2008-07-27

"ヴァレリー・セレクション(下)" Paul Valéry 著

上巻に続いて、何度も読み返しながら進んでいると、読破するのに一ヶ月もかかってしまった。歳をとると、こういう世界を欲するようになるのだろうか?いや、まだ若いからこそ癒しの空間が必要なのだ。アル中ハイマーは哲学の意義をごくたまーに考える。この一見高度に見える思考は、生きる上であまり役には立たない。哲学は、苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。定義できない抽象的な問題を考察したところで、解決にはならない。そして、答えの見つからない宇宙へと放り出される。論理的な解明を深めると鬱病にさえなる。だからといって、それ以外に何ができるだろうか?だからといって、諦めるにはもったいない。哲学は、探求するプロセスを楽しむ世界である。素朴でなければ、その境地に達することはできない。そこが、暇人の学問と言えるところである。多忙に追われていては、触れることのできない領域に踏み込む。そして、そこに詩的なものが加われば、癒されることこの上ない。ヴァレリーの世界とは、そうした世界である。

本書を眺めていると、評論であっても芸術の域に達した独創的な文章に出会える。こうした文章を見せつけられると独創へ憧れてしまう。ところで、独創性とはなんだろうか?独創性とは、どうやって磨くのだろうか?上巻では意外なことが語られていた。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないというのだ。もちろん、そこには自らの精神を曝け出すのが鉄則である。偉大な芸術は、模倣されることを自然に受け入れる。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つ。それに耐えうる、それに値するものにこそ、真の芸術があるということだろう。批評にしても、作品を語っているようで、実は自己を語っている。それは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。日本の小説家で誰だったかは思い出せないが、似たようなことを語っていたような気がする。それは、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったフレーズに出会えるかにかかっているといったことである。個性を磨くにしても、いかに個性的な人間に出会えるかにかかっているのかもしれない。独創性とは、先人たちの苦悩と積み重ねによる賜物と言えるだろう。著者は、小説や詩というものは、純度の低い無意識的な応用に過ぎないと語る。そして、詩の創作とは、言語という材料によって模倣しようとする行為であるという。著者が文学に腹を立てているのは、科学と違って観念を扱う際に厳密さや一貫性や必然性を欠いていることだという。そして、文学の対象はたいていとるにたらないと語る。とはいっても、単に文法的な形式に従って言葉を並べても、そこに詩的な文章は現れない。たいていの人々は、生活の中に潜む幸運の産物に気がつかないでいる。文章の見事さや韻律の美しさは主観の領域にある。主観とは、精神の自由を探求するものであり、いわば本能との葛藤である。この葛藤の中から、形として表せるものを見つけ出すところに、芸術家の凄さがあるように思える。

芸術の一手段に絵画がある。これは人間の視覚に直接訴えるため、それだけで説得力がある。にも関わらず、絵画を文学という手段で評論し、更に芸術性を高めるところにおもしろさを感じる。特に、芸術感覚のないアル中ハイマーには、文章による解説は必須だ。しかし、芸術家は職人気質があるため、文学的な評論を拒む印象がある。お前なんかに俺の芸術が分かるもんかと嘲笑っているような気さえする。しかし、著者は、あらゆる芸術作品は人が答えてくれることを求めているという。そして、絵から談話の機会を奪い取ったら、その意味と目的を失ってしまうと語る。芸術作品には、作者の生き様が要約される。そして、自らの作品をより高度な複雑な領域に定義したがる。芸術家が自らの定義を文章に訴えた例は多い。レオナルドは事柄の様子を細かく叙述し、ドラクロアは様々な秘訣や方法を書き留めた。こうした過程で、芸術家は信念を高め、自らの五感へ働きかける。本書を読んでいると、芸術作品の評論とは、作品そのものよりも、芸術家の生き様を評するもののように思えてくる。美術館は独り言の好きな人間には最高の場所である。

本書には見事過ぎるほどの幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。

1. 海への眼差し
海辺で眺めていると、様々な考えの粗描、詩の断片、行動の幻、希望の脅威を精神の中に見出すと語る。そして、感情を持たないものの中で、海以上に自然に擬人化されたものはないという。その文章からは、地球、月、太陽、空気などの影響下にある巨大な液体に、素朴な精神は生命を吹き込もうとする。透明と光沢、休息と動き、静けさと嵐、法則と偶然、無秩序と周期、知的で幼稚、時には地質学的に、時には生物学的に、時のは物理学的に...人間の精神に照らし合わせた水への幻想的な表現が続く。そして、誰もが素朴な詩人になれると語ってくれる。そこには、音楽を聴いているような癒しの世界がある。

