2011-04-24

"形而上学(上/下)" アリストテレス 著

例のごとく難解な書を手にすれば、思考が勝手に暴走をはじめる。一つ一つの文面が論理的であっても、それらが複雑に絡み合ううちに矛盾らしきものが顕わになる。そこに一貫性があるのかも疑いはじめ、ついには複雑な体系らしきものが亡霊のごとく浮かび上がる。
単独で存在する光子が粒子性を示す間は、まだしもニュートン力学で説明できるが、、群をなして押し寄せる光が波動性を示せば巨大エネルギーの塊と化し、もはや人間の手には負えない。難解な書とは、まるで不確定原理を体現するかのようだ。
難解な文章がBGMのごくと流れ去れば、そこに自由気ままな解釈を加えずにはいられない。したがって、ここで述べる事がアリストテレスの意図したものかどうかは知らん。詭弁論ならいくらでも語ってやるぜ!

本書は「形而上学」と題されるが、この言葉は本文のどこにも見当たらない。一つの哲学用語であろうが、日本語にあてがうために無理やり作り出した翻訳語のようにも映る。そこには「第一の哲学」と表わされ、その学問は「存在としての存在の研究」としている。形而上学とは、人間精神の持つ基底認識についての論考とでも言おうか、自己や精神といった形として存在することを超越した普遍的原理としての存在を研究する学問とでも言おうか。
「真理も友もともに敬愛すべきであるが、友より以上に真理を尊重するのが、敬虔な態度である」
アリストテレスは、真理の探究は困難であるが、ある意味では容易であるという。真理を的確に説明しようとすれば、ほとんど不可能だ。しかし、だいたいこんなもんだろうという程度であれば、誰にだって真理っぽいことは言える。それで失敗することもあまりない。真理ってやつは絶妙な距離感を保ちやがる。しかも、原理や原因性を説明できなくても、絶対的な神の存在を仮定すれば、すべて神のせいにできる。自分の犯した罪ですら。何かにすがっている間は、真の自由意志を獲得することはできないだろう。
実体と本質の違いとは何か?そこに真理がどのように絡むのか?すべては真理かもしれないし、そもそも真理なんてものは存在しないのかもしれない。証明できないということは、どうにでも語れるということだ。多くの真理が日常に溢れながら、同時に誤謬が存在する。これが認識能力を獲得した生命体の宿命であろうか。判断力の実践において、最も簡単な解決法は多数決に委ねることだ。だが、同時に真理から遠ざかることを覚悟せねばなるまい。真理は感覚的なものであると同時に、精神から最も遠いところにあるような気がする。
ならば、たとえ答えが見つからなくても、真理を探究することで精神が癒されるならば、それでええではないか...などと主張すれば、宗教と何が違うのか?と疑問がわいてくる。無条件に信じるのと思考を続けるのとでは全く違う!と強調したところで、脳停止状態にする方がはるかに高度な技に映る。精神の内にある存在認識を探究するということは、思考の根本原理を解明しようとすることであろう。ゆえに、人間の発明した言語を超越した世界に踏み込むことになり、自己矛盾に陥ることは避けられない。一つの言葉の多義的で含蓄のある言い回しは、国語辞典さえも無力化してしまうだろう。もはや、定義できることは数学の領域にしか存在しないのか?真理とは沈黙することなのか?天才は泥酔した読者を弄びやがる。

