2011-04-17

"嘔吐" ジャン=ポール・サルトル 著

「LA NAUSEE (ラ・ノゼ)」とは、ブランデーの銘柄にあってもよさそう。やはり吐くほどの強烈な酒ということになろうか。その訳は、「嘔吐」とするのは誤りで、「吐き気」とするのが正しいという。活字的に座りが悪いことから、この題名になったそうな。ルビを振って「嘔吐(はきけ)」とする話もあったとか...
サルトルというと共産主義者という印象があるので、いまいち読む気がしなかった。しかし、本書はイデオロギーに毒されたところがなく、純粋な文学作品に仕上がっている。そして、実存主義的思考から生じる不条理と対峙する。あらゆるものは偶然的に存在し、それに対して人間は無力だ。その無力感を酒を飲みながら楽しむか、嘆いて絶望感に浸るかは好きにすればいい。もう一つの選択肢として、無意識無想の概念を加えたいところか...
本書が綴るのは、精神に静かに忍び寄る実存的病魔といったものである。人間が思惟したり認識したりする根本的原因は、自己の存在認識にあろう。人間は生涯この基底認識から逃れられない。それは精神を獲得した生命体の宿命であろうか?その正体が見えないだけに、あらゆる悩みの根源となり、慢性的に吐き気に襲われる。
吐き気が永遠に続くとしたら...嘔吐できるものがあれば、まだましというものか。

主人公は、図書館と場末の酒場に通うアントワーヌ・ロカンタンという男。彼は、中央ヨーロッパ、北アフリカ、極東方面を旅行した後、ド・ロルボン侯爵という18世紀の人物に関する史的研究を完成させるために、フランスの港町ブーヴィルに滞在している。そして、いつ日か精神の内に忍び寄る病魔を感じるようになる。ちょっと変で少し窮屈な感じ、ただそれだけのこと。だが、一旦精神の内に適当な場所を見つけたら、静かに収まって動こうとしない。それは思い過ごしに違いない。そう言い聞かせるが、疑う余地がない。やがて明確な形として現れてくるのだから。
仕事としての歴史研究、酒場のマダムとの色事、彼女との甘い思い出、ヒューマニスト独学者との出会い、そのすべてが吐き気を誘う。日常の変化になんとなく居心地が悪い。そう感じるのは、自分が変わったせいだと納得しようとする。なんと不愉快な解決法であろうか。
歴史では社会の閉塞感から大変革をもたらす。人間精神もまた内面の倦怠感から変革を起こすのだろう。ぎくしゃくしたものが一貫性を欠き、その矛盾に苛む。いったい精神の内で何が起こっているのか?思考は言葉と結びつかず、支離滅裂を繰り返し、意識が朦朧としていく。
彼は、ついに悟る。誰の意識の中にもアントワーヌ・ロカンタンなんて人物は存在しないと。それは単なる抽象的な概念のようなものに過ぎないのだと。意識しなければ存在すらできない。人の存在とは、そんなものかもしれない。だから、政治屋や報道屋は自己の存在感を強調しようと大声で叫ぶ。まったく鬱陶しい奴らだ。彼らが存在しなければ、世間は静かになるだろうに...
ところで、自分自身を余計者と考えるのは過失であろうか?社会への絶望、人間への絶望、そして自己への絶望などと膨らませていくと、存在するすべてのものが恥ずかしいものに見えてくる。その苦しみから逃れる術とは?あらゆる存在を否定するしかないのか?そして、苦しみすら存在しないと。
しかし、あらゆる存在は苦しみとの関係において余計なもの...と考えたところで、吐き気は収まらない。そうなると、存在の不条理を覆い隠すために、別のことを見出すしかあるまい。人生は死までの暇つぶしというわけだ。そのためには、自己を欺くことになりそうだが...

「人間が自分の理性を籠絡しておいていかに偽ることができるかに、私は感嘆する。」
人間は本来的に孤独である。あの世へは一人で旅立つしかないのだから。それでも、周りの人々と幸福や不幸を共有しているうちに、孤独ではないと信じられるようになる。いや、信じたいと願っているだけのことかもしれない。実際に、あなたは一人ではない!と励ましてくれる人たちがいる。だが、一人だと思い知らされた時、彼らを詐欺師だと思うだろう。一人かも知れないし、一人ではないかもしれない。どちらも精神にとっては、良くも悪くも作用する。結局、都合良く受け入れるしかあるまい。いずれ周りの友人や同世代の人々が去っていき、孤独に苛まれる日々が来るだろう。
自己の存在を崇めるほど、孤独という反動が返ってきそうだ。ならば、存在を無に還元できれば、真の自由が獲得できるだろうか?それでも孤独を感じるだろうか?世間は孤独を悪のように言うが、そもそも孤独は精神にとって厄介なものなのか?...などと自問しながら、老人病を患っていくのだろう。精神と正面から向き合うということは、孤独を覚悟することなのかもしれない。
有頂天になっている時は、充実感を満喫できて吐き気など催さない。人生で最も自信の持てる時期とは30代前後であろうか。それなりに経験も積み、仕事では中心的な存在となる頃。だが、周りが見えてくると、根拠のない不安に駆られ吐き気を催す。自信を構築してきた知識が、自信を崩壊させていくとは。失敗の可能性が見えてくると、それを極端に恐れるのは、そこに脂ぎった欲望が絡むからであろうか?しかし、それが通り過ぎると気楽になれる。記憶力や思考力の衰えにも諦めが生じ、いい加減さを楽しむようになる。恐怖心よりも精神の麻痺が優勢となれば、絶望ですら感じなくて済む。そして、知に対する純粋な渇望とは、無我の境地ということになろうか。