2. 「パンセ」の一句をめぐる変奏
パスカルの断片集「パンセ」の中の一句。「この無限の空間の永遠の沈黙がわたしを怖れさせる」これを題材にしてパスカルの人間像を評している。そして、悲劇の主人公説を否定する。これは詩であり思想というものではないという。「無限の空間」と「永遠の沈黙」を対称的に配置し、均整のとれた構成は見事で、一つの宇宙が創出される。そして、「この詩は完璧だ!」と語る。この句には、パスカル自身が世界から打ち捨てられ、絶望の境地が表れる。しかし、本当に全てが虚しいと感じるならば、そう書くことを自ら禁じるものだという。確かに、うまく書こうとするところに下心がある。自らを分析できる冷めた心が無ければ芸術は生まれない。芸術家は観察したものを誇張せずにはいられない。著者は、本当に宗教的な人間や、本当に思慮深い人間は、宇宙に空虚なものを見たりはしないという。そして、認識と救済との対立を大げさに誇張するのは、同じ時代にパスカルに劣らず優秀な科学者がいたからであると分析している。デカルトへの嫉妬心か?あらゆるライバルへの対抗心か?といった批評が展開される。

3. コローをめぐって
コローの絵の評論。コローは「大地」の姿を最もよく観察した画家の一人である。著者は、偉大な芸術家とは、知的で、理屈っぽく、美学に夢中になった連中であるという。偉大な芸術家は、偉大な理論家でもあり、人々に抵抗不能な効果しか望まず、服従しようと試みる。その一方で、コローは自分の感じるものへと誘惑し、自然に忠実に服従するのを願うという。著者は、芸術家が最終的に行き着くところは自然さだと主張する。コローは巨匠たちを尊敬してはいるが、他人の手段は邪魔だと考えているという。彼の作品は、波うってどこまでも続く「大地」に光をあて、音楽のような魅惑を引き出す。それは、生涯かけて学問の深さを追及した者にのみ得られる自然であり、ある日突然不意打ちのように現れるという。ライプニッツは0と1で全ての数が書けることを示した。芸術の巨匠にかかれば白と黒で同様のことができるということか。明と暗だけで、視覚的な表現には十分なのかもしれない。著者は、色彩画家は本質的に詩人であると語る。

4. マネの勝利
もし!「マネの勝利」という絵画を描くとしたら、この偉大な芸術家の周りを仲間たちで囲むような構想になるだろうと語る。そのまわりには、ドガ、モネ、バジル、ルノワールといった巨匠が並ぶが、誰一人として、テクニックも個性も違っている。彼らの共通は、ただ一つ、マネへの信仰だけである。マネには、それだけ不協和音を結束させるだけの力を持っているということだろう。マネの偉大さは、彼の意義を知っていた人の多さではなく、その心酔者たちの質の高さと互いに異種な人々だったことであると語る。

5. 地中海のもたらすもの
著者は、地中海の港の見える丘で育った。その精神が地中海から宿ったことを語ってくれる。人生の最初の印象を、地中海とその周りの人間から得られたことを幸運に思っているという。そこには、自然という恒久的な宇宙が存在するのと同時に、人工的に光景が変化する破壊との共存がある。神格的な地位にある海、空、太陽へ崇拝した時間が、著者の自己を形成していく。プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉は、まさしく地中海的であるという。つまり、自然の多様さには、人間の専門化した能力を結集しなければ対抗できない。そして、精神が持てるということは、光と空間、余暇とリズム、透明さと深さといった自然の諸条件を感知することだという。歴史的には、地中海の物理的特質が、ヨーロッパの形成に大きな役割を果たしてきた。地中海の自然が提供したものが、ヨーロッパの精神の根元にある。今日の基礎となる政治体制や思想、哲学が、古代ギリシャをはじめとする地中海文明がもたらしたのは、こうした自然環境を抜きには語れないのかもしれない。そう言えば、ガウディも地中海に魅了された様を語っていたのを思い出す。

