本屋を散歩していると、懐かしい風が吹いてくる。なにやらマニアたちがクラシックの名盤について熱く語っている。昔々、美少年だったアル中ハイマーはクラシックばかり聴いていた。その思いに耽りながら立ち読みしていると、すでに三分の一ほど読み終わっている。ちょうどその時、カウンターから鋭い視線が突き刺さる。振り返るとお姉さんと目が合った。どうやら気があるらしい。そして、ドスの利いた声で「この本をたのむ!」と話しかけると、お姉さんは決まりきった営業文句であっさりとかわす。どうやら照れ屋さんのようだ。
本書は、600曲近く凝縮されるので、クラシックの字引としても使えそうだ。それも、実に多岐に渡る人々によって語られる。プロの演奏家、レコード製作者、評論家、大学教授、ジャーナリスト、アマチュア音楽家、実業家、あるいは、普通の会社員、教員、悠悠自適で隠退生活を謳歌している人などなど。曲名だけを追えば、半分以上は聴いたことのある有名な曲ばかり。しかし、彼らの造詣は、演奏者と指揮者はもちろん、録音時期までも組み合わせるという徹底振りだ。ここで紹介される名盤は、著者たちが「生きる糧」として聴きぬいてきた選りすぐりのものだという。そして、アナログ盤、CD、LD、DVDが連なり、廃盤、現役盤を問わず掲載される。中野雄氏は、後書きで次のように記している。
「音楽の本質は瞬間芸術、流れる時間のある瞬間に人を感動させ、本体が消え去ったあとに思い出を永遠に残す、華やかにしてはかない行為。」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころなのだ。
おいらが、初めて音楽に目覚めたのは何を隠そうクラシックである。幼少の頃、TV放送で聴いた交響曲に感動してレコード屋に買いに行ったが、その曲名が分からない。困った挙句、ジャケットのオーケストラの写真の格好ええものを選んだ。それがドヴォルザークの「新世界から」、ユージン・オーマンディ指揮、ロンドン交響楽団 (オーマンディ「音」の饗宴1300 Vol.9)。第四楽章の冒頭には鳥肌が立った。その感覚はいまだに条件反射として残っている。今、このLPを前にして記事を書いている。レコードプレーヤは20年ほど前から倉庫で埃をかぶったままだ。そこで、久しぶりにプレーヤを復活させることにした。既にレコードの音はボロボロだが、そこが懐かしくていい。老人が蓄音機を前にして懐かしんでいる光景とは、こうしたものだろうか。何かちょっと聴いて元気をつけようと思った時、原点に戻ってみるのもいい。人は、生きているうちに自分のテーマ曲のような存在を見つけるだろう。すっかりクラシックを聴く機会が少なくなったが、本書によってクラシック熱が蘇りそうな予感がする。
一つの曲でも、演奏家や指揮者が違うことで、どちらが良いかという判断はおいらにはできない。違うのは分かるのだが、どちらも違った良さがある。しかも、その日の気分によって好みがころころと変わる。その統計を取っていけば、多数決で軍配を上げることはできるのだろうが。
初めて聴いた曲で、その良さを理解できないことがよくある。それが、ある日その曲を気まぐれで聴いてみると、感動して虜になることがあるから不思議である。こうした感覚は、音楽に限らず芸術の分野ではよくある。これも、感性が人生経験によって変化している証であろうか?若い頃は、自分の感性に合わないものには批判的な態度をとったものだが、それが感動できる時が突然やってくるから摩訶不思議。そして、だんだん批判している自分に疑問を持つようになった。
本書は、突然開眼した体験話や、文学的でつい読みいってしまうものや、あまりにもマニアック過ぎて理解の難しいものなど、盛沢山である。芸術では、奥深いがために、鑑賞者の理解を邪魔することがある。エネルギッシュで考えすぎない素朴な方が素人には分かりやすい。芸術家は円熟した領域で一層のパワーを見せつけるが、なかなかついていけないものだ。だからといってがっかりすることもない。理解できないことが多いということは、探求する喜びも多いということだ。指揮者の人間像や、その汗臭い表情までも熱く語ってくれる様は、理解できなくてもなんとなく楽しい。
不思議に思えるのは、クラシックの感想って酒の感想に似ていることである。主語を曲名から酒の銘柄に置き換えれば、そのまま使えそうな表現が随所に現れる。音楽の本を読んでいるようで、名酒辞典を読んでいるような錯覚に陥る。なるほど、音楽も酒も五感を磨くという意味では、同じ分野に属すと言っていい。酒の色、香り、味は、視覚、臭覚、味覚に愉悦感を与え、グラスに触れる冷たい感触にも喜びが涌き、ボトルから注がれるトクトクという音にも情緒が現れる。酒を楽しむということは五感を総動員することだ。クラシック音楽を聴く時も、作曲家の人生の思い入れを感じながら味わう。聴覚を刺激するのはもちろん、空間から醸し出される空気の流れのようなものに歴史的背景が加われば、五感を総動員せずにはいられない。リスナーたちのこだわりは酒に対する造詣と同じように、音楽を語りながら人生を語っている。
マイブームは、ヨハン・パッヘルベルの「カノン」である。これをオルゴールで聴くのがいい。数年前、「オルゴールミュージアム門司港」でちょいといいやつを買ってきた。数万円以上するものは、勝手に触れることができない。そこで、職員にお願いして聴き比べさせてもらった。なるほど、そこそこ高価な物でないと良い音が出ない。貧乏人には辛いがここは奮発しておこう。ちなみに、この館には、約100年前に作られたというヨーロッパのアンティークオルゴールがあり、その演奏会を体感することができる。オルゴールを買ったからか?入館料をおまけしてくれたので、貸し切り状態で拝聴できたのは幸せである。もし、内緒のはからいだったら、お喋りな酔っ払いをお許しください!
