「孫子」十三篇は、中国最古の兵法書。他に「呉子」、「司馬法」、「尉繚子」、「李衛公問対」、「黄石公三略」、「六韜」を加えて「武経七書」となる。中でも「孫子」は各段に優れていて、他の兵法書はすべて亜流と言われるほどだ。
成立時期については、春秋末期とする説と戦国初期とする説があるそうな。作者は、紀元前500年頃の春秋時代、呉王の闔蘆(こうろ)に仕えた孫武だとされている。だが、本書に付録される「史記」の「孫子伝」の挿話は、訳者金谷治氏が指摘するように出来過ぎの感が否めない。そこで一時期、学問的に孫武だとする見解は否定されたそうな。「孫子伝」には、戦国時代の斉の孫臏(そんひん)のことも記される。孫臏は孫武の子孫で、その言葉も「孫子」と似通っていたので、作者は孫臏であろうという説が有力になったという。
しかし、1972年「孫臏兵法」が発見されると、「孫子」の方がはるかに古いことが明らかになり、今のところ孫武が有力とされる。「孫子」の名は書物の名前と同時に、孫武あるいは孫臏の尊称でもある。
兵法書というからには、好戦的なものを想像する人も多いだろうが、そんな印象はまったくない。むしろ戦争を最後の政治手段として戒め、国家防衛の観点から人生のあり方や哲学の領域にまで踏み込む。要するに、兵法書が、まず戦うな!と主張しているのだ。そして、自然を味方につけ、将兵に誇りを持たせ、あらゆる後ろ盾に法が存在するような国家システムを唱えている。兵法がいかに国家論と結びつくか、これが孫子の戦争観、あるいは政治観であろうか。戦争を政治手段に位置付ける哲学はクラウゼヴィッツの「戦争論」と同じだが、二千年も先んじているとは...
「兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。」
戦争とは、国家の存亡の分かれ道であるからして、よくよく熟慮せよ!というわけだ。戦争の観点から考察するのだから、極めて実践的な人生訓が内包され、時代や地域を超越した普遍性なるものが備わっている。そして、すべての戦略的思考において、主導性の原理を唱えている。すなわち、勝負事では絶対に欠かせない精神の風上に立つ!という原則である。
「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。」
「戦争とは詭道」、すなわち正常なやり方に反した「しわざ」だという。その真の極意は「戦わずして勝敗を知る」にある。たとえ勝利しても国家財政が窮乏に陥るのであれば、国家がなりゆかない。ゆえに、国力の消耗を考えて長期戦を否定する。
「兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるを睹(み)ざるなり。」
そして、百戦百勝を得ることが最も優れているわけではないとしている。敵を傷つけずに降伏させるのが上策で、敵を討ち破るのはそれに劣るというわけだ。
「上兵は謀を伐つ。其の次ぎは交を伐つ。其の次ぎは兵を伐つ。其の下(げ)は城を攻む。...善く兵を用うる者は、人の兵を屈するも而も戦うに非ず。」
また、戦術論の基本には「虚実の理」がある。実体を把握することが主導性の鍵であり、味方の実で敵の虚を撃つことになる。こうした戦略を実現するために最も重要なのが、最終章「用間篇(第十三)」で語られる。用間とは間諜を用いること、すなわちスパイ活動である。軍事行動で最も悲惨なことは、無駄な兵を動かし無駄な死を招くことである。したがって、情報戦で既に勝負が決していると言えよう。
「彼を知りて己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず。」
備えあってはじめて戦争が避けられる。あらゆる危機に備えがあるからこそ平和が保障される。不安を煽る社会では、外敵を必要以上に恐れ、闘争心に逸ることになる。幻想の平和主義からは虚しさしか伝わらない。
「故に用兵の法は、其の来たらざるを恃(たの)むこと無く、吾れの以て待つ有ることを恃むなり。其の攻めざるを恃むこと無く、吾が攻むべからざる所あるを恃むなり。」
戦争の原則では、敵がやってこないことを頼みとするのではなく、いつ来てもいいような備えが頼みとなる。また、攻撃されないことを頼みとするのではなく、攻撃できないような態勢を保つことが頼みとなる。国家を脅かすのは軍事面だけに留まらず、外交や経済、はたまた災害などあらゆる方面に目を配らなければならない。したがって、情報活動が重要とされるのは今も昔も変わらない。ここには、戦略なき国家は亡びるという強い教訓が示される。
国家安全保障とは、基本的人権を守ることにある。この機能を放棄すれば、国家という枠組みに何の意味があろうか。究極の人間社会において、国家という枠組みが必要かどうかは分からん!ただ、世界中で政治不信が蔓延しつつあり、政治家の存在がどんどん余計なものに見えてくる。
...などと綴っていると、ごく身近で情報力に疎く国際的諜報機関を持たない某国を皮肉っているように聞こえてくるのは気のせいか?
