2009-10-25

"思考の整理学" 外山滋比古 著

ちょっと古い本だが、なぜか目立つように陳列される。宣伝文句には「1986年発売以来の超ロングセラー!」とある。完全に立ち読みしてしまったが、本書は是非我が家の本棚に並べておきたい。ほとんど共感できるからである。酔っ払いは、寂しさを感じながら同調者を求めているのだろうか?文章の流れには文学的な雰囲気さえ漂わせ、なんとなく癒される。いずれ再読するのは間違いないだろう。

知識の整理と思考の整理は違う。思考の整理の方がはるかに難しいように思われる。知識の整理はある程度の体系化が可能であろう。知識は、分類や階層化によって構造的にまとめることができる。現在ではコンピュータを利用すれば検索も容易にできる。だが、思考の整理となると事情は一変する。その有効手段を見つけるのは難しい。どちらも、抽象化の概念は必要であろう。伝統的な学校教育では、知識を教えても思考方法を教えることはない。にもかかわらず、人間はなぜか独自の思考方法を身に付ける。それは試行錯誤の中から会得するのであろう。人間は、幼児期に原始的思考というものを形つくる。思考の論理や法則性には、個人の経験則によって癖のようなものがある。人間の理念は十人十色で、合理性は別人からは不合理性と見なされる。したがって、思考の方法論が個人によって違ってくるのは自然である。思考を整理するのに文章を書いてみるのも有効であろう。書き出してみると、意外と理解していないことに気づかされる。一つの手段として図式化するのも有効であろう。おいらは言葉の関連図を書く癖がある。独自のマインドマップとでも言おうか。独自といっても、なんら難しい法則があるわけではなく、誰でも直感的に伝わるような表現を心掛け、その法則も気まぐれに従う。また、自分の思考を他人に説明しようとすると、いつのまにか自分の思考を整理していることに気づかされる。思考の整理に、プレゼンテーションの重要性を意識している人も多いだろう。
いずれにせよ、思考の整理方法で体系化できる黄金手法など存在しないだろう。そして、思考を洗練するには、ひたすら検証を繰り返すことだと思っている。本書は、こうした感覚を持った人間には惹かれるものがある。タイトルに「思考の整理学」と銘打っているが、そこに例題として用いられている手段はあるにせよ、体系的な技術や方法を伝授しようというものではない。思考の本質に迫ろうとすれば、抽象的にならざるを得ないし、哲学的思考が現れるのも自然であろう。本書は、物事を考えるとはどういうことか?思うことと知ることは違うのか?そうした素朴な疑問をあらためて考えさせられる。アル中ハイマーは、本書がしめくくる、このフレーズにいちころでなのだ。
「人間らしく生きて行くことは、人間にしかできない、という点で、すぐれて創造的、独創的である。コンピュータがあらわれて、これからの人間はどう変化して行くだろうか。それを洞察するのは人間でなくてはならない。これこそまさに創造的思考である。」

