2008-07-13

"タオは笑っている" Raymond M. Smullyan 著

前記事で「天才スマリヤンのパラドックス人生」を題材にしていると、なんとなく本書を読み返したくなった。本書を題材にした記事は、ずっーと前にも書いたが、あまりにもいい加減なので書き直すことにした。

本書は中国哲学の解説書ではない。著者スマリヤンの独特な解釈によるものである。しかし、その哲学振りは十分に的を得ている。たとえ、禅やタオの本質が本書と違うものであっても、この哲学を支持したい。哲学や宗教には、良い面と悪い面と、そのどちらでもない面を具える。それを個別に解釈して優れた部分を合成できれば、それでいい。あらゆる思想は、ある部分では素晴らしいことを主張する。だから、信者が少なからずいる。明らかに間違っている思想には、人々は見向きもしない。その理論がたとえ間違っていても、心地よい部分があれば、人々は狂信することがある。ほんの一瞬にせよ、失業問題を解決したヒトラーのような狂人者でも民衆は群がる。
おいらが時々疑問に思うのは、一般的に語られる古代思想は正確に伝えられているのだろうか?ということである。思想を真に受けるのと、好むのとでは違う。本書を読んでいると、思想についてどちらが優れているかを論争することは、どうでもよくなる。ここで問題にしているのは、ただ好きか嫌いかである。狂信者のおもしろいところは、宗教が人間のニーズに答えてくれると信じていることである。神様が存在すると信じる。ここまではいい。しかし、どうして神様が自分の味方だと信じられるのか?神様は、とても照れ屋さんで、信じられるとすぐにどこかへ行ってしまうかもしれない。哲学や論理学の探求は精神病になる危険が潜む。それでも、真理をほんの少しだけ覗かせてくれるところがいい。タオは、アル中ハイマーに安らぎを与えてくれる。

西洋の哲学や宗教には、論争と闘いの歴史がある。その中で、神の存在を巡ってどれだけ血が流されたであろう。宗教家は、異教徒と無神論者を救うために、神を信じさせようとする。だが、そもそも救う必要があるのか?こうした論争を尻目に、タオな人は、のんびりと酒を飲んで芸術に浸る。西洋哲学で議論の的となるのが、「実存するか」や「意味があるか」である。タオな人は、実存論争や、無意味論争など、気にもかけない。タオな人は、論理実証主義者の「無意味だ」という似た反応を示すが、それも微妙に違う。スマリヤン流に言えば、無意味だけど議論しても愉快ならば、それでも「ええんでないかい!」といったところだろう。苦悩することもなく、関心のないことに夢中にもならずに、ただ笑って愉快になるだけ。これぞタオの真髄である。ある禅師の話。仏陀を拝むのは悟りを得るためではない。「ただ拝みたいから拝むのだ」そこには、理由などない、なんと自然だろう。「そこに純米酒があるから飲むのだ」アル中ハイマーの哲学も捨てたもんじゃない!

哲学には大雑把に言うと二つに大別できるという。それは「分別ある哲学」と「風狂の哲学」である。前者は、正当で理性的で分別的である。一方後者は、どこか狂っている。そして、自然発生的でユーモアがあり、従来の思想の枠にとらわれない。著者は後者が好きだという。道徳的でなく、自己規制がなく、詩的で、矛盾とパラドックスに満ちている。そして、なんとなくこの世を超越していて真理にずっと近いと語る。どちらのタイプに属すかは、職業分野によっても傾向があるだろうが、一般的に、心理学者、精神分析医、経済学者、政治家などは分別あるタイプで、科学者、数学者、芸術家は風狂の傾向にあるという。どおりで、おいらは政治家や経済学者が好きになれないわけだ。
東洋の思想には、「悟り」という考えがある。キリスト教では、「救済」に相当するのだろうか?「救済」の概念は極めて明解であるが、「悟り」の概念は実に曖昧だ。いや!真の「悟り」を得た者にしてみれば、明解なのかもしれない。「神への服従」と言えば明解だが、「タオとの調和」と言うとわけがわからない。そもそも、「悟り」とは言葉で表せるものなのだろうか?真理が神の創造物であるならば、人間の作った言葉で、表せる方が矛盾してはいないか?
西洋的思想では「精神」について激しく論争する。そして、言葉が定義できても、その実体は不明である。では、「タオ」ってなんだ?その言葉すら定義できない。これは概念か?それとも宗教か?実に曖昧で、哲学のようで芸術の領域にある。これがタオの美学だ。こうした思想は、極めて東洋的であって、西洋からは受け入れられないだろう。ところが、著者がアメリカ人というところにおもしろさがある。しかも、どんな哲学書よりもおもしろい。

