2008-01-28

"論理哲学論考" Ludwig Wittgenstein 著

アル中ハイマーは岩波文庫を立ち読みするのが好きである。待ち合わせをする時、「どこどこ書店の岩波文庫の前」というのをよく使う。
本書はなんとなく題目に惹かれて買った。アル中ハイマーも論理的な思考は嫌いではない。ただ、人間は感情の動物でもあるので、バランスしないと中傷することにもなる。論理が万能なわけでもない。時には無力感に襲われる。論理だけで物事を語ると、範囲は限定的となる。アル中ハイマーは、哲学の意義とは何か?論理的な思考が真理に近づけるのか?といった疑問を、昔から持っている。正しい論理が真理であると語るならば、真理に近づくためには、人間の存在意義や宇宙の存在意義を語らなければならない。そんなものが語れるのだろうか?論理で目くじらを立てることの意義とはなんだろう?こうして酔っ払いの宇宙は拡散し続ける。本書の解釈には、広がりを見せそうだ。自己意識の確認にもできる。多分、10年後に読むと違った世界が見えるだろう。

本書は、哲学の諸問題を扱っている。そして、以下の言葉から始まる。
「ここに表される思想、ないしそれに類似した思想を、既に自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう」
哲学の諸問題が、言語の論理に対する誤解から生じることもある。言語で論理的に命題を解くにしても、言語の限界からニュアンスの違いによって、明確にできないことも多い。時には、国語辞典でさえ無力である。もし、言語に限界があるならば、辞書にも限界があるということだ。人間という複雑系は、言語にもよく現れる。同じ言葉でも、良い印象と悪い印象を与えることもある。論理的思考の優れた人間は、自らの間違いがないことを念入りに検証するので主張が強い。だが、実際は言語というものは、それほど万能でもないのである。アル中ハイマーは、しばしば思考したことを表現できなくて悔しい思いをする。酔っ払いの場合は、単にボキャブラリーが無いだけであるが、議論する時、的を得た言葉を探すのは難しい。いかにも論理的に見える突っ込みは、もはや人を傷つける。思考は言語によって偽装され、比喩は揶揄となる。こうしてアル中ハイマーは無神経の代表となる。人を傷つけるだけならば当人だけの問題で済むが、公然となれば周りの人々をも不快にする。
本書は、「思考」対「論理」、もっと言うならば、「思考の表現の限界」対「論理」の対決と見て取ることができる。また、本書は哲学書ではあるが、数学的でもある。著者ウィトゲンシュタインは、フレーゲとラッセルの影響を受けていると自ら語る。思考の表現を明確化するためには、明確な言語が必要である。はたして、完全に正確に表現できる理想言語というのは存在するのだろうか?こうした問題に哲学者や数学者たちが立ち向かい、思考を表現する限界にぶつかってきた。外面的には、思考の限界は、思考の表現の限界に等しい。だが、その限界を意識できるということは、思考自体は、その言語の限界の境界線をまたいでいることになる。一方で言語を芸術の領域へ持ち込める人間がいる。到底論理的とは思えないものが、心を癒してくれる。いや、一見論理的には思えないだけであって、実は論理に従っているのかもしれない。だから人間の心を刺激できるのかもしれない。

1. 理想言語とは
本書の意義は、以下の言葉で要約できる。
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない」
沈黙せねばならないというのは、沈黙のうちにそれを引き受けて生きるということである。哲学の問題でよく語られるのが、自我は実在するのか?というのがある。大デカルトは、自我の実在を証明できれば、神の存在も証明できると言った。所詮、証明できないものが多く存在する。そもそもこうした問題に意味があるのか?本書は、世界は全ての要素命題の列挙によって、完全に記述できると語る。確かにそうなのかもしれない。少なくとも論理によって決定される問題は、論理のみによって解決できるだろう。しかし、それが真理に近づけるものなのか?本書は、記号体系で曖昧さを排除するための条件を示そうとする。論理記号を組み合わせた時に、それ自体に意味があるかどうか?ナンセンスにならない条件とは?その意味が一つに定まる条件とは?著者は考察する。これが、理想言語なのかどうかはわからないが、そうした状態に近づこうとする。では、矛盾はナンセンスなのだろうか?世の中は矛盾で成り立っているではないか。真理関数を順番に解き、真偽をさまよい続け、ついには確率論へすがる。複雑系は、確率論でしか語れないのかもしれない。