本書は、ピュタゴラス学徒やプラトン学徒への批判書でもある。その構図は、イデア対エイドスといったところか。ただし、エイドス(形相)という言葉でも、両者の解釈には微妙に違いがあるようだ。プラトンは、イデアという純粋原型のような普遍的実体を前提とし、数学的対象のように数字の大小関係のみで平等に存在するようなものをエイドスとしている。対してアリストテレスは、肉体と精神の結合体をエイドスとし、その多様性から質料も形相も平等に実体としている。あえて言えば、プラトンが普遍主義でアリストテレスが個体主義となりそうだが、そう簡単には片づけられない。原型と多様性の対立、質料と形相の対立、物体優位性と精神優位性の対立...んー、どれもしっくりとこない。もともと、アリストテレスはプラトンの弟子であり、自己批判に陥るところも多分にある。プラトンが数学的対象を重視しているのに対して、アリストテレスは精神的対象を重視しているようでもある。実際に、アリストテレスがローマ教会やスコラ学に影響を与え、その歴史的背景から批判の対象にされることも珍しくない。天動説の側にあったのも事実だし、科学界ではなにかと議論の出発点とされるので、批判の矢面に立たされる。アリストテレスは、あらゆる議論よりも感覚的経験を先に置いていると評されることもある。だとしても当時の科学レベルと比較しても仕方がないし、それで蔑む気にはなれない。少なくとも、論理学の最初の理解者としての地位を損なうものではない。
過去の偉大な思想家が、後の影響の仕方によって、ほとんど言いがかりのような批判を受ける例は実に多い。その偉大さを強調する弟子たちによって、かえって落とされるから滑稽である。宗教団体がビックバン説を支持したところで、量子論学者たちがその宗教を支持するわけではない。宗教とは、都合良く科学を取り入れながら、その優位性を強調するものであるからして。
精神優位性を持ち出せば、霊感主義者を勢いづける。だが、アリストテレスは客観的な存在を否定しているわけではない。ピュタゴラス教団が信奉した「万物は数である」という思考は、プラトンと同じくアリストテレスも受け継いでいる。精神の実体については、形相と単なる素材の結合体との境界線を探究しながら、思惟する実体、認識する実体としての質料、あるいは精神の最小単位のモナド的な存在を論じている。ここには科学や数学の思考の原点を見つけることができ、デカルトも、ニュートンも、ライプニッツも、その影響を受けているものと思われる。ただ、アリストテレスは、プラトンがあまりに数学を研究し過ぎると批判した。数学は哲学であるという信条があるからこそ、プラトンの方が好きなんだけど...

「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」
あらゆる存在の原理と原因性を説明しようとすれば、まず自己の存在を前提しなければならない。では、自己の存在の原理と原因性とは何か?相対的な認識能力しか持てない人間にとって、自ら思惟する意志の存在を説明しようとすれば、何か絶対的な基準となる存在を前提するしかない。その絶対的な存在を、科学は宇宙の起源に求め、宗教は神という創造主の存在に求めてきた。人類はいまだ自己の存在が何であるかを知らないでいる。自己を理解しようとすれば、自己の存在を信じずにはいられない。しかも、自己の意志を正当化しながら、存在意義という妄想を膨らませる。既得権益にしがみつき、必死に自己の存在感を強調しながら、あらゆる正当性も自己の介在なしでは認めようとしない。死んでもなお、銅像などの偶像の建設を願う者までいる。人間にとって自己の存在を否定されることほど不愉快なものはないだろう。それはすべて自己防衛本能の原理に従う。
思惟するとは、認識するとは、何を意味するのか?思考するからには対象が存在する。いや、存在と非存在にかかわらず、そのように思い込むだけのことかもしれない。思い込みとは、欲望のことか?存在には煩わされ、非存在には夢と希望を描く。その一方で、過剰な欲望に対抗して理性を働かせる。そこには、節度と欲望の葛藤がある。夢や希望は無限に思い描くことができるが、現実を見つめれば限界に苛む。理性とは、現実を受け入れることなのか?そして、夢や希望を捨て去れば、限界を感じずに自由でいられるのか?思惟せずに、認識せずにいられれば、最高の自由を獲得できるというのか?そこに最高の幸福が見えてくるのか?人間は、自ら思惟することで精神の囚人として生きている。ならば一旦、自己の存在を無と仮定してみてはどうだろう...

