2011-04-10

"時" 渡辺慧 著

名著と呼べるほどの古書が絶版となってそのまま埋もれていく。世の中にはそんな惜しい本が数多くある。本書を知ったのは、木村敏氏の著書「時間と自己」で紹介されていたからである。そこには、物理現象の不可逆性の正体について語ってくれるとあった。それがエントロピーに関するものだということは想像に易い。復刊しそうな気配がまったくないので図書館を利用することにした。

本書は、物理現象に哲学的な解釈を加えるもので、物理学の書というよりは哲学の書である。まず、著者の専門は理論物理学であると述べ、哲学的素養は一常識人に過ぎないと断っている。にもかかわらず、相対性理論に対するベルクソンの考察では、その貢献と誤謬に関する解釈は見物だ。日本には有名な哲学者が見当たらないことから哲学後進国と揶揄されることがあるが、どうしてどうして...物理学者にこそ純粋哲学を観る思いである。
ところで、哲学を論じるのに玄人も素人もなかろう。哲学という分野は、ひたすら自己精神を探求するものであって、歴史的背景や専門的知識の影響を比較的受けにくいように思える。有名な哲学者の多くが同時に科学者や数学者であったのは、この学問が自然学に根ざしているからであろう。その代表例といえば、ニュートンの著書「プリンキピア」の正式名称「自然哲学の数学的原理」が示している。
いや、それだけに留まらない。文学作品では庶民的な哲学で魅せられるし、歴史学や社会学などあらゆる学問において哲学的思考で魅了される。哲学を構築するのに職業の差別もない。一流のスポーツ選手が哲学を見出し、バーテンダーが一流の哲学を披露することも珍しくない。哲学とは一つの生き方を提示するものであって、真理を探究することに分野の垣根などあろうはずがない。そして思考が深まれば、作者の生き様のようなものが顕わになるのは至極自然であろう。

時間という要素が、物理現象にとって根幹をなすことは言うまでもない。時間がしばしば厄介なのは、一方向性だからであろう。逆戻りできない現象は、他の次元とは明らかに異質である。
古典物理学は、ニュートン力学とマクスウェル電磁気学の二大派閥で形成されてきた。その違いは、点の力学と場の力学という運動観測の立場にある。点の力学とは、不連続性に立脚する観測であり、質点力学、相対性理論などがこれに当たる。場の力学とは、連続性に立脚する観測であり、電磁場の法則、波動方程式、重力場の法則などがこれに当たる。
両派閥の矛盾は、運動の相対性と光速の一定性にある。現実にドップラー効果による赤方偏移や青方偏移の現象が生じれば、光速が一定とは考えにくい。そこでアインシュタインは考えた。光速を不変量と仮定して相対性を説明するには、時間と空間の方を可変量にするしかないと。そぅ、時空の曲率を持ち出して統一理論を提示したのだった。つまり、時間は一方向性の上に「一定に刻まれない」と主張したのだ。おまけに空間まで歪みやがると。主観性においては、精神空間の歪みを感じ、精神時間が一定に刻まれないことを感じながら生きている。更に客観性においてすら、物理空間が歪み、物理時間が一定に刻まれないとなると、宇宙はカオスへ向かうしかあるまい。時空とは、なんと厄介な存在であろうか!
あらゆる現象は、瞬間という時間において観測の場が設けられて、はじめて物理学を導入できる。つまり、観測するとは人間が認識することを意味する。客観的であるはずの観測は、人間認識を媒介して主観的でもあるわけだ。物理現象を複雑にしている最大の原因は、人間が介在するからかもしれない。主観的認識は、時間軸を過去、現在、未来で分解する。だが、純粋な物理法則に従うならば、過去と未来を区別しないはず。いや、すべての時間は現在に融合されて、瞬間的認識だけで済まされるだろう。そうならないのは、人間が相対的価値観に囚われ、絶対的価値観に永遠に到達できないことを示している。物体が空間に対して様々な方向へ移動できるのに対して、人間認識だけが一方向性を示すのは奇跡かもしれない。しかし、それが前提されなければ、あらゆる存在が説明できない。実存という概念には不可逆性の真理のようなものを感じる。もしかしたら、時間という次元が加えられるのは、人間が自意識の存在を強調しているだけのことかもしれない。となれば、宇宙の真理は意識よりも無意識にあると言わねばなるまい。

