられそうもない。」

そもそも悲劇とは、なんであろう。こいつの定義となると、なかなか手ごわい。痛ましい結末や惨めな結末で締めくくれば、それだけで悲劇と言えるだろうか。涙を誘えば悲劇、笑いを誘えば喜劇といった単純化にも抵抗がある。理不尽な運命を強いられ、なんで?なんで?と無意味に問い続けるしかないとすれば、実に哀れだが、主人公が間抜けなだけという解釈もできよう。非業な死というのもあるが、運命論に身を委ねるのもどうであろう。裏切り、奸策、騙し討ち、裏工作などが繰り広げられれば、まさに滑稽芸!そんな中で苦悩し、絶望し、様々な人間模様を曝け出せば、まさに人間喜劇!拡大解釈すれば、ロマンスにも悲劇の要素がある。
こうして、悲劇は喜劇に上書きされていくのか。悲劇の概念が曖昧になると、喜劇の概念までも曖昧になる。悲劇の死は喜劇の死をも意味するのであろうか。いや、二項対立で捉えることもあるまい。悲劇的な要素と喜劇的な要素は十分に共存できるし、なにより人間性に根ざしている。そして作家たちは、そんな枠組みに囚われず、リアリズムへと傾倒していく...

「芸術作品があらゆる私的ヴィジョンをとり囲んでいる柵を越えることができるのは... 芸術作品が詩人の鏡を一つの窓となしうるのは... 芸術家が何らかの信仰や仕来たりの枠組を作品の受容者と共有している場合だけである。それは、私が神話と呼んで来たものが生きた力をもっている場合にだけ可能なのだ。」

悲劇を中世風に定義すると、「大いに栄えながら、高位より没落して逆境に入り、悲惨な最期を遂げる物語」となるらしい。ダンテは、「悲劇と喜劇は逆方向に進む。」としたとか。その理屈からすると、あの「神曲」を喜劇とした意図も頷ける。地獄から煉獄を経て天国へと昇天していくのだから。ダンテは皮肉屋か!
では、シェイクスピアはどうであろう。ハムレットの復讐劇に、マクベスの野望劇に、オセローの嫉妬劇に、リア王の狂乱劇とくれば、これらは本当に悲劇なのか。四大悲劇と呼ばれながら、その魅力はなんといっても道化が登場するところ。真理の語りは、この世から距離を置くものの言葉に重みがある。人間に語らせれば、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。

悲劇と呼ばれる偉大な作品は、悲しみと喜び、堕落していく悲哀と、そこから這い上がってくる歓喜とが、その結末において溶け合う。そのおかげで、鑑賞者は救われる。人間は老いてゆく運命にあり、実人生もまた悲劇に満ちている。
ならば、自ら滑稽に振る舞い、道化でも演じていないと、やってられんよ。苦難をも笑いにする奥義を会得できれば... こうして悲劇が克服できるとしたら、まさに悲劇の死!

2025-08-17

"脱領域の知性 - 文学言語革命論集" George Steiner 著

脱領域とは何か。どんな領域から脱しようというのか...
人間性からの脱皮か。理性からの逃避か。実存主義からの脱却か。価値や実体は仮想空間に追いやられ、存在の何もかもが曖昧になっていく。精神の存在ですら実感できずにいるのだ。
それでも人間は、自我との対決を強いられる。もっとも手強い相手に真っ向から立ち向かわねばならぬ。だが、人間にそんな度量はない。こんな無防備な状態で、頼れるものと言えばなんであろう。やはり言葉か...
今、コンピュータ科学の洗練度に反比例するかのように、人間の定義が曖昧になっていく。多くの人は、何かから脱したいと、おぼろげに考えているようだ。それは現代社会が、なんとなく息苦しいからか。ストレス社会で現代人を蝕むもの、その正体も見えず、ただもがく...

かの言語学者チョムスキーによれば、言語現象は人間独自のものらしい。それどころか、人間を規定するものとする言語学者も少なくない。文学や詩学に限らず、芸術、音楽、数学、科学、技術など、あらゆる学や術が言語や記号によって成り立っている。そして、その記述法は時代とともに変化していく。
今日、AI で持てはやされる「生成文法」の概念は、もともとチョムスキーに発する。ア・プリオリな能力として。つまり人間は、「言葉によって生成する」動物というわけである。
ジョージ・スタイナーは、チョムスキーの唱える言語能力の視点から、人間というものを問い直す。彼はチョムスキーに同意しておきながら、その言語学の束縛からも脱しようと...
尚、由良君美ほか訳版(河出書房新社)を手に取る。

言語現象は、文化や環境と深く結びつく。英語で思考すれば、そのプロセスは英語的となり、日本語で思考すれば、そのプロセスは日本語的となる。こうした思考プロセスに、第二言語や第三言語に触れる意義が生まれる。
確かに、人間は言語を用いて思考する。が、言語を超えた領域にも知がある。言語の限界で思考を試みる達人たちは、新たな造語を次々と編み出す。まったく人騒がせな。おいらは、ア・プリオリやらエントロピーやらといった用語をなんとなく感覚で捉えていても、自分の言葉でうまく説明できないでいる。言語現象で人間を規定できるというなら、言語運動のみで理性を保つことができそうなものだが、それも叶うまい...

