久しぶりに素晴らしい文学作品に出会った。おそらく、ここ数年で最も感動した本である。これは、本を読んでいるというよりは、草原でオーケストラの生演奏を味わっているかのようである。芸術の域にある文章とはこういうものを言うのだろう。何度も読み返しているうちに、読破するのに一ヶ月以上かかってしまった。おっと!まだ下巻が残っている。
作家ポール・ヴァレリーを知ったのは、三島由紀夫氏の著書「文章読本」の中で一瞬触れられているのを見かけたからである。そこには、評論の中にも、高度な芸術の域に達したものがあると紹介されていた。アル中ハイマーには全く文学センスがない。文学の意義など考えたこともない。そもそも言語で人間の感情が完璧に表現できるとは信じていない。とは思っても、巧みな文章で魅了する作家がいる。時々疑問に思うことは、文学作品を作るのに体系化した黄金手法などあるのだろうか?ということである。著者は、若い頃、そうした究極の奥義があることを信じていたという。しかし、結局のところ作家の精神の中にしか見つからないらしい。どんなに巧みな比喩を乱用しようとも、作者の意図に関わらず読者の個性によって調律される。読者の微妙な感覚の違いを文学が統一することもないように思える。しかし、ここまでは素人の感覚のようだ。著者は、言語と感情の不変的な関係の探求を諦めることは、文学者として怠慢であると主張する。そして、文学の歴史でこうした難問に立ち向かったケースがあまりに少な過ぎると嘆いている。確かに、諦めることと解読できないということは違う。著者は、文学の意義を正面から向かい合った結果、倦怠感が募り、書いたり読んだりすることを止めていた時期もあったと語る。多くの哲学者や数学者がそうであるように、天才とは鬱病と闘う運命にあるのかもしれない。本書には、文学の意義となりそうな部分がちりばめられている。もちろん結論などあろうはずがない。それはどんな学問でも同じである。そもそも人間の存在意義すら答えが見つからないのだから。意義が明確にできるならば、問題ははるかに簡単である。説明がつかないから芸術の域にある。本書は、限りなく抽象的な感覚を与えながら、冷静に観察すると単語一つ一つには具体的な言葉が踊る。詩的な要素も多く、なんとなく崇高な精神を呼び起こす。宗教的かと言うとそうでもない。扱っている対象が、社会、政治、哲学への批判もあるので現実感もある。
本書は、訳者が評論集「ヴァリエテ」を中心に選んだ傑作集である。著者が日記のように思考を書きとめた「カイエ」の一部「一詩人の手帖」や「言わないでおいたこと」も収録されている。ちなみに「カイエ」は3万ページという膨大な量にのぼるという。特に「言わないでおいたこと」の中で登場する「ロンドン橋」の一節は感動ものだ。ほんの数ページほどの短編であるが、ここだけでも何度読み返したか分からない。しかも、その日の気分によっていろいろな精神が呼び起こされる。そこには、ロンドン橋から眺めた生活にさまよう盲目たちの群れが描かれる。著者はその光景を見て孤独感に襲われる。そして、「私は、ロンドン橋の上で、詩の罪を感じていた。」と語る。確かに、扱う対象としては不謹慎かもしれない。しかし、あまりの見事な文章に癒されるという衝動には勝てない。
本書には見事過ぎる幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。
1. 建築家に関する逆説
三百年にも渡って不当に建設されてきた建築物を嘆いては、その救済を待ち受けるかのごとく語られる。オルフェウスの時代、大理石に精神を刻み込んだ。別の時代には、大聖堂の神秘が、諸民族の敬虔な魂を永遠のものにした。その後、建築物には沈黙と衰退がやってきた。壮麗な芸術も枯渇した。といったことを幻想的に表現している。また、ベートーヴェンやワーグナーといった偉大な交響曲を引き合いに出す。それでも19世紀末期には、もう一度芸術性を取り戻そうという動きがある。著者は、芸術家の思考や精神が再び宮殿や神殿に宿り、観賞する者に癒しや悲しみや笑みが見られることを願っていると語る。
2. 方法的制覇
