アル中ハイマーの購入予定リストには、ずーっと前から亡霊のように居座る奴らがいる。本書もその中の一つ、これがどういう経緯でリストに挙がったかは記憶にない。
「菊と刀」は、いろんな訳版があるようだ。本書は訳者角田安正氏による光文社版である。第二次大戦中、文化人類学者ルース・ベネディクトは、アメリカ情報局の依頼を受け日本人の気質を研究した。そこには、戦時中でもあり、研究者として現地調査ができないことを悔しく思っている旨が語られる。参考としたのは、在米日系人と日本文学や歴史文献などだという。こうした制限の中で、これだけの分析がなされるのには感服せざるを得ない。本書は、あくまでもアメリカ人向けに記されたアメリカ人による日本人文化論である。
当時、日本に住んだことのある欧米人が書き残したものは、一般的に貧弱かつ皮相的だったという。したがって、欧米人の文献を参考にすると、むしろ誤った知識を展開すると警戒している。本書の分析は、時折ドイツ人やフランス人やロシア人との比較を交えながら、主にアメリカ人との対比の中で展開される。こうした比較分析の難しいところは、観察者が観察される側を見下ろしていると誤解されるところであろう。相対的な関係からは、文化の優劣が強調される感がある。こうしたわけで、ベネディクトへの批判が少なからずあるのも理解できる。鋭い指摘も多いが、事実誤認という欠点も見られるのは仕方があるまい。C・ダグラス・スミスによると、アメリカ人が大人であるのに対して、日本人は子供で成長過程にあると解釈しているという。日本の評論家にも似たような発言をする人がいるが、それは少々浅はかであろう。本書には、アメリカ人の自国民中心主義と、それを他国に押し付ける有難迷惑な態度を批判する様子もうかがえる。日本を命令によって自由で民主主義的に創造することは、アメリカの手には余ると述べている。そして、フランスのド・トクヴィルの言葉を紹介している。
「アメリカはさまざまな長所があるにもかかわらず、真の風格を欠いている。」
トクヴィルによると、アメリカ人よりも日本人の価値観の方が納得できるかもしれないと語っているそうな。法の力を借りたところで慣習として根付かなければ意味をなさない。ベネディクトはそれを理解しているように思える。人間が自らを客観的に評価することは難しい。身近過ぎて見えないものも多くある。日本文化に見られる行動様式を外国人の目で見た考察は、重要な手掛かりを与えてくれるだろう。そして、比較の中で相対的に語ることの難しさを改めて感じさせてくれる。なるほど、日米両国でロングセラーを続けているのもうなずけるわけだ。ちなみに、アメリカでは、ベネディクトの主著は「文化の型」と見なされているらしい。
ところで、「菊と刀」というタイトルに込められる意味とは何か?当初、菊の花に自然の美を求める心と、刀には好戦的な性格を表している印象を持っていた。時折、欧米人が口にする日本人の二重人格性である。だが、読み続けていくと、そう簡単には片付けられないように思えてくる。「菊」の美しさには、名誉や恥や自制心が象徴され、「刀」には、輝きを放つ武士の義務を全うする強い意志が現れる。本書は、日本人の自己責任の解釈は徹底的で、アメリカ人には遠く及ばないと語っている。したがって、「菊」と「刀」を対立関係として見るのではなく、なんら矛盾しない関係に映る。また、日本人の文化的倫理観は、アメリカよりもヨーロッパに類似したところがあるように思えてくる。本書も、日本人の価値観をドイツ人の名誉やスペイン人の勇気、あるいはナポレオン軍の誇りと重ねて論じている。ただ、最も性格の反するアメリカによって占領政策がなされたのも、歴史の皮肉というものか。確かに、本書には欠点も目立つ。だが、戦争相手の研究という意味では、アメリカは最低限の情報収集に取り組んだとも言えよう。対して当時の日本政府が、戦争相手の文化をどこまで研究していたのかは疑問である。日本には情報を疎かにする伝統がある。既に情報戦で負けていた証とも言えよう。