本書は、罪と自由意志の関係についても論じる。罪という意識は、人間が自由意志を持っている証拠なのか?自由意志のともなわない罪は、罪ではないのか?人間以外の動物に自由意志はないだろう。動物たちは、罪を犯しているという意識はない。すると、自由意志があるために、罪を犯すのか?決定論者は、すべての事象は自然法則に従うと言う。人間の行動が、すべて自然法則によって決定づけられるならば、人間の存在も自然法則の一部である限り、自由意志でどんなに反抗しようとも、それも自然法則ということになる。自由意志と決定論を対立させたところで、所詮自然法則の中で、もがいているだけのことかもしれない。ところで、精巧に造られたロボットには霊的なものを感じる。ここにも自由意志が生成されるのだろうか?昔ソニーの犬型ロボットAIBOが登場した時は感動したものだ。ロボットの足を付け替えたりすると、子供は虐待しているかのように白い眼で見る。しかし、これはロボットだ。映画「ターミネーター」では、シュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。これもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気持ち悪い。AIやロボットの研究には、人間の本質を明るみにする可能性がある。どうせなら酔っ払いと同じように千鳥足で歩くロボットを造れば、魂や自由意志が解明できるに違いない。ところで、女性ロボットとの関係に不倫は成立するのだろうか?

論理原理主義者は、定義できないものの存在にすぐに目くじらを立てる。自らの論理性に自信を持った者は、完全に論理で支配できると信じている。だが、論理にはパラドックスが存在する。なんにでも懐疑的になり徹底的に客観性に固執するからこそ、主観性の貴重なことにも気づく。おいらは、客観的な論理思考は優れていると思うし、大好きだ。だが、現実には主観性の罠に嵌り、客観性を保つことは難しい。著者は、ルイス・キャロルを論理学の天才であると同時に、ナンセンスの天才だったと評している。両者は紙一重なのかもしれない。著者は、禅について次のように語る。
「禅とは、中国のタオとインドの仏教を混ぜ合わせ、日本人がこしょうと塩で味付けしたようなものだ。」
禅を宗教と呼ぶには少々抵抗を感じる。禅は、教えというよりは「生き方」であろう。無宗教を批判する輩をよく見かけるが、重要なのは「生き方」である。著者はタオを音楽に喩える。音楽に敏感な人は美しいメロディーを感知できるが、その美しさを理解できない人もいる。そこには音波は確実に存在するが、メロディーが実在すると証明することはできない。そもそも、音楽センスを持った人は、メロディーが存在するという信念を必要としないと語る。聖書を理解できる人は、その権威を示す必要はないのと同じである。感じることができる人には、それだけでいいのだ。タオの存在も、それを感じることができる人とできない人がいるということだろうか。本書は、客観性と主観性の双方のバランスを問うているような気がする。

1. タオは寡黙
老子曰く。「善人は議論しない、議論する者は善人でない。」
タオと賢人は議論嫌いだという。これはキリスト教の神とは正反対である。旧約聖書には、いろいろな人々と議論する場面がやたら多い。議論の中で、あげ足をとる者は、論理的に語っていると主張する。そして屁理屈へと発展する。いや、屁理屈なら論理的な証拠かもしれない。ちなみに、著者自身は議論が大好きだという。老子の言う賢人には、なんとなく憧れてしまう。しかし、アル中ハイマーが寡黙になることは難しい。酔っ払いは口元の神経をコントロールすることはできない。では素面ならできるのかというと、それも難しい。酔わないと自我を認識できないからだ。タオは、口答えしたり反論したりしない。独り言が好きな人間には最高のお喋り相手である。もちろん、アル中ハイマーの独り言にもうなずく。グラスの氷に向かって、「君って冷たいね!」と話かければ、照れてカランと音を鳴らす。鏡に向かって、「なに赤くなってんだよ!」と話かければ、「君に酔ってんだよ!」と心の中で騒ぐ。

2. タオと調和
ユダヤ・キリスト教は、神への服従を求める。「自らの意志を神に委ねよ」と。しかし、タオは決して威圧しない。その代わり「タオと調和せよ」と説く。「調和」という言葉は、心の安らぎをイメージすることができる。「タオに意志を委ねよ」と言ってもピンとこない。そもそも、タオに意志があるのかも分からない。だが、タオが自由意志を否定しているわけでもない。ゲーテ曰く。「自然に対抗しようとする行動自体が自然法則に従っているのだ。」自由意志で、自然を征服しようとしても、結局は自然に逆らうことができず、人間と自然は一体であることに気づく。「自らの意志を神に委ねよ」という教えも、結局は同じ精神に帰着するのかもしれない。しかし、間違った解釈をした連中は多いようだ。「服従」とか「委ねる」といった言葉よりも、「調和」と言った方が酒のつまみにもいい。単なる言葉のニュアンスの違いであるが、そこには主観の美しさがある。

