2010-11-14

"情念論" René Descartes 著

「情念」という言葉を定義するのは難しい。感情の中でも根深く激しく、本質的な精神から生起する想念といったところであろうか。アリストテレス的でスコラ学的な伝統的教説では、情念(パトス)を悪とし、理性(ロゴス)を善としてきた。精神の原理が、根拠の薄弱さと矛盾に見舞われるため、その思想も分からなくはない。現在においても、報道屋や政治屋が曝け出す醜態を眺めれば、感情論が災いをもたらすと考える人の方が多数派であろう。感情は精神から受動的に呼び起こされるために消極的な印象を与え、知性は精神を能動的に制御しようとするために積極的な印象を与える。人間社会において、一般的に積極的な方に高い評価を与えるのは、自由意志の存在を信じている証であろうか。
一方、デカルトは、情念を精神の持つ本性と認め自然学的に善とし、感情の行き過ぎを理性的に導くことを説いている。それは、情念の動きを妨げるのではなく、存分に解放しながら、知性と結びつけて精神のバランスをとるといったところであろうか。情念の存在が実存主義的に真である以上、それを善へ導くしかない。その存在認識を、神という原因性に委ねるならば受動的にならざるをえないが、その存在を前提しない限り能動的な理性も生起しない、というのがデカルトの考えであろうか...あくまでも勝手な解釈だけど...
本書が、アリストテレスやスコラ学を批判する立場にあるのは冒頭から伝わる。人間は主観的思考の方が強いように思えるので、客観的思考を強調するぐらいでちょうどいいのだろう。どちらも人間の持つ本質であるからには、そこから逃れようがない。主観性と客観性の双方を凌駕してこそ、精神の持つ合理性へ近づくことができるであろう。本書は、善悪を判断できる理性をともなう限り、豊かな情念を持った人間にこそ、多くの喜びを享受できると主張する。しかし、人間にはどう足掻いても制御できない精神要素がある。どんなに崇高な理性をまとうことができたとしても。それが「気まぐれ」ってやつさ!

デカルトと言えば、精神と身体(物体)とを峻別した二元論の印象が強い。本書にもその傾向が現れる。前半では、身体に帰するものは精神なき物体のうちにあるもの、精神に帰するものは物体に属しえないものとしている。しかし、後半ではこれらの一元論が展開される。二元論と一元論が混在して矛盾するようにも映るが、精神を考察して矛盾に遭遇しないわけがない。前記事の「哲学原理」でも、心身の結合という問題に触れており、更に「情念論」でその一元論を深めているようだ。
まず、精神は、精神のうちに対しては受動的に働くが、身体に対しては能動的に働くとしている。情念を生物的精気の運動によって精神のうちに引き起こされる思考であるとし、外的対象に対する感覚と、身体の内的状態に対する感覚とを区別している。そして、善悪と道徳、あるいは自由意志と神の存在から、偶然性と運命性を区別しながら、情念の一般的治療法が語られる。
中でも、情念は身体の生理的現象でもあり医学的観点から、人体の構造と機能を機械論的に考察されるのは興味深い。言い換えれば、人体を、心臓の活動と血液循環で構成される一種の熱機関として捉え、精神を血流の変化による物理現象として説明している。物体が運動すればエネルギーを放出し、精神が思考すれば血流を促し蒸気として表面化するというわけだ。身体が病がちになれば、気力を失い血流も損なわれ、気力が充実すれば、胃袋の働きも活性化するだろう。精神的プレッシャーを感じれば、筋肉を収縮させ自由な運動を妨げるだろう。
「目は口ほどに物を言う」という格言があるが、それを視神経の太さと、眼には蒸気が通る小さな動脈が多数あることで説明している。情念によって多量の血液を心臓に送り多量の蒸気が眼に送られるというわけだ。また、年をとると涙もろくなると言われるが、それは老人特有の体質の冷たさによって動揺が緩慢になり、悲しみの情念が先行しなくても蒸気が冷やされ液体に変わるためだという。ほんまかいな???
これは自然科学的哲学である。そして、あらゆる感情現象は物理学で説明できそうな気がしてくる。夜の社交場で放出されるオーラのようなものも、血流運動で説明できるかもしれない。ホットな女性の周りには明らかに違った電磁場が発生する。電流が走れば、そりゃぁ...しびれるさ!

