2012-03-11

"政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年" Gerald L. Curtis 著

ジェラルド・カーティス氏をもう一冊。知日派ともなれば政界との関係も親密となり、日本にとってもアメリカにとっても危険人物と目されることがある。ときーどき見かける時事対談では、旧自民党議員と団欒する印象もある。なので、あまり関心が持てなかった。
ところが、著書「代議士の誕生」(1971年刊行)に偶然出会って、その緻密な観察力に感服した。技術論文としても参考にできる点が多い。ただ本書は、40年前のパワフルな印象とは違い、網羅する範囲も広く濃密さに欠けるのが、やや惜しい。日本での生活を総括した回想録だから仕方がないか。ちなみに、写真も別人か?
「代議士の誕生」は、アメリカ人向けの論文を山岡清二氏が翻訳したものであった。本書は、日本人向けに直接日本語で書くことにこだわっている。英語ではニュアンスが正確に伝わらないからだという。知日派としてのプライドもあるのだろう。「郷に入れば郷に従え」の実践はタイトルにもよく表れている。ちなみに、肉料理よりも魚料理の方が好きだそうな。
カーティス氏は、民主政治の基本は「説得する政治」だと主張する。それは、政治家に対する説得、政党に対する説得、そして、なによりも国民に対する説得である。癒着でもなければ寄り添うことでもなく、論理的なビジョンと将来設計による説得である。これが前提されなければ、国家サービスの根幹である増税議論なんてできるはずもない。政界の論理は数にばかり囚われ、政策的な論理から掛け離れ過ぎている。だから頭が痛い!

本書は、知日派のアメリカ人が語る日本観である。カーティス氏は、「謙遜の美学」は世界でも珍しい特徴で、むしろ誇りに思うべきで、広めてほしいと指摘している。広めるということは、自己主張を強めることであり、謙遜と反するところもあるのだけど。こういう文化は、あまり欧米にはなく、やたらと自分の能力を宣伝する風潮があると嘆いている。どこの民主国家でも政治ショー化する傾向にあるのだろう。日本人自ら日本の美を否定して、文化を崩壊させることを懸念しているようだ。近年、日本の政治もパフォーマンスを重視する傾向がある。いまや「西洋化」という言葉も死語になりつつある。「美しい国」なんて掲げた首相もいたが、もはや美しくないと主張しているようなものか。「失われた10年」と言われる状況下で、政治家が抽象論を持ち出しても混乱させるだけ。そして、失われた20年となった。
カーティス氏は、政治においても欧米かぶれする必要はないと指摘している。日本の民主主義は、なにもアメリカに強制されたものではなく、土着の文化から育まれたものであるという。GHQのおかげで加速したのは事実だけど。
それにしても、「代議士の誕生」では、中選挙区制を悪魔のような言いようであったが、本書では小選挙区制を悪く言い、むしろ日本人文化には中選挙区制の方が向いているとまで言っている。小選挙区制は、政権交代を促しやすいダイナミックなシステムだと言われた。アメリカのような多民族国家ではまとまりを欠くので、二大政党に集約できる仕組みがあると政治運営上ありがたい。だが、日本のように単一民族国家では価値観が似通っているので、二大政党になってもその違いが現れないとしている。確かに、自民党と民主党の違いはよく分からん。どちらがバラマキ度数が高いかぐらいの違いか。ムラ社会的体質の方が、選挙制度よりもはるかに優勢ということであろう。実際、中選挙区制に戻せ!と叫ぶ議員も少なくない。
しかし、小選挙区制を評価するのは時期尚早であろう。地方選挙に目を向けると、いまだ中選挙区制であり、癒着議員が大勢いる。新聞に、与党大敗!などと見出しが踊ったところで、2,3議席失っただけ。確かに、得票数を見れば大敗なのだけど、議席に反映されないのが現実だ。
法律にどんなに立派な条文を持ち込んだところで、慣習に従うことになる。政党間の癒着は相変わらず。選挙に勝利したわけでもない万年野党が、政権交代したというだけで大きな顔をする理屈が分からん。党首が落選した政党が大臣ポストまで手に入れるとは、これいかに?政党同士で選挙協力するのもおかしい。政策競争を放棄しているではないか。
おまけに、55年体制が崩壊してもいまだ国対が存続する。憲法第41条に「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」と謳われているにもかかわらずだ。一昔前は、大臣ポストよりも重要視され、国対族が暗躍した。いまだに国会が政策立案の重要な場になりきれず、パフォーマンスの場となる。どうせなら国対委員会を国会に昇格させて、他の国会議員をリストラしてはどうだろう。
さて、あと何回政権交代すれば...民主主義への道は遠い!さらに20年ぐらいは軽く失われそうか。

