2012-03-18

"経済学批判" Karl Marx 著

「経済学批判」は、「資本論」、「共産党宣言」などと並ぶマルクスの代表作の一つ。その内容は、「資本論」の第一巻第一篇に要約されるという。この書の刊行が1859年、対して「資本論」が1867年から1894年にかけて成立していることから、資本論大構想の一環だったことが想像できる。
ただ、「共産党宣言」の成立が1848年とずっと前なのに、本書は共産主義を賛美するどころか、その言葉にもほとんど触れていない。ブルジョア社会と古典派経済学、あるいはヘーゲル哲学やフランス社会主義を批判しているが、共産主義との関係は?結局、共産主義の具体像を描ききれなかったのか?余剰価値の悪魔性や貨幣至上主義への批判、あるいは大量生産における経済活動の同質化による精神的弊害が指摘されるのは、むしろ高度な自由主義を唱えているように映る。マルクスが提唱した共産主義とは、資本主義の延長上に描かれていたのだろうか?疑問はますます深みに嵌っていく。
実は、「資本論」はあまりにも大作が故に生涯手を出すことはないと決めてかかっている。それでもなんとなく意識があって、周辺の書籍に手を出し始める。泥酔者の衝動とは恐ろしいものよ。次に手を出すのは「共産党宣言」か?んー、いまいち気分が乗らない。というのも、粛清のイメージがあまりにも強烈だからだ。スターリンしかり、文化大革命しかり、ポルポトしかり、日本共産党しかり。
まぁ...マルクス思想があまりにも高度な精神を求めるが故に凡人には理解が難しいこと、いまだ真の社会主義国家や共産主義国家が出現していないだけのこと...などと想像すれば拒否反応も薄れる。ちなみに、実際に「共産党宣言」を読んでみると元の木阿弥だけど...それは次回扱うことにしよう。

本書の「序言」は、「唯物史観の公式」を綴ったとして有名だそうな。
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。
人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。」
なるほど、企業活動における個人的欲望による生産は、やがて個人の意思による社会的生産の段階へと移行し、法律で規定される所有という概念にも疑問を持つようになるというわけか。本書を全般的に眺めても、平等的分配よりも社会的生産を重視しているように映る。受動的な活動ではなく、能動的な精神の解放を経済活動と重ねているような、なんとなくソクラテスの教義「善く生きる」に通ずるものを感じる。
さらに、近代経済は労働を中心に価値が形成されるとしている。
「私的生産物の交換が組織化する社会主義、商品は欲するが貨幣は欲しない社会主義が、根底から論破される。共産主義は、なによりもこの「にせの兄弟」をかたづけなければならない。」
ここでいう労働とは、労働者の活動はもちろん、企業経営や取引など生産に貢献するすべての活動を含んでいるのだろう。金鉱を掘り当てるのも、金融屋が新たな価値で欺瞞するのも、詐欺も、環境破壊も、労働の結果だけど。その目的は、社会貢献のような活動を思い描いているのだろうか?ただ、社会貢献という言葉も抽象的な概念で、人間社会のためを究極に求めれば人間至上主義に陥る。人類の歴史には、高尚な理想主義を凡人が解釈したために、しばしば暴走してきた経緯がある。マルクスは、高度な労働意識や高尚な自由を求めているのだろうか?とても既存の共産主義や社会主義からは想像できない。少なくとも「社会的生産」とは、国有化とはまったく異質に映る。
残念ながら本書を読むだけではマルクスの理想像は見えてこない。だが、資本主義の欠点が指摘される点は大いに参考になる。その分析は、自然学的な様相を見せる。経済学を自然主義的なロビンソン物語に帰する試みとでも言おうか。

歴史を振り返れば、戦争は平和よりもはるかに昔から発達し、戦争経済という形態がある。価値の創出や貨幣の用い方といった経済的手段にしても、プラトンやアリストテレスの時代から論じれられてきた。資本の概念も、土地や奴隷労働を元手にした伝統的な生産の仕組みがある。
18世紀、イギリスで産業革命が起こると、世界的な工業化の波を引き起こし、資本の多様化をもたらした。賃労働や土地の他に、貨幣や有価証券、あるいは機械設備や工場など、生産に向けられるすべての要素が資本となりうる。流通経済における余剰価値の創出は、再投資によって自己増殖する経済システムをもたらした。
しかし、資本のスムーズな流れが産業を拡大するとなると、あらゆる資本が仮想化し流通が煽られることになる。現代の市場では金融派生商品、いわゆるデリバティブが溢れ、必要以上に資金の流れを煽る傾向がある。乗数理論や貨幣供給の仕組みは、貨幣量を増大させるというパラドックスを生む。かつて錬金術師が平凡な金属から金を作りだそうとしたように、金融屋は貨幣を仮想的に増産しようとする。いまや貨幣は政府にも手に負えなくなり、矛盾を創出しながら独り歩きを始めた感がある。政府の思惑に支配されないという意味では良い傾向かもしれないが、別の意味では弊害も多い。マルクスはこうした現象までも予感していた節がある、と解釈するのは行き過ぎだろうか?循環経済における商品は、それ自体の使用価値よりも交換価値が重んじられると指摘しているあたりに、そう感じずにはいられない。
「貨幣流通は恐慌なしにもおこなわれうるが、恐慌は貨幣流通なしにはおこりえない」