1. 受動と能動
情念が、身体の入力装置である五感によって作用する場合には受動的と言えよう。そして、その情念の影響で身体を動かす場合には能動的と言えよう。ただ、視覚対象を精神に表象するのは、単に目に映る画像情報だけで作用するのではなく、脳の中で何かが起こっている。人間は、物体を知覚する時、冷たいとか熱い、堅いとか軟らかいといった感覚を一般的に持っている。だが、怒りや喜びといった感情は実に個性があって、くだらない事に怒りを覚えたり、つまらないことに喜びを感じたりする。また、外的情報にだけ反応するわけでもなく、精神内部から湧き上がるようなものがある。
こうした精神を動かす原理とは何か?本書は、思考以外に精神に帰するものは何もないという。そして、精神の能動は意志のすべてであり、思考は知性と意志の活動であり、知覚や知識は精神の受動に属するとしている。
しかし、精神の活動を受動と能動で区別したところで、相対的に解釈するしかないだろう。幻想や夢想は、無意識に起こる現象なので精神の受動的活動のように思える。だが、そこで思い描くものは個人的なもので、これを想像力と解するならば能動的のようにも思える。ただ、どんなに頑張って能動的な意志を強調したところで、気まぐれには勝てない。心地よい夢を見ればいいところで目が覚め、続きを見ようとして二度寝したところで、熟睡して寝過ごすのがオチだ。
精神の原因性を宇宙論的に説明しようとすれば、すべての認識は運命的で受動的にならざるを得ないだろう。だが、宇宙の存在を絶対的な神の仕業としたところで、神の正体を知る由も無い。となれば、すべての意志は能動的で、自由意志の存在を信じるぐらいが幸せでいられそうだ。
ところで、人間の中心機能は何か?と問えば、一般的には脳や心臓と答えるだろう。脳は、思考によって能動的に活動する印象を与えるが、心臓は、その動きを意志によって制御できるわけではないので受動的な印象を与える。なるほど、愛を語る時にハートを強調するのは、従属するという意志が無意識に働いているわけか。そこに、ご都合主義に支配された人間独特の所有概念が生じるから訳が分からん!

2. 六つの基本情念
本書は、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみを六つの基本情念と定義し、他のあらゆる情念は基本情念の複合形や系統に含まれるとしている。
では、情念の原因とは何か?精気が脳の中の小さな腺を動かす動揺が一つの要因であるという。だが、それだけでは説明できない。対象を捉えようとする積極的な意志によっても引き起こされ、身体の状態や脳内にたまたま生じた刻印によっても引き起こされる。ただ、対象が自分に害をなしたり、利益をもたらしたりする時に、なんらかの情念が働く。
本書は、最初に働く情念を「驚き」だとしている。
まず注視することから精神の活動が始まり、驚きの度合いで精神の成熟度が測れるとしている。驚きの情念への生来的傾向をまったく持たない人は無知であるが、過度な驚きは理性を歪めるとしている。過剰反応は、最初のイメージだけに注意を払い、重要な認識を見落とすことになろう。現れた事物を、反省と注意に向かわせるためには、できるだけ客観的な観察が必要である。
「愛」の情念は、多種多様なところを見せる。
その対象が、異性に向かう時は独占欲が働くくせに、家族や組織などに対しては分有欲が働く。名誉や金や自然に対する愛も、同種の感覚とは思えない。
だが、その反対にある「憎しみ」の情念は感情的には単純であるという。それは、諸悪の違いに差異を認めないからだそうな。
「欲望」の情念は不思議なもので、未来への善として認識され、なかなか悪とは認識しないものである。大まかには、知への純粋な欲望と、脂ぎった欲望とに分けることができるだろう。スコラ哲学では、善の追求に向かう情念のみを「欲望」とし、悪の回避に向かう情念を「嫌忌」とするそうな。しかし、本書は、善の行為に、悪という認識が欠如すれば、それは積極的な悪であるとしている。そして、「欲望」と「嫌忌」を抽象化し、善の要求と悪の回避の両方をともなうことが「欲望」の情念だと定義している。
「喜び」の情念は、精神の快い情動で善の享受とし、「悲しみ」の情念は、無気力感や精神の不調だとしている。
ところで、精神とは奇妙なもので、必ず快い情念を求めているわけではない。自らの身を危険に曝すといった衝動もある。勇敢さを試すかのように。わざわざ難局に立ち向かう衝動もある。何か悟りでも得ようとするかのように。こうした情念は、一種の満足感であろうか。あるいは、より高尚な欲望への開眼であろうか。
また、喜びなのか苦しみなのかも分からない奇妙な情念もある。快感であるはずの恋はなんとなく息苦しい。不快であるはずの憎しみが病みつきになったりする。
情念を生みだす血液と精気の運動が外的表象としてある。目や顔の表情で、ある程度の精神状態を測ることができる。となると、喜び多き人生を送れば、表情が習慣的に穏やかになるのだろうか?悲しみ多き人生を送れば、自然に顔のしわが増え、憎しみ多き人生を送れば、自然にしかめっ面になるのだろうか?顔が赤いのは、怒り多き人生を送るからであろうか?いや、単なる飲み過ぎだろう。

