2008-11-30

"「人間嫌い」のルール" 中島義道 著

本屋をぶらぶらしていると、あるキーワードが目に留まった。「人間嫌い」という言葉には、潜在意識を呼び起こす何かがあるのだろうか?こういう本は、教育者や宗教家といった、いわゆる善人と呼ばれる人々から批難されるに違いない。おいらには幼い頃、自虐的で鬱病の気があった。その原因はやりたい事が見つけられなかったことにある。高校時代までそれがなかなか認識できなかったが、原因さえ認識できれば楽になれる。大学時代からは自由奔放でそれなりに楽しく生きている。自らの向上心と言い訳しながら会社を転々とし、ついに独立してしまった。要するにわがままなのである。決して社交的にうまく振舞えないわけではない。ただ、いつも疲れる。合う合わない人間もはっきりしている。合わない人間は嫌う前に遠ざける。そう言えば、友人達は押したり引いたりと距離を保つのがうまい連中ばかりである。だから長続きしているのだろう。

著者は還暦を迎え、その10年も前から「人間の半分を降りる」宣言をしたという。親戚や家族との交流を避け、カトリック信者の妻とは離婚できないが、滅多に顔を合わせない。親戚付き合いを絶って叔母の死さえも知らせてこない。そういう生き方が寂しいわけではなく、むしろ歓迎している。著者はかなり重症な「人間嫌い」のようだ。教育では「人は一人では生きていけない」と教える。まったくその通りである。善人たちは協調性がなくては生きる資格がないように脅迫する。そして、徹底的に共感する術を教え演技力を身につけさせる。それが巧みな人間ほどズルい立派な大人になる。その一方で、自らの素朴さを誤魔化せず、思ったままにしか行動できない人々がいる。共感することに疲れる人々がいる。信頼が最も重要であると教えるが、信頼にはエゴイズムが潜む。人間は恩を売ると見返りを望む。社会には、「俺が世話をしてやった」という台詞が氾濫する。「情けは人の為ならず」という諺がある。これを「情けを与えては人のためにならない」と誤った解釈がよくなされるが、人に情けをかければ、回り回って自分の報いになるという意味である。善人たちはいじめに合う人間に、あなたは決して一人ではないと励まし自己満足に浸る。しかし、自殺まで追い詰められた人間は集団から排斥されても一人で生きていけるという確証がほしいのだ。嫌いな人間の前で嘘や媚が正当化され、うまく振舞えば大人であるが、うまく振舞えないと病人扱いされる。「人間嫌い」とは、そうしたことに息苦しさを感じる人々のことである。著者は、思いやりの押し付けを、善意と疑わない鈍感さが嫌いであると語る。協調性を謳う善人に、そうした鈍感な人が多いように感じられる。ただ、人間嫌いは、大多数の人間を嫌っても、大多数の人間から賞賛されたいと願っている。その矛盾性の根底には自己愛が存在する。著者は世間からつまはじきにされてもいいと覚悟して生きていると語る。そして、最初は多くの人に誤解されたが、今では少なからず賛同者がいるという。その中で、互いに縛らず、互いのわがままを尊重する奇妙な関係が形成されていく。人間嫌いでも努力すれば豊かな人間関係が築けると主張し、それをしないのは怠惰だからだという。
また、夏目漱石、永井荷風、芥川龍之介、三島由紀夫などの著名人の人間嫌いぶりを紹介し、人間嫌いの分類学も披露する。こうして見ると、実に多くの天才たちが「人間嫌い」の資質を持っているものだ。
本書を要約するとこういうことであろう。人間嫌いを無理に治す必要はない。そもそも病人ではない。人間嫌いを無理に理解しなくてもいい。どうせ善人たちに理解などできない。ただ、人間嫌いが迫害さえされなければそれでいい。

