2012-03-04

"代議士の誕生 日本式選挙運動の研究" Gerald L. Curtis 著

ときーどき、テレビでも見かけるジェラルド・カーティス氏。ちと古いが、選挙の仕組みから派閥の構造までの実態を、これほど見事に暴いた書を他に知らない。本書は、元コロンビア大学教授が1967年の衆院選で大分県の自民党候補者の家庭に居候し、日本の選挙運動を研究分析した博士論文である。
現在、一国の政治や経済の仕組みを分析する場合、マクロ的なアプローチがなされる風潮がある。確かに、社会の多様化が進む中で、ミクロ的なアプローチにどれほどの効果があるかは疑問である。
しかし、だ。統計の利便性が発達する情報社会で、逆に統計情報の虜になる傾向があるのは否めない。社会分析の基本は、多くの事例に触れてみることであり、あくまでも地道な作業の積み重ねであろう。皮相的な観察では、物事の本質から遠ざかる。本書がこだわっているのは、まさにこの点である。そして、日本のムラ社会的性格から、国会で最も割合を占める中小都市出身の代議士を観察することの意義と、その典型例を見出そうと試みる。外国人が研究対象とするのはほとんど首都圏であろうが、あえて地方を題材にした眼力に感服する。

本書は、政党内の派閥抗争を激化させ、政治資金を高騰させている原因は、複数定員選挙区単記投票制と日本固有のムラ社会的体質にあると指摘している。すなわち、政治活動で派閥と代議士が癒着し、選挙運動で地域社会と代議士が癒着する構図である。
当時は中選挙区制で、その制度的問題が多く指摘されてきた。その結果、1996年から小選挙区制に移行する。比例代表制が同居するという、やや偏重した形ではあるけど。だからといって、政治資金の高騰が抑えられ、派閥抗争が解消されただろうか?なにも派閥が悪いわけでもあるまい。政治理念や政策論議上で意見が一致した集団ならば機能するかもしれない。だが、政治とはまったく関係のないところで結びつくから頭が痛い。しかも、派閥を利かせたチルドレン戦略がまかり通る。もっとも彼らはグループと称しているが。
政治家は、官僚体制の悪性を訴える。ごもっともだ!しかし、それは政治家どもの官僚的体質も含まれている、ということに気づかない。民主主義は意見を戦わす自由競争の社会であるはず。なのに、連帯行動をとることが統制のとれた良い組織だと評価される。政党内で議員たちが派閥ごとにまとまって行動する光景は、異様としか言いようがない。
また、相変わらず、様々な任意団体による固定票の勢いは衰えない。創価学会、日教組、連合、医師会、歯科医師会、青果業組合、スポーツ団体など...政治理念や政策を掲げて堂々と戦う候補者ほど、選挙の勝利が遠のいていくとは、これいかに?
どんなに選挙技術が進化しようとも、いかに民衆を欺瞞し、いかに洗脳するかという戦略は、アリストテレスの時代から変わっていない。弁論術と修辞法は永遠に廃れることはないだろう。これが人間社会の宿命であろうか。ただ、民衆の側にも、論理的思考と客観的観察が加わると、そんなに悪い社会にはならないのかもしれない。現時点では政治ほど、これらの思考から遠くに位置するものはないように映る。

日本では、いまだ民主主義が始まっていないという意見も少なくない。選挙が民主主義のすべてだとは思わないが、多数決が実践的な解決法であるのも事実だ。政治体制の健康診断をする上でも、選挙制度を検証することは意義深いであろう。
ただ、日本社会では、多数派からはみ出すと、極端に怯える心理が働く風潮がある。後援会もどきはどこからでも忍び寄り、ヘタをすると町内会自体が後援会と化す。うちのような零細業者にも、商工会関係から入会を勧められることがある。むかーし横浜市民だった頃、町内会の集まりに参加したことがあった。町内会が支持する候補者が落選すると、裏切り者がいる!などと発言する爺さんがいた。二度と出席するもんか!と決意したものだ。親父の田舎ともなれば、選挙は一大イベントである。誰を支持するかは農協様から御達しがくる。知り合いでもなければ政策論議もないのに、一致団結して候補者を支持する姿は異様だ。普段は優しくて良い人たちなのに、集団化するとこうも豹変するものか?新品のYシャツに身を包んで農作業を手伝えば、汚れた服を見るだけで素朴な人々はイチコロだ。選挙運動となると自転車で這いずり回るパワー溢れる連中が、大震災となると沈黙する。露骨すぎる奴ほど選挙に強いわけか。
民主主義という看板を掲げているくせに、選挙がまったく自由競争の原理をなしていない。これが現実だ。そもそも、ムラ社会と民主主義は相性が悪いのだろうか?そう悲観しなくても、浮動票は全国的に広がりつつある。あと百年ぐらいすれば日本社会も捨てたもんじゃないかもしれない。あるいは、情報社会の進化がなんらかの変革をもたらしてくれるかもしれない。中選挙区制から小選挙区制に改正したところで、大した変革をもたらさなかった。いや、別の弊害を曝け出す。総理大臣がころころ変わるのは相変わらず。政権交替したところで元々旧式の自民党連中。それも過渡的現象として仕方がないのかもしれない。小選挙区制は少数政党には不利で、二大政党制になりやすいと言われた。そのために政権交代の機会が増え、権力の自由競争が促進できるという目論見があった、はず。なのに、議席数を減らした少数政党が、政権交替したというだけで大きな顔をする。おまけに、党首が落選した政党がキャスティングボートを握るとは、これいかに?政界の論理はとんと分からん。法律がどんなに立派に整えられようとも、慣習とならなければ効力を発揮しないというわけか。少なくとも、選挙制度を変えただけで、半世紀以上も蔓延ってきた後援会宗教が抹殺されるとは到底思えん。