3. 情念の矛盾性
精神の苦痛は、まず悲しみの情念を生みだし、次にその苦痛を引き起こす原因性に憎しみを持ち、更にそこから逃れようとする欲望を生みだすという。
一方、精神にとって有益なことは、ある種の心地よさであり、これが喜びの情念を生みだし、次に心地よさの原因性に愛を感じ、更に喜びの持続あるいは享受させようという欲望を生みだすという。
情念の根源を辿ると、第一にくるのが防衛本能からくる悲しみや苦しみであろうか。そして、喜びは不可欠となる。となると、基本情念は、悲しみと喜びで、だいたい説明ができそうな気がする。
本書は、「憎しみは愛よりも不可欠」であるとしている。なぜなら、害となるかもしれないものを斥ける方が、生きるために必要な完全性を獲得するよりも重要だからだという。これは、宗教家からは非難されそうな発言だ。宗教は、憎しみを捨てることを説き、愛を強要する。だが、憎しみを知らなければ、愛を知ることもできないだろう。善を行うために悪を避けようとする行為は、悪を知らなければできない。善は、悪への憎しみから生じるとしたら、憎しみという情念も捨てたものじゃない。憎しみと悲しみが極度になれば健康を害す。だからといって、愛と喜びが極度になれば悪の認識を欠如させ無意識に悪を犯す。結局、人間は相対的に認識することしかできないのであって、その対称性から善悪を認識している。ここに、情念の矛盾性があり自然性がある。自らの道徳観に自信を持つ者は、悪徳の達人となろう。愛の達人は、憎しみの達人というわけか。

4. 自己重視と自己軽視
認識力は、何をどれだけ注視するかにかかっている。まず、自分自身を重視するか軽視するかによって分かれる。人間が最も不快を覚えるのは、自分の存在を否定されたり、自尊心を傷つけられることであろうか。なにかと他人からの評価は気になるものであろう。自己の重視と軽視のバランスを保つことは難しい。自分自身を軽視するよりも、他人を軽視することの方がはるかに容易いのだから。いかに自分自身を客観的に見られるかは、最も難しく鍛練を必要とする。精神修行とはこれに尽きるのかもしれない。
本書は、自己重視の観点から「高邁」「高慢」を考察し、自己軽視の観点から「気高い謙虚」「悪しき謙虚」を考察している。高邁と高慢は、自らに高い評価を与える点では同じであるが、その性質はまったく異なり、正当な評価が高邁で不当な評価が高慢である。そして、最も高邁な人が他人を重視すれば、最も謙虚な人になるとしている。これが、「気高い謙虚」である。自己の情念を支配しうるのは、高邁な資質にあるのかもしれない。つまり、自分を含めたすべての人間を重んじるということである。自分の徳で精神が安定していれば、他人の徳を冷静に観察できるだろう。真の高邁とは、誇りという言葉で換言できるかもしれない。
一方、無知で愚かな者ほど偽の高邁、つまりは高慢に陥るとしている。高慢は、自分を高めながら他人を低めようと努める。おまけに、脂ぎった欲望の奴隷となって、憎しみ、羨みに執着する。高慢とは反対であるが、同類の精神構造に卑屈がある。これが「悪しき謙虚」である。卑屈は、自らの不当な低い評価から憎しみを生じさせる。自分が弱く決断力のない人間と信じ込み、自虐の念に陥る。自分だけでは生きていけないと極度に自信を失い、何事も他人に委ね、自ら努力を怠る。人間が完全な自立を果たすことは不可能であろう。だが、自立を諦めるのと努力するのとでは意味が違ってくる。正当な自己評価は人間の認識能力で最も難しいように思える。そうでなければ、自己矛盾に陥ることもないだろう。

5. 崇敬と憐れみ
「崇敬や敬意」は、その対象を重視するだけではなく、対象に好意を持ち、精神のうちにある不安をも服従させるという。少なくとも、善と判断したものに対する情念であろう。その反対に軽蔑がある。絶望は希望の裏返しにある。精神が達成できない未来像を描く時、希望は絶望へと変貌する。勇気の持ち主は、自分の臆病を知っているのだろう。恐怖心を自覚しているのだろう。真の勇気とは、客観性に裏付けされた冷静な判断力である。偽装した勇気は、単なる強がりであり、無謀となる。死への恐怖心があるから生へ執着できる。臆病だから、危険を察知することができ工夫が生まれる。だが、臆病、驚愕、不安の過剰反応は、逆に行動力の妨げとなる。
「憐れみ」とは、宗教的によく使われる言葉だ。最も憐れみやすいのは、自分を弱い人間と認め、偶然的運による逆境に屈しやすい人としている。それは、他人への愛よりも、自分自身に向かう愛によって憐れみに動かされるからだという。自己愛がなければ生きていくのも難しいのだけど...宗教家というのは、最も自己愛の激しい連中なのだろう。
ところで、事業で大成功を収め大金持ちになった人が、突如として慈善事業を始めたりするのはなぜか?散々金儲けをした挙句、欲望行為に対する懺悔心でも生じるのか?精神の奥底に眠っていた良心が、突然湧き上がるのか?あるいは、慈善活動をする自分を眺めて、自己愛に酔いしれるのか?いずれにせよ、裕福でないにもかかわらずボランティア活動に励む人が、真の慈善家ということになろうか。

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