1. 「名盤」の定義とは
本書は名盤の条件として、名曲、名演、名録音の三つを挙げている。まず、名曲であるには名演が伴わなければならない。当初、好評でなかった名曲も、後に名演奏家によって蘇らせた例は多い。バッハの名曲「マタイ受難曲」は、指揮者でもあるメンデルスゾーンによって初演から100年後に蘇ったという。ただ、名演の基準は難しい。聴く側の主観に委ねられるからである。したがって、名演の判断に演奏の歴史が必要であるという。だが、時代と共に名演の基準も変わる。少なくとも、名曲という素材があるからこそ、名演へと導かれる。
また、名盤として世に出るには、製作者の感性と収録技術がかかわる。昔の製作者の情熱や執念には驚嘆させられるものがある。映画でも、昔の特撮技術は、偽物と分かりつつも迫力を感じるものだ。逆に、最新のCG映像でも、単に見映えが良いだけで違和感を感じるものもある。昔のテクノロジーは現在に比べて乏しいが、その分、想像する空間を与えてくれるのがいい。音楽プロデュースの世界にも、映画と似た感覚があるようだ。本書によると、現在はプロデューサが企画したプログラムを別のディレクターが現場で指揮をとり、演奏家とはゆかりもない録音エンジニアが収録するという。その一方で、一流の製作現場は、最高責任者であるプロデューサは全工程にくまなく付き合うため、実際の演奏とCDの音楽が別物になることは珍しいという。また、音楽プロデュースという仕事は、音楽の専門知識はもちろん、楽器演奏にもそれなりの力量が求められるという。ただ困ったことに、演奏家の多くはオーディオに無智かつ無関心で、再生された自らの音楽を真剣に聴こうとしないと指摘している。おまけに、一流の音楽家ほど多忙で、編集作業に付き合う時間が取れない。そして、CDが登場して、発売点数は増えたが、名盤の比率が減っていることを嘆いている。なるほど、愚痴っぽい話ではあるが、音楽プロデュースの裏話が聞けるのもおもしろい。
2. ベートヴェン
「モーツァルトを聴いていると、名曲聴いて、旨い物食べて、酒飲んで寝て、一度しかない人生楽しんで生きて、なに悪かろうという気になる。ベートーヴェンを聴くと逆に、そんな遊び呆けていては駄目だ、人間として生まれたからには、何かを成さなければならない、成すために君はここに生をうけたのだと、そのように言われているような気持ちにさせられる。小生にとっては、ハタ迷惑な暑くるしい作曲家である。(井上雅之 著)」
これは、ベートヴェンの「運命」について語っている節である。重荷を背負う感じが、これをアレクサンドル・ガウク指揮で聴くと、軽い運びになると絶賛している。
3. モーツァルト
おいらにはモーツァルトの好きな逸話がある。ただ、本書では紹介されないのが残念だ。それは、オペラ「後宮からの逃走: K384」に関するものだと思う。皇帝ヨーゼフ2世が「我々の耳には音譜が多すぎるようだ。」と言うと、モーツァルトは「音譜はまさに必要とされる量でございます。」と食って掛かった。芸術家は、精神を解放しながら鑑賞者の気づかない細部にまでこだわる。そして、自らの信念への素直さと頑固さを見せる。ここに、器用な職人で終わるか芸術家になるかの分かれ目があるだろう。
本書は、モーツァルトを人間のもっともプリミティブな魅力に敏感な音楽家であると評している。
「人間の喜怒哀楽を音に結晶化することにおいて、彼以上の才能はない。(三木茂 著)」
自然に同化した芸術作品は永遠である。物事の本質を求めるとは、よりプリミティブを求めることなのかもしれない。科学は宇宙を解明するために原始粒子を探求する。芸術は精神を解明するために自然を探求する。精神の中にある「笑う」という感覚は幸せを与える。なるほど、箸が転がるだけで笑える感覚にこそ、精神の本質がありそうだ。したがって、女子高生に弟子入りして逆援助交際を目論むのがよかろう。そして、アル中ハイマーは、プリミティブな感覚を求めてジゴロになるのであった。
4. フルトヴェングラー
ワーグナーといえば、フルトヴェングラーというイメージがある。それも、ナチスに利用された暗いイメージを拭えない。おいらは、芸術の理解が乏しいので、つい歴史や逸話に翻弄されてしまう。
「科学的筆跡学のクラーゲスが、フルトヴェングラーの筆跡から「これはおそらく宗教界の教祖でしょう。芸術家だとはまず考えられない。悲劇作家ならまだしも」と述べたのは、そのフルトヴェングラーの本質に触れていることの証なのだろう。(鈴木智博 著)」
これは、彼の晩年について語ったものである。自らの死を悟った時、格段のパフォーマンスで魅了する芸術家がいる。フルトヴェングラーの晩年にもそうしたものを感じるといった意見が多いようだ。
5. バッハ
「人はバッハに始まり、バッハに還っていく。(藤倉四郎 著)」
この記事をバッハに関する名言で締めくくろう。
「バッハを知らない人は幸せである。人類至宝の扉を開ける幸せを持っているのだから」
2009-04-26
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