2010-11-21

"モナドロジー, 形而上学叙説" ゴットフリート・ライプニッツ 著

前回、前々回とデカルトを記事にしたので、その批判的立場にあったライプニッツにも触れてみたい。
数学者ライプニッツといえば、ニュートンと微積分の功績を争ったことで有名であるが、デカルトの運動量保存則の批判者としても知られる。とはいえ、デカルトと同じように自然学的立場にあったのは間違いないだろう。双方とも精神構造を機械的に説明しようしたが、自己矛盾に陥ることは避けられず、ついには神の存在を前提することになる。それは、矛盾と無矛盾、完全性と不完全性、善悪の規範といったあらゆるものを抽象化してしまうほどの絶対的な存在の必要性に到達したかのように...若き日に哲学や倫理学を蔑み、数学だけが真理を与えるとしながら、結局哲学へ帰依していった偉大な数学者は珍しくない。純粋な真理を探究すれば、純粋な精神を探求せずにはいられなくなるのだろう。道徳家や宗教家が語る神は、なんとなく胡散臭く、こそばゆいが、なぜか?科学者や数学者が語る神は素直に耳を傾けられる。信じるかどうかは別だけど...主観性の強い権威的な神に対して、客観性の強い自然的な神と言ったところだろうか。自然学的な絶対神は、なんとなくその存在を意識しても、人間の認識能力を超越した宇宙論的存在にならざるを得ない。少なくとも、神を擬人化する行為や、祈りを捧げることによって運命を変えられるなどと信じる行為ほど神を冒涜するものはないだろう。

本書には、「モナドロジー」「形而上学叙説」の二作品が収録される。スピノザが世俗的な生活を嫌い禁欲的で孤独な書斎裡として生きたのに対して、ライプニッツは実践的な世間活動に生きた。実践的という意味で、彼の著作のほとんどは未完結な「機会の書」であるという。その中でも、この二作品は体系的な部類になるようだ。
「モナドロジー」は、死の二年前の著作で、ライプニッツの遺書とも言うべきものである。それが、アリストテレスに影響されたことは疑うべきもない。実存的要素の概念では、単純素朴な物理的な原子にあるのではなく、形而上学的な「モナド」にあるとしている。ちなみに、「モナド」は、ギリシア語の「モナス」に由来し、究極的不可分の「一」を意味する。それは、あらゆる実体を形成する単純な素要素とでも言おうか...
幾何学的座標で表される「点」は、客観的に「一」という素要素として存在するが、あくまでも抽象的な観念論であって実在的ではない。対して、精神が表現と表出を形成するのは、モナドが過去、現在、未来、あるいは無限を表象しうるものとして存在するからだという。そして、精神は、単に存在するものとしての実体ではなく、作用を本性とする主体であるとしている。
ライプニッツは、お気に入りの言葉をプラトンの著書「パイドン」から紹介してくれる。
「叡知的な存在はあらゆる事物の原因であって、それが事物を適当に配置し、またその価値をたかめたのである。」
これは、唯物論的哲学者を批判する時に、ソクラテスの言葉として用いている。

ライプニッツの時代は、三十年戦争の余韻が残り、カトリックとプロテスタントが分裂したままで、物質的にも精神的にも荒廃していた。この時代のドイツは悲惨で、人口を三分の一にまで減らしたと言われるほどに。政治団体には、あらゆる悪徳と癒着が蔓延したという。政治が堕落すれば、民衆は哲学に目覚めるのだろうか?科学者や数学者であっても、神学論や政治論、あるいは国家論を語らずにはいられなかったのかもしれない。ライプニッツは、教会再統一のための政治活動にも没頭したという。挫折に終わったようだが...
文化政策にも熱心で、歴史、政治、神学、哲学、数学、技術、あるいは中国文化やモンゴル文化にまで及ぶ博学振り。彼は、あらゆる学問の普遍的統一を夢見ていたのだろうか?その多様性から均衡と調和の哲学と見ることができそうだ。思想的には、伝統的なスコラ学と自然学との対立を調和しようとする。そして、「神はいかにして人間の悟性に作用するか」あるいは「神はいかにしてわれわれの魂を強制せずして傾動させるか」といった問題と対峙する。