3. 性善説と性悪説
タオイストも儒学者も人間の本性は、元来善であるという立場をとる。もっとも、儒教は道徳を説くことによって、かえって人間を腐敗させるという批判もある。孔子曰く。「人間の本性は善であるが、老年まで善を保ち続ける人は少ない。」この性善説と対照的なのが、中国の法家思想家である。現実主義者とも言えなくはないが、人間の本性は元来悪であるので、現実に人々を治めるときは腐敗した人間の本性を十分に考慮しなければならないと説く。しかし、法家思想家たちによって、全体主義政権を打ち立て、多くの儒学者を拷問し処刑し、古典書物も焼かれた歴史がある。その時代、民衆は互いに行動を監視するような緊張の中で、政権は成り立っていた。これは、思想が正しいとか間違っているとかのレベルではない。思想を押し付けた結果である。道徳家にしても、押し付けがましいものである。ちなみに、老子も荘子も孔子も猛子も、人間が自然に善であった良き時代がかつてあったことを度々書いているという。当時、中国の病んだ社会へと向かう中で、嘆き悲しみ、思想の分かれが生じたのかもしれない。どこの国でも、思想の分かれが生じるのは、病んだ政治背景があるものだ。

4. 道徳家とタオイスト
道徳家は、「正と不正」を強調するが、タオイストは、自然の尊さを尊重する。著者は、道徳的であると同時に思いやりのある人間に出会ったことがないという。両者は、むしろ反比例の関係にあるというのだ。思いやりのある人は、親切で情け深い。これは、「こうあるべき」と思うからではなく自然にそうなのだという。そこには、正しいという感情がない。思いやりのある人間は道徳など不要というわけだ。道徳家は、「思いやりを持ちなさい」と説教しながら、思いやりのない人間にしてしまっていることに気づいていないと語る。そこには、共通して無理やり思想を押し付ける傲慢な態度がある。女性に愛を求めても愛は得られない。物品の方が手っ取り早い。
「美徳と隣人愛を宣伝しなくなれば、隣人愛は回復する。」
人間的な情け深さを重んじる点では、両者とも同じである。ただ、その手段が違う。義務的あるいは抑制的な道徳は、反抗的な自己意志を挑発する。政治家が政治を悪くしているように、経済学者が経済問題を引き起こしているとも言える。ノイローゼの元凶は心理学者という意見にも一理ある。本書が強調しているのは、「道徳的である」ことと「思いやりのある」こととは違うということである。まず、道徳家はこれを認めることだという。タオが道徳を否定しているのではない。道徳的な規範に縛られない自立した自由意志を理想としていると語る。

5. タオ的な服従
荘子は、人間の本性を害した儒家たちを、馬を台無しにする調教師に喩えている。ここでは、かなり長文が掲載されるが、気に入ったので、要点だけまとめてみよう。
「馬の扱いに長けていると自負する調教師は、馬の毛をそろえ、蹄を削り取り、焼印を押す。首には手綱をかえ、足かせをつけ、訓練するが、馬は本当にそれを望んでいるだろうか?陶芸家も粘土の扱いに長けていると自慢し、大工も木材を自由に加工できると自慢する。だが、粘土や木が加工されることを望んでいるだろうか?どんな時代も、その技術のおかげで、もてはやされるが、そこには人間のエゴが潜む。国の統治も、統制する技術を評価されるが、これは間違いである。国の治め方に長けている人は、治めるべきではない。なぜなら治める必要がないからだ。人間は、本能的に生きるために働く。これは自然と調和しているだけのことである。」
賢い支配者は、人々が自主的に自分たちのためになることをするように仕向けるという。そして、支配者が誇るのではなく、それぞれの人が自分自身の行動を誇る。これがタオ的な服従である。タオは目的によって作用しない。自然発生的に作用する。タオは決して命令しない。この対照的な立場がユダヤ・キリスト教である。だから、命令に従わない者が多いと語る。

6. 利己主義と利他主義
利他主義者は、利己主義者を批判し説教する。道徳家とはそうしたものだ。利己主義者を説教したところで、効果があるわけがない。だが、どんな人間でも、利己的な部分と利他的な部分がある。少なくとも、そう思うから説教する。利己的な部分が現れすぎているから、心の奥深くにある高尚な部分へと働きかける。解釈の難しいのは、自己をどの範囲に置くかである。人間は自己からは逃れられない。自己を全宇宙にまで広げれば、個性はなくなり、理想的な境地に達するだろう。その時、自己中心的という言葉は消え去る。

7. 「静の哲学」と「動の哲学」
本書では、「なるがまま」と表現しているが、アル中ハイマーの哲学に「なすがまま」というのがある。事業を成功させようと力んでいると、気楽に人生を謳歌するという欲求の方が、性に合っていることがわかってきた。これは無能な人間の諦めである。よって、興味のない本を読むこともないし、興味のない分野の知識など求めない。これが「静の哲学」といったところだろうか。これは行動派の人間からは批判される。無気力な人間の隠蓑となるからである。行動派は、なりゆきに任せれば悪に立ち向かうことはできないと主張する。これが「動の哲学」といったところだろう。「静の哲学」も反論する。無理やりの行動が、むしろ事態を悪化させてきたではないかと。だた、こうした議論は無意味である。あくまでも好みの問題である。タオは「静の哲学」に近い。タオの主要な考えに「無為をもって為す」というのがあるらしい。無為ってなんだ?またまた、曖昧な言葉が登場する。なんとなく自然に揺られながら、いつのまにか到達する境地のような感じだろうか?この曖昧さがいい。人には、努力と意識しない努力がある。つまり、好きなことをやる能力だ。

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