2009-01-01

本棚のパワー

ブログを続けて二年が過ぎた。飽きっぽいアル中ハイマーにとっては驚くべき事実である。学生時代、ある先生に読書や音楽鑑賞は趣味といった類のものではないと言われたことがある。つまり、本を読まなかったり、音楽を聴かない人など、いないということである。しかし、ある特質した分野に精通するのであれば、そうとは言えないだろうと心の中で反発したものだ。例えば、モーツアルトに凝ってその歴史を遡り、その音楽の特質に堪能できれば、それは立派な趣味だと思う。そう考えると、おいらの場合は読書が趣味とは言えない。数もそんなに多く読んでいるわけでもない。それでも、結果的に読書がテーマになっているのは、奇妙な話である。

今、ブランデーを飲みながら本棚を眺めている。これがなかなかおもしろい。それも、自分自身の歴史を振り返ることができるからである。昔読んだはずの本が新鮮に見える。数は少ないが、結構おもしろい本を読んでいたことに気づかされる。今思えば随分と本を処分してきた。20代、30代は引越を繰り返していた。半年しか住んでいないマンションすらある。自らに変化を求めるには生活環境を変えるのが一番だと、強く信じていた時期である。お陰で引越し貧乏が慢性化していた。その都度荷物は処分する。特に書物は重量が嵩む。古本屋に持ち込めばお金にもなる。当時は、一度読んだ本を読み返すなど考えもしなかった。本に出会うタイミングも難しい。くだらないと思った本でも馬鹿にはできない。受け止められるだけの心構えができていなければ、どんなに素晴らしいものに出会っても見過ごしてしまう。処分した本の中にも、もったいないことをしたものがたくさんあるに違いない。最近の売れ筋よりは、昔読んだ本を読み返す方がおもしろい。今になって処分したことを後悔している。

30歳から...40歳から...といった啓発本が書店の陳列を賑わす。ただ、その時に、自らの歴史を振り返ることができなければ先には進めない。30歳から何かしたければ、20代を精一杯生きることだ。40歳で何かしたければ、30代を精一杯生きることだ。もし、40歳で何も見つからなければ、40代を精一杯生きて50歳になるのを待つことだ。人生は死ぬまで続く。人間は永遠に答えの見つからない自問と対峙する運命にある。よって、人生に年齢など関係ないと信じたい。記憶力のないアル中ハイマーには、過去を振り返りたくても遡る手段がない。これは辛い!と思っていると、そんな役割を本棚が果たしてくれる。本棚は、先に進むパワーを与えてくれる。ただ、残念なことに、本棚には社会人になってから10年間ほどの本がぽっかりと空いている。辛うじて、実家に置き去りにしていた学生時代の本が残っているぐらい。したがって、振り返ることができるのは10年分ぐらいだろうか。時々絶賛されている古い小説が紹介されるのを見かければ、読んだ覚えのあるタイトルにでくわす。だが、中身がまったく思い出せない。本棚をあさっても見当たらない。出版社を調べても絶版だったりする。そして、自らの歴史を穴埋めするために古本屋へ駆け込む。これが、ここ数年の行動パターンである。当時を振り返ろうと、もがきながら、古本屋を散歩するのも楽しい。アル中ハイマーの哲学の一つに、「のんびりと精一杯!」という言葉がある。頭の回転が鈍い人間には、何事もじっくりと構えないと得られるものが少ない。本という媒体は、そういう人間にピッタリだということが、今になって気づかされる。人生には、リズムとバランスが大切だと思っている。そして、時々立ち止まり振り返ることも付け加えたい。本棚は、その立ち止まって振り返る時に力を与えてくれる。昔から、歴史という分野は好きだが、まさか自らの歴史を振り返るなど考えもしなかった。本棚に自らの歴史を刻みつけた時、信じられないパワーを発揮する。

本には、表紙のデザイン、タイトル名、後書きなど、隅々にまで著者の思いが込められる。おいらは、こうした全てを舐めまわすように眺めるのが好きだ。映画館では、上映が終わると、エンディング音楽が流れている途中でほとんどの観客が席を立つ。しかし、製作者の情熱は、このエンディングにも刻まれる。おいらは完全にフィルムが止まるまで味わう。そうしないと気がすまないのは貧乏性の証でもある。出された食事は、皿を舐めまわすように食さないと気が済まない。どんな本でも、その能力と情熱には敬意を表したい。