印刷技術の発明が、人々の目線を移す。作者から書物へ。古代の歴史は写本の写本で受け継がれ、ルネサンス時代の芸術は模倣の模倣によって磨かれた。やがてラジオやテレビが影響力を持ち、さらにソーシャルメディアが猛威を振るう。そして、模倣から猿真似へ、猿真似から拡散へ。巷には、非人間的なメッセージに溢れ、広告の嵐が吹き荒れる。
かのマルクスは「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として...」と語った。コピーのコピーもまた冷笑たる喜劇か...

「いまや、われわれは深刻な変化の過程のなかにいる。時間と個のアイデンティティーの不安定な過渡的状態、自我と肉体的死亡の不安定な過渡的状態は、言語の権威と範囲とに影響を与えるだろう。もしもこれらの歴史的普遍概念が変化し、知覚の統語論的基礎が修正されるなら、伝達の諸構造もまた変化することになろう。変形のこのレベルから眺めるならば、議論百出の的であった電子メディアの役割云々など、ただの前駆症状であり先駆にすぎなかったものになるだろう。」

本書はまず、四つの作家論を通して、脱するに足る領域を見定める。それは、ウラジーミル・ナボコフ論に見る母国語からの脱却、サミュエル・ベケット論に見る荒涼たるモノローグに彩られたヴィジョンからの脱皮、ホルヘ・ルイス・ボルヘス論に見る鏡に映し出された自己閉塞感からの逃避、ルイ=フェルディナン・セリーヌ論に見る人種主義や民族主義からの解放、といったところ。
美化された母国語にしても、偏狭な世界観や価値観にしても、過剰な自己認識にしても、愛国心に憑かれた優越主義にしても、人間を屈折させるに充分。脱領域の精神は、多種多様な他の領域との接触に始まる。

次に、脱領域のための重要な知的活動に、音楽、数学、チェスの三つを挙げている。音楽は音素を操り、数学は記号を操り、チェスは論理を操り、これらの調和とハーモニーをもって知を高めるという。そして、バッハの風景に染まった対位法に、オイラーの純粋な多面体方程式に、チェス盤(個人的には将棋盤)の正方形に幽閉された世界に癒やされる。

また、人間というものを言語機能から紐解こうとすれば、文学論を避けるわけにはいくまい。アリストテレス風に詩学と文節の調和を論じ、プラトン風にメタファーの効能を語り、言語とアイデンティティの深い結びつきを探求し...
文学作品は思考の材料を与えてくれる。この新たな思考体験は文法と語彙に制約されるが、達人の言葉使いに刺激され、そこに名言や格言が生まれる。
だが、その逆もしかり。集団的暴力は言葉によって操られる。人が嘘をつくことができるのも、言語能力のおかげ。他の動物に嘘や偽りといった概念があるかは知らん。獲物を獲得するために周囲に身を隠す術も偽りの行為と言えば、そうかもしれんが...

さらに、言語革命を科学革命になぞらえる。ついに、科学によって言語学の領域から脱するか。しかしながら、科学は万能ではない。構造的な分析にしても、還元主義の堂々巡り。学問の越境が革命の突破口となるだろうか...

「科学革命とは、いわば移行運動を行なうようなものだ。甲という主要な知覚の扉・高い窓をあとにして、乙という扉や窓に、精神が向ってゆく。すると風景はまったくあらたな視界のなかに見え、いままでとは異なる光や影のもとで、あたらしい等高線と短縮法のなかに見えてくる。これまで顕著だった様相が、いまや第二義的なものに見えてくるというか、あるいは、いっそう包括的な形のなかの、ただの要素として認識されてくる。これまでは見落されてきたり、たまたまひとつに括られていた細部が、支配的な焦点をおびてくる。世界のグリッドが一変するわけなのだ...」

2025-08-10

"文芸批評論" T. S. Eliot 著

今宵、T.S.エリオットのアンソロジーに、してやられる...
批評論はありがたい。批評対象となる作品群が、そのまま目録となる。批評する価値もなければ、取り上げはしまい。ただ、原作と批評の間のギャップを埋めるのは、読者自身でしかない...