日本では、太平洋戦争を軍部の暴走と解釈する人が多いだろう。だが、そう簡単には片付けられないような気がする。軍部を含めた政治家たちが、アメリカの工業力に勝てると真面目に考えていたのか?当時の政治家はそれほど馬鹿だったのか?ポーツマス条約や海軍軍縮条約といった不公平条約への不満も見逃せない。敗戦を覚悟して国の威信を賭けたとも言えよう。また、国民感情が教育を含めて扇動されたのも事実であろう。平和論を唱えようものなら国賊と罵られる時代である。明治維新から急激な近代化にともない、天皇を中心とした神の国というスローガンの元に絶対に戦争に負けないと洗脳された。となれば、徹底的な敗北を喫するまで戦争を続ける運命を背負わされたのかもしれない、などと発言すると批難もされようが、酔っ払いにはそう思えてならない。そもそも、自国を神の国と崇める時点で、他国を蔑んでいる。現代風に言えば、アメリカが自らの理念の崇高さに酔いしれて強大な軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認し、国連を無視するといったところだろうか。しかも、その軍事行動は世論操作によって扇動され、おまけに、それを無条件で支持する無責任な国が取り巻く。こうしてみると政治手法は、現在も昔も大して変わっていないように映る。
欧米人は、イデオロギーの鞍替えや思想の転換を見ると、その人の人格の変化を再評価するという。まさしく、日本は太平洋戦争の敵国に対して、占領下では友好的な態度に変貌した。民族滅亡に瀕するまで戦い抜くという意志は、天皇の終戦宣言であっさりと方向転換してしまう。そこには西洋式レジスタンスのような態度は現れない。これにはアメリカも驚いたであろう。本書は、こうした一変した態度のできる国民の文化的倫理観を考察する上で、宗教的考察はもちろん、子育ての方法といった慣習にまで踏み込む。表面的には仏教国だが、その中身は仏教的でも儒教的でもない。煩悩を遠ざける一方で、五感の愉悦を楽しむ享楽の解放がある。極東に位置する日本は、あらゆる宗教を最も冷静な目で眺めることができると解釈することもできよう。無宗教と批難されることもあるが、これはむしろ良いことではないだろうか。無宗教でも信仰がないわけではない。一定の信仰に凝り固まらず、柔軟に思考が変えられる特長がある。悪く言えば優柔不断でもある。政治家の言葉はころころと変わり、もはや威厳も保てないでいる。
日本人は子育ての段階から、周囲の目を意識するように教育される。そこには、泣き虫がよその子と比較されて説教されるといった恥じらいの様子が再現される。そして、世間体を意識する風潮が、嘲笑われたり仲間外れにされることを極端に嫌うと分析している。こうした土壌は陰湿ないじめを助長するのかもしれない。
その一方で、日本には武士道精神に代表される義理、恩、礼節、誇りといった倫理観がある。これは武士階級に限ったことではなく、全ての階級に渡って恩返しのできない人間は非人格者と見なされ、社会から軽蔑される風習がある。世界的に見ても「義理」ほど稀な道徳観はないという。日本人は秩序と階層的な上下関係に信頼を置くが、アメリカ人は自由と平等に信頼を置く。自己犠牲を強いてまで組織の維持あるいは一員になろうと努力する姿は、自由を信奉するアメリカ人にとっては理解に苦しむだろう。
戦後の日本の方針転換は、なにも人格が変わったわけではない。その国民気質は、良く言えばバランス感覚、悪く言えば多重人格性のようにも映るだろう。そもそも、人間を雁字搦めにする宗教的な規律を必要としない。本書は、日本の強みは失敗した事実を一蹴して方針転換できる気質にあると語る。そして、世界の尊敬を得ようとする国民性があり、感情を押し殺し、欲求を戒め、不文律の求める自己規律を受け入れる能力があるという。また、義理と人情、忠と孝、義理と義務の板挟み、日本人はこの徳目と徳目の板挟みの中で生きていると指摘している。こうした性格は、良きにも悪しきにも受け継がれているのだろう。まさしく、現在の官僚政治がこの呪縛に嵌る。仕事仲間の義理を貫き、国民への正義を犠牲にする。賛同しない者を不誠実と蔑み、自らの斡旋を中立独立と叫ぶ。正義にかられて偽証できない者に自重しろと圧力をかけ、明らかに一般社会とは違った価値観の中で議論が繰り返される。彼らの論理は、日本人の慣習の悪しき解釈だけを大事に継承しているかのように映る。