2. 哲学とは
本書は、哲学の意義についても触れる。ざっと言葉を拾うと。哲学は自然科学ではない。哲学の目的は思考の論理的明晰化である。哲学は学説ではなく活動である。哲学は思考可能なものを境界づける。認識論は心理学の哲学である。などなど。しかし、哲学者たちが、非本質的な心理学研究に巻き込まれていると嘆く。
「哲学的について書かれた命題や問いのほとんどが、誤っているのではなく、無意味である」
極度に凝縮された哲学には、危険が満ちている。著者自身の方法論にも、その危険性があると語る。哲学を教える正しい方法は、ただ自然科学の命題のみを語ること、そして、可能なかぎり明晰さと緻密さで語ることであると主張する。その際、哲学的主張は学ぶ側に委ねられ、教師はその哲学的主張が無意味であることを示すだけでよいと語る。はたして思考には、主体があるのだろうか?世界には、形而上学的な主体が認められるだろうか?著者は、唯一語れないものは、その主体であると認めている。示すことができても、語ったことにはならない。人間は死を経験できないと語る。経験とは、過去に起きたことを認識することであるならば、死を認識できないだろうから、経験できないと言っても良いかもしれない。いや、ひょっとしたら、経験できる世界が存在するかもしれない。

x. 「偉大なる悪手」(おまけ)
この項は、本書とは無関係である。論理思考のゲームに囲碁やチェス、将棋などがある。ゲームが進むにつれ、囲碁は碁石のおける目が減っていく。チェスは駒が減っていく。よって、互いに終盤に近づけば静かになっていき、収束するゲームと言えるだろう。ところが将棋は升目が減るわけではない。駒も手持ちにすれば可能性も広がる。入玉を許せば、詰ますのも限りなく不可能となる。よって、終盤になれば激しさを増し、拡散するゲームと言えるだろう。ここが将棋の魅力でもある。
先週、タイトル戦の一つである王将戦第二局「羽生王将 vs. 久保八段」が行われた。後手久保八段の中飛車で超急戦型となった。昨年12局指されて先手の5勝7敗と、後手有利とも言えるデータである。ただ、後手が負けた5局のうち、4局が久保八段が指したものらしい。そのうち3局が対羽生戦、残り1局は渡辺戦。久保八段にはトラウマになりそうな戦型だが、この大舞台であえて挑むところは敬意を表したい。角交換になって、久保八段は自陣から角を打って飛車を牽制し馬を作る。羽生王将は5五桂で馬道を止める。ここまではよく見られる形だが、注目すべきは、次の久保八段の指した5四歩。これは、昨年の棋聖戦第四局「渡辺竜王 vs. 佐藤棋聖」で、佐藤棋聖が指して話題を読んだ新手。一見、渡辺竜王有利と思えるが、佐藤棋聖が指すと重みがある。結果的に佐藤棋聖が勝ったが、「偉大なる悪手」と評された。
この対処に、羽生王将は、6三桂成から9六角打で、あっさりと攻める。この9六角が成立しているかどうかは、今後の研究で明らかになるだろうが、鋭い一手に感動した。王将戦は二日制だが、初日で早くも羽生王将優位となった。酔っ払いのような素人が見ても、安心して見られる展開だから、トッププロのレベルからして、差がはっきりしているのだろう。残り時間を互いに1時間以上余していることからしても想像がつく。それでも、久保八段の粘りの手には関心させられる。ひょっとしたらミスを誘って逆転もあるかとも思わせたが、やはりこのクラスは甘くはない。今回の勝敗はあっさりしていたが、トッププロの盤面を通しての対話はおもしろい。

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