1. シビリアンコントロールの矛盾
将軍は国家の助け役であり、それゆえ君主と将軍は親密でなければならないという。軍事行政では、情勢が刻々と変化し、臨機応変の対処を必要とする。したがって、一般行政のように行われれば現実から乖離し、兵士たちの信用を失うことになると指摘している。
しかし、だ。武官の軍部統制によって、政治的暴走という事態を招いた歴史がある。現在では、選挙で選ばれた文官が防衛大臣になるケースが圧倒的に多い。つまり、危機管理の素人が権力を握っている。ここにシビリアンコントロールの矛盾がある。現代の政治観では、文官と武官のバランス感覚が求められる。国際政治が複雑化すれば、政治家に求められる能力も多様化するだろう。
国家危機に直面すれば、権力者に説明して納得させている間に民衆が死んでいく。危機の時には武官が最高権限を執行できるように法律で定めたところで、危機の解釈は政治的思惑に左右される。逆に、条文の論理性に頼れば自己矛盾に陥る。それは、想定外の場面でマニュアル人間が、無力化するのと原理は同じだ。文官が自らの能力を素直に認め、自分に説明するのは後にして、まずは行動を起こせ!と命令すれば済むこと。だが、権力を振りかざす政治家には絶対にできないことで、これまた自己矛盾に陥る。政治主導の意味を履き違えると悲劇だ。多くのマネージャは、形にこだわったトップダウンが硬直化の要因になることを経験的に知っている。結局、法を用いる人間の資質と柔軟性で決まることになる。まずは危機意識を徹底させるためにも、国会議員になる資格として半年ぐらい自衛隊入隊を義務付けて、国家防衛の勉強をさせるぐらいのことをしてもよかろう。それ以前に、文民の政治家たちが国民生活を知らないという実態乖離の方が問題であろうか。
2. 不敗の地
「善く戦う者は不敗の地に立ち、而して敵の敗を失わざるなり。是の故に勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む。」
優れた将軍は、勝ちやすい機会を待った上で軍事行動を起こすので、人目を惹くような勝利も、智謀に優れた名誉も、武勇に優れた手柄もないという。そして、人心を統一するような政治を立派に行い、軍制をよく守るという。
最も優れた戦法は、味方を不敗の立場に置くこと。戦闘では、定石どおりの正法で、不敗の地に立って会戦を始め、情況の変化に適応した奇法によって討ち勝つという。将軍の資質には、定石と臨機応変のバランス感覚が求められるというわけだ。
戦闘の勢いには、正法と奇法の二つの運用しかないが、その組み合わせは無限にある。
「乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は強に生ず。治乱は数なり。勇怯は勢なり。強弱は形なり。」
混乱は整った政治から生じ、臆病は勇敢から生じ、軟弱は剛強から生じ、それぞれに動揺しやすく互いに移りやすいという。乱れるか治まるかは部隊の編成や数の問題であり、臆病になるか勇敢になるかは勢いの問題であり、弱くなるか強くなるかは軍の態勢や形の問題であるとしている。だから、数と勢と形に留意してこそ、治と勇と強が得られるという。
それにしても、互いに熟慮すればどちらかに勝算が得られるわけで、誰もが防御に専念すれば戦争はなくなってもよさそうなものだが...人間の性質は、国家や民族の優位性という幻想に憑かれるということだろうか?...人間の防衛本能は、不安に駆られれば先に攻めずにはいられないということだろうか?...どこかに必ず博奕好きの無謀な指導者が存在するということだろうか?...