本書は、日本の家庭が家族を社会から守る砦になっていないと指摘している。それだけに、競争の原理が働くと日本人は無防備に曝されるという。日本では、競争の原理が合理性となる可能性が低いだろうと。自由を崇めると自由競争が激化する。アメリカ社会は、まさしくその自由競争主義によって支配される。その結果、何が生じたか?未曾有の金融危機は何を意味するのか?本当の意味での合理性とは何か?一部の階級層に国民の資産が集中する社会が合理性に基づいているとは到底思えない。自由とはやっかいなもので、自己管理や自制のきかない社会では合理性を発揮できない。国民の慣習の違いによっても合理的手段が違ってくるだろう。経済危機に陥っても、他国の実施する政策の意味を理解せずに、真似するだけでは効果は望めない。日本には、皆がやることに追従していないと不安にかられる風潮があり、組織依存度も異常に高い。自己責任と叫びながら、組織の指示を仰がないと動けない。こうした気質は、あらゆる組織において官僚体質を強固にする。そうした反省を踏まえて、本書は現在にこそ存在意義があるように思える。
1. 民族分析としての社会学
多くの東洋人と違って日本人は文章を綴って自らを曝け出す衝動があるという。その文章も、恐るべき率直であると評している。伝統的に日本文学は欧米でも評価が高いようだ。社会学で民族を分析する時、重要なことは一定の冷徹さと寛容さが必要だという。つまり、善意の人々からの批難を浴びるような冷徹さと、同じ人間であるという寛容さの両面である。人間には、固有の理念と共通の理念が共存する。ただ、イデオロギーってやつは、振り子がどちらかに思いっきり振れないと気がすまないようだ。日本人やアメリカ人といった枠組みだけで、画一的な世界を想像することは無理であろう。よく日本人の意識が欧米意識と違っていると慌てふためく評論家を見かけるが、欧米意識だって一つであるはずがない。社会学者や心理学者は意見と行動を統計的に捉える傾向があり、経済学者はもっぱら分布図に気を取られる。アンケートや世論調査には、ある程度の傾向が現れるだろうが、それが絶対ではない。微妙な質問の仕方によっては方向性も変わるだろう。政治手法はもっぱらプロパガンダ手法に頼る。国民性を分析すれば有効な宣伝文句も発明できる。そして、歴史の解釈も巧みに国家間の政治戦略として使われる。人間社会とはおもしろいもので、「民族の誇り」を掲げた独裁者が異民族を迫害する一方で、「世界は一つ」と提唱する平和主義者が固有の民族意識を無視して平均化した価値観を押し付ける。
2. 占領政策と天皇
占領政策において天皇の処分をどうするかは、頭を悩ませたであろう。憲法上、天皇が直接支配していたわけではない。だが、統帥権が微妙な位置付けにある。外務省に交渉権があるといっても、はるかに軍部の権限の方が強い。天皇と政府の二重構造は、その源泉を鎌倉時代から南北朝時代あたりの中世日本に遡って考察がなされる。それも当然であるが、この二重構造体制をまともに説明できる人は少ないだろう。天皇に対する尊敬の念は、ヒトラーへの崇拝と同列にはできない。ドイツ人がヒトラーを戦争責任者として扱うのに対して、当時の日本人にとっては天皇と戦争は別次元にある。天皇を神と崇めたところでキリスト教的な神とは意味合いがまったく違う。だから、天皇の人間宣言をあっさりと承諾できたのだろう。当時、天皇が戦争を続行しろと命令すれば、民族が亡びるまで抵抗を続けたかもしれない。だが、天皇が敗戦を受け入れれば、国民があっさりと受け入れる脆さもある。となれば、アメリカの軍事戦略は天皇が戦争を止めると発言するように仕向ければいいはず。ただ、それではアメリカの世論が納得しないだろう。アメリカが、天皇に戦争責任を追及しなかったのは、日本文化を研究していた成果とも言えよう。結局、総合的な戦略研究や分析がなされた国や組織が、最終的に競争に勝利するということであろうか。
徳川幕府末期、世界の列強国に対抗するために国家の団結が迫られていた。幕府の攘夷派も倒幕派も、この点では一致している。宗教で団結できない日本は何か拠り所にする象徴が必要となる。天皇制の下での国家体制を築いた明治維新当時の政治家たちの眼力は鋭い。大日本帝国憲法が天皇の神聖不可侵を定めている点は注目すべきであろう。
