デカルト、ライプニッツとくれば、次はニュートンであろうか...などとこじつける。
近年なぜか?古典を読みたいという衝動に駆られる。現代書よりも新鮮さを感じるからであろうか?現在の瞬間的な現象は、後世の歴史に照らしてみないと冷静に評価することが難しく、そのほとんどは評価の間もなく廃れていくだろう。現在まで生き残ってきた古典は、それだけ洗練されていることの証しであり、ハズレる確率が低いのは確かなようだ。
大学の図書館で「プリンシピア」を初めて見かけた時、その分厚さに圧倒されたか、枕にちょうどいいと思ったか、は定かではない。これを入手することは難しい。古書専門店でも見つけられず、ネットでは中古品に3, 4倍の値がついている。ということで市立図書館を利用した。実は、むかーしから注目している古典で図書館にもないものがいくつかある。電子書籍の話題で盛り上がる昨今、新しいメディアの果たす役割は未知数だが、古典パワーこそ見せつけてほしい。本書が、閉架扱いされ、おまけに特別参考室に保管されるのは、それだけ貴重な資料ということなのだろう。状態も良く、図書館職員の情熱が感じられる。尚、これを貸出期限2週間で読破するのは難しい。延長!延長!
ニュートンが生きた17世紀頃は、まだ純粋幾何学が客観性において最高の地位にあったようだ。あらゆる自然現象を数学の法則に従わせようとした基本思想は、現代に受け継がれる。
本書には、真理はすべて幾何学にあると信じ、合理的な力学はすべて幾何学で説明できるはずだという執念が感じられる。人間が直接感じられるのは重力であり、物理学は重力を中心に発展してきた。本書はそれを体現している。原著は、当時の慣例にならってアカデミックなラテン語で書かれているという。その形式は、ギリシャ幾何学書の体裁を整えユークリッドを彷彿させる。ニュートンは、今日の微積分法である「流率法」を発見した。本書にも微積分の概念が図示される。
本書は、序論と三つの編から構成される。
序論では、力学概念である質量、運動量、力をはじめ絶対運動が定義され、続いて、運動の3法則や力の合成分解の法則が記され、力学の理論的、方法論的な基礎が確立される。これらの基礎を踏まえて第I編と第II編では、物体の運動をひたすら数学的原理で記述される。客観的な考察ができないところは、数学的な記述よりも実験データを根拠にしている。少々異質に思える粒子による流体運動が持ち出されるのは、渦動説批判への布石か?あるいは、流体の渦巻状の運動を天体運動と重ねながら銀河系の形状を想像し、更には宇宙の形状を語ろうとしたのか?
そして、第III編では、無味乾燥的な考察に陥らないように哲学的論究を加えると宣言され、数学的原理が天体へと拡張され、いよいよ世界体系へと踏み込む。これが本編と言ってもいいかもしれない。それは、「プリンシピア」の正式名称が「自然哲学の数学的原理」であることからも納得できよう。
また、結びとして設けられた「一般注」では、「Hypotheses non fingo(仮説をつくらない)」という有名な言葉とともに、当時の風潮への批判がうかがえる。それは、デカルト派をはじめとする渦動説に対するものであり、いかにも仮説の嫌いなニュートンの性格が表れている。更に、敬虔なキリスト信者が到達した宇宙論とも言うべき神学の持論を展開する。ただ、宇宙論的世界観が唯一キリスト教と結び付くように語られるところに違和感があるが...
「プリンシピア」は、けして読み易い本ではない。専門用語でも現代感覚とは微妙に違うように映る。「物体の運動」といえば通常は位置の変化を表すのだろうが、ここでは運動量であったり、質量と速度の相乗積であったりと、少し想像を膨らませないと解釈しずらい。「物質の量」も、質量と解せば読みやすい。「正弦」は、高さと斜辺の比ではなく高さそのものを表したりと、言葉の使い方にも少々違和感がある。「モーメント」は力の能率といったものではなく、流率法特有の言葉で微積分における微小や増分に相当するようだ。
一つ一つの命題や定理は、明確な論理で記述されるので、じっくりと読めば理解できそうだが、物量作戦の感があって、これらを体系として解釈しようとするとたちまち難解な書となる。真理に近づこうとすれば、多くの場面で抽象的な表現からは逃れられず、科学書というよりは哲学書の性格を帯びてくる。そもそも人類が発明した体系で、絶対的な真理を語れるはずもないのだけど...
