2011-04-01

泥酔論的弁証法による「神の実存証明」

今日四月一日、名古屋方面の営業の方(かた)から妙なお土産をいただいた。
「四海王矛盾 梅原酒」なんじゃこりゃ?梅酒も原酒となると強烈やなぁ...その酔いっぷりは、矛盾というやつと戯れたい気分にさせやがる。
ところで、精神の問題を分析する論理的態度に弁証法なるものがある。もし、この世に矛盾の概念が存在しなかったら、弁証法という思考方法そのものが成り立つだろうか?

[大前提]
「アルコール度数とは、精神の破壊度数を意味する。ゆえに、スピリタスを飲むと96%の人格が失われる。」
これが世に言う「スピリタス効果」というやつだ。

[小前提]
「矛盾ほど心地よく酔えるものはない。だから、アル中ハイマーはアンチノミーちゃんのファンである。」
ちなみに、外人パブのお姉ちゃんの名前ではない。

[正命題]
「完全なる神は存在しない。」
人間は本能的に死を感じながら生きている。精神は、無意識に死までの時間を計測し、死へのカウントダウンの中にある。人間はただ生まれて死んでいくだけの存在でしかない。となれば、人間にとってこれ以上のイベントがあろうか。しかし、人間はこの二大イベントの瞬間を自ら認識することができない。認識できるとしたら、自らの生まれる瞬間や死ぬ瞬間の前後を認識できることになるからである。いや、もしかしたら死ぬ瞬間を認識できるのかもしれない。生まれる瞬間も単に記憶が失われているだけのことかもしれない。死という得体の知れないものが近づけば、人間は狂乱する。末期患者が死を宣告されて狼狽する姿を曝け出すのも至極自然であろう。最近の社会傾向として生活保護が受けられずに餓死する事例がある。昔々楢山節考のような貧しい時代があった。考えてみれば犯罪も自殺もしないわけだから、強靭な理性の持ち主なのかもしれない。その一方で、死を目前にした者が想像もつかない超人的な力を発揮することがある。こうした例は、死に近づくことによって精神が成長する可能性を示している。寿命が延びたからといって、現代人の精神成長が古代人より優れているわけではない。昔の特攻隊員の残した遺書を読むと、とても10代や20代の青年とは思えないほど、言葉に力がある。むしろ死と背中合わせに生きている方が、精神力を発揮するのかもしれない。
スピノザは、理性と知性で鍛錬すれば、死をも恐れぬ崇高な精神に達することができると語った。それは、時間との闘いであり寿命との闘いである。人間は、死に至るまでの時間を自我の空間と結びつけながら生きている。そして、気になる存在に対して重力や時空の歪みを感じている。精神という無形化した世界では、虚しくも認識の時計だけが刻まれ、やがて肉体が衰え精神は泥酔していくのを待つのみ。人生とは、無力な存在を思い煩いながら、寿命という刑を務めるようなものだ。
しかし、人間は「忘れる」という最高の能力を持っている。怖ろしい結末を知りながら、それを一時的に忘れ、今という瞬間に価値を見出すことができる。この能力は神ですら敵わない。おそらく神は、それができないために慢性的にノイローゼを患っているに違いない。だから、つい魔が差して「人間」なんて不完全なものを創造してしまったのだ。神は後悔しているだろう。そう、神ですら完全ではなかったのだ!神でさえ自らの能力に限界があることを悟っているのかもしれない。
- Q.E.D.

[反命題]
「完全なる神は存在する。」
スピノザは、真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならないと語った。神が完全であるならば、神は愛することも憎むこともしないはず。なのに宗教は、神はすべての人間を愛する!と教える。なんと不合理であろうか。神がどんな罪人でも愛してくれるならば、犯罪者は宗教へ帰依するだろう。どんな暴力も、どんな残虐も、すべてを愛してくれるのだから。したがって、宗教に憑かれた地域ほど紛争が多いのも道理というものである。
「苦しい時の神頼み」というが、自分にだけ不幸が及ばないように祈るということは、神の意志を自己のエゴで支配できると考えているようなものだ。天災が発生するたびに神が罰を与えたなどと考えるのも、神の意志を人間が理解できると宣言しているようなものだ。もはや、神の存在を否定している。こうした矛盾する行動様式によって精神が不安から解放されるならば、それもよかろう。神は人間を救済するために、どうしても矛盾の概念を必要としたのだ。暴走する不完全な生命体ですら救済してくれるとは、神の寛容さは完璧である。神の創出した矛盾の概念は、人間の認識できる完全性や不完全性といった区別すら抽象化してしまうような純粋完全性を意味している。
宇宙空間はあらゆる対称性に見舞われる。対称性の原理が真理だとすれば、不完全な人間に対して、完全なる神が存在しても不思議ではない。
- Q.E.D.

[帰結]
「人間は、何事も解釈することができても、永遠に理解することはできない。」
それは、相対的な価値観しか見出せない生命体の宿命である。神が不完全だから不完全な生命体を創出したのか?それとも、神が完全だから不完全な存在ですら寛容でいられるのか?いずれにせよ、人間の解釈はご都合主義と有難迷惑主義に支配される。これが精神の基本原理である。
「信じる者は救われる」とは、宗教の根本原理である。「信じたところで救われるとは限らない」となれば、もはや宗教の意義を失うであろう。人間は、成功すると自分自身の努力を強調し、失敗すると因果な関係を嘆く。「運も実力のうち」と言うならば、「不運も実力のうち」と付け加えなければならない。人間の運命は偶然性に支配される。ならば、失敗すれば運命のせいにすればいい、そして神のせいすればいい。それで、精神の安穏が取り戻せるならば...
神は、宗教を通して人間に義務を与える。これが神学の意義であろう。宗教の矛盾は、神の言葉によって強制力を発揮するところにある。言葉は人間から教えられるのであって、神からは沈黙しか教えられないはずなのに。その証拠にお祈りの言葉を捧げても、肝心な時に神はお留守をなさる。いったいどんな時に神が現れるというのか?神は恥ずかしがり屋さんなのだろう。
もし、人間が矛盾の概念を凌駕して論理的思考の極致に到達することができれば、そこに神を見ることができるのだろうか?だとすると、凡人の前には、神は永遠に現れそうにない。だが、凡人ほど神の具体的な言葉を欲する。では、天才の前には神が現れるというのか?などと言えば、自ら神の代理人と名乗る者が出現する。神が人間の姿を借りて現れるという思考は、永遠に消し去ることができないだろう。
一方で、科学者や数学者は、神を思いっきり嫌いながら、独自の神学を構築する。強制する神の存在は邪魔だが、自由に想像できる神の存在はむしろ心地よいものとなる。科学や数学も優れた宗教というわけだ。人間が構築する学問はすべて、宇宙原理あるいは宇宙の創造主の存在を探し求めているということはできそうだ。

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