2009-03-29

もしも、アル中ハイマーな哲学者がいたら...

ドリフのもしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな哲学者がいたら...だめだこりゃ!

1. 矛盾というパズル
哲学書は、難解な論理の羅列がBGMを聴いているような錯覚に陥れる。難解な文章を遠目から眺めれば、いろんな思考が錯綜する。そして、一つの言葉でも違った意味をめぐらせながら精神を混乱させる。一語異義的な世界とでも呼ぼうか、一貫性さえ疑いたくなる。これも、人間の精神が矛盾律で成り立っている証であろう。
人類の歴史は矛盾の概念に憑かれている。神が完全であるならば、神は愛することも憎むこともしないはずである。なのに、宗教はなぜ?「神はすべての人間を愛する」と教えるのか?なんと不合理な思考であろう。なるほど、どんな罪人であっても神が愛してくれるならば、犯罪者は宗教へ帰依するはずだ。「苦しい時の神頼み」というが、自分にだけ不幸が及ばないように祈ることは、神を冒涜する行為である。こうした矛盾した行動によって精神の不安から解放されるならば、それもありかもしれない。神は、人間の精神を救済するために、矛盾というパズルをお創りになったに違いない。
近年では情報化の波が押し寄せる。膨大な情報量を消化するには労力がかかり、人間はますます忙しくなる。言い換えれば、思考の深さを妨げることにもなろう。人生は短いのだ。高度な情報化社会では、情報に対する目利きがなければ、精神の本質へ近づこうとする思考を妨げるという不思議な関係が成り立つ。社会の進化は人間に新たな能力を要求する。なるほど、哲学が真理を求める学問であるならば、暇人にしかできないわけだ。人間社会は、エントロピー増大の法則に従って複雑系へと陥る。その中で人間が生き抜くためには、自ら精神病を患わせないように深い思考を妨げる必要があるのかもしれない。これも神が人間に与えてくれた一つの防衛本能なのかもしれない。
ゲーテ曰く、「優れた人で即席やお座なりには何もできない人がある。そういう性質の人は事柄に静かに深く没頭することを必要とする。そういう才能の人からは、目前の必要なものが滅多に得られないので、我々はじれったくなる。しかし、最高のものはこうした方法でのみ作られる。」
競争社会では、深い思考を妨げながら知識を詰め込むことを奨励し、記憶力によって優位性を決する。だが、これは神が与えてくれた人間の最高の才能に反する。その才能とは「忘れる」ことである。だからノイローゼにならなくて済む。この才能は神にも敵わない。おそらく神はノイローゼを患っているに違いない。だから、「人間」なんて不完全なものを創造してしまったのだ。おそらく神は後悔しているだろう。そのために矛盾というパズルを必要としたのだから。そう、神をも超越する概念を必要としてしまったのだ。

2. 哲学してみる
哲学と数学は同じ論理学を扱う意味ではよく似ている。ただ、扱う対象が違う。数学は物理量や時間スケールといった「空間の量」を対象とする。一方、哲学は人間認識や理性といった「精神の本質」を対象とする。論理学は常に客観性に基づく体系化を求める。数学の公理は永遠である。ところが、精神ってやつは主観と客観の双方の領域にかかわるからややこしい。数学は哲学から派生した学問だと思っている。本質を見極めようと普遍原理を探求する中で、体系化を見出すことができたものが数学として分離したと考えるからである。逆に言うと、人間精神にかかわる部分だけが哲学にとどまっているとも言える。不完全性定理は、まさしく数学の領域から哲学の領域に引き戻した感がある。数学の証明には直観的確実性や自明性なるものが現れるが、哲学の証明には弁証法なるものが現れる。弁証法が有効だと認めている時点で、人間は矛盾と対峙する運命を背負うことを自覚しているのだろう。あらゆる学問は人間にかかわる現象に対して体系化を求めてきたが、ことごとく失敗してきた。しかし、失敗したからといってその試みは無駄ではない。体系化できるかできないかの境界性をさまよいながら、人間精神の限界を知ることができるからである。哲学が特殊なのは、他の学問に比べて知識の果たす役割が小さいことである。ひたすら精神の働きによって真理を求めることができる。あらゆる学問で本質の探究を試みれば、哲学的考察を避けることはできないだろう。物事を深く掘り下げれば哲学的思考に辿り着くはずだ。あらゆる学問で偉大な学者が、同時に偉大な哲学者であったのもうなずけるわけだ。ところで哲学者ってどうやったらなれるの?自称すればええのか?