尚、本書には、「伝統と個人の才能」,「完全な批評家」,「批評の機能」,「批評の実験」,「批評の限界」,「宗教と文学」.「形而上詩人」,「アーノルドとペイター」,「パスカルの『パンセ』」,「ボドレール」の十篇が収録され、矢本貞幹訳版(岩波文庫)を手の取る。

エリオットは、どんな詩人も、どんな芸術家も、その人だけで完結した意義を持つ者はいないと主張する。過去の芸術家との間で対照し比較することは、ただ歴史的批評というだけでなく、美学的批評の原理であると...
偉大な芸術作品は、それだけで理想的な体系を整えているかに見える。だが、その完成度の高さにもかかわらず、解釈となると時代とともに変化していく。過去に批判された作品が現在では賞賛されることもあれば、その逆も...
偉大な芸術家たちは気の毒だ。ソーシャルメディアが旺盛となり、自己主張を強める現代人が優勢となるは必定。そして、いつまでも欠席裁判を強いられる...

「ある人は言った... 現代のわれわれは過去の作家たちよりもはるかに多くのことを知っている、だから過去の作家たちはわれわれから遠く離れたところにいる... まさにそうである。しかもわれわれの知っていることというのは、その過去の作家たちのことなのである。」

現在と過去の関係を断ち切ることは難しい。それは、人間の認識能力が記憶に頼っているから。現在は過去によって導かれ、過去もまた現在によって修正されていく。それは、秩序の問題でもあろう。文芸と批評の関係も、この原理に従う。
自分の制作に没頭できる者だけが、芸術家たりうる。となれば、芸術を批評する者もまた、そうした資質の持ち主なのであろう。文学を批評するには、文学的センスを持ち合わせていなければ...

「批評には限界があって、ある方向でそれを越えると、文芸批評が文学的でなくなり、また別の方向でそれを越えると、文芸批評が批評でなくなる。」

なにゆえ、人は批評を好むのか。自己確認か、自己強調か。いずれにせよ、自己の存在意識と深く関わる行為であることは確かなようである。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体が自己を知るには、他者との比較から試みるほかはない。
ただ、もう少し正確に言えば、人は批評よりも批判を好む。論争を好む。さらに揉め事を好む。おまけに人は、他人への攻撃を外野席から観覧するのを好む。遠近法ってやつは、芸術だけでなく、批評にも必要な視点のようである...

「文芸批評で理解ということばかり重んじていると、理解から単なる説明に滑り込む危険がある。その上、そんなことはあるはずもないのに批評をまるで科学のように扱う危険もある。また享受の方を重んじすぎると、主観的、印象的傾向に陥りやすく、享受は単なる娯楽や気晴らしぐらいにしかためにならないだろう。」

巷には、批評論や試論といった類いの書が溢れている。そのために作品に直接触れず、手っ取り早く解説書に走っちまう。大作となれば、尚更。それで要点だけを掻い摘んで批評するといった悪趣味も生じる。批評の多くは、解釈することを主とする。それで誤った解釈や解釈不能といったことも生じる。批評では様々な意見が錯綜しそうなものだが、伝統的に凝り固まった批評もある。そして、詩人の批評は散文に荒らされる。
詩人エリオットの憂いが、こんなところに... 彼は、過ぎ去った時代や世代を正しく評価することはできないという。批評という行為は実験的にならざるを得ないと。これに 付け加えて、人生すべて実験としておこう...

「われわれが人間である限り、われわれのすることは善か悪かのどちらかに違いない。また善か悪かをする限り、われわれは人間である。逆説的な言い方だが、何もしないよりは悪をした方がよい、少なくともわれわれはそうして生きているのだ。人間の栄光は救済をうける可能性だということは本当だが、その栄光は罰をうける可能性だということもこれまた本当である。政治家から窃盗にいたるまでたいていの悪人について言えるいちばん悪いことは、この悪人たちが永劫の罪をうけられるだけの人間でないということだ。」

本書は、パスカルの「パンセ」にも触れているが、これほど批評の対象とされる書も少なかろう。神の存在や永遠の沈黙をめぐる議論は、ヴァレリーも参戦していた。文才という人種は、文才に釣られて何か言いたくなるものらしい...

「科学者と誠実な人間と、神を求める熱情を持った宗教的性質とが正しく結合したから、パスカルというユニークな存在ができたのである。パスカルはデカルトが失敗したところで成功している。デカルトには幾何学的精神の要素が多過ぎるからだ。この本の中でデカルトについてのべた少しばかりの言葉を見ると、パスカルは弱点を正しく指摘している。」

ボドレール論も、やや辛辣ながらなかなか。ボドレールは「未完成のダンテ」とも呼ばれているそうな。
ダンテを愛読する人の多くは、ボドレールも愛読するとか。
ここでは、「おくれてきたゲーテと言ったらもっと真実に近いだろう」と評される。

2025-08-03

"批評の解剖" Northrop Frye 著

「批評の...」と題しているが、批評一般ではなく、文芸批評が対象である。しかし、これは本当に批評論であろうか。批評の対象が文学作品であれば、批評の在り方も文学的、アリストテレスの詩学に発する詩学論の様相を呈す。