中世日本において、律令制が天命思想を前提としているのに対して、日本では独特の解釈がなされた。天皇は律令制の皇帝としての役割と神聖な王としての役割がある。中国との交易を継続するために、象徴的な天皇家を絶やすことができなかったと考える歴史家もいる。中国の制度を取り入れて失敗したものに、後醍醐天皇の「建武の新政」がある。中国式の官僚制は日本の封建社会には馴染まなかった。ところで、現在では、日本古来の封建制から受け継がれた世襲制に加えて、古代中国式官僚制が蔓延り、それが欧州風議会政治の元で運営されるところに訳の分からんシステムがある。日本人は、何もかもミックスして新しい風潮を生み出す性質があると言われるが、それで硬直化してしまっては頭が痛い。これも世界で類を見ない日本独特の政治体制というわけか。
3. 戦時中の慣習
一般的に死傷者と投降者の比率には一定の規則があると言われる。これが当時の日本人に当てはまらないことは想像に易い。学業優秀な若者達が、自らの思考を放棄して宗教的に洗脳されたわけではない。民衆を含めた集団自決などは軍の強制も多少は影響しただろうが、もともと集団意識に個人犠牲という国民性がある。こうした行動を欧米人には理解できないだろう。どの国も戦争を正当化する。どこの国にも言い分があるから戦争状態となる。日本が、侵略国に倫理観を押し付けたのも確かであろう。愛国心とは実に微妙な位置にある。自己愛が強すぎると他人を認めないことにもなる。「大東亜共栄圏」という言葉を用いなければ、果たして日本の世論を動かせただろうか?欧米では、日本人の過度の精神主義は、貧しさからくる言い訳、あるいは、欺かれた感情の幼稚さと解釈する風潮があったという。古くから日本には質素で勤勉を美徳とする文化があり、これに精神論が加われば煽りやすくもなろう。
また、病気に対する心情にも文化的違いが現れるという。アメリカ人ほど医者に頼る習慣があるのも珍しいのだそうな。アメリカでは、病人に対する思いやりが、恵まれない人に対する救済措置よりも優先されるという。こうした傾向は元ブッシュ政権に代表されるだろう。日本兵の中に異常な精神主義が蔓延っていたのは否定しない。負傷者が手榴弾などで自決する姿も現れる。これを同胞に対する残虐行為と解釈する欧米人も少なくないが、これには抵抗を感じる。足手まといになりたくないという責任の表れでもあるから。日本兵には降伏の恥があった。その立場は家族にも及び、面目を失うと社会的な負い目がある。したがって、アメリカ人捕虜を恥知らずと軽蔑する。ところが、その慣習も徐々に崩れていったという。アメリカ人に対する疑念を忘れ、日本人捕虜の中には誠意ある者も現れ情報収集が円滑になったという。このような豹変振りは、欧米人には理解しがたいものがあるようだ。軍部に騙されていたという意識があったのかもしれない。人間は、信じていたことと逆のことが真実だと知ると簡単に意識改革できるということか。
4. 汚名をそそぐ
日本が日露戦争で勝利した時の写真を見ても、どちらが戦勝国なのか区別がつかないという。ロシア軍人は武器を剥奪されていない。乃木将軍とステッセル将軍は握手して、ともに勇敢さを称えたと伝えられる。そうした武士道とも言える礼儀を持ちながら、日露戦争から太平洋戦争までに日本人は豹変したと言われる。しかし、これは何も矛盾したことではないと指摘している。太平洋戦争では「鬼畜米英」と叫んで猛烈な反米思想を唱えた。こうした例は日露戦争や日中戦争には現れないという。これは、ポーツマス条約と海軍軍縮条約に果たしたアメリカの役割に恨みをもったことからきていると分析している。日本人の倫理観には、汚名をそそぐという概念が根強くあったのかもしれない。その例を「忠臣蔵」を持ち出して、お家断絶の不名誉を被った復讐と公儀への抵抗で分析している。討ち入りを眺めれば、奇襲攻撃と重ねることもできよう。だが、アメリカ人には卑劣な行為としか見えない。そして、普段礼儀正しい日本人が、一旦不名誉を被った相手には、手段を選ばす攻撃的になる性格があると指摘している。仇討ちを成し遂げた武士が華やかに切腹した一方で、影では家族や親戚は辛い運命を背負わされる。名誉のためならば家族の犠牲も惜しまないという習慣は伝統的にあったのかもしれない。借りを返すといった意識は日本人は強いということか?こうした倫理観を真珠湾攻撃と結び付けている。
5. 応分の場
日独伊三国同盟の前文には、次のような一節があるという。
