2008-07-06

"天才スマリヤンのパラドックス人生" Raymond M. Smullyan 著

本書は、冒頭から次のように始まる。
「私自身の人生がそうであったように、秩序立った方法ではなく、まるで散歩をしているような感覚で書き進めるつもりである。大好きな中国の叙情的な哲学者と同じように、私は大通りを進むことよりも、無数のわき道を歩き回ることに惹かれる人間だから...」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころである。

多くの数学者や哲学者に絶賛されるレイモンド・メリル・スマリヤンとはどんな人物か?ある証言によると、音楽と数学とマジックの天才。あるいはコメディの達人。また、ある者は現代のルイス・キャロルと評す。幼少の頃から、絶対音感を持ちピアノの天才と言われたが、右手首の腱鞘炎でピアニストになることを諦めたという。ナイトクラブでは、「五枚エースのメリル」と称してマジシャンで出演する。その一方で、数理論理学の博士号を持っていて、自由に大学を転々とする。プリンストン大学の教授は、ナイトクラブから彼を引き抜いて教授職に就かせたという。彼の著書「タオは笑っている」は、ずーっと前に記事にもしたが傑作である。ちなみに、彼はノーベル賞物理学者ファインマン氏と小学校の同級生なんだそうだ。どおりで、ユーモアのセンスに通ずるものを感じる。

本書は、おそらく著者スマリヤンの自叙伝である。ここで「おそらく」と書いたのは、あまりにも愉快なジョークやパラドックスが満載で、そちらにばかり熱中して読んでしまうほど灰汁が強いということである。そして、論理的、あるいは一見論理的、あるいは、自ら堂々と非論理的と語る文章で綴られる。そこには、数学や哲学や宗教、そして不完全性定理まで登場し、愉快な論理パズルで紹介される。中でも、答えの見つからない論理パズルがお気に入りのようだ。論理実証主義と絡めて「無意味」について考察する哲学ぶりには、論理と感性のバランスがうかがえて、なかなかのピート香を醸し出す。愉快な文章の合間には、数学に失望した瞬間や、著者の生き様もさらけ出す。著者は、今日の数学における教育危機の原因は、教師ではなく教科書にあると指摘している。現代の数学の教科書は、彼の時代の5倍の厚さがあるという。そして、代数と幾何学が混同され、幾何学の演繹的な推論は完全に省略されていることを嘆いている。また、宗教については、次のように語る。
「私は子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい!」
しかも、宗教への固執性は、幼児期の教化に起因すると言っている。自然が神のようなものを創造したのは、なんとなく理解できても、自然が聖書を書くような神を創造したとは考え難いと語る。これには全く同感である。幼児期に宗教的な信念を叩き込むのは、催眠術によって暗示をかけるようなものだ。宗教にせよ、本にせよ、どんなものでも、受け入れる身構えがなけらば、吸収することはできない。

著者が尊重しているのは、謙虚さや慢心さではなく、ただ客観性であろうとすることだと語る。「あろうとする」と表現しているあたりに、客観性になりきることの難しさが伝わる。おいらも心掛けてはいるが、なかなか実行できないでいる。ただ、友人との関係を熱く語っているあたりは、人間味にも溢れた感性があり、照れ隠しで論理性を強調しているかのようにも見える。話題の中で、十歳ぐらいの子供の発想をもとにしたものが、ちりばめられているところもおもしろい。著者は、これが数学に最も重要な感覚であるという。数学の問題を解くことは、しばしば機械的であると誤解される。しかし、そこにはエレガントな発想が潜む。論理性の難しいところは、それが完全ではないことである。完璧だと思っている論理思考にも、実は微妙な落とし穴が潜む。著者は、その理解が深いからこそ、逆に論理のおもしろさや美しさが語れるのだろう。論理的な思考は優れている。しかし、論理主義に偏り過ぎると利己主義になる危険性も覗かせる。いくら論理で組み立てても、条件が一つ抜けたり間違えたりすれば、藻屑となる脆さもある。十人が一冊の本を読むと、そこには十通りの解釈があっても不思議ではない。一つの言葉でさえ、微妙に捉え方に違いが現れる。「赤い色」といっても、薔薇色の人生を思い描く人もいれば、血なまぐささを連想する人もいる。アル中ハイマーはブラッディ・マリーが飲みたくなる。ちなみに、鏡の向こうには「ああ気持ちええ!」と呟いている赤い顔をした住人がいる。