例えば、シェイクスピア、ミルトン、シェリーの三名を挙げれば... 技法と思想の深遠さで未熟という理由でシェリーを貶す。宗教的反啓蒙性と重苦しい教義が言葉の自然な流露を損なうという理由でミルトンを貶す。思想に無関心で人生の反映に終わっているという理由でシェイクスピアを貶す... かと思えば、完全な詩的ヴィジョンのためにシェイクスピアを褒める。深遠な信仰秘義の洞察でミルトンを褒める。より直接的に近代人の心に訴えるシェリーを褒める。

詩的な嗜好は、音楽の嗜好に似ている。なにゆえ人は、リズミカルな言葉を求めるのか。人間ってやつは、概してお調子者ってことか。人は、語呂、歯切れ、耳障りのよい文句を格言や座右の銘とする。
そして、文学的構想に浸り、言葉に物語を求める。この物語性こそ説得力の源泉。この伝統芸は、古代ソフィストたちの弁論術に発し、現代プレゼン技術に受け継がれる。そりゃ、大衆が単純明快なキャッチフレーズの乱立する劇場型政治に耽るのも無理はない...
尚、海老根宏、中村健二、出淵博、山内久明訳版(法政大学出版局)を手に取る。

「批評における決定論の一覧表を作ることは容易であろう。マルクス主義、トマス主義、リベラル・ヒューマニズム、新古典主義、フロイト主義、ユング主義、実存主義、それらのいずれの立場にたつ批評であれ、すべて批判的ポーズをもって批評に代えるものであり、文学の中に批評の概念を見出すのではなく、批評を文学外の雑多な枠組みの一つにはめ込もうとする。しかしながら、批評の公理と前提はそれが扱う芸術から生まれてくるべきものである。」

ノースロップ・フライは、詩における三つの世界を提示する。一つは、芸術、美、情緒、趣味の世界。二つは、社会的行動と社会的事象の世界。三つは、個人の思想と観念の世界。これらの世界に応じて、人間は意志、感情、理性を働かせ、歴史、芸術、科学および哲学を構築していくという。伝統的な聖書解釈では、リテラル(逐字的)、寓喩的、道徳的、神秘的な意味が引き出され、これらに応じて詩の象徴を相で捉えている。アリストテレス風に形相の趣を帯びて...

  • 逐字相と記述相... 動機(モチーフ)としての象徴と記号(サイン)としての象徴。
  • 形式相... 心象(イメージ)としての象徴
  • 神話相... 原型(アーキタイプ)としての象徴
  • 神秘相... 単子(モナド)としての象徴

「『理想的不眠に悩む理想の読者(フィネガンズ・ウェイクより)』とジョイスは言った。つまり批評家のことである。創造と知識、芸術と科学、神話と概念、これらの間の失われた連鎖を回復しようとする仕事こそ、私が心に描く批評の姿である。」

詩は、暗黙裡に自由の理念を掲げる。だが、その理念を定式化することはできないという。そのような社会を建設することも不可能であると。
では、詩は単に理想郷を夢想する手段に過ぎないのか。少なくとも、現実を客観的に照らすための手段は必要であろう。その限りにおいて詩は輝く。現実だって夢の中にあるのやも。だから、神話も、喜劇も、悲劇も、ロマンスも、アイロニーも、風刺も... 社会の象徴として輝く。

「教養教育は、教育を受ける精神のみならず、文化的作品そのものを解放する。人間の芸術は腐敗の只中から作り出されるし、その要素は永久に芸術の中に残るであろう。しかし芸術の想像的要素が、まるで聖人の遺体のように、腐敗にもかかわらずそれを保存する。美を論ずる時には、孤立した作品の中の形式的諸関係だけでおしまいにするわけにはゆかない。芸術作品は社会的努力の到達点、つまり完全な無階級文明の理念に参与するものであること、このこともまた、考慮されねばならぬ。倫理批評は、この完全な文明の理念を暗黙のうちに倫理的基準として、つねにこの基準に訴えるものである。」

なにゆえ人間は批評を好むのか。特に、批判を... 自己存在の確認のためか。だから、こんな記事を書いているのやもしれん。そしておいらは、シェイクスピア論にイチコロよ...

「シェイクスピアの喜劇の筋の運びが、しばしばどこか不条理な、残酷な、あるいは非合理な法律ではじまっていることに気づく。『間違いの喜劇』のなかのシラクサ人を殺す法律、『夏の夜の夢』の強制的な結婚の法律、シャイロックの契約を確認する法律、人々を正しくするために法を制定しようとするアンジェロの試みなど、喜劇が進行するに従って、人々はこれらを巧みにすり抜けたり、無効にしたりする。契約とはふうう、主人公の社会がめぐらす謀議のことであり、証言とは、会話を盗み聴いたり、特殊な情報をもっているものたちなどで、喜劇的な発見をつくり出すための、いちばんありふれた技巧である。」