時代は20世紀前半、戦争気運が高まる中、ドイツを軍事的な驚異だけでなく、経済力の驚異が迫りつつある様を描いている。そこで描かれる有効なメカニズムは、一方法の成功と見ることができる。政治構造や軍事体質が、経済発展の基本構造までを席巻する。生産や交通の方式は粗野にして確実、あらゆる困難を分割し断片化する。そして、個人には凡庸さを求める。著者は、このシステムが、無差別で困難を分散する仕組みであることを見抜いている。今日でも、方法論を持たない製造者が「良い製品は必ず売れるはずだ!」と発言するのを見かける。だが、抜け目の無い製造者は、製品の定義を曖昧にせず偶然任せにはしない。まさしくドイツは、論理と幸運とを両立させる努力をしていると評している。また、規律の元に着実に前進したドイツは、いずれ世界の富を手中にするだろうと予測している。地上のあらゆる凡庸さが、いずれ世界で勝利するのかもしれない。しかし、この方法論が好ましいとするならば、人類にとって奇妙な結果であると皮肉も混ぜている。
3. ブレアルの「意味論」について
言語はどのような変化を受けても、いくつかの特質は不変であると語る。その不変性には、精神との基本的な関係が含まれるという。しかし、心理学者たちはこの難問に触れてこなかったと嘆く。純粋論理学者も、表面的な論理体系は扱っても、言語の本質までは掘り下げてこなかったと指摘する。こうした怠慢が、言語を他のどの現象よりも手に負えない地位へ押し上げたという。そして、ミシェル・ブレアルの「意味論」で、言語の科学的分析を紹介している。著者は、「意味論」が思考のガイドラインとなっていることを認めつつも、残念ながらブレアルは自分の都合の良い心理学を採用していると評している。言語が生き物のように進化すると考えるのは、言語を神からの授かり物と見なすぐらい飛躍し過ぎているという。にも関わらず、言語の起源という不確定な問題には触れていないと皮肉る。どんな分野であれ起源を追求するのは幻想かもしれない。だからといって、物理学者は宇宙論を諦めているわけではない。
4. 精神の危機
歴史は、あらゆる文明が個人の生命と同じくらい脆弱であることを教えてくれる。統制の優れたものが偶然に死滅した例もある。常識と思われたものが、突然、逆説になることもある。ヨーロッパが古代ギリシャを含め、世界で長い間、優位に立てたのは精神と知識の豊かさであるという。しかし、こうした不均衡は、自らの反作用によって、逆方向へと変化すると指摘している。それは、精神や知識によって不均衡に格付けされていた分布が、いずれ、人口、面積、資源の分布に従うようになるという。ギリシャ人によって進化した知識は、政治や生産の基礎構造を作り地球上に富を生んだ。その結果、技術、科学、戦争あるいは平和の手段が世界に広まった。こうした拡散は、エントロピー増大の法則に従っていると言えるだろう。しかし、局所的に周辺に染まることのない物理現象もある。人間は、部分的に知的優位を持つ現象を、天才という言葉で拡散と対抗させる。ただ、ヨーロッパ精神のみが世界全体に拡散する地位にあるのかどうかは疑問が残る。本書は、第一次大戦時、ヨーロッパの無秩序にも触れている。ドイツ民族の偉大な美徳が、逆に悪徳を生んだ。道徳的な美徳とか正義といった思い込みがなければ、これだけ短期間で多くの残虐を許すことはない。著者は、人類にとって最も驚異なのは、精神的危機、知的危機だという。これは、その性質上最も人間を欺く様相で忍び寄ると語る。
5. ラ・フォンテーヌの「アドニス」について
当時、ラ・フォンテーヌは怠惰で夢想好きであったと風評されたという。だが、著者はこれに反論する。「ラ・フォンテーヌ」とは、普通名詞では「泉」という意味があるらしい。この人物のイメージを、泉の持つ魅力と結び付けてしまう。そして、いつも夢想し、天真爛漫に流れ去る人という印象となる。語呂合わせによって、人物像が勝手に作られた例と言えるだろう。見る目のある人は、作品で描かれた様々な光景にも関わらず、その魅力を見透かし、自らの精神の中で再構築して感嘆の度を深めるという。自らの夢を書きたいと願う人間は、限りなく目覚めていなければならない。冷静に観察する精神が必要である。そこには、極度の注意力があるからこそ、傑作は生まれる。決して暇人のなせる技ではない。本書は、霧の中に隠れる自らの思考と向かい合うには、それだけ苦労と時間を必要とすると語る。
6. ポーの「ユリイカ」について