1. 地金主義論争
デヴィッド・リカードら地金主義者に対する批判は興味深い。
1810年頃、商品価格の騰貴と金の鋳貨価格の下落についての原因分析で、地金主義者たちは1797年以来のイングランド銀行の兌換停止に基づく銀行券の過剰発行に原因があるとした。対して、反地金主義者たちは不作続きと国際収支の悪化に原因があるとした。本書の立場は後者で、地金主義者は銀行券や信用貨幣の流通を、単なる価値表章の流通と混同していると指摘している。そして、取引は信用から成り立つので、必要以上の紙幣は発行されないとするアダム・スミスの理論を支持している。ちなみに、アダム・スミスは反地金主義の側にいるようだ。
確かに、信用が機能すれば銀行券の過剰発行が起こらないだろう。機能すればだけど。イングランド銀行の兌換停止とは、銀行券と金との兌換が停止できるということである。伝統的に銀行券はいつでも金と兌換できるはずだが、それを銀行が停止できる権限を持つとなれば、許容量よりも多く発行する誘惑に駆られるだろう。本来、金の保有量に対して発行されるはずの銀行券は、流通を煽って手数料を儲ける道具となる。現代風に言えば、自己資本比率との関係に似ているように思える。
銀行券が過剰発行されればインフレになるのも当然で、リカードの言い分も分かる。しかし、当時のイギリスの経済状況からすると、反地金主義者たちの見解の方が説明がつくのかもしれない。国際的な貨幣流通は、イギリスとヨーロッパ大陸との貿易でもわずかで為替相場に影響するほどではなく、むしろ政治色の強い時代だったという。リカードの貨幣理論を評価するのに難しい時代であったことは、マルクスも認めている。
また、商品価格や貨幣価値が、一国に存在する貨幣の総量によって規定されるというのは間違いだという。実際、貨幣は流通されている場合もあれば、貯蓄されている場合もある。貨幣価値を考察するならば、流通する貨幣量と商品を結びつけるだけではなく、現存する貨幣量全体を考慮する必要があろう。更に支払い手段の多様化により、商品流通と同時に貨幣流通が起こるわけでもない。一括払い、分割払い、仮払いなんて手段は古くからある。決済方法の多様化に時間変数が加われば、商品流通と貨幣流通の関係は単純には規定できないだろう。要するに信用の拡大であり、その計測を誤れば不良債権が生じるリスクを高める。すべてのリスクを金利で吸収できるとも思えない。マルクスがここまで予測していたかは分からないが、少なくとも支払い手段の多様化と時間の役割を指摘している。

2. 経済学の方法論
一国の経済を考察する場合、人口や階級、輸出と輸入、生産と消費、あるいは商品価格などから始めるだろう。社会分析で人口や社会階級から始めるのは正論に見える。
しかし、立ち入って考察するうちに、人口は大した要素ではなく抽象概念に過ぎないことが分かってくるという。階級にしても、基礎である賃労働、資本、交換、分業、価格などとの関係を論じなければ、単なる抽象論に終わると。それでも、人口という混沌から、具体的な要素を考察して、再び人口という抽象概念へと到達するのが筋道だとしている。そうすることによって、多くの規定と関連とを持つ豊富な総体としての人口の像が描けるという。経済学は、具体的な要素を考察したところで、いつも終わっていると批判している。
抽象概念から経済政策が導けないのも確かだ。だから、具体的な要素を検討する。だが、再び抽象概念に立ち返り、哲学的な思考が試せないのであれば、本来の目的を見失うことになろう。理論と実践のバランスとは最も難しい課題であるが、それを避けていては学問を志すことにはならない。あらゆる分野で偉大と呼ばれた学者たちが、同時に哲学者であったことは驚くに値しない。
また、学問における自己批判の寛容さを求めている。
「キリスト教は、その自己批判がある程度まで、いわば可能的にできあがったときにはじめて、それ以前の神話の客観的理解を助けることができるようになった。こうしてブルジョア経済学も、ブルジョア社会の自己批判がはじまったときにはじめて、封建的、古代的、東洋的諸社会を理解するようになったのである。」
自己を客観的に理解できるようになるには、自己批判がその第一歩というわけか。そして、自己嫌悪になり、人間嫌いに陥る。どうも自己理解となると、絶望的にならざるを得ない。悟りの境地とは、自己否定を受け入れられるほどの寛容さに到達するということであろうか?やはり、夜の社交場でホットなお姉さんにチヤホヤされながら、自己存在を満喫する方が幸せだ。そして、いつも金を毟り取られ、財布に八つ当たりする。これがアル中ハイマー流経済学の方法論というものよ。

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