2025-07-27

"パーソナル・インフルエンス" Elihu Katz & Paul F. Lazarsfeld 著

社会学者ポール・ラザースフェルドは、コミュニケーションには二段の流れがあるという。そして、集団や個人の意思決定に関与するオピニオン・リーダーの存在を唱える。
ただ、原書の刊行は、1955年とある。既にこの時代に... これは、コミュニケーション研究を方向づけた記念碑的な書だそうな...
尚、竹内郁郎訳版(培風館)を手に取る。

「いろいろな観念はラジオや印刷物からオピニオン・リーダーに流れ、さらにオピニオン・リーダーから活動性の比較的少ない人びとに流れることが多い。」

ソーシャルメディアが勢いづく現在、個人への注目度が増し、インフルエンサーという用語が飛び交う。その道の専門家よりも洗練された情報や知識を伝える人も少なくないが、その一方でマスコミがマスゴミ化していく。戦時中、国民は洗脳されていたという評論を耳にする。だから、特攻のような無謀な戦術がまかり通り、侵略地で残虐行為が正当化された、と...
だが、それは本当だろうか?そして現在は?大本営は厄介な存在だが、大本営の乱立は、もっとタチが悪い。一本化していれば、欺瞞から逃れやすいものを。
そもそも人間社会において、まったく洗脳されていない時代ってあるのだろうか...

二段の流れ説は、情報源であるマスコミへの批判に対して、責任回避にも利用される。すべては自己責任で... と。そして、自己責任という用語まで、お前が悪い!という意味で使われる始末。
いまや、いいね!や星の数、あるいはクチコミやフォロワーが世論を煽り、所々にカリスマ師が湧いて出る。情報拡散は発信者自身ではなく、それを後押しする同調者たちが、いや、それ以上に反論者たちが、いやいや、理性の検閲官どもが... そして、あらゆるメディアで、コメンテータ排除論がくすぶる...

オピニオン・リーダーは、権限や制度が後ろ盾になった職務上のリーダーとは違い、インフォーマルな集団で発生するという。無秩序の中に秩序をもたらすとは、これぞ真のリーダー像か。彼らは、情報源となるメディアと情報消費者の間を媒介し、情報収集に重要な役割を担う。
しかしながら、その立ち位置は微妙で、世論の扇動者にもなりうる。それは、人の姿をしているとは限らない。商品や映画であったり、新聞やテレビであったり、書籍やネットであったり、様々な形に扮して仕掛けてくる。
ヤラセやサクラといった手口は古くから散見するが、情報過多の時代では、誇大広告のみならず虚偽広告やステルスマーケティングなど、手口はますます巧妙化していく。情報発信源ばかりか、オピニオン・リーダーの存在までもステルス化してりゃ、世話ない...

なにゆえ、人は情報に群がるのか。ただ知りたいだけか。それとも、情報を共有することによって自己の居場所でも求めているのか...
オピニオン・リーダーは、自分がリーダーであることを自覚している場合もあれば、無意識に行動している場合もあり、ある時は情報の発信源となり、ある時は着想の裁定者となり、ある時は思案の伝道師となる。
情報は言語や記号に形を変えてメッセージとなり、人は言葉に惑わされ、映像に惑わされる。言葉の暴力という形容もあるが、これほど力強いものはあるまい。小集団の中では合言葉や流行語が生まれ、帰属意識を高める。所有意識と相いまって。共感できる連中の中にいると居心地がよい。自己を意識すればするほど。人はみな、孤独ってやつが大の苦手と見える。
相互依存関係をもった人々は、相互に同調を要求するという。互いに類同性を維持しようと。類は友を呼ぶ... とは、よく言ったものである。

2025-07-20

"メディアの法則" Marshall McLuhan & Eric McLuhan 著

メディアとは、なんであろう...
巷では、マス・メディアという用語が飛び交い、もっぱら、新聞やテレビの報道の在り方、あるいは、ネット上で荒れ狂う虚偽情報との葛藤といった大衆媒体としての側面から論じられる。
だが、マクルーハン親子が論じているのは。こうしたメディア論とは一線を画す。普遍的と言うべきか、本能的と言うべきか。アリストテレスの伝統に倣い、メディア詩学とするべきか...
尚、高山宏監修、中沢豊訳版(NTT出版)を手に取る。

「次の世代のための科学と芸術と教育の目標は、遺伝子コードの解読ではなく、知覚コードの解読でなければならない。グローバルな情報環境においては、『答えを見つける』式の古い教育パターンでは何の役にも立たない。人間は、電子のスピードで動き変化する答え、それも数百万という答えに囲まれている。生き残れるか、コントロールできるかは、正しい所にあって正しい方法で探査(プローブ)できるか、問いを発することができるかにかかっている。環境を構成する情報が絶え間なく流動しているのを前に必要なのは、固定した概念ではなく、かの書物『自然という書物』を読みとる古(いにしえ)よりの技(スキル)、未だ海図のない、海図が存在し得ない魔域行く航海術である。」

メディアの法則は、四つの素朴な質問で構成される。
  • それは何を強化し、強調するのか?
  • それは何を廃れさせ、何に取って代わるのか?
  • それはかつて廃れてしまった何を回復するのか?
  • それは極限まで押し進められたとき何を生み出し、何に転じるのか?