ベンチャーと称する会社にいると、協調という言葉に胡散臭さを感じている人が多いようだ。むしろ共感とか協調性を主張する人間の方がつまはじきにされる。おいらの経験した所が異常なのかもしれない。もちろん向上心を持っている人もいるが、精神的に安心できる空間を求めている人が多い。どう見ても大企業には合いそうもない連中ばかりであるが、不思議なことに大半が大企業経験者である。会社あげての忘年会やらがあると、それに欠席するでけで査定にひびくというから大組織とは滑稽である。おいらの学生時代は、就職というと、まだ終身雇用の時代で、それだけで人生が決まるように脅されたものだ。その時代に比べれば、今では多様化が進み窮屈さを感じなくなった。しばしば子供っぽい態度しかとれないおいらには、大人の態度が本当に大人なのか?と疑問に思うことがある。人間は経験を重ねると思うような態度がとれなくなる。だんだん臆病になるのも一種の自己防衛である。紳士で冷静な態度を自然にとっているように見える大人に憧れるが、自分にはできない態度だと諦めて自らを曝け出すしかない。大人たちの行動にはおもしろいものがある。典型的なのは、官僚政治の監視役も務まらない政治屋は互いに罵りあっても自らの醜さを省みない。いじめを批判する報道屋は自らのいじめ報道を正当化する。政治屋はまともな政治ができないだろう。報道屋はまともな報道ができないだろう。教育屋はまともな教育ができないだろう。それは、彼らが自らの世界に閉じこもっているからである。といったことを、純米のまろやかさを曝け出す日本酒を飲みながら、ぶつぶつと呟いてしまう本である。

ところで、「人間嫌い」の境界線を考察していると、微妙な人種に出会う。知識馬鹿とでも言おうか。優れた知識を身に付け、常に相手の間違いを指摘する輩がいる。いや!指摘しかできない。いかにも論理的に語り、相手の揚げ足を取るだけで、自らの精神を語ることはない。そうした現象は、討論会などでもよく見かける。何かに憑かれたように、知識を吸収することに専念するが、その知識を、自らの精神で消化しようとはしない。したがって、そのまま知識を披露することしかできない。常に「姑チェック」を怠らず、どんな話題にも獰猛に喰いついてくる。その存在は時には便利である。だが、少々間違った知識はいくらでも修正できるので、大した問題にはならない。むしろ、自らの精神を語れる人間の方がはるかに貴重である。では、知識もなければ精神もない人間はいったいどうなってしまうのだろうか?アル中ハイマー病とはそうした病である。

1. 人間嫌いの生産
幼少時の虐待、過酷ないじめ、あるいは親友からの裏切りなどによって、他人を信頼できなくなる人々がいる。こうしたことは、ちょっとしたきっかけで簡単に克服されるだろう。しかし、そうした境遇にも巡りあえず、一生他人を信頼できず、他人を恐れ、他人を軽蔑しながら生きる人もいる。本書は、それでも豊かな人生になりうると語る。そういう人は、むしろ暴力、残虐、冷酷、卑劣なことに対する感覚が研ぎ澄まされるかもしれない。そもそも普遍的に人間嫌いな人がいるのだろうか?ある人が無性に嫌いでも、世間を気にして表明できないことも多い。自分に対して害を及ぼさないと分かっていても、波長の合わない人間はいる。こうした現象はまだ穏やかであろう。障害者や犯罪者、ホームレスといった社会的弱者として、あからさまに差別される人もいる。理不尽にも社会的に運命付けられ、なぜ自分だけに重荷を課せるのか?といった疑問を持ち自ら絶望の淵に追い詰める。おまけに、その逃避先がカルト宗教だったりする。本書は、こうしたことから脱出する唯一の方法は、他人を普遍的に嫌うことだと語る。特定の人物を嫌わなければ自責の念は消える。そして、自分自身を嫌い、他人から嫌われても耐えられるという。人間の純粋さや誠実さ、それ自体に人間嫌いになる要因はない。必ずズルイ人間が存在するから、人間嫌いになる。彼らは、平気で嘘をつき、権力者に媚を売り、非権力者を足蹴にする。誠実でない人間ほど、自ら誠実ですと訴える。人徳のない人間ほど道徳について説教する。ほとんどの人は、不都合があっても生きる術としてその場をうまく誤魔化すことができる。ほとんどの人が、特定の人が嫌いでも、それを隠して嫌いではないように振舞える。これが大人の態度である。大人の振る舞いは自責の念にさいなまれることはない。それどころか、こうした態度が正しいと信じて、そうした態度が取れない人を批難する。人間嫌いは、まさに彼らによって生産されると語る。