エドガー・アラン・ポーの「ユリイカ」は、自然科学について情熱的に書かれたものだと絶賛している。そして、真理に達するためには、一貫性という考えを持ち出す。求める真理を獲得するためには、もっぱら直感に従うべきだと語る。ポーの概念の重要なのは、宇宙の探求には目的があるということである。宇宙の中にある相互関係、その深いところにあるシンメトリーは、人間の精神の内部構造に見える。つまり、詩的な直感が、人間を知らないうちに真理へ導くというのだ。こうした感覚は科学者の中にも見つけることができる。本書では、「ユリイカ」で述べられる結論が正確に証明されているわけでもない。にも関わらず、十分に説明されないまま著者の自説が登場する。この作品の中には、一人の神様がいるように思える。そして、シンメトリーという言葉を強調する。これは、アインシュタインによる宇宙表現の本質であると語る。現代の物理法則は世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。割り切れない少数がいつも残っていて、人間は不安と不徹底感に苛む。宇宙のような、直観で捉えられない起源には、神話の世界へ放り込まれるようだ。
7. 一詩人の手帖
詩を作ろうとして思想から始めたら、それは散文から始めることになると語る。あるイメージは、人物や風景などの外観であり、それ以外は形の定まらない音や調子があり、語は貼り紙に過ぎないという。例えば、隠喩は一つの思考を複数の表現の間で漂う。思考を厳密に表現できたら、隠喩は消滅するだろう。隠喩はあらゆる試行錯誤の中にある。詩は、語の有限な機能だけでは表せないものを表そうと試みる。詩を生み出す行為は、独自の領域を所有する人間を生む。詩人は、一種の言語的唯物論者なのかもしれない。文学は、完全な思考の道具にはなれない。詩とは、純粋に観念に近づくための努力である。しかも、作品は絶対に完成しない。それは完成した人間がいないからである。本書のおもしろい分析に、詩は、言説の素材の中にはめこまれた純粋詩(詩の元素のようなもの)の断片で構成されるというものがある。それは、元素のような純粋な感情が、あらゆる精神を構成する要素となることを意味しているのだろうか?言語は、自らの都合に合わせて扱われ、人柄に合わせて変形させる。よって、必然的に粗雑なものになるという。そして、共通言語は、共同生活の無秩序の賜物であると言っても言い過ぎではないと語る。詩人は、無秩序によって提供された要素と格闘して、人為的な秩序を創造しようとする。純粋詩とは、欲望、努力、能力といった極限的な概念であって、決して到達できるものではないと語る。
8. 言わないでおいたこと
絵画とはなんだろう?ラファエロの肖像画の前では「聖なるなめらかさ」などと呟く。厚塗りや盛り上げもなく、思わせぶりなハイライトも、過度なコントラストもない。明と暗の按配、美しい細部と至福の場との集合体、こうした種々の具体的な出会いから女神が現出する。一度にこれだけ多くのものが出会わなければ詩は生まれない。こうした多くの要素が融合したところに芸術の本質があるように思える。本書は、絵画が、おそらく芸術の中で、人間の無力さを一番簡単に感じさせる形式であると語る。独創性とはなんだろう?ここではやや意外なことが語られる。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないという。偉大な芸術とは、模倣されることが認められ、それに値し、それに耐えられるものであると語る。模倣によって壊されることがなく、価値が下がることもなく、また逆に模倣したものが壊されることも、価値が下がることもないという。一冊の本とは、著者のモノローグの抜粋に過ぎないのかもしれない。そこで語られる精神は、自らの姿を曝け出すのが鉄則である。批評というものは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。作品を語っているようで、実は自分自身を語っている。つまり、詩人は、自己の批評家として存在することになる。詩人の偉大さは、精神がかすかに垣間見たものを、自分の言葉でしっかり捕まえることだと語る。
2008-07-20
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