本書は、この四つの問い掛けにテトラッド・アナリシス(Tetrad Analysis)を仕掛ける。良き質問は良き思考へ導く... と言わんばかりに。
テトラッドとは、生物学で言う四分染色体のことで、四要素の相同組換えをしながら解析していく。つまり、遺伝子解析の手法を文体構造の解析に応用しようという試み。ここでは二次元平面上に、上下に「強化」対「回復」、左右に「反転」対「衰退」を配置し、上下左右の関連性を考察していく。
例えば、アリストテレスの因果性では、目的因、質料因、形相因、動力因を配置。他にも、絵画の遠近法、記号論、動的空間、冷蔵庫、ドラッグ、群衆... さらには、マズローの法則、キュビズム、コペルニクス的転回、ニュートンの運動法則、アインシュタインの時空相対性など数十以上もの事例が紹介される。

「コールリッジが、すべての人間はプラトン主義者かアリストテレス主義者のどちらかに生まれると言ったとき、彼はすべての人間は感覚の偏向において、聴覚的か視覚的かのどちらかであるということを言おうとしていたのである。」

「メディアはメッセージ」であるという...
あらゆる人工物が何らかのメッセージを発するとすれば、そこには必然的に言語構造が見て取れ、その構造やパターンを通して世界を観てゆく。人類は、メッセージを伝えるための多彩な技術を編み出してきた。詩も一つの技術。心に響くように修辞技法を乱用し、回りくどい隠喩を用いた日にゃ... 結局は言葉遊びか。その言葉遊びこそが人の意識を高める。ルイス・キャロル風に言語遊戯に励み、ライプニッツ風に普遍記号に狂い...

一方で、真剣な物言いが人を追い詰める。他人ばかりか自分自身をも...
言葉の暴力という形容もある。集団社会では言葉の伝染が猛威をふるう。ネット検索は能動的な活動だけに、自分の意志で考えていると思い込みがち。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど都合のよいものはない。言語の発明が、人間をこんな風にしちまうのか。人類は本当に進化しているのか。人類は自然法則に反する存在になっちまったのか。神になろうとする野心家は、その反動で悪魔になっちまう...

「言語は、経験を蓄積するのみならず、経験をひとつの様式から別の様式に翻訳するという意味で隠喩である。通貨は技能と労働を蓄積するとともに、ひとつの技能を別な技能に翻訳するという意味で隠喩である。しかし、交換と翻訳の原理あるいは隠喩は、われわれの感覚のどれかを別な感覚へと翻訳する理性の力がこれを管掌するが、われわれはこれを一生のあらゆる瞬間にやっているのである。アルファベットであれ車輪であれコンピュータであれ、特別な技術的拡張物にともなう代償があって、それはこうした大規模な感覚拡張物は閉鎖系になるということである。」

2025-07-13

"グーテンベルクの銀河系" Marshall McLuhanl 著

グーテンベルクの銀河系... それは、活版印刷に始まったとさ。
発明者の名は、ヨハネス・グーテンベルク。著者マーシャル・マクルーハンは、この発明を境界に社会の大変革を物語る。活字人間の出現に、コピー世界の膨張に、そして、ルネサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学革命へと...
尚、森常治訳版(みすず書房)を手に取る。

歴史とは、言葉で編まれた閉じられた系とすることができよう。その記述が万民に広まると集団作用が働く。言語化は論理的思考を活性化させるが、その反面、言語量が増大すると集団意識を歪め、暴走を始める。詭弁が雄弁に語り、その語りに自我が飲み込まれ、沈黙の力までも押し潰していく...

「もし感覚器官が変るとしたら、知覚の対象も変るらしい。
 もし感覚器官が閉じるとしたら、その対象もまた閉じるらしい。」
... ウィリアム・ブレイク

活字はメディアを煽り、メディアは大衆を煽る。活版印刷の活用が拡張されると、言語統制が始まり、人々の世界観は固定化されていく。画一的な国民生活、中央集権主義、そして、ナショナリズムへ。だが同時に、個人主義や反体制意識を芽生えさせる。
そして、世界は二極化へ。人間ってやつは、なにかと善と悪で分裂させる二元論がお好きと見える。精神分裂病もまた、言語使用が招いた必然であろうか...

「言語は、経験を備蓄するのみならず、経験を一つの形式から他の形式へと翻訳するという意味でメタファーであるといえよう。貨幣も、技術と労働とを備蓄するだけでなく、一つの技術を他の技術へと翻訳するという点でやはりメタファーである。」

文字を発明すれば、それを刻む媒体を求めずにはいられない。活版印刷以前は、写本によって知識が伝授された。
だが、著名な図書館は焼かれてきた歴史がある。その代表格がアレクサンドリア図書館。ハインリッヒ・ハイネの警句が頭をよぎる。「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる。」と...