1. アリストテレス
アリストテレスは、プラトンの学園アカデメイアに入門し、アレキサンダー大王の家庭教師となったことは広く知られる。忠実なプラトン学徒でありながら反プラトン主義を開化させるとは、なんとも皮肉だ。彼は、プラトン学徒から離れ自ら学校を創設し、神殿に因んでリュケイオンと名付けた。その学徒たちはペリパトス学徒と呼ばれた。ペリパトスとは「散歩する人々」という意味で、毎朝学校の並木道で散歩しながら哲学論議に耽るのが習慣だったという。
アリストテレスは、ギリシャ文化こそあらゆる文化より優越すると考え、世界の支配国家となるべきだと唱えた。しかし、アレキサンダー大王は、その意に反してアジア遠征でバルバロイ(異民族)との相互融和、東西文化の交流を企図した。大王の死後、アテネで反マケドニア運動が蜂起し、ソクラテスと同じように国家の神々に対する不敬罪を問われる。そして、母の故郷カルキス市に逃亡して、その場で病死したと伝えられる。
彼の功績は、自然学、生物学、霊魂術、弁論術、論理学、政治学、倫理学、教育論など多岐に渡るが、その多くは失われているそうな。それでも作品がかろうじて残るのは、アリストテレス研究者たちの努力によるものらしい。晩年の作品には「ニコマコス倫理学」があり、息子ニコマコスが編集したとされる。こちらも、いずれ挑戦してみたい。
本書は、理論哲学は、自然学と数学と神学の三つのうちにあるとし、中でも神学が最も尊いとしている。霊感的な思想に頼っていた時代だから、神学を中心に置くのもうなずける。プロタゴラスやゴルギアスやプロディコスといったソフィストたちの弁論術が優勢な時代でもある。
ちなみに、プラトンは、ソフィストの術を非存在を対象とする部門に分類したという。ソクラテス、プラトン、アリストテレスと受け継がれた時代は、理論哲学の創世期とも言えよう。そして、若干の客観性を取り入れつつ進化してきたのが、学問ということになろうか。現代思想と比較しても、客観性の抽象レベルで若干の違いを見せるぐらいなものか...

2. 公理と真理
公理は自明の真理であって、けして証明できない。公準のように自明でない真理もあるが、いずれも証明できない。公準によって別の公準が証明できても、それは純粋な証明ではない。自然社会には、こうした受け入れるしかないものが山ほどある。だからといって、これを宗教と言えようか?点や線や面といったものは数学上の概念であって、幅のない点や線、厚みのない平面なんて存在しない。線は点の集まりで説明でき、面は線の集まりで説明できるだけのこと。そして、あらゆる物体は、点や線や面の集合体として説明できるだけのこと。
存在しない概念から存在が説明できるとなれば、既に自己矛盾に陥っている。よって、存在の真理を探究すれば、非存在を無視するわけにはいかない。だから、存在するものは必ず消滅に追い込まれるのか?そこで、単純化した思考が提示できる。それは、そもそも実存なんて幻想に過ぎない!ということだ。人間社会は現実社会を放棄しながら、仮想社会へと向かい、あらゆる実体を誤魔化そうとする。破壊のカオスへ喜んで進むかのように。なるほど、人間の最も幸せな精神状態というのは、現実逃避ということか。
それにしても不思議なのは、完全性や絶対性を知らないくせに、不完全性や相対性を認識できるのはなぜか?死がなんであるかも分からないのに生へ執着するのはなぜか?などと疑問を持ちはじめると、本当に認識できているのか?と疑いたくなる。そして、存在とは人間認識の産物でしかないことになる。人間は思惟する悪魔なのか?自然界にとって、人間認識ほど厄介なものはないのかもしれない。

3. 存在と非存在
認識論でいう「充実体」と「空虚」の違いとは何か?一般的には、前者が存在で、後者が非存在ということになろう。つまり、非存在という存在を認識していることになる。そして、認識できるものはすべて存在すると解釈すれば、デカルトのような神の存在証明が成り立つだろう。人間は、愛という妄想に憑かれ、根拠のないものほど信じやすい。そして、理性の存在が幻想であると悟った時、はじめて理性という現象が生起するのかもしれない。となると、無もまた存在なのか?「何かが欠如している」と言えるということは、欠如した状態が認識できるということだ。自己の存在を前提しながら、その属性については非存在を認識しているという奇妙な関係がある。
ところで、精神が無い状態って、どんな状態であろうか?宇宙空間にとって最も自然な状態なのかもしれない。モナドロジーを信奉する人たちは、あらゆる物質に精神が宿ると考える。彼らは、物質を構成する最小単位が物理学的な素粒子などではなく、形而上学的な精神原子のようなものを想像する。物事を総体として眺めようが、個々の構成要素に注目しようが同じく存在する。にもかかわらず、人間はその違いに格付けを与える。人間が動物から進化する以前から物質は存在したはずだが、その時系列的な解釈で生命体が高尚化すると信じている。
また、誤謬という奇妙な認識も非存在と言えるかもしれない。だが、人間は誤謬を真理と区別なく認識できる特技を持っている。この認識能力は神ですら及ばないだろう。そして、自己の存在を前提できなければ、あらゆる認識論は脆くも崩れる。人間の存在とは、実に果敢ないものである。となれば、誤謬を犯している間は幸せということか。