1. ニュートンの生い立ち
1642年、リンカーンシャー州ウールスソープに生まれる。父は一小農で、生まれる2、3カ月前に死去。母が再婚すると、母方の祖母と一緒にウールスソープに残される。12歳でグランサムの公立中学校に入り、ある薬剤師の家に住みこんだという。その薬剤師との出会いが化学に興味を持たせたようだ。
1656年、再婚相手が死去して母が再びウールスソープに戻ってくると、長子ニュートンに農場経営をさせるために学校をやめさせた。しかし、彼が農業に興味がないことが分かると、親戚の助言もあって、1661年ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに籍を置く。最初に影響を受けたのがケプラーの光学書だそうな。そして、ユークリッド幾何学を勉強して当たり前だと片づけてしまうと、デカルト幾何学に影響を受け独創的な数学の研究を始めたという。
1665年、ペストが大流行すると大学が閉鎖され、リンカーンシャーの農場に退避する。そして、光学や化学に集中できる環境を得て、重力理論の思索が始まる。この頃、二項定理や流率法を発見したそうな。後年ニュートン自身が、65年から66年の2年間が数学的で哲学的な思考が全盛であったと回想しているという。
1667年、ケンブリッジ大学でトリニティー・カレッジが再開されると、フェローに選ばれる。
その二年後、友人で師でもあるバロー博士の後を継いでルーカス講座の数学教授に任命される。幼年のニュートンは母の愛情に飢えていたとも言われ、後に、猜疑心が強く、異常に怒りっぽく、執念深く笑わない性格が形成されたとも言われる。王立協会では、よく会員たちと論争を巻き起こしたらしい。ニュートンは、自責の言葉を残しているという。
「まぼろしを追い求めて自分の心の平静という大きな恵みを手放す結果になったのは、自分の無分別のせいである」
2. 絶対性と相対性
本書は、絶対時間、絶対空間、絶対運動について言及している。
「真の運動と相対運動とが相互に区別されるその原因は、運動を起こすために物体に加えられる力である。真の運動は、物体にある力が加えられ、それによって動かされるのでなければ生成もされないし、変化もしない。しかし相対運動は、物体に何らの力をも加えることなしに生成され、あるいは変化する。なぜならば、そのめにはただ、この物体が比較されるべき、他の諸物体にある力を加えるだけで充分だからである。」
一般的に運動は、物体の位置の変化で定義される。つまり、相対的な位置関係が変化すれば、なんらかの運動が観測できる。だが、絶対的な場所が規定できなければ、絶対運動や絶対静止を観測することはできないだろう。つまり、人類は、いまだ真の運動の正体が分からないままでいる。強いて言えば、それは光速であろうか?そして、絶対運動を定義しようとすれば、自己言及に嵌り、ついには自己矛盾に陥るしかない。
人間が計測できる時計、つまりは物体の運動によって測れる時間は、相対的な見かけ上の時間でしかない。人間の認識能力は、周りの物体の運動を認識することによって生じる。人間の定義するという行為そのものが、相対的認識に過ぎない。すなわち、科学が認識できる物理現象は、あらゆる観測系に人間が認識できる時間の一方向性が介在するからこそ、生じる現象ということになろうか。その帰結は、エントロピーの可逆性は得られないということになろうか。だって、人間には時間は逆転できないとしか認識できないのだから...
もし、あらゆる物理現象に可逆性を観測することができれば、絶対運動なるものを認識することができるかもしれない。では逆に、相対的な運動や認識が絶対的なものになると、人間はどういう存在になるのだろうか?生命体そのものの意味が失われるのかもしれない。それは、人間精神が絶対的価値観に到達することを意味するのだろうか?
3. 物体の運動
微積分法のアプローチでは、ライプニッツと対立関係にあるとされる。
本書には代数学的な方法ではなく、幾何学的な作図法が用いられる。この視覚的概念は数学の入門者にとってありがたい。ニュートンの第2法則で力の定義を質量と加速度の積で示されるのは、お馴染みのやつだ。加速度は速度の変化率であり微分である。速度は物体の位置座標の微分である。つまり、軌道から微分によって力を求めることができ、力から積分によって軌道が求まることを意味する。
ここでは運動法則に微積分の概念が埋め込まれ、与えられた焦点から楕円運動、放物線運動、双曲線運動の軌道を導く方法が論じられる。考えてみれば、楕円の面積を考察する時に、極限的な求積法を用いるのは自然な発想のように思える。まぁ、既に導関数を学んでいるから、そう思えるのかもしれないが...
