アル中ハイマーが本書を読んだのは二年前である。良書だと思うので記事に残すことにした。最近、サブプライムローンという言葉が世間を賑わす。アル中ハイマーは、経済が不安定になる要因の元凶は、本当にここにあるのか疑問に思っている。投機的な経済行動をする連中は証券価値の乱高下を歓迎する。乱高下する材料さえあれば、なんでもありである。急激な乱高下は、実質価値に対して評価価値が大きく乖離した時に起きる。たとえ価値が下がったとしても、逆ポジションで仕掛ける。現在のデリバティブは、投機的な行動を刺激するルールに思えてならない。よって、酔っ払いはデリバティブ商品に手を出さない。歴史的には、商品価値が自然災害などで変動することは、それこそ経済混乱を招いていた。米が経済の主要を成していた時代では、凶作によって米価が大幅に変動することは望ましくない。こうした変動リスクを避けるために、世界に先駆けて大阪で先物取引が始まったはずである。
経済危機が訪れる周期もだんだん短くなっているような気がする。ただ、本当に危機なのだろうか?生活には実感が涌かない。景気が良いと言われても同様である。単に取引市場が賑わっているだけではないのか?経済運営とは、取引市場のみをコントロールすることが使命なのか?世界銀行は貧困層の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命としているというのは本当なのか?酔っ払いには、目的と行動が乖離しているように見える。アル中ハイマー病とは、一つの実体が二つに乖離して見える病である。
アル中ハイマーは、ノーベル賞で平和賞と経済学賞の存在に疑問を持つ社会の反抗分子である。政治とは平和へ導くための手段ではないのか?世界を危機に陥れた経済学者がなぜ賞賛されるのか?著者スティグリッツ氏もノーベル賞経済学者の一人であるが、彼の本は何冊か読んで感銘を受けた。経済学という言葉には胡散臭い香りがする。この学問は複雑な人間社会を相手取る難しい分野でもある。これを一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えない。しかし、それぞれのイデオロギーの主張は、絶対に自分たちは正しいという姿勢を崩さない。これは、経済学だけの問題ではなく、人間の本質かもしれない。人間が認識不足を自ら認識することは難しい。プライドが高ければその難しさを増す。邪悪なプライドは、自らは認めたくない深層心理の領域にある。そんな領域には自ら踏み込みたくない上に、他人から踏み込まれることを嫌う。千鳥足のアル中ハイマーは、踏み込もうにも足が見つからない。
本書を読み物としておもしろくしている理由の一つは、偉い学者が思いっきり愚痴っているところである。翻訳者のテクかもしれないが、そこには愚痴っぽく感情的な文章が表れ、逆に読み手を冷静にさせる。相手が一方的に熱いと、こっちは冷める。これが恋愛の原理というものである。ちなみに、翻訳者は鈴木主税氏で、サミュエル・ハンチントン著の「文明の衝突」などを手がけている方だ。ただ、文章のリズムがなんとなく印象と違う気がする。愚痴の攻撃対象は、IMF、世界銀行、WTOである。中でもIMFをけちょんけちょんに貶す。アメリカ人以外でしかもノーベル賞学者以外の著名人が、こんなことを公然と発言したらスキャンダルで抹殺されるかもしれない。これは社会の反抗分子にはそそられる。
本書は、歴史の流れからグローバリズムからは逃れらないとしながらも、推進される政策は現実的ではないと指摘する。国際経済機関は、相変わらず商業界、金融界の利害を重視する。アル中ハイマーには、東アジア危機やロシア経済の破綻など、あらゆる国際レベルの政策は影の陰謀だと思っている。だから、IMFの意見やワシントン・コンセンサスを素直に受け入れた国ほど経済危機に陥るのだと。しかし、陰謀説は否定されてしまった。国際経済機関は、本当に良いと思ってやっているというのである。では、なぜことごとく失敗するのか?自由化という言葉には、美しい響きがある。金融市場と資本市場の解放、貿易障壁の排除が推進されると、強者は弱者を餌食にしてしまう。これは、未成熟な市場を急激に改革した結果であろう。それでもIMFは主張する。痛みを伴わなければ改革はできないと。痛みが深ければそれだけその後の成長は強大なものになると。マスコミも無責任に煽る。まともな発言者は葬られる。発展途上国が経験した痛みは、はるかに度を超えていた。旧共産主義国には、市場経済すら信じられない人も少なくない。確かに、超エリート達が言うように改革には多少の痛みは必要かもしれない。ただ、その国の文化や慣習に関わるデリケートな問題でもある。民族の生い立ちや培った文化は多様である。その国を熟知した第一級の教育を受けた専門家を無視して政策を練ることなどできない。グローバリゼーションは、単なる自由化ではない、西洋化でもない。
