2008-04-27

"「無限」に魅入られた天才数学者たち" Amir D. Aczel 著

無限に広がる宇宙は、人間の力が有限であることを教える。無限に迫った数学者たちは、神の怒りに触れたかのように精神病を煩わせる。本書は、ゲオルク・カントールを中心に、そうした数学者たちを物語る。ちなみに、翻訳は、サイモン・シン著の「フェルマーの最終定理」や「暗号解読」でも読んだ青木薫氏である。
今宵の記事は、不完全性に基づいて無限泥酔状態で書いている。よって、いかにも煙臭い。

「無限」という言葉には、なんとなく神へ通ずるものを感じる。あらゆるカルト宗教の源泉がここにある。数論の源流であるピュタゴラス教団は、無理数の存在を隠そうとした。ユダヤ教神秘主義であるカバラの神の概念「エン・ソフ」は、無限を臭わす。布教活動には数秘術を使う。まず、10を聖なる数として崇め、無限へと拡張する。神である無限の正体を暴くには、親しみのある数を元にしなければならない。そうでないと、理解した気になれないので、詐欺行為は成立しない。ちなみに、「十の時が流れる」という名を持つ人物が鏡の向こうに住んでいる。彼はテトラクテュスの申し子か?もしかしたら、崇めなければならない酔っ払いかもしれない。
数学界には、二つの相反する派閥がある。それは「離散」対「連続」である。代数学は自然数や有理数などの離散数を対象とし、解析学は関数や無理数などの連続体を対象とする。代数学は真理を求める理論的学問であり、解析学は生きるための実践的知恵と言える。それぞれの宗教的立場は、無限を神に崇めるか自然数を神に崇めるかの違いである。離散数の極限には神秘な世界が待ち受け、自然数は連続体の中でも特別な輝きを放つ。また、数学界を異なる次元から眺めると超越数の諸派が入り乱れる。その代表が、円周率π派とネイピア数e派である。誰がどの派閥に属するかは簡単に見分けられる。ちなみに、アル中ハイマーはe派である。その証拠に、オッパイ星人じゃなくて、脚線美にこそ自然美の対(つい)を心底感じるからである。これを自然対数の底の原則という。

宇宙には矛盾が渦巻く。全ての行動規範を論理に頼るのは危険である。コンピュータ工学を学んだ人は、実数演算をいかに近似で誤魔化しているかを知っている。たまーに、浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754の意義を匂わさなければならない。そこに、べき乗の壁があることを。実数演算が全てできると信じるのは狂信的である。実数演算のできないものの方が多いのだ。これは、アラン・チューリングの「停止問題」へとつながる。チューリングは、プログラムがいずれ停止するかどうかを決定する機械的方法が発見できれば、計算できない実数演算も計算ができると主張している。微積分学は、極限に近づくことで、人間社会を豊かにしてくれたのである。

無限に迫った数学者たちは、集合論によって数の正体を暴き、更に無限へ迫るために無限集合を扱う。そして、無限集合の中にも異なる次元の無限集合の存在を示唆する。カントールは、無限集合より大きな集合は、べき集合であることを知っていた。集合論もまたパラドックスに悩み、自己言及の罠に嵌る。神の絶対性は人間には捉えられない。人間にできることは無限を理解しようと試みるぐらいである。その試みでは、自然数の集合である有限基数から無限基数へは、算術演算によって到達することができない。更に、上の次元の無限基数にも到達できない。次元の高い無限?無限の無限?寿限無!寿限無!
人間が自分の居場所を認知するためには、より高位の系に移らなければならない。コンピュータで文書を作成する時、編集操作はいろいろとできるが、文書ファイルそのものを削除するには、そのアプリケーションから飛び出さないといけない。更なる高位の系であるOSが必要である。系の内部では答えられない命題が存在しても、不思議ではない。宗教に嵌った人間が、どうして宗教の存在を認識できるだろうか?人間の直感は案外正しい。どれだけ努力しても到達できない真理があることを、人間はなんとなく認識している。そして、より高位の系に移れば、更に高位の系が存在し、認知もできない次元の系に出会う。古代ギリシャ時代から無限を抽象的に認識していたのは、それが真理だからかもしれない。定義できるからと言って、その存在を証明したことにはならない。ユニコーンが定義できたからといって、存在するわけではない。ゴジラ映画でさえも実話になってしまう。逆に、証明できないからといって、存在を否定することもできない。証明できない真理もある。不完全性定理の本質とは、こうしたものなのかもしれない。数学は、進歩の中で、またもや宗教へ引き戻される感がある。