さて、今宵も酔っ払いの精神の動きに任せて、能書きを垂れてみるかぁ。

1. グライダー型と飛行機型
世間には、実に多くのハウツウものが氾濫する。その中で参考にできるのは失敗例であって、成功例には偶然性が潜むことを意識しておく必要がある。何々学校というものが大盛況なのも、新たに知識を得るために教師のような存在に頼るのが手っ取り早いからであろう。そして、無条件で教材が提示されれば、教材選びという面倒な作業から解放される。だが、あらかじめ教材が用意されるのと、自分にあった教材を最初から探し出すのとでは、意味が違う。教材の探索には、思考の試行錯誤が繰り返される。おいらは、新たな学問をしたければ、独学が一番心地良いと思う。独学は必然的に読書する。そして、散歩するかのように試行錯誤の中を漂いながら、具体的な手段を模索する。なによりも、誰にも指図されないのがいい。知識は獲得するまでの過程にこそ意義がある。つまり、最初から教材が与えられるということは、学問の醍醐味を省略していることになる。知識に到達するまでの思考を省いては、人生も味気ないものとなろう。そう言いながら、かつて英会話学校へ通ったことがあるのだが...よくセミナーにも参加するし...
いい歳をした大人が、なんでも手軽に教えてもらえると考えるのは、学校教育の弊害と言えよう。学校教育では知識を記憶することに没頭する。しかし、記憶は歳とともに薄れる。あらかじめ教材が用意され、情報探しで思考することを放棄させる。おまけに、重要なポイントが最初から示され、何が重要なのかを思考する過程をも奪う。何が重要なのか個人によっても観点が違うはずだが、学校教育の観点は試験のみである。問題はすべて学校側で用意される。だが、社会では問題は突然わいて出て、おまけに解答を知っている者は誰もいない。この答えの見つからない問題と対峙しながら、妥協という解決が求められる。
国語では解答が一つしかなく、文学作品の作者の意図も一方向に誘導される。歴史では、教師の解釈が強制される。数学では、有効な解法を一つ提示すれば、それに皆が群がる。そして、すべてが暗記科目となる。こうした傾向は社会現象にも見られる。世論は一方向に扇動され、違った解釈を持つものは不安に駆られる。こうした流れは、一時的にエントロピー増大の法則に逆らっているように映る。しかし、事象に対する後の社会的評価や歴史的評価は、時代の経過とともに変化する。社会を生きる上で、紋切り型の知識はあまり役に立たないことは、ほとんどの人が経験によって認識しているだろう。だからといって、知識を蔑むものではない。知識がなければ思考することも難しい。こうした視点を、本書ではグライダー型人間と飛行機型人間の対比で語られる。グライダーも飛行機も空を飛ぶ姿は似たようなものである。むしろグライダーの方が音も静かで優雅である。しかし、グライダーはエンジンが無いので、自ら舞い上がることができない。そして、学校はグライダー型人間の養成所であると皮肉る。グライダー練習上にエンジンのついた飛行機が混じっていては、騒音もうるさく迷惑するというわけだ。勝手な奴は規律違反をし、優等生はグライダーとして優秀となる。従順さの尊重こそ学校というわけか。おまけに、指導する教師もグライダー型である。面倒見が良さそうで親切そうな教師ほど、具体的な参考文献や問題の解釈などを提示してくれる。だが、それは意識の誘導でもある。こうした教師ほど評価される。これは学問にとって良い傾向なのだろうか?個人的には、好きなようにやればいいと助言してくれる方がありがたい。一見冷たく見えるがそうではない。こちらが考えをまとめて、議論に訪れれば話題も盛り上がる。逆に、こちらの思考が浅ければ冷たくあしらわれるだけのこと。人間社会はグライダー人間によって支配される構造的問題を創出しているのかもしれない。

2. 独創性
本書は、知識と思考を独創性や個性といった観点から議論される。ところで、独創性とは何か?独創性とは、どうやって磨くのか?その出発点をどこに求めるかは難しい。子供の行動は、大人の行動を真似ることから始まる。こうした素朴な行動には、独創性の本質が隠されているような気がする。作家ポール・ヴァレリーは、他の作品を養分にすること以上に、独創的なものはないと語った。ヴァレリーによると、偉大な芸術は模倣されることを自然に受け入れるという。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つというわけだ。日本の小説家で誰だったかは思い出せないが、似たようなことを語っていた。それは、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったフレーズに出会えるかにかかっているといったことである。個性を磨くにしても、いかに個性的な人間に出会えるかにかかっているのかもしれない。ただ、最も重要なことは、自らの精神を解放することであろう。いくら、優れた思考に出会ったところで、それを感じ取る力がなければ意味がない。芸術家は、日常生活の些細な出来事ですら、そこに芸術性や独創性を感じるのだろう。科学の独創性にも、先人たちの苦悩の積み重ねの上に成り立っている。そもそも、最初から独創性を意識したところで、独創的な思考は生まれないだろう。人間の理念が十人十色であれば、おのずと物事の解釈にも個人差が生じるはず。
「デマは見方によれば、自由な解釈にもとづく伝達の花だということにもなる。われわれは、だれでもデマの担い手となる資格をもっている。」
なるほど、ウィキペディアにも間違った情報が紛れ込む。おいらのブログも時々読み返して修正しているが、どれだけ間違いが紛れているかは計り知れない。酔っ払いには知識の整理だけでも難しいのに、思考の整理となると、独創性が絡み限りなく不可能となりそうだ。