物理法則に現れる基本的性質は、可測性、回帰性、可逆性であるという。
しかし、だ!物理の基本法則が可逆性を唱えたところで、実際の現象のほとんどが不可逆性を示すのはどういうわけか?物体の落下運動は簡単に観測できるが、逆転した上昇運動を観測することは難しい。地球の裏側から観測すれば上昇運動をしているとも言えなくはないけど。電気エネルギーで熱水が得られても、逆に熱水からまったく同じ電気エネルギーは得られない。記憶は時系列に失われれば可愛げもあるが、忌まわしい過去ほど強く残りやがる。経済現象では名目利率がマイナスになるのを見たことがない。おまけに、世の中の情報量は蓄積されるばかりで、群衆は惑わされる一方だ。
さて、物理学はこれらの現象をどう説明するのか?そこに実験的な解として登場したのが熱力学の第二法則である。そぅ、この法則のみが不可逆性を主張しやがる。物体の落下は運動エネルギーであるが、上昇しない現象は熱運動のポテンシャルエネルギーで説明すればいい。本書も、「非弾性的衝突」や「オームの法則」も、力学や電磁気学とは無縁であることを仮定するが、それが許されるのは熱力学の第二法則のおかげだと語っている。あらゆる不可逆性は、力学や電磁気学に熱力学を結び付けて説明できるというわけか。
そして、これを数学的に説明するのがエントロピーの概念である。エントロピーといえば、たいていの物理学の教科書で、ただ「増大する」とだけ記される。それは、あまりにも自明な現象だからであろうか?アインシュタインは、「エントロピーはすべての科学にとって第一の法則である。」と語った。尚、ボルツマンやエーレンフェストといった著名な物理学者の自殺が、不可逆性の矛盾を嘆いた結果かどうかは知らん。

1. 観測者とは
観測の意義とは、客観的実存の追求といったところであろうか。だが、相対性理論が示す通り、観測者を絶対的な立場に置くことはできない。マクスウェル方程式があらゆる観測者に等しく成立するならば、真空中の電磁波の伝播速度はあらゆる観測者に等しくなるはず。だが、実際にはそうならないことをマイケルソン・モーレーの実験が示した。等速運動している物体の長さは、静止しているときの長さに比べて、運動方向に短縮して観測される。いわゆるローレンツ短縮である。これは、観測者と被観測者の相対的な運動状態によって観測結果が異なることを示している。
観測というからには、観測者と被観測者が存在し、両者を結び付ける観測過程なるものが形成される。ここで、観測者の問題を観測する必要があると考えるかもしれない。観測者の観測、そのまた観測者の観測...もはや無限循環論だ。観測過程を観測しようとすれば、物理学の対象から乖離していき、それは観測過程ではなくなってしまう。観測者を観測過程から完全に分離しようと考えれば、不確定性原理に見舞われる。物質は、どこまで微小なのか?素粒子はどこまで素粒子なのか?と自己矛盾に陥るかのように、観測者がどこまで純粋に客観的な存在でいられるか?が問われる。不確定性原理は客観性の限界を示しているのかもしれない。
となれば、だ!アル中ハイマーは逆説を唱えたくなる。観測しなければ、不確定性なんぞに惑わされずに宇宙の秩序が保たれるではないかと...認識しなければ、精神が存在しなければ、あらゆる物理量はただ存在するだけの真の客観性を得るだろうし、宇宙は完全な状態でいられるではないかと...
その帰結は、物理現象とは人間認識の産物でしかないということになる。時間の流れとは観測者の自我の流れであり、空間とは観測者の自我の実存空間ということになる。そして、人間が実存認識を放棄すれば、あらゆる物体は現在の瞬間だけにしか存在し得ないことになる。
なんと!あっさりと現在という瞬間だけの絶対的価値観に到達するではないか。人間は「三次元 + 時間」という空間で生きている。あらゆる知的生命体は「認識できる次元 + 時間」という空間で生きているのだろう。観測者とは、物理現象に余計な次元を加えるだけの存在でしかないのか?だとすると、無理やり認識したり解釈したりするのをやめ、あらゆる現象をそっとしておいてあげたい。