6. 舞踏の哲学
舞踏は、生そのものから引き出された芸術であり、決してつまらない娯楽ではないと語る。そして、人体には、生きる上で必要もない過剰な能力があることを知ることができるという。著者は、舞踏の動きの中に、陶酔するまでの快楽が得られると絶賛している。しかし、実は著者自身がステップを踏めないので、なんらかの哲学に救いを求めているだけだと言っている。哲学者はイメージの大好きな人種である。そして問いかける。舞踏とは何か?時間とは何か?宇宙とは何か?酔っ払いとは何か?と。人間は奇妙な動物で、生きるために全然重要でない行為に意義を認め価値を与える。人間の好奇心は、生存の要求以上に激しくなり、ついには芸術や科学や普遍的問題を創造する。舞踏は、大地、地面、固い場所といった対象物の中で行われる。しかし、女性舞踏家は、そんな対象物を無視して軽々としたステップで、楽しく踊りまくる。舞踏の終わりには、見せ物として都合上定められた限界があるに過ぎない。つまり、音楽という別の要素が終われば自然と舞踏も終わる。この終わり方は、夢の終わり方に似ているという。また、芸術の行為は舞踏と同じであるとも言っている。そして、詩の朗読を、言葉による舞踏状態と重ねる。音楽家も同様。芸術家にとって作品は決して完成しない。舞踏と同じで終わる手段は、何かが枯渇した時に得られる。酔っ払いの行為も、全てが夢心地であり、決して覚めない舞踏状態にある。

7. 人と貝殻
貝殻には、一方は管の概念、他方にはねじれの概念がある。原則は単純だが見事なまでに多様さがある。ここでは、螺旋、渦巻き、空間内での角と角、これらの関係と観察といった幾何学的考察が続く。そして、いったい誰がこれを作ったのか?という素朴な疑問との葛藤が始まる。精神の最初の動きは「作る」ということに思いをめぐらすことだという。これは最も人間的な概念なのかもしれない。「なぜ?」とか「どのように?」とは、「作る」という概念が要求することで、形而上学や科学はひたすらこれを求めてきた。本書は、更に素朴な疑問を人間が作ったものか?自然がつくったものか?と追い込む。音楽や詩の見事な作品は偶発的なものか?天才たちの突発的なひらめきは本当に人間によるものなのか?人間の行動は、瞬間的な、局所的な行為の連続から成り立つ。その瞬間を思考が意識できるものではない。人工的な産物は、思考が働いた結果によって作られたと言えるのか?貝殻の有用性とは何か?それを言うなら芸術作品に有用性があるのか?少なくとも貝殻は生物学上、有用かもしれない。哲学は滑稽で、全ての存在を疑ってかかるのに、宇宙の存在を真面目に語ろうとする。著者は、貝殻の問題はささやかなものであるが、人間の限界を照らし合わせるのには十分であると語る。

8. パリの存在
著者は「パリ」を思考する。二千年に及ぶ作品であるパリ。偉大な民族の資本と政治によって生み出されたパリ。甘美と労苦の集まり。多くの征服者により欲望の対象とされたパリ。そして、パリはあらゆる事柄にもまして最高位の精神的人格として存在するという。この大都市の絶え間ない活動が、善と悪、真実と虚偽、美と醜といったものが相矛盾し、いかにも人間らしいと語る。世界には、これに匹敵する都市は多く存在する。しかし、ニューヨーク、ロンドン、北京など、数百万の人口をもつ怪物たちと明らかに一線を画すという。多様で個性に溢れた都市だからこそ、芸術の都と言われるのだろう。当時のパリは、あらゆる分野のエリートたちが結集した時代である。パリは、比較の試練を受け、批判や嫉妬、競争、揶揄、軽蔑にもさらされてきた。著者曰く。「傑出したフランス人はすべて、この強制収容所に入る運命にあるのだ。」

9. デカルト
著者は、デカルトを注意深く考察すればするほど遠ざかっていくが、その解釈の分裂が心地良いと語る。精神を追求し、思考をめぐらせ、やがて疲れる。その疲れが、心地よい酔いをもたらし快感を与える。あらゆる思考を抽象化し、ますます深みに嵌る。無駄な努力と分かっていても、その衝動には勝てない。理性、知性、理解、直感が、互いに手段とも目的ともなり、問題とも解答ともなり、物とも観念ともなる。こうした思考は、哲学者を詩人へと導く。詩人の方はというと、逆の手順を踏んでも、なかなかうまくいかないようだ。著者は、科学の世界をデカルトの亡霊に勝手にしゃべらせる。宇宙が数学的に体系化できるとは考えていない時代に、万有引力の法則が世界を解放した。といっても、デカルト以来、不変なものをあれこれ変えてきただけではないかと問いかける。デカルトは自己意識を探求した。もし、自己の存在が証明できるならば、神が存在することも証明できるだろうと。そもそも自己意識の存在など証明できるのか?自然の威厳に比べれば、実存論や無意味論といった論争も無力化してしまう。デカルトがやろうとしたことは、自分の内にある一般化できるものを、最高点に高めようとしたと語る。