3. 思考と閃き
思考していると、思わぬ閃きが突然やってくることがある。アル中ハイマーには、風呂の中か睡眠中に訪れる。アイデアや難題の解決方法が、思考をリセットした時に訪れることはよくある。ただ、困ったことに、こうした場面では即座にメモることができない。こうした現象は、緊張感から解放された時に起こるのだろうか?本書でも、REM睡眠と思考の関係を論じている。
通勤途中の電車に揺られている時にアイデアが浮かぶことある。電車の振動は思考のリズムをつくるのかもしれない。一日中解決できない技術的な問題を、徹夜して取り組むが、一晩寝るとあっさり解決されることもある。そして、昨日の苦労はなんだったんだ!とにやける。将棋の棋士が考慮中に真っ白な空白をつくることを心掛けているといった話を聞いたことがある。思考が枯渇した時、そうしたリフレッシュが大切なのは、経験的に感じる。これが気分転換というやつか。おいらは、よく煙草を吸いに海に出かける。波の動きを眺めたり、波の音を聞いていると、それだけで癒され、思考がなんとなくリフレッシュされるように気がする。そもそも、集中しようと思って意のままになることはない。ある程度の精神誘導は必要だが、焦らず自然に集中することを待つのが肝心!そして、突然フロー状態が現れる。本人は気づかず、心地良い宇宙へと自然に導かれる。無我の境地とでも言おうか。自我は、自由意志によってコントロールできそうで、できない。ただ、神は自我のコントロールが自在にできると信じ込ませるから、やっかいである。「自由」を実践することは難しい。好きなように実行することほど難しいものはない。自我とは、得体の知れないものである。自由意志の存在すら疑わしい。そこがおもしろいのだが。やりたいことを、続けていると、いつのまにかテーマが自然発生する。人間の精神は気まぐれに支配されると考えるしかあるまい。したがって、集中力は向こうからやってくる。それを、美味い酒でも飲みながら待つとしよう。

4. 夜型人間から朝型人間へ
エンジニアの世界には夜型人間が多いようだ。昔から勉強は夜間にやるという習慣があるのだろうか?おいらも、サラリーマン時代に夜型人間だった。そこで、フレックスタイム制はありがたい。しかし、会社を転々としているうちに、いつのまにか朝型人間になっている。ベンチャーと称する企業で働いていた時は、毎日メールを200通から300通処理しなければならなかった。これをやっているだけで一日が終わってしまう。そこで、メール処理のために朝を利用する。そうしないと、自分の仕事をする時間が確保できないからである。すると、朝6時から9時ぐらいに頭の回転が速いことに気づく。今では、朝4時から5時には自然と目が覚める。目覚まし時計が壊れていることにも気づかない。朝からステーキハウスに出かけることも珍しくない。他に客もいないので貸し切りにできるのが気分いい。ちなみに、一番多く食べるのが朝飯で、夕飯が一番軽い。その分、酒が入るが。いつのまにか朝型になっているのを、歳のせいだと言う人がいる。失敬な!そして、昼の3時ともなると飲みたくなる。この時間にバーが開いていないのが残念!個人事業主になると朝4時に散歩する習慣ができた。度々警察官から職務質問を受ける。今では、「ご苦労様です!お気をつけて!」とパトカーから声をかえられる。ちなみに、就寝時間は0時から1時。よって、連続睡眠時間は3時間から4時間ということになる。昔から、睡眠時間は短い方だが、その分、昼寝を1時間するとスッキリする。それも、昼間に眠くなれば自然と寝るだけのことで、無理に寝ようとはしない。仕事のパートナーに、「お前はいつ寝てんだ?」とよく聞かれる。おいらは、眠い時に寝る!腹が減ったら喰う!そこに酒があるから飲む!というのを実践している。すると、自然に規則正しい生活リズムが完成してしまった。動物は、生物学的に規則的に生きるようにできているのかもしれない。

5. 読書の中の思考
読書では、一つ一つの言葉は静止しているのに思考はうごめく。プログラムを書いていても、一つ一つの記述は静止しているのに、全体として振る舞いを持つ。音楽は、一つ一つ音波として存在するが、そこにメロディーが生じる。しかも、そのメロディーを感じることができる人と、感じることができない人がいる。一つ一つの科学現象をスナップショットすると、そこには自然法則を感じる。離散的現象を眺めていると、そこに連続性が現れる。人間の目が持つ残像効果も、こうした現象の一つであろうか。
一つの難解な文章に出会うと、その前後の文章から解釈するという思考が働く。言葉の非連続性から、思考によって連続性を構築する。人間の想像力とは大したものだ。難解な命題を理解するために、喩え話を登場させたりと、人間の感性は、総合的観点から物事を解釈しようとする。中には、部分的にしか解釈できなくて、揚げ足ばかりとる人もいる。これを突っ込みと言う。したがって、突っ込みの感覚には、嫌味となるか優れたジョークになるかの判断ができる微妙な感性が要求される。
おいらは、難解な文章に出会うと、よく後ろから読んでみたり、まん中から読んでみたりする。文章の構成を思考によって立体的に組み換えることによって、ある解釈が生まれることがある。もともと理解力の低い酔っ払いは、読み方も右往左往する。思考も千鳥足というわけだ。だから、一冊を読む時間も長い。それだけ長く楽しめるのがいい。速読なんて手法は、酔っ払いには必要ない。酒を多く飲むことが目的ではない。美味い酒をじっくりと味わうのが目的なのだ。

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