3. 無形こそ最強の陣形
「夫れ兵の形は水に象(かたど)る。水の形は高きを避けて下(ひく)きに趨(おもむ)く。兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵に常勢なく、水に常形なし。能く敵に因りて変化して勝を取る者、これを神(しん)と謂う。」
軍の形は水のようなもので、流れの高い所を避け、低い所へ走るがごとく、実を避けて虚を撃つ。水は地形に従って流れ、軍は敵情に従って勝利を得る。ゆえに、軍には決まった形がなく、水にも決まった形がない。形が決まっていなければ弱点も見えない。したがって、陣形で最強なのは無形ということになる。
4. 風林火山
「故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為すものなり。
故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しずか)なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し。
郷を掠(かす)むるに衆を分かち、地を廓(ひろ)むるに利を分かち、権を懸けて而して動く。迂直の計を先知する者は勝つ。
此れ軍争の法なり。」
戦争は、敵の裏をかくことを主とし、利のあるところに従って行動し、分散や集合で変化の形をとっていく。主導性の戦略には「遠近の計」なるものがあるという。遠道を近道に転ずる計りごとを為せば、主導権が握れるというわけだ。
ちなみに、武田信玄がまず戦う前に道を作ったという話は有名だ。いわゆる「棒道」と呼ばれるやつだ。優れた武将は、相手の鋭い気力を避けて、その萎えたところを撃つ。これが精神の風上に立つということであろう。
5. 孫武 -- 「孫子伝」(「史記」巻六十五)より
孫武が呉王の闔蘆(こうりょ)にお目見えしたエピソードが記される。
闔蘆は、この十三篇をすべて読んでも、実戦で役立つか疑問だと言う。そこで、宮中の美女180人を集めて試すことになった。孫子は、左右二隊に分けてそれぞれ隊長を任命し、太鼓の合図と取り決めを言い渡す。だが、最初の命令で女たちは笑った。
孫子曰く、「取り決めが徹底せず、申し伝えた命令がゆきとどかないのは、将軍たるわたくしの罪だ。」
二度目の命令でも女たちは笑った。
孫子曰く、「取り決めが徹底せず、申し伝えた命令がゆきとどかないのは、将軍の罪だが、すっかり徹底しているのに決まりとおりにしないのは、監督役人の罪だ。」
そして、左右の隊長を殺そうとすると、呉王は二人の愛姫を殺さないでほしいと言う。
孫子曰く、「わたくしは今や御命令をうけて将軍となっております。将軍が軍中にあるときは、君主の御命令とてもお聞きできないことがあるのです。」
そして、二人を斬殺して見せしめにした。次の隊長を任命すると、今度は太鼓の合図とともに整然と動いた。だが、呉王は二人の愛姫を失った悲しみで、軍隊どころではない。
孫子曰く、「王様はただ兵法の言葉づらを好まれるだけで、兵法の実際の運用はおできにならないのですね。」
そして、孫武は呉の将軍になったとさ。
6. 孫臏 -- 「孫子伝」(「史記」巻六十五)より
孫武が死んで百年以上後に、その子孫の孫臏という人物が出た。孫臏は龐涓(ほうけん)と共に兵法を学ぶ。龐涓は魏に仕えて恵王の将軍になることができたが、自分が孫臏に及ばないことを認めていた。そこで、孫臏を招いて罪に陥れ、両足を切断し罪人の印である入墨をさせて、世に出られないようにした。
斉の使者が魏を訪れた時、孫臏は密かに面会して意見を述べた。すると、斉の使者は彼を奇才だと考えて連れ帰り、斉の将軍田忌(でんき)の客人として重んじられた。
田忌は、斉の公子たちとよく競馬で賭けをしていた。孫臏は、個々の馬には上中下の三等があることを見抜き、田忌の所有する下等の馬を相手の上等の馬に当たらせ、上等の馬を相手の中等の馬に当たらせ、中等の馬を相手の下等の馬に当たらせるように助言する。これで田忌は二勝一敗で千金を儲けた。感心した田忌は斉の威王に推薦し、王は孫臏を兵法の師と仰いだ。
その後、魏が趙の国を攻撃し、趙は斉に救援を求めてきた。「桂陵の戦い」である。斉王は将軍田忌と軍師として孫臏を派遣した。孫臏は趙に向かおうとする田忌に、手薄な魏の都の梁を攻めるように助言する。田忌はその通りに攻めて魏の大軍を破る。
更に13年後、魏と趙が韓の国を攻めると、韓は斉に救援を求めてきた。「馬陵の戦い」である。再び田忌と孫臏が救援に派遣された。魏の将軍は、あの龐涓で因縁の対決となる。前回同様、田忌は魏の都へと進軍した。それを察知した龐涓は韓から攻撃隊を引き揚げさせた。孫臏は、魏の領地で10万人分の竈(かまど)を作らせ、その翌日には5万人分、またその翌日には3万人分と減らし、脱走兵が相次いだかのように偽装した。これを見た龐涓は、軽装の精鋭部隊だけを引き連れ追撃した。孫臏は、道幅の狭い馬陵の地で、大きな樹木の皮を削り「龐涓、此の樹の下にて死なん。」と書いた。そして、道の両側に伏兵を忍ばせ、火の合図で攻撃する手筈を整えた。
夜になると龐涓が到着し、字を読もうとして火で照らすとそれを合図に一斉攻撃が始まった。敗戦を悟った龐涓は自決。孫臏はこの戦いによって名声を広め、その兵法が伝えられたとさ。
2011-04-03
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