一般的に、宇宙の形状が球形と想像するのは、精神的真理なのかもしれない。例えば、一本の糸で端と端をつなげて空間をできるだけ大きくするには、どのように糸を描くか?と問われれば、幾何学的に示されるように円形にするだろう。等しい周囲を持つ図形で最大面積を持つのは円であるから。それを三次元空間に拡張すれば球形となる。何か得体の知れない物体があれば、なんとなく球形のような空間を想像する。精神という宇宙もなんとなく球形のような空間を思い浮かべているような気がする。楕円しているかもしれないが。こうした直観的感覚は、案外真理なのかもしれない。
一方で、真理に似たような存在で、人間が定義するものに公理や公準というものがある。公理や公準は、何事も前提しなければ証明できない根源的な概念であって、つまりは真理ということになろうか。あらゆる公理は、別の公理から証明することができても、それ自体だけで純粋に証明することはできない。三角形の内角の和が二直角に等しいというのも、別の公理を前提するから証明できる。公理が、純粋真理のような存在だとすれば、自己矛盾に陥るのは避けられないだろう。
では、真理や公理の源泉とは何か?人間の直観なのか?もっと言えば、人間の気まぐれなのか?算術は、記号や符号を定義するから実現できる。あらゆる定理は、言葉や記号を前提して、はじめて推論することができる。人間は、あらゆる事物に適合する表記法を編み出して秩序立ててきた。その意味で、宇宙の秩序には人間のご都合主義が介在してきた。一定の秩序や一定の様式に従ってさえいれば、方程式の解のように、ある決まった形で一致をみる。真理は、事実として認めるしかないのであって、人間にとってこれ以上受動的にならざるものはないはず。にもかかわらず、人間が秩序立てるという奇妙な関係がある。いったい神は人間に何をさせようというのか?何を求めようというのか?いや!神は何も求めておらず、単に気まぐれでやっていることを、真理などと崇めて神を理解しようと努力する人間どもを滑稽に眺めているだけのことかもしれん!

1. 17世紀という時代
15世紀を「学芸復興の世紀」とするならば、16世紀は「理性の世紀」と呼ばれるという。そして、17世紀はデカルト、ロック、ホッブズ、スピノザなどの偉人を排出した「天才の世紀」と呼ばれ、18世紀は「哲学者の世紀」と呼ばれるという。まぁ、世紀の呼び名は各学問の視点から様々な見解があろう。いつの世紀にも天才や偉人が出現するであろうから。ちなみに、20世紀は「殺戮の世紀」とでも呼んでやるか。21世紀は仮想化で邁進する「空虚の世紀」か?あるいは精神が荒廃する「不毛の世紀」か?
16世紀から17世紀にかけては、ルネサンスに対して、宗教改革で思想の動乱が起こったバロックの時代でもある。ちなみに、バロックとは、「いびつな真珠」を語源にし、ルネサンスの古典的調和に対して激動と氾濫を意味するそうな。
カトリック教会が普遍的地位から転落し、プロテスタント教会との対立を激化する。プロテスタントでも、ルター派とカルヴァン派が骨肉の争いを繰り返す。いずれにも属さない中立の立場の人々は無信仰とされ、これまた異宗教扱いされる。芸術の分野では、ルネサンス対バロックの構図がはっきりする。
「一人の教皇と一人の皇帝」というヨーロッパ体制が崩壊し、神聖ローマ帝国による支配力も名目的なものと化す。そして、現ヨーロッパの国家基盤となる独立した諸国民国家が成立した。
思想領域においては、スコラ学に対する自然科学的哲学が台頭し、プラトンやアリストテレスを源泉とする哲学思想は多様化を見せ、思想の分野に続々と科学者が名乗りを上げた時代とも言えよう。知識は権威や伝承から得られるとした伝統主義を打破し、人間の認識力による知性によって得られるとした。新たな思考方法では、フランシス・ベーコンが「新機関」を、デカルトが「方法序説」を発表し、続いてスピノザやライプニッツが体系化に挑む。この流れは、カントの悟性理論へと継承され、18世紀には哲学が英雄的な学問を脱し市民権を獲得することになる。