1. 五芒星の黄金比
ピュタゴラス派には一つのシンボルがあった。ユダヤ教にもつながる五芒星である。それは、内部の五角形の中に五芒星が描かれ、更に内部の五角形に五芒星が描かれ、と無限に続く図形である。それぞれの対角線は、長さの等しくない二つの線分に分割される。この分割された長い線分と短い線分の比が、自然界に現れる謎の黄金比で無理数であるという。フィボナッチ数列の一般項は、黄金比で表されるらしい。へー!

2. デカルト座標を使ったトリック
お馴染みのXY座標は、数の連続性を視覚化している。ただ、数直線に真の構造を与えるためには無理数の存在が欠かせない。カントールは、デカルト座標を使って無限の性質に迫る。そして、驚くことに、平面区間(0,0),(1,0),(0.1),(1,1)の全ての点は、数直線上の[0,1]区間に対応することを証明した。直観的には、平面上の点は直線上の点より多いはずである。その方法は、まず平面上の0と1の間の数字を一般化して(x,y)=(0.a1a2a3.... , 0.b1b2b3....)で表す。これに対応する直線上の数字は、0.a1b1a2b2a3b3....と表すことができる。これは1対1で対応つけられる。よって、数は同じだけあるというのである。なんとも詐欺っぽい。これは平面上の点を直線上の点に写したのだが、逆に、直線上の点を平面上にも対応させてしまう。ちなみに、これは二次元に限ったことではない。多次元でも同じ現象が起こる。

3. べき乗という嫌な奴と対峙する円積問題
数学界の有名な難問の一つに「円と同じ面積をもつ正方形を作図せよ」というのがある。これは、「角の三等分問題」や「立方体の倍積問題」とあわせて、三大作図不能問題と呼ばれる。円積問題の本質は円周率πとの関わりである。円の面積は円周率と半径の関係で表されるからである。これが、正方形の面積である一辺の二乗に等しいとなると、円周率が代数的数である必要がある。ドイツの数学者C. L. F. リンデマンは、円周率πは、代数的数ではないことを証明した。つまり、有理数を係数とするいかなる多項方程式の解には、なりえないということである。リンデマンによれば、円積問題は解けないということになる。しかし、直観的には同じ面積のものが存在しそうである。えーっと!正方形の一辺を代数的数でない無理数にしようとすると...べき乗とは嫌な奴である。

4. パラドックスに蝕まれた集合論
ガリレオは、整数全体と二乗数全体を1対1で対応つける。整数全体という無限集合は、その真部分集合である二乗数全体の集合と同じ数だけあるというのだ。無限集合には、それよりも小さい部分集合になりうる性質がある。無限と部分無限が同じ?既に無限という概念には煙臭さが漂う。
ジュゼッペ・ペアノは、数を定義するために集合論を使うことができると主張した。その数の体系を導き出す方法とは、0は空集合で定義し、1は空集合を含む集合として定義する。更に、2は空集合を含む集合を含む集合として定義する。これを無限に続けることにより自然数が定義される。
カール・ワイエルシュトラスは、べき級数は関数の無限和であることを証明した。すると、関数の目的を達すためには、無限に到達した時だけなのか?いや、近似の概念も登場するから心配はいらない。連続関数を表現する時、不連続な階段関数を多数並べて近似することができる。
カントールは、数そのものではなく、集合を考えることにより実無限の概念に迫る。そして、与えられた点集合の集積点からなる集合を考えた。ある区間に含まれる無理数の集合は、その区間に含まれる有理数の集積点である。ここまではいい。カントールは、集積点の集合からなる集合を構成するプロセスに魅せられ、次々と無限集合を構成したという。集積点の集合の、そのまた集積点の集合?これを繰り返していくと集積点はどうなるの?集合論は、その性質上、不可避的にパラドックスを抱える。にも関わらず、論理学とともに数学の基礎となって生き延びている。基礎にパラドックスを抱えていては、数学そのものが怪しい世界という証明にもなりかねない大問題である。数学の世界に無限の概念が絡んでくるだけで、詐欺師の世界になる。無限とは、神ではなく悪魔かもしれない。