リチャード・バックの書いたものに「宇宙的意識」というものがあるらしい。人類全体が、更に高度な意識を持つ新人類に進化するには、長い時間がかかる。それは進化論のように、環境や思想に順応した新人類が少しずつ発生し、徐々に増加して地球上に広がるというものだ。宇宙的意識で注目すべきは、非権威的に語られていて、教条や権威から独立しているという。こうした意識は、音楽センスやユーモアセンスのように、人間の潜在意識の中に自然にあるのかもしれない。その中には、特質した才能を持つスーパースターのように、最先端の宇宙的意識を持つ人々がいるだろう。かつての著名な哲学者とは、そういった先人たちなのかもしれない。そして、著者スマリヤンもその一人のように思えるのである。

さて、思わず吹きだす話題の中から、なんとなく気に入ったものを摘んでみよう。なぜかって?煙臭いウィスキーには、スパイシーの効いた「おつまみ」があうから。

1. 地獄という制度
著者が出会った人類愛に満ちた地獄の描写は、スウェーデンボルグ宗教のものであるという。その教義によると、死後全ての人間は天国へ行き、いかなる審判も下されないらしい。ところが、邪悪な人間は、天国の居心地が悪く自ら天国を去る。そして、彼らは憎しみ合うので、地獄でも互いに苦しめ合う。しかし、神は彼らの苦しみさえ救済しようと天使を送る。この地獄のモデルは、刑罰というよりは、むしろ狂気の世界を象徴しているようだと語る。ここで、著者は、おもしろい提案をしている。題して「集団的救済」。
「最後の審判の日、神は人類全体の善悪を計算して平均値を出す。もし平均値が十分に高ければ、人類は全員合格して天国へ行くことができる。そうでなければ、人類は全員落第して地獄へ行かなければならない。」
あるカトリック教徒は、これは危険な宗教だと言った。あるプロテスタント教徒は、そんなことは絶対に望まない!。なぜなら、自分が天国へ行く可能性が大幅に減少するからだと言った。

2. 飛行機に乗らない統計学者。
「なぜ飛行機に乗らないのか?」
「それは爆弾で爆発する確率は低いが、安心するには不十分だから。」
ある日、統計学者が飛行機に乗っているのを見て驚いた。
「どうして考えを変えたのか?」
「変えていない。二つの爆弾が同時に爆発する確率を計算したら、安心できるほど十分に低いことが分かった。だから、爆弾を一つ持って乗ることにしたんだ。」
このように、確率論でよく間違える落とし穴をジョークにしている例が紹介される。確率論と言えば、必ず出てくるのが、同じクラスに二人の誕生日が同じである確率を求めよというのがある。直感では、その確率は低いと思うが、計算すると意外と高い。それは、クラス員24人が50%の基準になるという。
1 - 365 × 364 × 363 × ... × 342 / 365 ^ 24 = 0.53834 (約54%)
もちろん、一卵性双生児が居ないことを祈る。

3. プロタゴラス
プラトンの対話篇にこんな話がある。おいらも学生時代に読んだので懐かしい。
「ソクラテスは、弁論家のプロタゴラスが知恵を教えることによって生徒から金を取っていることを批難する。プロタゴラスは、生徒が学んだことに満足しなければ金を返すと反論する。」
この話から、著者は次の場面を思い浮かべたという。
学んだことに満足できない生徒が金を返せと、実際に要求したらろどうなるだろうか?プロタゴラスは理由を問う。そして、生徒は理路整然と理由を述べる。するとプロタゴラスは言う。
「その素晴らしい弁論こそ、君に教えた成果じゃないか!」
もう一つの場面がある。同じように金を返せと要求した生徒がいる。プロタゴラスは理由を問う。しばらくして、生徒はうまく説明できないと言う。するとプロタゴラスは言う。
「よくわかったよ。君にお金を返すしかなさそうだ。」

4. 論理実証主義者
論理実証主義では、実証あるいは反証できない命題を無意味と見なす。そこでは、「有意味」について厳密な定義をし、形而上学的な問題を無意味とする考えがある。論理実証主義者は、ライプニッツが哲学の根本とした「なぜ無ではなく、何かが存在するのか?」といった問題は、無意味であると排除する。これに対して、本書は、論理実証主義に反感をもっているかのように攻撃する。
「難点は彼らの有意味の定義が、常識的に言葉の意味とされるものと合致していないことにある。」
著者は、論理実証学者を次のように定義している。
「自分が理解できないものを無意味として拒絶する人」
そこで、登場するジョークがある。ある女性は、離婚の原因は、夫が論理実証主義者だからだと主張した。その理由は、「私がどんなことを言おうとも、彼は無意味だとしか言わなかったんですもの!」
アル中ハイマーに言わせれば、人間社会そのものが、無意味なもので成り立っている。ただ、酔っ払いには、無意味か有意味かを区別する意味も理解できない。