4. イデア対エイドス
本書は、プラトン学徒が単純物体の存在や非物体的存在は説明しても、運動の原因を見落としていると指摘している。ここでいう運動とは、精神の運動であろうか?更に、原型が本質だとしても、原型から派生した実体があり、これまた存在の本質であるという。
「エイドスを語る人々は、それらを離れて存在するものと説いているが、いやしくもそれらが実体である限り、この点では正しい、しかし、かれらは多くのものの上に立つ一つのものがエイドスであると説いている点では正しくない。」
プラトンは、イデアを本質とし、更に数学的な対象である数字の大小関係のようなものだけをエイドスとし、これら属性を実体と解釈したようだが、アリストテレスは、多様性としてのエイドスをすべて独立した実体としているようだ。それが理想的な存在であろうが、現実に存在するものであろうが、どちらも実体ということなのだろう。いや、イデアのような原型は、実体ではなく理想的な雛形に過ぎないと言っているのだろうか?プラトンは、ある実体を前提しないと存在できないものがあり、同じ存在でも前後関係や先後関係があるとしている。対して、アリストテレスは、属性や付帯的な存在、あるいは偶発的な存在も、等しく実体だと主張する。理性的存在で語るならば、プラトンは理想の原型が実体として存在すると考えるのに対して、アリストテレスは人間が理性の持ち主であるならば、人間の数だけ理性が存在するといったところであろうか。
そもそも、絶対的な理性を獲得したわけではないので、理性の原型を持ち出されても、その正体が分かるはずもない。もし理性の原型が存在したとしても、性格や形相が遺伝子的に受け継がれながら悪徳を身に付けていき、もはや純粋な認識能力がとこにあるかも分からない。それでも、あらゆる物事は無から生じるような気がするのはなぜか?その無が何か原型のようなものを持っていると前提しなければ、実体が生じるとも想像しにくい。よって、イデア論も捨てがたい。ただ、基体なるものを真の実体とし、その基体に属する形どったものは、実体ではないとするのも抵抗がある。
そして、どちらに軍配を上げるかは、状況に応じて都合良く使い分けることになる。質料から実体を演繹する方が、物理学的な物体を元素の集合体と説明するのに似ていて、実体と属性を分ける方が分かりやすいという点ではプラトンか。質料も形相も同じ実体とし、社会学的に多様性を認めているという点ではアリストテレスか。結局、あらゆるものの本質である不滅な実体を示すことはできないし、普遍的なモナドのような実体を示すこともできない。
ただ!確実に言えることは、夜の社交場におけるアル中ハイマーの幽体離脱説を説明するには、イデア論の方が都合がいい。

5. 存在の原理
存在を、消滅しうるか消滅しえないかで分類すると、その実体が少し見えてくるかもしれない。イデア的な存在で消滅しないものがあるとすれば、DNAのようなものか?宇宙空間で消滅しないものがあるとすれば、素粒子のようなものか?何か体系をなして存在しているものは、いずれ消滅するだろうし、宇宙自体が消滅しそうな気がする。実体とは、消滅するものでなければならないのかもしれない。
何かを定義できるということは、何かの原理から演繹されるか、あるいは帰納されるかである。すべての実体が平等に存在するとなれば、数字の大小関係のように相互関係から演繹するぐらいであろう。数は他の数から定義できても、その数自体は証明できない。となると、基準が見えない。数の中にイデア的な存在があるのか?公理が証明できないように、存在もまた証明できないのか?あらゆる存在を数に還元すれば、すべての実体は、関係においてのみ定義できるだろう。だから、あらゆる財産は貨幣で換算され、命ですら貨幣価値で算出される。なるほど、「万物は数である」といわけか。
あらゆる存在は、何らかの関係によってのみ説明できそうだ。いや、そう信じたいから、「君のために俺がいる!」なんて浮いた台詞が吐ける。無を認識できるから有が認識できる。幻想に憑かれるから実存らしきものが見えてくる。存在の原理は、すべてこれで説明できるだろう。ただ、説明できるからといって、それが真理とは言えないけど...
そして、酔っ払いの存在は「なぜ酒を飲むのか?」と問えば、「そこに酒があるから」と単純化できる。これが、純粋な、いや純米な存在の原理ではなかろうか...

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