5. 宗教からの援護
実無限へのアプローチは人々を不快にする。やはり世間の目は冷たいものだった。しかし、意外なところから援護がある。ローマ法王は、無限の概念を神を説明する手段として指示する。なんと、数学を宗教が援護したのだ。ちなみに、カントールはユダヤ人だった節がある。彼はサンクトペテルブルク出身である。それは、キリスト教を強要された改宗ユダヤ人と、その移民の歴史に重なる。そこで、ユダヤ教の伝統である無限に取り付かれたとなれば説明がつく。しかも、カントールは、無限の基数を表現するのにヘブライ文字アレフを使った。アレフは英字アルファベットのAに相当する。最下層の無限、つまり整数と有理数の無限をアレフ・ゼロと名付けた。アレフの構造は、ユダヤ人社会におけるカバラの視覚的イメージに類似している。それは「エン・ソフ」の同心円図である。もし、ユダヤ人が示した神の概念をカトリック教会が支持したとなると、それは皮肉な結果と言えよう。

6. 悪魔を認めるか?連続体仮説
べき集合は、必ず元の集合より高次の基数を持つ。集合のべき集合、更にそのべき集合と...無限に続ければ、集合の基数も無限になりそうである。指数演算には、アレフの値を変える性質がある。カントールは、アレフに順番をつけようとする。無限に順番をつける?これが連続体仮説の正体か?しかし、アレフとアレフの間に無数のアレフが存在する。だってそれを証明しようとしていたのではないのか?連続体仮説を解くためには、超限基数同士を比較する方法を探る必要がありそうだ。それができれば、超限基数はすべてアレフの系列であることが証明できる。ここで「整列原理」が登場する。これは「すべての集合は整列させられる」という主張である。その第一歩は、無限集合も整列させられることを証明しなければならない。しかし、カントールは証明できなかった。これを救って証明したのがエルンスト・ツェルメロという人物らしい。ツェルメロは、任意の集合を整列させる具体的方法を示したという。その証明はこうだ。与えられた集合の部分集合から、それぞれ代表点を選ぶという「選択公理」である。しかし、無限に選択する方法を明確に示す公理としなければならない。そもそも、無限に選択できるってなんだ?こんなものが公理として認められるのか?もちろん論争は絶えない。更に、ポール・コーエンの「強制法」が登場する。仮説の集合が二つのうち一つに強制することができるという。こうなると煙臭さも最高潮となる。これは、連続体仮説がいよいよもって集合論の公理系内部では立証できないことを明らかにする。真でも偽でもない、謎のままという、最も収まるべきところに収まった感がある。ちなみに、選択公理を認めると、バナッハとタルスキは、ユークリッド空間内において、ある球を有限個に分解し、それを再構成させると同じ大きさの球が二つ作れることを示した。バナッハ=タルスキのパラドックスである。選択公理を認めると、数学界に悪魔を認めることになるのか?いや、非ユークリッド空間に持ち込めば、新たな発見があるかもしれない。そもそも神がユークリッド空間に留まっていると考える方が不自然である。

7. 精神病になった数学者の次なる目標
連続体仮説の重圧は、人間を変貌させた。無限の順序を知ろうとしたことは、神を知ろうとした報いか?世間からも異端視された仮説の行方は?その重要性が認められた時、カントールは既に精神病に蝕まれていた。彼は、変貌しシェークスピア学者になっていた。そして、彼の目標は、シェークスピア劇の真の作者はフランシス・ベーコンだということを証明することだった。ゲーデルも負けていない。ライプニッツの理論がライプニッツのものではないことを証明しようとしたという。ゲーデルは、合衆国憲法に論理的矛盾を探し出した。その条文で、独裁者が現れる可能性を指摘する。にも関わらず、なぜかアメリカの市民権を得ている。付添い人がアインシュタインだったからかもしれない。

8. おまけ: googleの語源
本書でgoogolという言葉が出てきた。なんとなくgoogleを思い浮かべる。どうもこれが語源のようだ。googolとは10の100乗のこと。10の100乗、100の100乗、1000の100乗、... googolの100乗、依然として最大数にはならない。googleは無限に広がることをイメージしているようだ。

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