写本が機械的に複写できるようになれば、たった一箇所の知の宝庫が焼かれても、人類の叡智はどこかに残る可能性がある。さらに大量生産の時代を迎えると、知識は庶民に広がり、広大な知の宇宙が形成される。おかげで、電車で移動中に本が読める幸せにも浸れる。
そして現在、知識の電子化が進むと、情報の嵐が吹き荒れ、マーク・トウェインの皮肉が聞こえてくる。「真実が靴をはく間に、嘘は地球を半周する。」と...

人間の成長過程には基本的な行為がある。幼児の学習は、大人の行為を真似ることに始まる。本能と言うべきか。大人だって、技術や知識を身につけるために熟練者や達人から学ぶ。教師となるものは、なにも人間とは限らない。ハウツー本は、いつも大盛況。恋愛レシピから幸福術、人生攻略法まで...
感受性豊かな人間ともなると、哲学者が語る曖昧な言葉までも金言にしちまう。人間の認識能力が記憶のメカニズムに頼っている以上、人間は過去から学ぶほかはない。ダ・ヴィンチも、ラファエロも、ミケランジェロも、偉大な作品を写生することによって技術ばかりか、自ら精神を磨いた。もはや純粋な独創性なんてものは、幻想なのやもしれん。ましてや情報過多の時代では、健全な懐疑心を持つのも、啓発された利己心を保つのも難しい...

「弁証法は技術の技術であり、また科学の科学である。それはカリキュラムのあらゆる主題を貫く原則へ導く道である。なぜならば弁証法のみがほかのすべての技術の諸原則についての蓋然性を論ずるのであり、かくて弁証法はまずもって学ぶべき最初の学でなければならない。」
... ペトルス・ヒスパヌス「論理学要目」より

2025-07-06

"孤独な群衆(上/下)" David Riesman 著

世間で忌み嫌われる孤独。孤独死ともなれば、最悪の結末のような言われよう。しかしながら、集団の中にこそ孤独がある。
人間の性格には誰でも、ナルシス的な側面もあれば、独善的な側面もある。結局は、自己存在に対する意識の持ちよう。こうした性格をいかに克服するか。しかも、自問の過程で...
芸術の創造性は、たった一人のひたむきな情熱によって生み出されてきた。寂しささを知らなければ、詩人にもなれまい。満たされた人間には、悲痛感慨な文体を編むこともできまい。

人間ってやつは、何かに依存し、影響し合わなければ生きてはゆけない。たいていの人は社会福祉制度にたかり、属す集団を頼みとし、集団意識に縋って生きている。
アリストテレスは、人間をポリス的な動物と定義した。ポリス的とは、単に社会的というだけでなく、互いに善く生きるための共同体といった意味を含むのであろう。だが、実際は依存意識がすこぶる強い。ならば、何に依存して生きてゆくか...
ディヴィッド・リースマンは、「自律性」を強調する。うん~... これが最も厄介な代物。孤独を克服できれば、孤独死ですら理想的な死となるやもしれん...
尚、 加藤秀俊訳版(みすず書房)を手に取る。

「人間の敵たりうるのは人間だけである。人間の行為や生活の意味を奪うことのできるのは、かれじしんだけなのだ。なぜなら、その意味の存在を確認し、自由という現実の事実として、それを認識できるのは、かれだけだからである。」
... シモーヌ・ド・ボーヴォワール

リースマンは、人間の性格を大まかに「内部指向型」「他人指向型」に分類し、この二つの型に社会を特徴づける三つのタイプ「適応型、アノミー型、自律型」を絡めながら論ずる。
内部指向型の人間は、自分自身を人間以外の対象物との関係において考えるという。組織の中で、人との協力関係よりも、技術的、かつ知的なプロセスとして捉える傾向がある。
対して、他人指向型の人間は、仕事や組織を人との関係において考えるという。自我にはっきりとした核を持っていない。だから、自我からも逃避することができない。
世間体を気にする傾向が強いのは、他人指向型であろう。自律性においては、内部指向型の方が優位にも見える。だが、自己優越感は内部指向型の方が強く、客観的な視点から発する謙虚さでも優位とは言えない。

内部指向型は、農村部の伝統指向とも相性がいいらしい。頑固オヤジといった形容も当てはまりそうな。他人からの批判を恐れ、自己批判によって自己防衛する傾向もある。
他人指向型は、情報過多な大都市部に多いタイプだという。情報に敏感なのは、流行遅れを恐れてのことか。評判やカリスマ性に群がり、個人の思考が一本化して集約される傾向にある。人気投票的な消費行動を旺盛にし、ベストセラーに群がる傾向あり...