3. 自己言及の罠
哲学的思考では、物事は本当に存在するのか?と疑えば実存論争が巻き起こり、存在意義はあるのか?と疑えば無意味論と対峙する。そして、哲学とは何か?と自己言及の領域へと入り込む。数学界では、自ら定義した論理的命題を自己矛盾によって撃破され、不完全性定理を登場させた。科学界では、原子の解明に微小粒子を衝突させるように、粒子の解明に更なる小さな粒子の衝突を求めた結果、不確定性原理はこれ以上分解できない素粒子の解明という矛盾を匂わせる。いずれも、自己言及の罠によって自己矛盾を導いた結果である。もはや、系の姿を解明するためには、更なる高次の系から眺める必要があるように思われる。だが、必ずしもそうとは言い切れない例もある。数学の難題であるポアンカレ予想は、宇宙の外から眺めなくても、宇宙の外観をおおむね理解することができることを暗示している。これは、系の中に存在するものが、その系の姿を解明できる可能性を示しているのかもしれない。微分積分とは、事象の正体を解析するために仮想的に次元を上げたり下げたりする数学の道具である。ポアンカレ予想を解いたグレゴリー・ペレルマンは、まさしく微分幾何学を使ってトポロジー数学者の度肝を抜いた。しかし、ペレルマンはフィールズ賞を辞退して失踪してしまった。これは、人間自身が住む宇宙を解明した途端に、人間自身が精神を失った結果なのかもしれない。まさしく哲学は、人間精神の解明に人間精神がどこまで迫れるかという自己言及の問題を突きつける。自分自身を変えることができるのは自分自身でしかない。いや、自分自身ですら変えることができないのかもしれない。それを見極めるためにも自己言及を避けるわけにはいかない。そして、「俺は誰なんだ?」と問い続ければ「飲むしかないではないか」という結論に達する。しかも、酒を飲んでいるのか?酒に飲まれているのか?も分からず自己認識の存在すら疑わしい。これが哲学するということである。したがって、あらゆる哲学者はアル中に違いない。

4. アル中ハイマーの哲学とは
  • 哲学とは、暇人の学問である。
  • 人生とは、死までの暇つぶしである。
  • 生き甲斐とは、死の恐怖から逃れる手段である。
  • 多忙とは、神経疾患への麻酔薬である。
  • 退屈とは、不安と葛藤する勇気を養う時間である。
  • 天国と地獄があるなら、まさしくこの世である。生き甲斐が見つかれば天国。見つからなければ地獄。
  • 幸福とは、不都合なことを忘れさせてくれる瞬間である。
  • 絶望という名の希望は、人生を時々立ち止まり、そして振り返ることの大切さを教えてくれる。
  • 人間は解釈することができても、永遠に理解することはできない。
  • 浅はかとは、理解したと自負することである。信じるとは、思考を停止させることである。おまけに、哲学するとは、酒を飲むことである。したがって、酔っ払いはいつも理解した気分になる。あぁ愉快々々!
  • 物事をできるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせる可能性を示せば、そこには、崇高な地位へと押し上げる何かがある。これが哲学の極意というものだ。したがって、哲学はチラリズムに満ちている。
人生の泥酔者には、自然に揺られる心地良さがある。なすがままに揺られる姿には、「Let it be.」の精神がある。これは絶望や諦めといった反応に似ているが、けして負の思考ではない。自棄になっては、どこかに未練がある証拠だ。運命とも思える現象を受け入れ、のんびりと酒を飲みながら自然に浸る。無意味論に対しても、愉快ならば「ええんじゃないか!」と対抗する。そして、気分良く飲まずにはいられない。なぜかって?そこに酒があるから。

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