5. 恐るべしガキ!恐るべし直観!
「あなたは、この文を信じる理由がない」
さて、この文章を信じるか?信じないか?パラドックスはこうした自己言及の罠に嵌る。そこで、ある少年に尋ねた。「君は、あの文を信じるかね?」少年は答えた。「うん!信じる。」その理由は?と尋ねると、「理由は何もない」と答えた。更に「では、なぜ信じるのかね?」と尋ねると、少年は一言「直観!」と答えた。少年は、見事にパラドックスを回避したのであった。

6. 哲学者と神学者の違い
おいらは次の表現で酒のピッチが上がる。
「さて、読者は哲学者と神学者の違いをご存知だろうか?哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗く人。神学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、さらにそれを見つける人である。」
著者が常々思う疑問は、神を信じる人が、神は味方だと当然のように信じていることだという。「実は、神は科学的で、証拠にもなく信仰に基づいて何かを信じる人々に対して、我慢ならないお方である。」という可能性はないのだろうか?と問うている。

7. 唯我論と数学者
これぞ、スマリヤン流の論理というものを紹介しよう。
唯我論者は言う。「君は存在しない。私だけが存在する。」著者は答える。「そのとおり、私だけしか存在しない。」唯我論者は興奮して叫ぶ。「違う!違う!存在するのは君じゃなくて、私が存在するのだ。」著者は言う。「まったくその通り、存在するのは君じゃくなくて私が存在する。完璧に意見が合いますね!」
もう一発!!!
二人の数学者がレストランで食事をとった。食事を終えるとウェイターが尋ねた。「お会計は別々になさいますか?ご一緒になさいますか?」数学者の一人は、「別々に頼む。」と答えた。ウェイーターはもう一人の数学者にも尋ねた。「あなた様の分も別々でよろしいでしょうか?」

8. 悪魔の辞典
作家アンブローズ・ビアスの著書「悪魔の辞典」でおもしろい定義をしているという。
「論理学とは、人間の誤解の限界と無能力性について、厳密に推論および思考する学問。論理学の基礎は、大前提、小前提、結論から構成される三段論法である。一例を挙げよう。
大前提: 60人の人間は、1人の人間の60倍の速度で仕事ができる。
小前提: 1人の人間は、60秒で1個の穴を掘ることができる。
結論: 60人の人間は、1秒で1個の穴を掘ることができる。」

この本は買わずにはいられない!!!

9. 不完全性定理
クルト・ゲーデルが発見したのは、真であるにも関わらず証明できない命題が存在するということである。これが第一不完全性定理。ゲーデルが次に発見したのは、もしシステムが無矛盾であれば、そのシステムは自己の無矛盾を証明できないことである。つまり、システムが自己の無矛盾性を証明できたら、その証明過程に矛盾が含まれるということである。これが第ニ不完全性定理。
「この文は間違っているか、サンタクロースが存在するか、そのどちらかである。」
もしこの文が偽であるならば、「この文は間違っているか」あるいは、「サンタクロースが存在するか」の二つの選択肢は両方とも偽でなければならない。すると、前半部は、「この文は正しい」ことになり、「サンタクロースは存在する」ことになる。このパラドックスは自己言及の罠に嵌っている。ゲーデルの定理は、「この文は証明できない」という文章を証明しようとしているようなものだという。数学でよく「証明」という言葉を使う。ただ、よく考えると、「証明」の概念が明確に定義されたところを見かけたことがない。数理論理学では、「証明」の概念について正確に定義されているらしい。それでも、絶対的な意味での定義ではなく、形式的なシステムに対して相対的に定義されるものだという。例えば、こんな感じである。
形式的システムSがあるとする。そして、前提では「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という意味でシステムSは正しいとする。つまり、システムSにおいて、証明可能な文は真である。この状況下で「この文は証明できない」という文章を次のように変形すると、パラドックスが消滅し、おもしろいことが起きるという。「この文は、システムSにおいて、証明できない」この文が偽であれば、その反対が成り立たなければならない。そして「この文は、システムSにおいて、証明できる」となる。これはまともそうに見える。しかし、「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という前提に矛盾する。これは、システムSにおいて、証明できない真の命題が存在することを暗示しているという。んー!なんとなく詐欺にあった気分だ。今日は、睡眠薬がないと眠れそうもない。

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