2. エントロピーとは
エントロピーとは、一般的に乱雑さを示す指標として使われる物理量である。対して本書は「一口でいうと我々の知識の不正確さを測る量」としている。エントロピーとは知識の蓄積というわけだ。知識とは観察の結果である。知識の蓄積には時間の変化をともない、知識の停滞した時間はエントロピーの増減がない。古典物理学は、観測結果の過去の知識から未来を予測する意味で、時間を逆にしても同じであるから、決定論的とすることができよう。対して、量子物理学は、予測結果が確定的ではないという特質がある。
ボルツマンは、H(エータ)定理を提示して、エントロピー増大の法則を読み取ろうとしたという。波動力学では、不確定性原理で制限される以上の精度では、位置や運動量を同時に定めることができないとする。電磁場の法則では、場の中心点から光の速度で伝播していき、粒子と粒子の相互関係は伝播する粒子の運動によって定まるとする。そして、現象を逆転させるには、粒子の運動におけるポテンシャルの遅延を考慮しなければならない。電荷粒子は常に摩擦力を受け、摩擦が発生すれば熱が発生し、もはや可逆性を実現することは不可能に思える。
しかし、本書は量子論も時間について基本的には可逆にできているという。ただし、一つ不可逆なのは観測過程だとしている。量子の世界が可逆性であれば、量子レベルの記憶素子が形成しやすくなり、量子コンピュータの実現も夢ではない。完全な可逆性が実現できなくても、部分的に可逆性に近い現象が得られれば、従来のコンピュータよりもはるかに高性能な演算器を実現できるだろう。
ところで、エントロピーが常に正というのは、哲学的に何を意味するのか?正確には、対象系においてエントロピーが減ることもあるが、同時に観測システムのエントロピーが増えるので、観測過程全体としては減らないと言うべきかもしれない。それは、知識が蓄積される分、誤謬の入り込む余地を増幅させるということか?そういえば、エリートたちが知識を高めた結果、奇妙な自信を深める現象がある。政治屋が祭り事を混乱させ、経済学者が経済危機を招き、平和主義者が戦争を呼び寄せるのは、彼らの知識が邪魔をしているのか?そして、英雄伝説は次々に忘れ去られ、くだらない歴史だけが繰り返されるわけか?おまけに、政治屋は自らの行動を英雄伝説と重ねながら自画自賛するという滑稽な現象まである。不可逆性の原因が知識の蓄積にあるとすると、自然界においてこれほど邪魔なものはあるまい。知的生命体は悪魔へ進化する運命にあるというのか?

3. 時間認識と自然観
聖アウグスティヌス曰く、「時間とは何か?人が問わなければ、私はそれを知っている。問う人に説明しようとすれば、私はもはやそれを知っていない」
時間は客観的な物理量のはずなのに、人間の立場によって違った性格を見せる。心理学者は心理的時間を観察し、生理学者は生理的周期を持ち出し、歴史学者は社会諸相の変化を論じる。哲学者はそれを自我であると言い、宗教家は永遠の愛を熱弁しやがる。
相対性理論の説明でよく聞かれるのが、光速に近づけば年をとるのが遅くなるという時間のパラドックスである。だた、これは物理的時間の問題であって、心理的時間には何も影響を与えない。物理時間が変化したところで、認識に変化がなければ、なにも人生が豊かになるわけではない。現実に、情報化社会が進化し利便性が高まるにつれて仕事を片付ける速度が上がるが、なぜか?仕事量が増える。時間の機嫌をとったところで、精神は自由になれない。それどころか、機嫌を損なう場合の方がはるかに多い。タイムリミットは早まる一方で、時間の収支は常に赤字だ。それは、人間の欲望に限りがないことを意味するのか?人間精神にとって、最もストレスを感じる要素が時間であろう。したがって、最大の幸福とは、時間を永遠に感じられる瞬間ということになろう。
精神分裂症は、精神時間の連続性が失われると聞く。癲癇病患者は、時間の停止を感じながら崇高な気分を味わうと聞く。しかし、正常と呼ばれる人々でも、時間の遅速を普通に感じているではないか。誰もが精神病を患っているということか?
本書は、しばしば哲学者は時間と空間を分離して論じるが、そこに欠点があると指摘している。ローレンツ変換を学べば、時間と空間を分離することは不可能であることに気づき、ミンコフスキー空間を思考すれば、空間と時間とは幅と長さのような関係にあることに気づくという。物理学的には、時間と空間を媒介しているものは光速にほかならならい。実際にローレンツ変換を試みると、空間座標の中に時間座標が混入し、時間座標の中に空間座標が混入してきやがる。おまけに、時間を完全に空間に、空間を完全に時間に変換できるわけでもない。
ところで、音楽は、速めると早く聞こえるだけではなく、音質そのものを変えてしまう。音の高低が周波数で定まることを知っていれば当たり前だが、改めて考えると不思議な性質かもしれない。映像を速めると、物体を持ち上げる動作は軽々しく見える。演劇で物体を重く見せようとする時、時間をかけて演じれば苦労しているように見える。
これらの現象は、物理式「力 = 質量 x 距離 / 時間^2」で表わされるように、時間が1/2になれば力が4倍になることから説明できる。
また、あらゆる国の言葉で、空間的な前後と時間的な前後が混同される傾向にあり、これは重要なことを教えてくれるという。日本語で「先」と表現すれば未来を指すが、「先立つ」とか「先祖」などと過去を指す場合もあってややこしい。にもかかわらず、互いにうまいこと調和させて、混乱を招くことはない。ただ、自動車など移動する物体で前後と表現する時は、進行方向に対して一義的である。人体においても、顔や胸のある方を必ず前とする。おしりフェチなら、前後が逆転してもよさそうなものだが...