1. やり直しのきく社会
アメリカ社会は、遅咲きのタイプに教育であれ、企業であれ、寛容だという。大学を変えることも、専攻分野を変えることも、大学院で学部と違う分野を専攻することも珍しくない。他の大学で取得した単位も、無効にならない柔軟なシステムが整備されている。成績が良く、推薦状と、希望する大学院で勉強したいというエッセイが面白ければ、二流大学からでもハーバードやプリンストンやコンロンビアなどの名門大学に入ることも可能だという。これがアメリカ社会の高等教育の柔軟性と強さか。著者自身が、ニューヨーク州立大学音楽部から、ニューメキシコ大学へ編入して社会科学一般を専攻、そしてコロンビア大学院政治学部に進学している。もともと日本と縁があったわけではなく、学者を志したわけでもないらしい。
いろんな事に挑戦してみなければ、自分を虜にする専門分野に出会うこともできない。いろんな経験ができれば、卒業した時に大人になっている可能性も高い。日本社会では専攻分野を変えることも難しく、いつまでたっても大人になりきれない。いや、冒険心は子供心から始まる。最初からレールの敷かれた人生というのは、非常に視野を狭めるだろう。それでも近年は、終身雇用と年功序列の二枚看板は崩壊し、おまけに就職難を招いている。新人研修で海外旅行がセットだったバブル時代よりは、今の若者の方がはるかに真剣に考えているだろう。博士号を持った卒業生が、居酒屋でアルバイトしているのをよく見かける。就職したくてもできない社会は、多くの潜在的能力を持った人材を失っているに違いない。正規雇用と非正規雇用の格差を問題にする政治家や識者も多いが、正規社員では得られない自由を求めている人も少なくない。エリート官僚社会では、フリーターのような存在は不真面目で堕落者にでも映るのだろう。
ちなみに、おいらも最初に入社した会社で生涯勤めるつもりでいたが、いつのまにか転職をし、いつのまにか独立していた。周りには、社長や取締役という肩書きを持った連中が多い。その実態は、みんな似た者同士でプータローのようなもの、と言ったら怒られるか?結婚して子供がいるから自由に行動できない!とぼやく人もいるが、周りの多くは既婚者で子供もいる。離婚慰謝料を払っている人が約1名、ゴホゴホ!挑戦したいことがあれば会社を辞め、人生をやり直す。そういう価値観を持った人が増えているような気がする。忍耐が足らない!という見方もできるけど。従来の教育や財界の慣行に失望した人々が、若年層だけでなくあらゆる世代に拡がりつつあるということは感じる。人間というものは、年齢に関係なく、突然何かに目覚めることがあろう。晩年に開花する人もいれば、死後に開花する人もいる。中学校では高校進学で人生が決まると叩きこまれ、高校では大学進学で人生が決まると脅された。だが、社会にでてみると、そうでもないことが分かってくる。もちろん、反社会的行動をとればリスクも大きい。もともと日本社会には異端児に冷たい風潮がある。だが、成功者のほとんどは異端児である。
アメリカでは、大学を卒業してすぐに就職せず、いろんな冒険をするのが普通だという。視野を広げるために、海外へボランティアに出かけたり、長期滞在したりと。自分のやりたいことを決めかねている若者たち、あるいは職業を変えてみたいと考える青年たちは、潜在的にたくさんいるだろう。そういえば、突然、稲作をやる!と宣言して修行に行ったエンジニアがいた。
本書は、日本では平等と公平の違いがよく分かっていないと指摘している。公平とは、平等にお金をばらまくことではあるまい。