1. 中選挙区制の時代
単記式の複数定員という仕組みが、与党と野党で定員を分け合うような馴れ合いを生じさせた。さらに、同じ選挙区から同一政党の候補者を複数当選させることが、暗黙のうちに派閥の縄張りを形成する。当時はまだ、自由党と民主党が統合された余韻が残り、両者の勢力争いも絡んでいる。現職者は後援会組織によって地元との癒着を強め、後継者は派閥の息のかかった現職に近い者が指名される。いわば、血のつながりのない世襲制だ。血のつながりがあれば、そりゃ濃ゆい!
政治屋は政治活動を資金を集めることだと勘違いし、後援会組織は選挙運動を票まとめをすることだと勘違いする。そして、異端的な行動をとると村八分にされる。選挙活動は、政策論議よりも後援会を回って握手する方が、はるかに合理的だ。また、一つの選挙区には公認候補の数だけ派閥の後ろ盾がある。固定票が大きいほど公認の力が信頼できる。当選回数が増え入閣の可能性が高まれば、それだけで現職の公認が有利に働く。
そんなところに新人候補が割って入ろうものなら、締め出しを喰らうのがオチだ。そこで、対象選挙区でまだ縄張りが形成されていない派閥を頼り、そのボスと新人候補は義理で結ばれる。政界の義理とは、選挙資金を意味する。そこには派閥に属すしか政界の門は開かれないという図式があったとさ。本書のモデルである元自民党議員の佐藤文生氏は、村上派の新人候補として大分2区から出馬したのだった。

2. 大分県の新人候補を選んだのはなぜか?
代議士のタイプは、中央型と地方型に大別できるという。中央型代議士で優勢なのは中央官僚出身で、他には全国紙の記者、大企業経営者、全国的利益団体の代表など、いずれも中央官庁や政党幹部とのパイプがある。一方、地方型代議士は圧倒的に地方政治経験者が多く、中小企業や地方利益団体や地方新聞との関係が強い。官僚出身議員は、地方出身者を粗野で田舎者と侮り、自分たちは高度に熟練した行政官のエリートだと自認している。地方政治家は、官僚出身議員が傲慢で、自分たちこそ民意を最も反映できると考えている。
自民党では全国本部と都道府県連の双方で候補者を決定するが、中央型議員と地方型議員によってどちらに肩入れするか、その戦略も変わってくるという。佐藤文生は、典型的な地方型で、大分県議員として地方政治に費やしてきた。だが、彼の場合は少し偏重していて中央型議員の戦略を用いている。当時、大分2区では、保守系が2人、社会党が1人という当選率が繰り返されていた。こうした安定地盤で、新人が3人目として公認を受けることは難しい。実質の競争相手は自民党の現職議員2人というわけだ。そこで、大分県の有力者だった岩崎貢氏を通じて派閥の一つ村上勇氏と交流するが、1963年の衆院選で際どく落選する。
さて、次の衆院選では、ちょうど政界のスキャンダル沙汰で佐藤栄作内閣に批判が集まり、1966年12月「黒い霧解散」に追い込まれた。中曽根派をはじめとする反主流派は、党に対する忠誠心が欠けているとして公認が減らされる。佐藤文生も例外ではなく、大分県連からも激しく公認に反対される。しかし、村上派の支援で公認される。二度の佐藤栄作改造内閣で村上派から誰も入閣できなかったので、その代償として村上派の候補者を全員公認するように求めたというわけだ。そして、スキャンダルの波に乗って、新人候補の若さと保守派の清浄化を訴えてトップ当選する。佐藤文生は、中曽根康弘氏との交流も知られ、中曽根内閣では郵政大臣に就任している。
ここで新人候補者を選んだ理由は、組織づくりや運動戦略の作成過程を観察するためだとしている。常勝候補では、組織体制もマンネリ化しているだろうから。更に、都市と農村の双方の要素を具えた準農村地区に注目している。準農村地区とは、15歳以上の労働人口の20ないし40%が、第一次産業に従事している選挙区のことを言うそうな。当時、人口動態の変化に選挙区割りの再編成が追いつけず、準農村選挙区の衆院議員の数が分不相応に多いと指摘している。ついでに、あまり方言が強くない、著者の日本語が通じるあたり。これらの条件を踏まえて、中曽根康弘氏に面会して推薦してもらったそうな。

3. 供託金
公職選挙に立候補するのは、技術的には簡単だ。立候補の意思を明示した文書に添えて供託金を差し出せばいい。当時の供託金は30万円(1969年から)だったそうな。
現在は、高騰を続けて小選挙区で300万円、比例区で600万円も供託しなければならない。宣伝などの不正な目的から、むやみに候補者が乱立するのも困るが、国民主権の観点からすると高額という印象は拭えない。ちなみに、供託金の国庫への垂れ流しなんて噂も聞こえてくる。資金のない者が立候補するには、暗躍するボスの目に留まるように振る舞うのが手っ取り早い。チルドレン戦略を助長するように映るのは気のせいか?

