アル中ハイマーは特捜と言えば国策捜査を思い出す。その手の本の中毒なのかもしれない。ただ、本書も、検察の基本方針はそもそも国策であると断言しているからおもろい。
著者は、元特捜部検事で弁護士に転向した、いわゆるヤメ検弁護士である。極貧家庭で育ちバブル時代を生きた著者は、特捜時代にはエース検事と呼ばれ、数々の事件で政界の汚職を暴こうとした。しかし、上層部の圧力で潰され検事人生に虚しさを感じ弁護士に転向する。その手腕を買って当然のごとく裏社会の実力者が近づく。そして、7億円のヘリコプターを購入するなど豪華な生活を手にした。しかし、順風満帆の中、古巣の特捜部に目をつけられ懲役三年の実刑を受ける。
本書は、著者の人生観とバブル時代を回想した告白本である。そこには、検察内部の暴露、国会議員、官僚、ヤクザ、地上げ屋、芸能人などが実名で登場するからおもろい。結構分厚く文字もぎっしり詰まっているが、文章のリズムが合うのか?つい一気に読んでしまう。一流の検事らしく論理思考に長けているかと思えば、人情溢れる話も多い。
1. 赤レンガ派と現場捜査派
検事の種類には、赤レンガ派と現場捜査派の二種類があるという。赤レンガ派とは、法務省旧舘の赤レンガの建物を指し、法務省の勤務経験が長い法務官僚のことである。東大法学部卒のエリート官僚や閨閥を後ろ盾にしている検事がこれであり出世が約束されている。赤レンガ派は事情聴取ひとつとっても優遇され、参考人程度の取り調べしかやらない、というより、それしかできないのが大半だという。にも関わらず最近の検察トップはこの赤レンガ派の連中で占めらる傾向にあるらしい。かたや現場捜査派が検事総長まで昇り詰めるのは、ごく稀ではあるが中にはいるようだ。特捜部は憧れの部署であり入るのも難しい。多くの現場捜査派のたたき上げ検事は、せいぜい地検の検事正どまりであり、その前に退官するケースも多い。こういう人達が、刑事事件に強いとされるヤメ検弁護士となるようだ。多くの現場捜査検事は、検察庁の徒弟制度の壁に悩むという。検察キャリアと呼ばれる人達は、クビをかけた博打のような取り調べはやらない。あえて危険を冒してまで供述を取ろうとはしない。失敗さえしなければ自然と出世できるからである。そこが現場捜査派で、たたき上げの人間とは違うところだと語る。役所は複雑に利害が絡み合っているため、それが捜査の弊害になることも少なくないことは想像に易い。省庁は予算を握っているところが圧倒的に強い。旧大蔵省や財務省が中央官庁の最高位に位置し大きな顔をする。検察庁も大蔵官僚には弱くなかなか捜査に踏み込めない。同様に大阪府警の予算を握っている大阪府庁はなかなか摘発できない。そこで大阪地検がその任を担う。地方の検察庁も似たような構図で成り立っているようだ。検察庁と言っても、所詮行政の一機関であり、捜査では縦割りの弊害に苦しむと語られる。
2. 商人の街と政治の街
警視庁は天国、大阪府警は地獄だと語る。大阪府警は職人かたぎの警察官が多く、警視庁はスマート。大阪府警は、ある程度容疑を自白させてから検察庁に預ける。この良し悪しはあるだろうが、これが行き過ぎた取り調べとなり暴力に発展することもある。大阪では、土地柄から経済中心で社会が動く。そこには役所や暴力団などが複雑に絡む。人種問題もあり、同和団体、在日韓国人、朝鮮人も多く、その影響力も強い。大阪は、犯罪頻度や悪質度からしてもタフな土地柄のようだ。大阪府警の幹部達はこんな愚痴をこぼす。
「ヤクザや在日の連中は、まだ片言でも日本語が喋れるだけましや。同和の連中は日本語さえ通用せえへんのやから。ただ暴れるだけや!」
実際、同和団体の若者が糾弾と称して税務署に大勢押しかけ、机を引っくり返したり、職員の胸ぐらをつかんだりといった乱暴が少なくないらしい。人種差別と称してやりたい放題で、これにマスコミも便乗するから被害者意識は助長される。そう言えば、某外国人ジャーナリストの著書で同和問題を楯にした国会議員を列挙したものを思い出す。この分野はタブー化されている。おいらも、出身地からして同和教育を受けた。部落出身者は悲惨な人生を送っている。ろくな教育も受けていないので、社会からやっかいな仕事を押し付けられる。仕方なくヤクザになる者も少なくない。いつの時代も弱い者が損をする。彼らを利用した政治活動などは卑劣極まりない。
一方、東京地検特捜部では、尋問もしていない上役の検事が事実関係に手を加えることもあるという。よく検事調書は作文であると言われる。最初から筋書きを組み立てて、いざ政界に踏み込むとなると寸止めで解決することになる。この点では、大阪流のたたき上げ検事は慣習に従わないプライドがあるようだ。しかし、所詮一検事の力ではどうにもならない。いよいよ政界へ喰い込めると思った時「天の声が下る」。これがエリートの生き方であると語られる。どこにでも見えない敵が潜む。それは内なる敵であり出世欲により支配される。著者は、単身赴任中に、浮気してるという嫌がさせの電話を奥さんにされたという。こうした話は、外務省の暴露本でも良く耳にする。高級官僚は精神的には暇なのかもしれない。エリートほど、たわいも無いことで揉めることが好きなようだ。
