2010-11-07

"哲学原理" René Descartes 著

本書に登場する「運動量保存の法則」は、現代科学の感覚からすると簡潔過ぎるきらいがある。幾何学至上主義に陥りやすい時代ではあったのだろう。科学的知識から精神的意義を求めようとした挙句、一般的な自然科学からやや離れていく気もしなくはない。それでも、その延長上にニュートン力学や相対性理論の影を感じる。デカルト座標は、義務教育ですら当たり前のように使われるが、デカルトという名前で馴染んでいないのはなんとも惜しい。デカルト哲学と言えば、「我思う、故に我あり」という言葉が象徴するように形而上学的な狭義の哲学を意味するのであろう。本書にもその路線がはっきりと見える。しかし、ここでは数学的原理が語られる。もっとも、数学は哲学だと思っているので、まったく違和感はない。
「私は自然学においては、幾何学もしくは抽象数学におけるとは違った原理を、容認もしないし、望ましいとも思わない。なぜならば、かようにしてすべての自然現象は説明されるし、それについて確かな論証を与えることができるから。」

当初、デカルトの体系構想は、次のようなものだったという。
  • 第一部、人間認識の諸原理について
  • 第二部、物質的事物の諸原理について
  • 第三部、可視的世界について
  • 第四部、地球について
  • 第五部、動物および植物の本性について
  • 第六部、人間の本性について
しかし、実際に書かれたのは第四部までで止まっているそうな。本書はそのうちの第二部までが記される。
第一部では、形而上学的思想が語られ、これは伝統的な哲学に属する部分である。その思想は、デカルトの著書「省察」とほぼ同じ内容だそうな。思考プロセスを辿りたければ「省察」の方がお勧めらしいが、形の整ったものとなると本書の第一部になるらしい。
第二部では、物体の運動法則を中心に自然学が語られる。
また、序文には「エリザベート公女殿下にささぐ」と題して献辞が付せられる。デカルトが王女と文通をしていた証拠が残るのは、歴史的に貴重なものだそうな。

「まず最もふつうのことから始めて、哲学とは何であるかを説きたかったのです。」
哲学とは知恵の探求を意味し、それは処世の知恵ばかりではなく、日常生活や健康に対する思慮から技術革新に至るまで、人間の知りうるすべての知識を意味する。そして、あらゆる知恵の原因性を導き出すことが、最終的に善の正体を知ることとしている。また、知恵は段階的に得られるものであって、神的啓示のように一挙に信仰によって高められるものではないと指摘している。
そこには、キリスト教的で予定説的な影響を受けながら、客観的思考を加えながら、宇宙論的思想を構築していく様子がうかがえる。偉大な数学者が、若き日に数学だけが真理を与える信じながら、独自の神学を構築した例は珍しくない。デカルトにとって、哲学とは科学をも含めた総合的な学問だったのだろう。哲学は自然の一切を対象とし、人間精神もまた自然現象の一つである。哲学的宇宙論とは、神学と科学の融合と解することもできよう。あらゆる原因性を探求することこそ「哲学する」ということであろうか。したがって、哲学的思考のない学問なんてありえないように思える。ただし、不毛な議論となることを覚悟せねばなるまいが...

プラトンは、師ソクラテスに素直に従い、自分では何も見出すことができなかいことを認めた。そして、真理らしく見えるものを語り、若干の原理を想定するに留めた。一方、アリストテレスは、師プラトンとは違った原理にすがり、師匠ですら見えない真実を確実なものとして提示した。未だ哲学原理が真理を確実なものにできない以上、どちらにも欠点があるのは仕方がない。ただ、哲学論争は、熱を帯びるほど真理から遠ざかる傾向にある。よって、どんなに偉大な哲学者の主張であれ、盲目的に従うわけにはいかない。尊敬と崇拝の境界線も実に微妙で、人物や思想を絶対的に崇めた時、宗教的思考に陥る。完全に納得できる原理的体系を、精神のうちに構築することは不可能であろう。
したがって、信頼とは、完全に信仰して思考停止状態に陥ることではないのだろう。信頼とは、欠点を認めながら受け入れるということであろうか。こうしてみると信頼という言葉の意味でさえ、分かっていないことに気づかされる。自分の思想に疑いを持つことは勇気のいることであるが、それが知性の源泉であろうか。何事もちょっと疑うぐらいがちょうどいい。恋愛もちょっと嫉妬するぐらいでちょうどいい。
尚、下記はデカルトが意図したことかは知らん!泥酔者の思考が発散した結果なのだから...