1. ド・ロルボンという人物の歴史研究
ド・ロルボンは醜男だったという。王妃マリー・アントワネットから面白がられるほどに。だが、宮廷のあらゆる女性をものにした凄腕の持ち主。首飾り事件で怪しい一役を演じて失踪した後、ロシアに現れパーヴェル1世の暗殺に関与したという。続いてインド、シナ、トルキスタンなどでスパイ活動に従事。パリに戻ると、ダングレーム侯爵夫人の唯一の相談役として権力を掌握する。70歳には18歳の美女と結婚。そして、反逆罪に問われ5年の牢獄生活の後に死んだという。ロシア皇帝のために高級スパイを演じながら、ナポレオンのためにアレクサンドルを裏切るという陰謀家。
その隠された歴史を調査するからには、証言の整合性を欠いて苛立つ。証言者たちが、サディズム的魔術師、あるいは理性を失った半狂人といった悪魔的人間に見えてくる。そして、謎めいた人物の存在を研究しているうちに、虚像を追いかけているような感覚に見舞われる。陰謀家には友人らしき者もいない。その孤独感を自分と重ねるかのように人間嫌いに陥る。ロカンタンにとって、自分の存在を正当化できる唯一のものが、研究対象であるド・ロルボンの存在だったのだ。彼は、自らの誤りをド・ロルボンを甦らそうとしたことだったと悟る。
過去の人物を研究すれば、そこに自分の居場所を見つけることができるのか?歴史家とはそうした性分を持った連中なのか?過去に自分の居場所を見つけるとは、なんとロマンティックな。言い換えれば、現在に居場所がないということか。未来に居場所を見つけるよりは確実かもしれないが...

2. カフェ・マブリーのマダム・フランソワーズとの色事
なにかと母港のようにカフェに通う。会話はなんの役にも立たず、ひたすら肉体をむさぼる。これが、憂鬱から解放される唯一の方法なのだ。愛という形のないものよりも、肉体という実体にしがみつくというわけか。だが、ふと現実を振り返ると、吐き気へと引き戻される。
ちなみに、夜の社交場の放浪者は、帰宅した途端に虚しくなり、どっと疲れがでる...と聞いた。

3. 昔の彼女アニーの思い出
過去の甘い思い出が癒してくれるとは限らない。むしろ、その反動で苦々しくなることがある。アニーと音沙汰がなくなって5年が経った。ロカンタンは記憶が甦るたびに吐き気を催す。いつのまにか、その微笑すら思い出せなくなる。そんな時、会いたいという手紙が届く。しかし、会ったところで愉快になれるかは分からない。彼女は高飛車で小悪魔的な存在。その強気の性格から喧嘩をふっかけられるかもしれない。ただ、手紙をもらった瞬間から、忘れていた彼女の微笑が甦る。なんだかんだと言いながら、結局会いに行く。呼び起された情愛を感じたいから...男とは、つまらぬものに期待をかけるものだ。

4. ヒューマニストの独学者
どちらが生を演じるにせよ、ド・ロルボンとロカンタンは互いの存在を必要としている。歴史家が研究を放棄すれば、歴史に埋もれた人物が甦ることはない。ロカンタンは、図書館で研究をしながら、過去の人物と現在の自分との存在関係で苛む。その側には、量子論だろうが進化論だろうが、ひたすらアルファベット順に読み漁るヒューマニスト独学者がいる。退屈を紛らわすことこそ精神の安住と言わんばかりに。
ヒューマニストにもいろいろなタイプがあるようだ。
「責任感の強いヒューマニスト哲学者、人間をあるがままの姿で愛するヒューマニスト、人間をあるべき姿で愛するヒューマニスト、同意を得てから救済するヒューマニスト、意に反しても救済しようとするヒューマニスト、生を愛するヒューマニスト、死を愛するヒューマニスト...」
彼らは互いに憎みあう。それは、個人としてであって人間としてではない。彼らは等しく有識者と呼ばれる。
「ヒューマニズムは、反主知主義もマニ教の善悪二元論も神秘主義も厭世主義も無政府主義も自己中心主義もすべて消化した。」
独学者は、実存と対峙し、自らの存在価値と対峙し、自己嫌悪に陥る。誰も相手にしようとしない哀れなヒューマニスト。教養の夢、協調の夢、そうしたものが一挙に崩壊し、恐怖心は嫌悪感となり、人間嫌いとなって孤独の殻に籠る。おまけに、図書館で触り魔事件を引き起こす助平野郎になりさがった。実存から逃避すると変態行為に及ぶのか?自己の存在を否定し自棄になれば、犯罪を正当化できるというわけか。独学には孤独の修行が欠かせないようだ。
実存を肯定しようが否定しようが、何かに従順になるということは精神を怠惰にするだろう。その一方で、真の自由を求めて思考を続けたとしても、精神の存在は見えてこないだろうし、そのまま居場所を失うだろう。精神とは、怠惰に向かうか居場所を失うかしかないのか?そうなると、精神病患者とは、あえて精神の限界に挑んだ勇気の持ち主ということになりそうだ。
「私は自由である。つまり、もはやいかなる生きる理由も私には残っていない。」

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