ブログを始めて気づくことは、精神を解放できることである。何を考え、どんな感情に見舞われるかを確認することができる。ただ、自らの精神から冷めた領域に身を置かないと文章は書けない。そして、どんな媒体であれ、情報は発信した方が良いと思うようになった。さて10年後、自らの記事をどんな思いで読み返すことができるだろうか?それも一つの楽しみである。おもしろい本を見つければ、その参考文献も読みたい。そして、次々と読みたい本が登場し、そうした感情が輪廻するようにできている。ToDoリストは永遠に溢れるようにできているようだ。

ところで、読書する意義とはなんだろうか?一つは知識を得る手段である。だが、それだけではあるまい。高度な知識を身に付けて、他人の間違いを指摘することに命を掛ける人がいる。何かに憑かれたように知識を吸収することに専念しても、自らの精神で消化できなければその意義を失う。方法論に目くじらを立てても、目的論になると議論を怠る場合も多い。この偏りはなんだろうか?また、知識の縦割りといった現象もある。せっかくの繊細な知識を他の分野で応用するのは難しい。泥酔者ともなれば知識の縦割りと横割りの両方が生じる。精神も知識も泥酔状態、アル中ハイマー病とはそうした病である。知識を得る意義の一つは事実関係に迫ることである。ただ、事実は単なる現象である場合がある。重要なのは、知識から何を学ぶかであり、決して得られることのない真理を探究することであろう。数学的公理は永遠であるが、歴史の知識となると、その解釈は時代とともに変化する。ただ、知識が思考を助けるのも事実だ。全然知識が無ければ思考することすら難しい。だが、知識が多いからといって思考が深いとは限らない。エリートはこの罠に嵌りやすい。実際、知識人の発言には、なんとなく説得力を感じる。頭の回転の速い人の発言には圧倒される。そして、冷静に考えてみると酔っ払いの直観が訴える。「その発言に疑問を持て!」と。読書という手段が、知識を得ることだということに固執する必要はないだろう。どんなに知識を得ようと頑張ったところで、次の瞬間には消え去る。既に記憶領域が破壊されている。アル中ハイマーは、知人の名前を覚えることすら苦手なのだ。結婚式の案内状で友人の名前を思い出すことはよくある。知識よりも文章表現によって、その瞬間に感動を与えるものがある。読書している瞬間に心を癒してくれる何かがある。その時の気分によって、その時の精神状態によって、同じものでも違った視点が見えることがある。同じ本を読んでも、気分次第で違った景色が見えるのは得した気分になれる。酔っ払いは感情の起伏が激しい。読書の意義には、むしろ精神の安らぎを求めたい。自らの精神を解放し、新たな思考を巡らせるための手段としたい。そして、本ブログを自らのエゴイズムを追及する場にするのであった。

アル中ハイマーは思いついたフレーズは全て言いたいと思う質である。よって、どうしても文章が長くなる傾向にある。酔っ払いはお喋りなのだ。ちなみに、酒を飲まずに記事を書いたことがない。そこで、モーツァルトの好きな逸話を思い出す。それはオペラ「後宮からの逃走: K384」に関するものだったと思う。皇帝ヨーゼフ2世が、「我々の耳には音譜が多すぎるようだ。」と言うと、モーツァルトは、「音譜はまさに必要とされる量ございます。」と答えた。このエピソードに励まされる思いである。アル中ハイマーにとって語るだけで精一杯!コンパクトにまとめるのは至難の業である。文章を書くこととプログラムを書くことには、なんとなく通ずるものを感じる。言いたいことを羅列する様には、モジュールの摘出の姿が重なる。文章構成にはまさしくモジュール構成の姿がある。アル中ハイマーは、しばしばスパゲッティプログラムを書いてKernel Panicを起す。そして、今日も昼間っからスパゲッティ文章を書いて泥酔するのであった。

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