楕円方程式は、長半径a、短半径bとすると、以下のように表される。
x^2 / a^2 + y^2 / b^2 = 1
これは、x方向に x = a sin ωt で運動し、y方向に y = b cos ωt で運動しているとすると、以下のように導かれる。
(sin ωt)^2 + (cos ωt)^2 = 1
x = a cos(ωt + θ)としても、楕円であることに変わりはない。
ここには、三角関数の直交性質が表わされ、解析学の概念が内包されている。むかーし、フーリエ解析を楕円解析と言ってもいいじゃないかと思ったりもした。周期を持つという意味では円運動も波動も同じで、モジュロ計算という発想も成り立つだろう。酔っ払って目が回るのも、千鳥足という揺らぎも、空間運動としては周期的に同列に扱えるはず。だから、アル中ハイマーの年齢もモジュロ計算され、永遠に生まれ変わるというわけさ。
4. 世界体系
本書は、地球上の物体運動を考察する時にひたすら数学的原理を用いてきたが、天体運動を考察する段階になると詳細な実験データで補う。太陽系内の惑星と、惑星をとりまく衛星との位置関係や、軌道と周期を考察する時はひたすら観測データに頼る。太陽や月の軌道から潮の満ち干の観測、地球の自転と遠心力との関係から楕円球形になる観測、ハレー彗星の軌道予測など、ここには自然哲学と実験哲学の融合が見られる。目の前にある現実から、けして目を背けようとはしない一貫した姿勢には、執念のようなものがある。
太陽は不断の運動によって扇動されてはいるが、、太陽系の全惑星の共通重心から遠く離れることはないとしている。そして、世界体系の一つの推論を立てている。
「世界体系の中心は不動であること。」
推論であるからには仮説ではないか。んー、ニュートンらしくない。
5. 一般注
世界体系の最後に「一般注」が付けられる。これは重力に関するニュートンの総括である。ただ、あからさまに渦動説を批判している。ニュートンの運動法則がデカルトの影響から生まれたのは間違いなかろう。デカルトは、自然界が一つの機械であると考え、慣性力や運動量保存の法則を導き、更には渦動説を唱えた。渦動説とは、物体の運動は互いに接触して押し合うことで生じることを前提とし、宇宙空間に充満する物質の存在がなければ天体は動かないとする仮説である。この思想がエーテル充満説を登場させた。
ただこの時代に、ルネッサンスの自然主義、あるいは自然魔術的な思想が流行り、占星術や錬金術に勢いがあったことに注意せねばなるまい。その中にはオカルト的な思想も蔓延り、まさしく磁石には魔術のような香りがしたことだろう。磁力とは不思議なもので、真空であっても物質を引き寄せる何かを感じる。ホットな女性の周りには磁界が生じ、あらゆる男性を引き寄せれば、空間に小悪魔の存在を前提しなければ説明できない。いずれにせよ、引力の正体を何かに求めることになる。ケプラーは引力を天体間の磁力で説明しようとしたのだろうか?
本書によると...
渦の運動でケプラーの第2法則を説明しようとすれば、渦の各部分の周期は太陽からの距離の2乗に比例しなければならない。しかし、ケプラーの第3法則を説明しようとすれば、渦の各部分の周期は太陽からの距離の3/2乗に比例しなければならない。より小さな渦が他の惑星の周りで小さな公転を保持し、しかも、太陽のより大きな渦の中で乱されることなく泳ぎうるためには、太陽の渦の各部分の周期は相等しくなければならない。しかし、これらの渦運動と一致するはずの太陽や惑星の自転運動は、それらの比率とはまるでかけ離れている。つまり、渦動説からは、太陽や惑星の自転や公転の周期、はたまた彗星の軌道もまったく説明できない。
...と指摘している。
更に総括では、重力理論を神学の領域にまで押し上げる。
「全知全能の神は、世の霊としてではなく万物の主としてすべてを統治する。そしてその統治権ゆえに「主たる神」あるいは「宇宙の支配者」とよばれるのが常である。なぜなら、神というのは相対的なよび名であり、僕(しもべ)に対してかかわりをもつものであって、神性とは、神を世の霊であると空想する人びとが考えるように、神自身の体へのその君臨ではなくて、僕(しもべ)の上に及ぶ支配だからである。至高の神は、永遠、無限、かつ絶対に完全な存在者である。しかし、たとえどんなに完全であっても、支配を欠く存在者は主なる神とはいえない。」
2010-11-28
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