「日独伊三国の政府は、政界各国に応分の場が与えられることこそ恒久平和の前提条件であると考える。」
また、真珠湾攻撃に際しても、ハル国務長官宛ての文書には、次のような一節があるという。
「各国が世界の中で応分の場を得られるように取り計らうことは、日本政府の不変の方針である。」
ここには「応分の場」を与えられなかった日本人の憤慨する性格が現れていると分析している。ただ、それは欧米と同等の権利を要求しただけのことで、現代ではアメリカ人の持つアメリカ中心主義の方が強烈である。また、階級制を基盤とした民主主義が日本流であって、欧米流のイデオロギーを基盤とした解釈は通用しないと指摘している。階級制と言っても、あからさまに階級差別があるわけではない。それは「応分の場」という概念であって、身の程をわきまえるといった感覚だという。日本人には敬語や謙譲語を相手によって使い分ける習慣がある。性別や世代、家族や組織の上下関係に道徳律がある。これを階級制と表現するところに少々違和感がある。また、大東亜共栄圏の、日本は兄で他国は弟であるとした思想を、長子相続制度と重ねている。
6. 戦後の政策
戦後、明らかにドイツやイタリアと違った政策をとった。それも日本の官僚機構を活用している。占領政策では、日本流の民主主義を土台にした方が、国民の自由を拡大しながら福祉を確立するのに都合がよいということだろうか。現在では、戦後政策が官僚体制を強固にしたと批判する評論家も少なくない。日本社会では、階層的秩序によって高い地位を占めた人間が傲慢な態度を顕にして、自らの恣意で権力を行使することはないという。最高責任者が実権をふるうのではなく、顧問団や黒幕が舞台裏で暗躍するというのだ。なるほど、一昔前まで総理大臣は黒幕に操られていた。各国代表は黒幕と直接交渉する動きがあった。今もか?その一方で、権力を行使する黒幕が明るみになると、世論から厳しい目が向けられる。私利私欲の追及に走る高利貸しや成金といった利益主義は顰蹙を買う。また、詐取や不公正に対して厳しい反応を示す。だが、そうした場合でも決して革命家と化すことはないという。西洋の論者は、日本人の大衆にイデオロギー的な大衆運動を期待したという。戦時中は日本の地下組織を過大評価して、降伏時に主導権が移るのを期待し、終戦後の選挙で急進的な勢力が勝利するだろうと予言したという。しかし、「応分の場」をわきまえた国民からは西洋的な革命運動は起こらないと指摘している。なるほど、社会保険庁の問題などは暴動が起こっても不思議ではない。日本人の感覚も西洋化が進んだので、今後、暴動が起こる可能性は否定できないだろう。ただ、高齢化が進むと性格が温和になって、意識は相殺されるかもしれないが。
7. 自己鍛錬
文化における自己鍛錬の方法は民族の特徴を表すもので、外国人にはとかく愚行に思えるものである。昔の日本は、自己鍛錬の場が日常生活に浸透していた。精神修行の根底には自制心や克己心がある。これは大和魂といったところだろうか。伝統的に個人的欲求を犠牲にすることに美徳を求めるところがある。ただ、アメリカ人には自虐に映るだけだろう。妻は夫のために人生を犠牲にし、夫は一家のために自由を捨てる。本人はそれを犠牲とは思わない。アメリカ人にだって、子供に対する愛情は無条件にあり、家庭の幸せを願うはず。ただ、日本の倫理観は、その枠組みが大きな組織にまで広がる。雑念を取り払い、ひたすら物事の本質を見極めるために鍛錬する。現在においても、仕事で努力するのはその能力を伸ばそうとするだけではなく、人生の本質を見極めるためと考える人も少なくないだろう。柔道を学ぶのは、強くなりたいという願望だけではない。柔道から人間の本質を学ぼうとする。達人や匠の世界には、そうした別次元に達する何かがあるように思える。こうした意識は、キリスト教でいう予定説にも通ずるものを感じる。与えられた職業は神によって運命付けられ、それを全うしようとする。人間に神の定めたものを知る術はない。したがって、ひたすら勤勉に励むしかない。神の信仰から悟りのような境地を求めるといった感性にも似ているような。
2009-11-01
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