4. 固定票と浮動票
本書は、浮動票の位置づけにおいて、欧米的と日本的の解釈に微妙な違いがあることを教えてくれる。浮動票は固定票との対立概念としてあるわけだが、日本では農村部の票に対して都市部の票という感覚が強いと指摘している。日本の伝統文化では、固定票を投じる者が尊敬され、地域社会の合意と村の調和に適切な関心を示した人物と見なされるという。んー、時代が違うとはいえ、ちと引っかかる。
欧米社会では、浮動票や自主票なんてものは普通で、これらの用語が使われるのは、「連続二回の選挙を通じて同一政党を選択しない」といった場合に使われるのだそうな。浮動票というと、私的、個人的な結びつきから解放された票ということになるのだが、日本社会では町内会や所属する団体などの影響力はあまり考慮されないという。だから、「保守党系浮動票」なんて表現も、少しも矛盾しないという。どこぞの大手新聞がこのように表現したそうな。欧米からは宗教新聞と呼ばれ、東の方から昇るらしい。
固定票は、必然的に「票まとめ」という概念に結びつく。固定票の概念は、なにも日本固有のものではない。むしろ部分的には、欧米の方が宗教的な激しさがある。だから、議論にもなりやすい。一方、日本では、満遍なく全国的に広がっているので、周りに疑問を持つ人が少ない。特に農村部では、町内会や農協などの交友関係、あるいは親戚関係の結束力が強いので、票まとめが容易に行われる。対して、都市部では核家族化が進み、それほど結束力があるように見えないが、宗教団体、企業体、商工会、労組などの影響力が強いのは、むしろ都市部の方だという。それでも近年は、無党派層が広がり、本当の意味で政治家の人格や政策で投票する人も増えているのではなかろうか。マスコミに影響されやすいことも確かだけど。バラエティー番組が選挙運動を助けるなんて現象もあるけど。

5. 後援会は何でもやります!
当初、後援会は政治家個人のために組織されたが、継承されていくうちにタカリ屋と化す。アメリカでも似たような後援会はあるが、選挙資金を集める目的が主だという。日本では逆で、慰安旅行やイベントなどに招待するという形で資金がばらまかれる。その資金は、大会社の会長報酬や顧問料、あるいは派閥のボスからの資金提供など。政治家は、会社役員や校長とも親しい。となれば、就職や進学の世話から結婚相手の紹介まで。秘書は、冠婚葬祭、ご祝儀、弔電の手配など隅々までに手を伸ばす。最近は、老人クラブや老人施設が狙い目か。政治家は、サービスを拒否して、ケチという悪評が広まることを恐れているという。
佐藤文生が協力を求めたのは、理髪師組合、美容師組合、ホテル経営者協会、バーテン協会、助産婦協会、マッサージ協会、調理師会など... 人脈は同窓会やOB会などなんでも利用する。文生の名を掲げる「文調会」なんてものもあるそうな。政党ごとに縄張りがあるのは周知の通り。例えば、日教組がどこで、創価学会がどこで...一応、敵の縄張りにも声をかけるようだが、まず効果はない。
自民党代議士の後援会の会員数は驚異的だという。茨城県の後援会は会員数が4万人を超えるとか。大阪三区も3万人を擁する後援会があるとか。群馬県のある選挙区では、福田赳夫氏の後援会が5万人いたとか。中曽根康弘氏も同等の規模だとか。中でも最大の後援会は、大野伴睦の「睦友会」で、公称15万人の会員を擁すると伝えられたという。当時の自民党全体では、優に1千万人を超えるものと推測されるという。
政治団体は、婦人会、青年会、登山クラブ、音楽愛好会といった文化団体を巧みに装い、政治資金の流れを隠蔽する。その秘密主義はまるで秘密結社!趣味的な性格を強調すれば入会するのも気楽だ。後援会活動では、みんなで一緒にポスターやパンフレット作りに励んでいると一体感が生まれる。学校のクラブ活動や文化祭活動のように。候補者はピラミッド組織の上から通達が降りてくるだけなのに、会員同士の仲間意識を育んで必死に支持する。そこに政策論議などない。表向きの政治集会や事前運動のための政治教室を開くものの、喋る事は間違いなく地元を重んじる内容だ。
そして、当選という結果と結びつくと、達成感という快感を与える。その心理的特徴は自主的に活動していると自認していることだ。だから、選挙違反のような行為が発覚しても末端で処理される。ある意味、宗教よりも質ちが悪いかもしれん。

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