2. 数学者ライプニッツ
ライプニッツの数学者としての功績といえば、微積分の発見であろう。これがニュートンとの優先権問題を引き起こし、両者は和解することはなかったようだ。ニュートンが円の求積法から研究したのに対して、ライプニッツはパスカルの「サイクロイドに関する書簡」とデカルトの「解析幾何学」の研究から接線の問題と対峙し、その手法の独創性が証明された。微積分の発見そのものはニュートンの方が先であったが、ライプニッツの記法は優れていて現在でも受け継がれる。
また、計算機でも知られるらしい。もともと計算機はパスカルの発明であるが、加減算だけである。更に、ライプニッツは剰余と開平を可能にしたという。
彼の晩年は、学問の競争者との対立を激化し、孤独で暗いものだったという。葬送には、40年間も宮廷に尽瘁したにもかかわらず、一人の参列者もいなかったそうな。無信仰者として扱われ、プロイセン科学アカデミーですら創立者ライプニッツに対して沈黙したという。

3. モナドロジー
「モナドは自然における真のアトムである。」
アリストテレスの用語に「エンテレケイア」というのがある。これは、あるものがその可能性を完全に実現しうるものとして、その目的に到っている状態とでも言おうか。プラトンは、あらゆる性質はイデアという原型なるものから派生して存在すると考えたが、アリストテレスは、質料と形相とを存在の根源とし、それらは分離できないと考えた。
本書は、まず形を持たない質料、つまりは第一質料の段階では受動的存在であるが、第二質料の段階では能動的原理が働くとしている。この能動的原理である原始的エンテレケイアが、生命の原理として表象する力を与える。しかも不滅。これが魂というものだそうな。
魂は、広義では「生命」あるいは「生命の原理」と同じもので、単一者モナドの内に存在する内的作用の原理であるという。そして、内的作用に外的作用が応じて「単一者における複合体の表現、一における多の表現」が表象を構成するとしている。
狭義では、魂はもっと高尚な生命の一種で感覚的生命だという。この場合は、単なる表象的能力ではなく感覚能力となり、表象に注意や記憶が加わっている状態としている。これは、精神がいっそう高尚な魂であろうとするような、理性や真理の普遍性が付加された状態を言っているように映る。
生命が表象の原理となるとしても、表象がすべて知覚されるわけではない。睡眠や失神といった、まったく意識のない表象もある。あらゆる原始的エンテレケイアは、生命の原理に自然的機械が結び付くという。この機械は、有機的物体である身体として自己に属するとしている。モナドは、「形而上学的アトム」であり、部分を持たず、自然的に生じたり滅びたりするものではないという。精神を形成する根源的な要素として存在するだけでなく、あらゆる実体の要素として存在するというわけか。したがって、精神や魂はあらゆる実体に存在するもので、けして人間や動物を優越するためのものではないとしている。
「どの物体の中にも一種の感情、欲求、精神があるから、人間にだけ実体形相や精神を承認するのは馬鹿らしいことである。そしてこれは、あらゆるものが人間だけのために造られているとか、地球が宇宙の中心だとか思うのが馬鹿らしいのと同様である。」
あらゆる実体が複合体として存在する以上、なんらかの基本的な単一体が存在するのかもしれない。その森羅万象の要素なるものが、モナドということのようだ。あらゆる素粒子が宇宙創生期に誕生し自然消滅することがないように、モナドもまた神の創造物として誕生し自然消滅することはないというわけか?もし消滅するとすれば、それは宇宙の終焉と運命をともにするということか?そりゃ、魂が永遠の存在となれば、宗教家は喜ぶさ。
また、様々な原子の種類が存在するように、モナドも異なる性質を持った個として存在するという。そして、内部が他の被造物によって変質や変化を受けることはないとしている。変質や変化をともなうのは、それが複合体だからだそうな。

