さてエイプリルフールだ!今年のネタは何にするか?毎日エイプリルフールな生活を送っているようなもんだが。よって、天邪鬼は今日ぐらい真面目に過ごすとしよう。などと堅く決意していたところ、恒例の「桜祭り」の案内状が届いた。律儀で精神の揺るがないアル中ハイマーは、ドスの利いた声で「夜の社交場が俺を呼んでるぜ!」と呟きながら、真面目に和服鑑賞へ出かけるのであった。
1. 精神の合理性
「物事を客観的に観察して判断する」とは、よく聞かれる台詞である。数学的公理のような考察が可能であれば明らかに客観的判断と言えよう。だが、深い思考を呼び込むためには主観的考察も疎かにはできない。最初から客観性だけに頼っていては、現象をただ羅列するだけの貧弱な考察で終わるであろう。単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできないのだから。そもそも、人間精神の解明において弁証法なるものが現れるのも、精神が持つと信じられる客観的悟性が完全ではないと疑っている証ではないのか。成功のプロセスには偶然性が潜む。結果的にうまくいけば判断能力があると評価される。だが、純粋な判断力の存在を説明できるわけではない。一人の人間の理念には、一つの精神によって一つの宇宙が形成される。人間社会における客観性は、ほとんど個々の主観性に基づいた多数決によって支配される。そして、人間は永遠に占い師であり続けるのかもしれない。永遠に結果論で理由付ける評論家であり続けるのかもしれない。そもそも、認識そのものが主観性の強いものである。ある事象を認識し思考を働かせた時点で精神は主観の領域に入り込む。法律は客観的であるが、人間が解釈した時点で主観的となる。精神では主観性が強い分、客観性を強調するぐらいでちょうど均衡が保てるのであろう。そして、主観と客観の双方を統制する更なる高尚な価値観の構築が必要なのかもしれない。それが理性ってやつか?ただ、高尚な理性を構築するには、人生はあまりに短すぎる。神は人間を永久に不完全なものに留めておきたいのかもしれない。まるで神自身が優位性を保つかのように。強靭な理性の持ち主は精神を死の恐れから解放させ、死までの時間を静かに待つことができるという。ただ、欲望という本能も捨てたものではない。理性を獲得するには知性への欲望を必要とするのも確かである。皮肉にも強靭な欲望は、理性の欠乏を補って精神の安定をもたらすという不思議な関係も成り立つわけだが。
ちなみに、象の知能と感情の豊かさには定評があるらしい。
「象はなぜ?死を覚悟した時、群れから離れ、死に場所を探す旅にでるのだろうか?俺にはできない。一人孤独のまま姿を消すことはできそうにない。」
...映画「象の背中」より...
2. 運命の支配力
デカルトが人間の持つ知覚を「私は存在する」という一言で抽象化してしまったことには感服せざるを得ない。これは、人間の知覚は空間に関係し、一切のものは空間に存在すると言っているようなもので、まさしく先験的実存論を表している。ただ、認識できるものがすべて実存するとなれば、愛という妄想をどう説明するのか?「言葉のキャッチボール」は、いずれ「言葉のドッジボール」へと変貌し、ついには「言葉のビーンボール」が頭をかすめる。愛情が愛憎に変わるのに、大して手間はかからない。ちなみに、完璧な仕事の依頼料は300万ドルが相場だという噂だ。
「ゴルゴ13、奴を狙撃しろ!」
そして、暗殺を恐れた独身主義者は、実存主義者の「なぜ結婚しないのか?」という問いに、裏返った声で「それは理性を失わないからさ!」と錯覚論を展開するのであった。なるほど、スピノザは、誤謬の原因は人間認識の欠乏によって生じると語った。どうりで、「できちゃった!責任とってね!」と迫られると、唯物論者は唯心論者へ鞍替えするわけだ。
錯覚論者であるアル中ハイマーは、九連宝燈...国士無双...大三元...と呟きながらスーパーヅガンな人生を謳歌する。ちなみに、ゲーテは、想像力は芸術によってのみ制御されると語った。そう、芸術にこそ合理性が潜み、玄人(バイニン)技にこそ運命を操る支配力がある。中でも、飛び切りの芸術は「積み込み」である。そして、絶望論者は起死回生を願って呪文を唱える。「天が味方するから天和(テンホウ)なんだが...さて、明日も晴れるかなぁ...」
3. 酔っ払いの持つ合理性とは
物事の持つ合理性とは何か?それは、物事の本質を見抜くことであり、その本質の持つ合理性にこそ王道がある。
では、人間の持つ合理性とは何か?精神には、気まぐれや直感と、これに反するかのように好まれる論理的思考の両面がある。いわば、主観と客観の共存、欲望と抑制の共存、感情と理性の共存。主観性には、精神の高まりを呼び起こし、思考の深さを牽引する役割がある。客観性には、理性を研ぎ澄まし、精神と知性の均衡を保つ役割がある。この両面を凌駕することこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。
人生はギャンブルか?ギャンブルの本質は確率論に持ち込まれる。この確率論には運と能力が微妙に絡む。ギャンブルで勝利したければ、時には奇策を用いるのも悪くはない。だが、ギャンブルの持つ本質にこそ合理性がある。確率を無視しては、神に逆らうようなもの。本質という合理性を否定していては、いずれ長いギャンブルに敗れるだろう。
そして、アル中ハイマーは人生のオーラスで地獄の単騎待ちに賭ける。しかも、海底(ハイテイ)だ!そう、不合理性に身を委ねてこそ、酔っ払った人生というものだ。
「誰かが金を無くすから博奕になるんだが、まあ、勝ったり負けたりってとこだろうよ!」
「勝ち続ける人もいるでしょう!」
「いるかもしれねぇ。だが、そういう奴は金の代わりに体無くしてる!そういうもんだ!」
「勝ち続けて丈夫な人もいるんじゃないの?」
「そういう人はきっと、人間を無くすんでしょうなぁ!」
...映画「麻雀放浪記」より...
2009-04-01
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