4. 輪廻性と周期性
「神学においては歴史的イエスの考え、哲学においてはヘーゲルのごとき弁証法的発展、生物学においてはダーウィンの進化論、物理学においてはエントロピー原理、これらすべて「一方向向きの時間」を原理とするものである。」
本書は、フーリエ変換を、ニーチェが「ツァラトゥストラ」で提示した「永劫回帰」の数学的表現と言っている。フーリエ変換は、正弦波と余弦派の直交性を利用しながらあらゆる関数を分解できるとしている。とはいっても、完全な可逆性を見いだせるのはごく稀な条件が整った時だけで、結局は近似の域を脱せない。あらゆる物理現象は、輪廻性や周期性で説明できそうな気がするが、現実には、ほとんど輪廻性、あるいはエルゴード性ということになろうか。
東洋では輪廻の思想があり、ギリシャ哲学では共通な環状時間といった回帰的な時間思想がある。更に、キリスト教では終末観的教義による新しい時間思想が導入される。その観念は、ユダヤ教から受け継がれる「最後の審判」「神の国の実現」に関する信仰だという。そこには、現在までの清算と未来への希望があり、しかも未来を選択できる仕組みまである。生命の観点から、一度チャラにするという思考は、時間的断絶を意味する。人間は、しばしば、いままでの行いをチャラにしたいと夢を見る。借金がすべてチャラにできれば、どれだけの人間が救われるだろう。髪の毛が戻り、肌の張りが戻り、不幸な結婚が逆戻りできれば、どれだけの人間が救われるだろう。人間が時間の断絶を求め、精神病に救いを求めるのも自然なのかもしれない。精神病を患わない方が精神異常というわけか。

5. ベルクソン批判
ベルクソンの著書に「持続と同時性 - アインシュタイン理論について」というのがあるそうな。哲学者でこの書を読む人は少ないと指摘している。科学知識に劣等感を持つ人が読む本ではないということらしい。この書は、物理学の教科書の中に入れたら、模範的な説明になる個所があると誉めている。ただし、誤謬もあるとしながら...
ベルクソンは、客観的な物理時間と、内的な真実の持続との間に本質的な相違を認めたという。そして、相対性理論に矛盾しないように自説を唱えようとして、「普遍唯一の時間」という概念を持ち出したという。物体の存在を認識できるのは内的時間の連続性であり、純粋持続のような認識が精神の根底にあるのかもしれない。ベルクソンは、物質世界自体に持続があり、その持続は多種ではなく唯一であるとしたという。これは、宇宙時間の唯一性を想定しているようだが、絶対時間なるものを唱えているのか?しかし、相対性理論は、観測点の違いで物的時間の刻み方にも多種性を示す。時間の方向性だけを言えば、人間認識は共通だし、もしかしたら生命体のすべてが同じ方向認識を持っているかもしれない。だが、内的時間の刻み方は多様である。
光のような波の進み具合を認識できる生命体は、その波を共通認識とできるのかもしれない。これは一種の同時性を示している。では、光を認識できない深海動物では、音波が基準となるのか?更に、光も音も認識できなければ、なんらかの周波数成分を媒介にしながら同時性を認識するのか?なるほど、初対面の酔っ払い同士で意気投合できるのは、アルコール成分の振動によるというわけか。んー!ますます絶対時間なるものから遠ざかっていく。
ローレンツ変換は、ミンコフスキー空間における時間を虚数座標とすることにより、ユークリッド空間の形式で表現する。時間に虚数を用いて初めて空間と同格に扱えるわけだが、時間と空間の相違を忘れる原因にもなると指摘している。ベルクソンは、四次元空間をユークリッド空間のごとく扱った結果、時間的な誤謬を犯したということらしい。
本書は、ベルクソンの感覚を誉めながら、彼の主張する「普遍唯一の時間」を批判している。あらゆる時間観測は、観測者の系によって決まるのだから、多数時間であることは明らかである。ならば、心的持続が物的持続と同一歩調を取らないと仮定すれば(そうとしか思えないけど...)、認識の数だけ、精神の数だけ、宇宙は存在しても不思議はなかろう。すなわち、愛という精神空間と精神時間はホットな女性の数だけ存在するのさ。そして、精神の理想郷とはハーレムということになるのさ。

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