4. 形而上学叙説
最高かつ無限の知恵の持ち主は、形而上学的だけにとどまらず、道徳的にも完全なもの、善の規範とか完全性の規範を超越した無限の存在だという。しかし、人間には、神を自己流に歪め、妄想を仕立てあげる性質がある。人間の持つご都合主義と有難迷惑主義もまた神のお導きであろうか?神ほど意地悪な存在はない。永遠の真理は、ほんのわずか数学の領域に見せてくれるだけなのだから。神の行いがすべて善であるとしても、人間はその善を理解することすらできない。人間ができることといえば、真理を導く努力、善を導く努力を怠らないことぐらいか。
本書は、精神の幸福が神の主な目的だとしている。人間以外にも精神の持ち主がいるのかもしれないが、人間はしばしば精神の持つ動物は人間だけだと考え、人間だけが幸福になる権利があると解釈してしまう。そもそも、神の目的を語る人間って、神を冒涜していることにならないのか?
また、神の行為で、秩序に外れるようなものは何一つないという。異常現象に見えるのは特殊な秩序に照らしただけのことで、矛盾や不完全性といった気持ちの悪い現象は、人間の価値観で勝手に評価しているに過ぎないのだろう。ただ、すべての現象が神の意志だとすると、人間の悪行もまた神の意志ということにならないのか?それも、人間に悪を知らしめ、善の尊さを教えようとしているのか?
本書は、スコラ学者を批判する立場にありながら、一方でスコラ学の省察を無視してはならないと指摘している。それは、場所をわきまえて適当に用いるならば、思ったよりもしっかりしたところがあるという。実体の本性について深く考察すると、物体の属性である形、大きさ、運動といった表面的な現象に囚われる。だが、それだけでは説明ができない。人体を機械的機能から考察しても、精神や魂との結び付きを感じないわけにはいかない。
「あらかじめ定められたとおりに起こることは確実ではあるが必然的ではない。」
人間の自由が奪われ、絶対的運命に支配されているような錯覚に陥らないためには、偶然的真理と必然的真理を区別して認識する必要があると指摘している。

5. 運動量保存則への批判
デカルトは、運動量と運動力を同一視するが、ライプニッツは運動力は保存されるが、運動量とは同一でないことを論証する。つまり、デカルトの誤謬は運動量と力を同一視したことにあると指摘している。
ここで持ちだされる物理現象の例はおもしろい。要約するとこんな感じだろうか。
...
物体Aが高さDから落下した場合と、物体Aの4倍の質量の物体Bが高さ1/4Dから落下した場合を考えると、力においては、同じ結果が得られるのは明らかである。
では、運動量においてはどうか?落下速度は加速度運動をするので、物体Aの速度は物体Bの速度の2倍しか得られない。運動量は、質量 x 速度で得られるので、物体Aの質量を1とすると、物体Aの運動量は、1 x 2 = 2 となり、物体Bの運動量は、4 x 1 = 4 となるので、2倍の違いが生じる。したがって、運動量と力には大きな違いが生じる。
...

デカルトは運動の保存量が速さや時間に比例すると考えたが、ライプニッツは保存量を活力とし距離に比例すると考えたようだ。運動量保存則に対して、力学保存則、あるいはエネルギー保存則のようにも見える。デカルトは、物体から自発的運動能力を排除し、精神と物体を峻別した。対してライプニッツは、実体の本性を力に求め、精神的被造物と物体的被造物の統一性を示す。したがって、物体的実体も、なんらかの精神的で能動的作用があると捉えたのであろう。確かに、人間の行動の可能性には、物理的可能性に精神的意欲が加わる。その性質が、しばしば偏重した精神論を持ち出す輩を育てるのだが...
「力学の一般的原理は幾何学というよりもむしろ形而上学である。」
デカルトの運動法則は、静的あるいは受動的機械において成立することを唱えたわけだが、ライプニッツは、あらゆる実体を能動的機械として考察するべきだと言っているのかもしれない。あるいは、受動的実体と能動的実体の調和を唱えているのかもしれない。いずれにせよ、両者の物体観と実体思想という世界観の違いであって、もっと言うならば宗教観の違いであろう。ニュートンと折り合いがつかなかったのも、ニュートンが宗教論争を煙たく思ったからであろうか?

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