3. ヤクザの習性
ヤクザは所詮ヤクザであると語られる。物事を強引に押し通し世間から忌み嫌われる。しかし、物事の道理が本当にわかっていたら、ヤクザなんかにはならない。物心ついた時には、父親に博打場へ連れられる。そうやって育った人間は心底博打が悪いとは思わない。極貧の家に育ち、子供の頃からカツアゲで自活していた人間は、恐喝、タカリは生きる術に過ぎない。子供の頃から喧嘩に明け暮れた人間は、暴力を悪だとは思わない。仲間がやられれば復讐するのが道義である。世間とは、ものさしが違うだけのことである。育った環境から既に、ヤクザ稼業として食っていくしか考えられない人間になっている。言葉は悪いが、生まれながらの犯罪者という人達が現実にいる。犯罪者には若い頃から苦労した者も多いようだ。その結果、欲望をむき出しのケダモノや極悪非道になる者もいれば、苦労の挙句、世間よりもはるかに人間的に洗練される者もいる。著者が検事をやっている時は、徹底的に悪を叩きのめすことだけ考えていたようだが、事件の原因を考えると、根っ子の弱い人間ほど犯罪に走ることに、虚しさを感じている様が伝わる。国会議員にも性質が悪い人間も少なくない。ちやほやされる分ある意味でヤクザより性質が悪い。総理の親戚の悪事を揉み消すための姑息な手段や、覚醒剤中毒の治療までやったという。よくテレビ出演し大臣にもなった人間が借金から逃げ回り、土下座して回るほどのお調子者で、挙句の果てに逮捕される話などは笑い話でしかない。
博打といえば、おいらの親父は博打好きである。競輪、競馬、オートにボート。パチンコはプロ級と自負。運転免許を持たない親父は、こともあろうにおふくろにボート場まで運転させ、駐車場で待たせていたこともあった。幼少のおいらは、その駐車場の隅から、微かに見えるボートを遠目で覗いていた記憶がある。サラ金に手を出すわ。消費者金融と称するようになってカードローンもお得意様。外面が良いだけに親戚の受けもいいから余計に頭にくる。その反動でおいらは無愛想で変わり者扱いだ。里帰りする度に親父と衝突したものだ。親父は、おいらをケチで金の亡者と思っている。どっちが金の亡者か?頭がおかしくなる。両親が離婚しないでいるのは不思議でしょうがない。夫婦というのは奥が深いもののようだ。ただ、おふくろは、今も当時の証文を内緒で大事に保管している。お陰で、おいらは麻雀というゲームは好きだが、ギャンブルは一切やらない。しかし、DNAは恐ろしいもので誤魔化せない。その分人生の博打をやっている。
4. バブル時代
バブルの代表格は株式投資であろう。著者は、検察時代から投資の勉強で株にも手を出したらしい。なんとなく博打ともイカサマともつかない世界のように思えたという。女遊びで高価な靴や時計のプレゼントに消えた。駆け出しの女優など、トンマな足長おじさんをやっていたという。株式投資でも凄腕のようだ。おいらも経済学を勉強のために株式投資をしているが、なにしろスケールが違う。儲けた額も、損した額も身を滅ぼすほどである。こういう話を聞くと、おいらもくだらない記憶が蘇る。かつて、ある女性から「ハイヒールを忘れたから買っといて!」というメールを受けた。さっそく、おいらは夜の社交場近くのヒール店に一人で恥ずかしそうに入る。どれを選んでよいかわからないので悩んでいると店員が近づく。「これなど、いかがでしょう!今人気がありますよ!」おいらは、その場を逃げだしたかったが、いちおう色の好みだけは伝える。そして、「すぐに使うから包まなくていいよ!」って言うと、店員から「お客さんが履かれるんですか?」と止めを刺される。ちなみに、おいらに女装の趣味はない。
ここで、印象の残った文章があったので、そのまま引用する。
「人間社会には汚い世界がある。必然的にドブを生む。犯罪者は、そうしたドブのエキスを吸いながら罪を犯す。検事を含め法曹界におけるわれわれの仕事は、所詮ドブ掃除に過ぎない。正義を振り立て、人をリードする仕事ではない。人間のやったことを後始末するだけだ。それも人間のいちばん汚い部分の後始末である。検事や弁護士のバッチを光らせて傲慢な顔で闊歩するほどの仕事ではない。」
著者は犯罪者の複雑な家庭や貧乏に喘いだ環境から、ある程度擁護した優しさを持っているようだ。ヤクザの親分が半端な苦労をしていないことや、在日韓国人が差別を受けて悲惨な状況から這い上がってきた人生を擁護している。そして、著者自身が、あまりにも社会環境に同情しすぎたと語る。ヤクザの親分がいくら人間的に洗練されているからといって、その子分が極悪非道では擁護できるはずもない。一人の人間をどの部分に光を当てるかで人の評価も変わってくる。本書は、闇の暴露本に留まらず、説得力ある人生観を披露している。おいらも自分の生立ちを、このぐらいの文章で綴れると格好がつくのだが、とても太刀打ちできない。せいぜい酒を飲んでブチブチと愚痴を言いながらグレるのが関の山である。
2008-02-24
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