1. 「エリザベート公女殿下にささぐ」
エリザベートとは、ファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女エリザベート・フォン・ベーメンのことのようだ。彼女は24歳の頃からデカルトの教えを受けたという。デカルトは、自らを「殿下の最も献身的な崇拝者」として書簡している。
知恵には、知性の認識と意志の傾動の二事が必要であると説く。ただ、誰にでも意志はあろうが、知性には個人差がある。知識を得たからといって、正しい知性へ導くとは限らない。誤謬に陥れば、むしろ有害となろう。本書は、ほとんどの人々が、形而上学に拘われば幾何学的なことを恐れ、逆に幾何学を研究すれば哲学を理解しないのが常であると指摘している。
「明敏な頭脳と、真理認識の最高の配慮とを、兼ね具えた者こそ、遥かに優秀な人々なのであります。」

2. 哲学原理
「神なるものがあること、それはこの世界に存ずる一切のものは創造者であり、あらゆる真理の源泉であるから、我々の知性が、その極めて明晰判明な認識を持つことについて下した判断において、間違いをするような性質には、決して造らなかったということです。」
すべての実体が、物体的で自然学的に運動しながら存在するということ、これが哲学原理の基本的な考えである。そして、あらゆる知的事実は、感覚的知覚に支えられるというわけか。しかし、神を見たり触れたりすることはできず、その実体は精神の内、つまりは認識の中にしかない。
哲学的思考を高めるためには、論理学の研究も怠ることはできない。だが、それはスコラ学のようなものではないという。スコラ学の論理は、既に知っていることを他人に理解させたり、知らないことですら言葉巧みに語る手段を教える論弁術に過ぎないと蔑む。精神の論理性は、しばしば慣習に左右される。純粋な客観性を求めるならば、その訓練は数学的思考を重ねることになろう。
「真理を探究するには、生涯に一度すべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。」
日常では、ほとんどが感覚的判断に委ねられる。すべての物事をいちいち疑っていては判断が遅れて実践的ではない。そのために、多くの先入観に囚われることになる。
ところで、数学的証明を疑うことができるだろうか?今まで自明であった、あるいは自明であると信じてきた原理を、見直す必要があるのか?という疑問はある。だが、トポロジーはユークリッドの第五公準への疑いから始まったと言えよう。自由意志の源泉とは、まさしく疑問を持つという思考にあるのかもしれない。

3. 実存論
「我々は疑っているとき、自ら存在していることを疑うことはできない。」
思惟する精神が存在するからこそ、物体的存在を認識できるわけで、もはや精神の実存は自明というわけか。確かに、物事を認識できるからには、自己の存在を前提しないと説明できない。
しかし、だ!自らの存在を疑ってみることも肝要であろう。思惟する精神の存在を疑うように思惟するとは自己矛盾に陥りそうだが、その自己矛盾にこそ宇宙原理があるのではないだろうか。自己矛盾に陥りながら、美味い酒を飲んで心地よくなる。これこそ「哲学する」ことだと思っている。したがって、自己の存在に疑いを持つことに何の恐れがあろうか。
本書が言うように、精神の内に実存認識が根底にあるのは認めよう。そして、存在する空間をイメージしながら、時間という一方向性の中を精神がうごめいているような気がする。しかし、その存在認識ですら現実なにか夢想なのか、はっきりとせずさまようのが精神の得体の知れないところである。実存を過信し自己の存在感を強調するから、それが革新的精神の妨げであっても、既得権益に固執し権威を誇示するような振る舞いが生じる。神の存在を過信するから、宗教的信仰に欺かれる。
また、実存認識の前提として神の必然性が語られるわけだが、デカルトの言う神とは、けして人間の知りうるものではなく、人間の発明した宗教から導き出せるものではないということであろうか?つまり、宇宙は必然的に存在するわけで、人間の信仰などには一切かかわりのないもの。そのように勝手に解釈するならばなんとなく理解できる。神のような存在があると仮定して、それは矛盾の概念すら凌駕するような最高完全者、いや、完全性と不完全性でさえ抽象化してしまうような絶対的な寛容さがなければ、宇宙の創造主の存在は説明できないだろう。完全性や不完全性、あるいは矛盾や論理性などという概念は、人間が勝手に認識しているだけなのかもしれない。
となれば、神の存在に対して、人間の存在は受動的あるいは消極的に受け入れるしかできないはず。しかし、人間社会は、能動的あるいは積極的な活動に高い評価を与える。そして、政治屋や報道屋は余計な行動に明け暮れる。ただ、あらゆる事象に疑いを持つという行為も、精神の積極的活動である。
「神によって啓示されることは、たとい我々の理解を超えていても、すべて信ずるべきである。」
そりゃそうだろう。だが、神が啓示することって、どうやって認識できるんだ?例えば、「三角形の内角の和は二直角である」といった数学的公理のようなものか?だとすると、神の啓示するものは、自然数学からしか得られないだろう。
本書は、三位一体の秘儀をこの種のものだと述べているあたりに、宗教的思考の入り込む隙を与えているように映る。神は欺瞞者ではなく誠実な存在者であるというが、誠実という人間の価値観で測れるものなのか?科学がいくら自然現象を解明しようとも、結果論を説明したに過ぎず、すべては神の思し召しなのかもしれないが。...結局、知的生命体には、永遠に知性の探求を課せられたということであろうか...