2. 社交的な人間嫌い
善人の中にも、ほとんど嫌いに思われない人がいる。それは、他人を嫌いにならないからであろう。こういう人は、知識などに興味を持つが、固有の人間に興味がない。自分の価値観や人生観はずっと前から確立していて、どんなことに直面しても揺らぐことはない。どんな集団の中でも心地良さそうに分け隔てなく誰とでも付き合う。誰にでも愛想が良く悪口も言わない。物腰は常に紳士的で激しく怒ることもない。悩みを相談されても理解できないし、理解しようともしない。いずれ、その人間を知っていくうちに何も期待しなくなる。こういう人は、あらゆる個人的な問題を自己解決する。誰にも泣き言を言わない。そして、全ての人はそうするべきだと考えている。本書は、こういう人を自ら他人の悩みを見ないようにした結果、本当に見えなくなってしまっていると指摘している。悪口を言わないのは道徳観からではなく関心がないだけであると。誰に批難されようが、罵倒されようが、痛みを感じないと。彼らは、自己防衛のために、他人からは傷つけられない安全な空間を自ら確保している。本書は、こういう人までも人間嫌いの範疇に入れるか?戸惑いを見せる。頭はいいが、人間を見る目が無い人。パスカル風に言えば、「幾何学的精神」は異常に発達しているが、「繊細な精神」は幼児段階に留まっている人。こういう人は人間嫌いとは言わないだろう。人間嫌いというと、気難しく捻くれ者と思われがちである。だが、本書は、如才なく振る舞い、人あたりがよく、社交的な人間嫌いも多いという。他人に無関心な人は、ごく自然にそういう生き方を選んで、自分に絶望することはない。しかし、社交的な人間嫌いは、ちょっと油断すると絶望に陥る。たとえ嫌いな人間であっても、ある程度距離を置けば、その人間の持つ長所については尊敬することだってできる。だが、こちらの世界に深く入ろうとする無神経さには我慢できない。

3. 人間嫌いのルール
ここで本書で紹介される「人間嫌いのルール」10カ条を羅列しておこう。
(1) なるべくひとりでいる訓練をする
(2) したくないことはなるべくしない
自信を持ったおおらかな自己中心的な人間というのは、だいたい特殊な才能を持ち、それを支える特殊な感受性が社会的に認められた人である。こうした自己中心的な人は、他人の自己中心も尊重する。
(3) したいことは徹底的にする
したい事をして失敗した人は、したい事をしないまま人生を終えるよりもずっと豊かで充実しているだろう。家族や子供のためにとか、勇気がないからとか、才能がないからとか、いくら理由を並べても無駄である。
(4) 自分の信念にどこまでも忠実に生きる
他人を理解することは時間もかかるし努力も必要である。そうしたことに時間を割くのではなく、他人が抱く信念を妨げない。実際問題として、自分と対立する信念の持ち主と時空を共有することは不愉快である。したがって、彼らを尊重し遠ざかっていけばいい。
(5) 自分の感受性を大切にする
(6) 心にもないことは語らない
本心だけを語って生きるのは難しい。本当に信頼している者同士でも通用するか分からない。それでも本書は、それほど親しくない人にも適用してみることを薦める。そして、「心にあることはそのまま言う」ではなく、「心にもないことは語らない」という否定的な意味で捉えれば、人を傷つけるようなことから回避できるという。人は、なぜ心にもないことを言うのだろうか?相手を傷つけないためという良心的な意味もあるが、ほとんど自己防衛のためであろう。
(7) 人がいかに困窮していても、頼まれなければ何もしない
むやみに他人に干渉しないと言い換えてもいい。これは他人の困窮に見て見ぬふりをするという意味ではない。きちんと見た上で、場合によっては手伝うが、拒否されれば何もしないということである。もちろん、他人が生命の危機にあるとかいうレベルではなく、日常的なレベルである。人間は往々にして見返りを求める。社会は恩を忘れないように教える。言い換えれば、恩を計算することを教える。もっと言い換えれば、そうしない人は軽蔑し排斥すべきであると教える。
(8) 非人間嫌いとの接触事故を起こさない
(9) 自分が正しいと思ってはならない
相手が正しくないという感情が混入した人間嫌いは多いという。人間嫌いは、感受性や信念が一般人とずれている人種である。どちらが正しいわけでもない。両者は異なっているだけである。善人たちは、往々にして自分は正しいと信じている。それも愚かなことであるが、だからといって人間嫌いも同様に自分が正しいと思えば、同じ愚かさを共有することになる。
(10) いつでも死ぬ準備をしている

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