本書は、社会の方向性にもヒントを与えてくれる。著者は、最も重要なのは社会の安定であると語る。そのために、注目すべきは、貧困層、環境問題、雇用状態だと主張する。経済で懸念されるのは、社会不安と政治不安である。人間は不安に駆られると攻撃的になり、犯罪をも増やす。ナショナリズムの高揚も社会不安による現象の一つかもしれない。経済がいくら成長しても、不平等な社会では社会不安を煽り、持続した成長は望めない。経済成長は急成長よりも緩やかに安定した成長が望ましいだろう。貿易黒字の国があるということは、貿易赤字の国があるということである。典型的な中央銀行総裁は、貧困統計ではなくインフレ統計に目を配るという。通商大臣は、汚染指数よりも輸出統計を気にする。労働者は賃金を気にする。投資家は金利を気にする。人間は、直接利害するところに目くじらを立てる。政策論争で自らの私利をあからさまに振りかざす者はいない。政治家は、主語に必ず「国民は、」と発言する。
本書には、日本が登場する場面がほとんどない。だが、日本のことを言われているような気がするのも奇妙である。
1. 国際経済機関のマネジメント
国際経済機関は、世界のための組織でありながら主権は偏っている。IMFの長を務めるのは、決まってヨーロッパ人。世界銀行の長は常にアメリカ人。しかも、各国の代表は、その国の特定の産業や金融機関の利害関係に結びついた人間である。著者は、グローバリゼーションを推進している国際機関に対して、監督機構が存在しないのが問題であると指摘する。植民地時代から彼らの考えはそう変わっていないという。彼らは最も賢い政策を打ち出せると信じている。IMFは、知る必要のある人間の範囲を定めているらしい。失敗しても説明責任を果たさない。それどころか他国の政策がIMFの支持通りに行われていないと非難する。透明性がなく官僚的秘密主義であると語る。支援金はIMFの影響力を増し国家主権を奪う。それは一般企業も同じだ。外部資本が入ると自立が保てなくなる。その資本が効率的に運営されれば良いが、経営陣の官僚主義が横行すると悲惨である。経営が硬直化し、人材は逃避する。補助金と言うと聞こえが良いが、間違うと事業を滅ぼす麻薬となる。
金融市場ほど先進国と発展途上国で格差が大きいものはない。競争力のない金融市場を開放させ、しかも、主力銀行を分割すれば巨大シティに対抗できるはずもない。地元銀行からビジネスを奪うばかりか、彼らは多国籍企業への融資で便宜をはかり、国内企業には貸し渋る。IMFは海外のハイエナに地元産業をさらしてきた。もはやIMFの目的は、国際経済の安定ではなく、自由化することが目的となっていると語る。しかし、世界的権威のある機関に逆らうのは勇気がいる。支援を凍結されると、海外資本を流出することにもなりかねない。各国はIMFからの非難を恐れる。こうした官僚思想の押し付けは、国際機関に限ったことではない。力関係が存在する限りどこにでも見られる。小国の政治指導者で、公然とIMFの政策を拒否し、経済破綻を逃れた方々に敬意を表したい。
2. 東アジア危機
ワシントン・コンセンサスでは、自由化は急ぐほど良いとされる。また、政府は経済への介入を最小限にするべきだとしている。しかし、東アジア諸国では、政府は経済への介入を重要な責任と考えた。貿易の自由化は、輸出産業に新たな雇用が創出されるのを見極めてから徐々に進められた。そうした中、タイ発のバーツ暴落による東アジア危機を向える。これは、資本市場の自由化にともなうホットマネーが元凶であろう。ホットマネーの流出入は、あらゆる資産価値を不安定にする。この時、IMFは財政均衡政策をとった。景気後退に向かい税収が減少するのに合わせて支出も抑えた。歳出削減による縮小政策が、更に経済を縮小してしまう。各国首脳はこの問題を意識していたが、IMFからの非難を恐れて積極的な対抗処置が取れなかった。結局、IMFの怒りをかう覚悟をしたのはマレーシアだけだった。そして、最も被害を最小限に抑え短期間で収拾させた。失業率は、韓国で4倍、タイで3倍、インドネシアでは10倍に跳ね上がった。IMFは各国の金利引上げをせまった。それも25%以上も?それは、金利上昇で、投資対象としての魅力が増し、海外資本が流入するという理屈なのだそうだ。