結局、自律を目指すのに、どちらの型が優位ということではなく、己を知るという問題を抱えたまま。そして、適応と自律を欠けばアノミーへ。自己を見失い、自己を破滅させるのは、型の問題ではなさそうだ...

「個人主義とは、ふたつのタイプの社会組織のあいだの過渡的な段階である。」
... W. I. タマス

また、本書に散りばめられる挑発的で皮肉じみた用語が目に付く。とりあえず、「内幕情報屋」「メッセージの卸し問屋」「まやかしの人格化」といったところを拾っておこう。
昔から蔓延る道徳屋は、内部指向型の傾向が強く、ネット社会でも理性の管理者となり、誹謗中傷で凶暴化する。
対して、内幕情報屋は、他人指向型の傾向が強いという。要人との人間関係から内部情報に詳しいだけで済む場合と、あわよくば間接的に要人を動かして社会を支配しようとする。そうした人間は、その種のサークルを作るという。記者クラブもその類いか。情報理論によると、メッセージにはノイズが交じることになっているが、現代風に「マスゴミ」という形容も当てはまる。
但し、超一流の扇動者は、けして嘘をつかない。些細なニュースを大袈裟に持ち上げ、重要なニュースをささやかに報じる。これが、世論を扇動できる報道原理か...

とはいえ、真実が必ずしも真実らしく見えるとは限らない。嘘の方が真実っぽく見えることも多々ある。現代社会では、真実っぽく見せる技術が重宝される。言葉を商品とすれば、コミュニケーション産業の小売業者となり、言葉を武器とすれば、特殊工作部隊の最前線を行く。
ネット検索ともなると能動的な活動だけに、自分の意志で考えていると思いがち。だが、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
では、マスコミを扇動しているのは誰か?広告屋か?それとも他に黒幕が?それこそ群衆自身なのやもしれん...

「現在にあっては人と同調しないこと、慣習の前にひざを屈しないことはそれ自体、ひとつの奉仕である。」
... J. S. ミル

2025-06-29

"物の体系 - 記号の消費" Jean Baudrillard 著

消費とは...
それは、物にかかわるだけの行動ではないという。豊かさを示す現象学でもないと...
では、なんであろう。ジャン・ボードリヤールは、すべてに意味作用を与える行動として定義する。人間の物への意識は、物的存在から記号的存在へ。流行や広告、あるいは社会的規範や慣習もその類い。消費への意識が記号へ向かえば、消費に限りがないことの説明もつく。
彼は、現代人の物への意識がイデオロギー的体系、あるいは、ある種の信仰として働いていることを指摘し、これにマルクス風の疎外論を絡めて論じて魅せる。そして、こう主張する。「消費される物になるためには、物は記号にならなければならない。」と...
尚、宇波彰訳版(法政大学出版局)を手に取る。

貧困層ですら日常生活にスマホが欠かせないとなれば、物は豊かさの基準とはならない。産業のすべてがサービス業化し、消費対象のすべてが、ガジェット化、アクセサリ化していく。現代社会では、物質エネルギーよりも情報エネルギーの方がはるがに強いと見える。
もはや人類は、AI に代表されるような機械の奴隷になることを恐れている場合ではあるまい。すでに物の奴隷に成り下がっていりゃ、世話ない。消費が抑えがたいのは、何かの欠如に依存していからであろうか...

「消費は今や多かれ少なかれ整合的な言説として構成されている。すべての物・メッセージの潜在的な全体である。消費はそれがひとつの意味を持つ限りにおいては、記号の体系的操作の活動である。」

人間の存在意識には、雰囲気の論理や居場所の論理が働く。本来、物といえば、機能性や操作性に注目するのであろうが、それ以上に浮遊的な何かに意識が向く。仮想的実体とでも言おうか。精神や魂と呼ばれるものが浮遊霊じみた存在だから、それが自然なのやもしれん...

「もしも現代の偽善が、自然の猥褻さを隠すものではないとすれば、それは記号の無害な自然性で満足すること、もしくは満足しようと努めることである。」

物を提供する側は、クレジットによる欲望戦略を煽り、毎日が購買のお祭り騒ぎ、購入者の所有意識を麻痺させる。
物を享受する側も負けじと、シリーズものやセット販売に群がり、その理由づけは様々... 時にはナルシス的に、時にはノスタルジックに、時にはコンプレックスを刺激し、あるいは収集癖に酔いしれて、自己に言い訳をしながら生きている。
消費は、物にかかわろうとするだけでなく、集団社会とかかわろうとする積極的な活動でもある。いや、後者の方がはるかに本質的か。こうした集団行動が、文化の基礎を成していることも確か。
そして、物のあり方を通して、自己のあり方を確認する。それで、自己に価値を見い出せない時の失望感ときたら。あとは、存在論的な弁証法にでも縋るさ...

「人間はつねに自分自身に嫉妬する。人間が守り、監視しているのは自己であり、自己を享受しているのである。」