10. 対東洋
「自然」という語だけでも、癒される。「哲学」という語は魔法のように感じる。それがどういう意味かわからなくても。西洋人にとって「東洋」という語は、宝石のように思えるようだ。この言葉の効果は、その地方に行ったことがないことが必須である。その知識はせいぜい図像や物語で読んだ程度で、なるべく不正確に混乱した状態が好ましい。これが「精神の東洋」である。著者は、数々の豊かさや創造物の中から、論理性と明晰さが際立つ二つの系を発見したという。それは、ギリシャ芸術とアラビア芸術である。アラビア人は、ギリシャ幾何学から透明な妄想を過剰にまでに高め、その演繹的想像力は、宗教でタブー視されている厳格さを追求したという。それは、イスラムの教えに数学的な厳格さを適合させたアラベスクである。著者は、この禁止を気に入っていると語る。そして、偶像崇拝、まやかし、逸話、軽信、自然と生の見せかけといった純粋でないものを芸術から排除するという。

11. 身体に関する素朴な考察
生物の有機的組織といった全ての機能を人工的に作るとしたら、どれだけの機能を削減できるだろうか?と問いかける。血液など必要な成分が、機械によって確実に維持されるとしたら、生命を人工的にも維持できるだろう。生物の有機的組織がしている仕事といえば、血液の再生だけである。血液は身体を作り、身体は血液を作る。血液は循環路を通り、肉体内部の世界一周をしている。これこそが生命であり、実に単調な組織であり、精神が宿るなど思いもつかない。もし、血液が人工的に再生されるとしたら、生は無くなるのだろうか?精神が生命にとって不可欠な仕事をしているとすれば、それは状況の不確かさを予見する能力であろうか?無意識の操作や反射のような反応で事足りるならば、精神の出る幕はない。精神は、むしろ有機的組織にとって、かき乱し、台無しにしてしまうのが関の山である。人体のあらゆる機能を人工的手段で別の代用品で置き換えられるならば、もはや生は存在しないのかもしれない。その帰結として、感覚や感情や思考といったものは、生にとって本質ではないということになる。精神は、生命の保存にとって絶対不可欠なのだろうか?人類は、あらゆる定義を試みてきた。そして、最終的には、自らの可能性を思い通りにできる状態、「自由」とでも呼べる状態に置き換えてしまう。精神とは非存在という存在なのか?その存在を具象化しようと試みたのが本作品である。

12. ヴォルテール
フランス人の多様性は、ヴォルテールの中に生き生きとした形で現れると語る。ヴォルテールはフランス人特有のほとんどの欠点を持っていて、長所も最高レベルに達した典型的なフランス人だという。フランスという国は、理想どうしの不和、感情の対立無しではやっていけない国だという。ヨーロッパの精神として君臨したルイ14世は、ヨーロッパで指導的観念や精神で主導的立場に据えた。ところが、ヴォルテールは、この時代を死にいたらしめたと風評される。彼は全生涯を通して、偉大な時代の遺物や伝統や信仰や豪華さを焼き尽くすよう努めた。洗練された短気であり続け、敵対者を糧に生きた。彼の描いたコントや毒舌は、宗教に対してあらゆるゲリラ戦をしかける。その一方で、シェークスピアを流行らせ、ニュートンを研究し、神のために教会を建てた。そして、嫌悪、憎悪、礼拝、称賛される。ジョゼフ・ド・メーストル曰く。「彼の銅像を建てさせたい。死刑執行人の手で。」この悪魔のような奇妙な人間は、哲学者ではないと評された。こうした批判は、彼が才気にあふれていたことに向けられたと語る。世間は、彼を冷淡で上辺だけの人間と評する。そこで著者は問いかける。それもよしとしよう。では、奥深く情け深いと言われる人間が、どれだけのことをしたというのか?と。ヴォルテールは60歳頃、訴訟を中心とした政治活動を行う。それまで刑法は、社会秩序や国家や宗教に対する違反や侮辱のみを罰してきた。しかし、彼は人類に対する犯罪、思想に対する犯罪があることを叫んだ。さらに、裁きそのものが犯罪になることを訴えた。そして、公権力が感情的になることを阻止しようとした。著者は、支配的権力を窮地に陥れたヴォルテールの功績を賛る。

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