4. 物理的存在と空間認識
「物体の本性は、重さ、堅さ、色等のうちにではなく、ただ延長のうちに成り立つ。」
物体認識では、重さや堅さといった属性によって刺激を受けるのではなく、長さや幅や深さの拡がりによって刺激されるという。本書は、物体を認識する本質的感覚を「物体を構成する延長」という言葉で表現している。延長とは、空間的延長であって、離れたところから観察して得られる感覚的認識といったところであろうか?確かに、物体に直接触れなくても、その質感や運動を眺めることによって存在が認識できる。そして、空間の中における相対的な位置関係を認識している。人間が認識できるのは相対的運動であって、絶対的運動なるものを計測することはできない。絶対的静止というものの正体すら知らないのだから。
あらゆる物体認識には、空間認識が前提にある。空間とは、自己を中心とした空間である。その空間も、仮想空間といった想像を働かすことができるので、すべての空間が空虚という可能性もないとは言えない。精神とは、空間的な存在であって、そこに実存するかもしれないという錯覚から生じるのかもしれない。
では、精神の内に空間的イメージが無くなれば、はたして精神の居場所を認識することができるのだろうか?空虚と無を感じることができる人は、精神病をも恐れない勇気の持ち主なのかもしれない。精神病とは、時間の連続性が失われた現象だという話を聞いたことがあるが、空間感覚も空虚や無を直接感じることができるのかもしれない。ただ、絶対的な認識は、空虚や無を感じられなければ獲得できないような気がする。精神病とは、精神の進化する過程なのか?

5. 運動量保存の法則
「神は運動の第一原因であり、そして宇宙のうちに常に同じ運動の量を維持する。」
本書は、どんな複雑な運動もすべて神の前の完全性で説明できると主張し、運動法則を神の不変性にまで崇めている。運動とは、時間の関与があって成立する概念であろう。一般的には、運動はある物体がある場所から他の場所へ移動する働きであると定義される。運動が始まるには作用が必要である。その作用の根源とは何か?物体を押せば動く。その押す力は外部要因である。その外部要因を与える力もまた、どこかの別の外部要因である。そして、そのまた外部要因も...などと考えを巡らすと眠れなくなる。
物体への働きかけ、つまりは抵抗力の根源とは何か?静止している物体が静止を維持しようとして、抵抗力が発生するのは容易に想像できる。では、運動している物体の抵抗力の根源とは何か?そもそも、静止を基準に考えるからおかしなことになるのかもしれない。あるいは、静止状態も運動状態の一種と考えるべきなのかも、いや、静止している物体なんて存在しないのかも。などと考えれば、運動の不変性は神の仕業としか説明ができないのかもしれない。
ところで、すべての物体の運動エネルギーの総和は、宇宙創生時の総エネルギーで説明できるのだろうか?物体の運動は、単純な慣性力の重なり合いとして、ある程度は説明できるだろう。となれば、人間社会における複雑な運動を、基本運動の重なりとして完全に説明できると考えるのも不思議ではない。ただ、人間社会における運動は、しばしば政治や経済の暴走という形で現れるから厄介である。人間社会では、相対的な静止ですら維持しようとする努力は半端ではない。振動は永遠だが、静止は永遠ではないのか?静止は特異点なのか?だとすると、安定した社会を構築するためには、心地よい振動が必要ということになる。なるほど、酔っ払った時の体の揺れには心地よいものがある。自己中心説を唱えるならば、すべての物体が静止しているつもりだ!などと皆が主張して騒がしいことになりそうだ。それで酔っ払いほど、自分は酔っていないと言い張るわけか。

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