東アジアの金融システムの脆弱さは周知のとおりである。IMFは弱い銀行を閉鎖させようとした。閉鎖するか自己資本比率の基準を満足するかを迫る。自己資本比率を上げる方策は、資本を増やすか、融資を減らすかである。経済下降面で資本を増やすことなどできるはずもない。よって融資を減らす。銀行は、短期融資の支払い繰り延べにも応じない。銀行屋とは、資金を必要としない人たちに貸したがる連中である。各銀行が融資の返済を迫れば、企業は経営難に陥る。学生レベルの議論だ。多くの会社が経営難に陥れば、銀行の自己資本比率はますます低くなる。多くの銀行が破壊的となった。マレーシア政府の規制方針は、銀行が外国為替の不安定性にさらされるのを防いだ。資本取引規制をとったが、投資家離れを招くと国際非難にさらされた。企業に対して外国からの借金に制限を設け、国内銀行からの融資を受けるようにした。急速な資本の流出入を防ぎ、金利も低く抑え会社の倒産を防いだ。資本取引規制は中国もインドもやっていた。独自路線を進んだ国は世界的な危機を逃れた。ただ、本書には登場しないが、東アジア危機については、陰謀説もある。おいらは、過去30年、世界のどこよりも急成長をした地域に対する攻撃だと思った。どうやら黒幕はIMFのようだ。
3. ロシア経済の破綻
旧共産主義国を市場経済へ移行させるのにも国際経済機関は活躍する。IMFは、ルーブルの切り下げによってインフレが起こることを懸念した。そのため、過大評価された通貨価値をロシアに維持させることに固執し、数十万ドル規模の資金援助を実施した。これが、ロシア経済を破綻に追い込んだ。政治介入は最小限に抑えるという方針だったのでは?エリツィン時代の最悪の産物がオリガルヒ(新興財閥)であるという。これは、市場のボリシェビキが、欧米の伝道者と組んで、レーニン手法を用いたようなものだと語る。アメリカ財務省とIMFが強硬に主張したのは、迅速に民営化を行うという毎度の話である。しかし、まだ法が不整備なままでは、消費者は民間業者の食い物にされる。従来の政府独占が民間独占に置き換わっただけのことである。民間が官僚に便宜を図り、政治腐敗も起こる。ただ、よくわからないのが、ロシアほどの大国に国際機関の支援金が必要なのだろうか?そもそもエネルギー資源や天然資源に恵まれた国である。これを民間に再分配すれば良いはずである。あくまでも経済システムの問題であるはずである。政策は、一夜にして物質の価格が自由化された。当然インフレが起きる。貯蓄の価値は目減りする。そして、インフレ抑制で、金利を上げ、金融引締政策を余儀なくされる。物価が高騰したにも関わらず、一部の主力資源については価格が抑えられたままだったという。激安の石油を調達し欧米でさばけば、億万長者になる。独占による大きな利益のせいで、マフィアのような手口や談合が横行する。こうしてエリツィンの友人や同僚は億万長者になったという。民営化レースでは抜け目のない勝者が現れるものだ。そして、緊急支援に総額226億ドルが投じられる。その内訳は、IMFが123億ドル、世界銀行が60億ドル、残りは日本政府が拠出したという。IMFは、エリツィンを政権の座にとどめておくという思惑をもっていた。確かに共産主義に逆戻りされても困る。だが、この融資もオリガルヒが国外に持ち出したという。支援金の効果を知りたければ、キプロス島やスイス銀行を調査すれば良いと語る。そして、世界金融危機へと拍車がかかる。これがLTCMへとつながる。結局、一部の富裕層を富ませ、貧困層を増殖させ、不平等を助長させたに過ぎない。旧共産圏の国々は軒並み追従する。ポーランドはIMFの圧力を無視して成功した。IMF優等生ほど、経済不振に直面する。いまや、ロシアにはマフィア的資本主義が定着しつつあるという。しかし、明るい兆しもある。自分たちが略奪してきた行為を、今度はされないように法の整備が必要なことに気づく。コーポレート・ガバナンスを求める動きがあるようだ。ただ、おいらは、これも人為的にロシアを骨抜きにし、脅威をなくすための陰謀だと思っていた。そもそも、冷戦時代から対立していたのだから動機は十分にある。ウォール街は、ロシアには直接関心を持っていなかったという。ウォール街は、インフレをこの世で最悪の事態だと考える人種らしい。インフレが財産価値を下げ、金利を上げ、債券価格を下げると見るからである。財務当局は失業に関心がないらしい。ウォール街にとって、私有財産以上に神聖なものはないのかもしれない。
2008-02-03
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