2. 政権交代
アメリカの政権交代のできるダイナミックな政治は、閉鎖的な日本から見れば魅力的だった。少なくとも、高度成長期の負の遺産として政界、官界、財界の癒着構造を完成させた時代には、そう映った。
しかし、アメリカの政治システムにも、日本に負けじと短所が多い。選挙戦で異常なほどカネをかける。大統領の意思はいつも議会に邪魔され、日本の「ねじれ国会」と似たような状況が慢性化している。民主主義とは、本質的に揉めやすい社会体制なのだろう。社会が多様化し多くの意見が混在してくると、政治の動きも鈍くなる。世論もしばしば間違いを犯す。
そんな状況にあっても意思決定できるのは、政治家の判断力の違いであろうか。政治理念や政治哲学において、政治家の教育レベルの違いも浮き彫りになる。そもそも、代議士一人一人が判断するのであれば、チルドレン戦略が機能するのは奇妙である。アメリカでは、政党に所属していても最終的には代議士個人が判断するので、一人の抱える政策スタッフの数が、日本のそれと比べものにならないほど多いという。政党が抱える政策組織も半端ではないようだ。ただ、政策を作る人が共和党と民主党で違うために、外交政策の継続性で一貫性が保てない恐れがあるという。
一方、日本では、官僚が政党のシンクタンクの役割を担っているという。うまく官僚を使えば一貫性の点で有利となるはずだが、「政治主導」を履き違えて官僚を締め出せば、日本の政治システムは簡単に崩壊すると指摘している。選挙戦略の秘書は多いようだけど。付け加えるならば、「脱官僚」を叫ぶ政治屋どもの最大の問題は、彼ら自身が官僚体質に陥っていることに気づいていないことであろう。
政治家は、あらゆる分野への影響を考慮しながら一つ一つの案件を決定しなければならないので、総合的な知識と視野が要求される。だが、一人であらゆる分野の知識を得ることは不可能である。となれば、抱える専門スタッフを統合する能力が求められる。それを自覚して立候補している代議士がどれだけいるだろうか?問題は、政治の勉強をしない人が政治家になっていることであろうか。やはり、余計な議員数を思いっきり削るのが、政治改革への近道のような気がしてならない。
野党時代の民主党は、自民党が政治情報を公開しないから、実態が把握できず正確な政策が立てられないと批判してきた。そして、いざ政権担当することになると、それをマニュフェストを修正する言い訳にする。本当に実態が分からなかったのか?民主党の多くが元自民党議員だし、大臣や重要ポストを経験しているはずだけど。となると、再び自民党が政権に返り咲いても、またもや正確な政策が立てられないということになるのか?政党間で情報が共有できないとすれば、政策論争自体が無意味となる。もはや政党政治の崩壊を意味しているのか?

3. 政界のドンたち
著者は、佐藤栄作氏から福田康夫氏までの20人の首相のうち19人と面識があるという。芸者スキャンダルの宇野宗佑氏以外は。
優れた政治家は、自分が置かれている立場から離れて、状況分析を客観的にできる才能を持っているという。著者が知っている政治家は、政治状況を話すとき、第三者のように自分の名字を使って話したそうな。「三木は」とか「竹下は」という具合に。時代が変われば、人の価値観も変わり従来の政治手法が通用しなくなる。竹下登氏は、自分が過去の政治家になったことを自覚している感じだったという。佐藤栄作氏や田中角栄氏から学んだ派閥政治の行き詰まりを感じていたそうな。結局、暗躍することになるけど。
この時代は、政治とはなによりも権力闘争という時代であったという。政策は官僚任せ、政治家は権力闘争に専念する。しかし、消費税導入のような国の舵取りで重要な政策では、政治生命を犠牲にする覚悟もしていた。彼らは、権力ゲームを話す時が一番イキイキしていたそうな。
竹下氏の話で最も印象的だったのが、田中角栄氏と金丸信氏の政治資金の配り方の違いだという。選挙出陣の時、封筒に300万円を渡す慣習がある。金丸氏の場合、代議士たちがその場で封筒の中身を確認して、「確かに300万円あります」言って退出する。一方、田中角栄氏の場合、その場で中身を確認しようとすると、まあまあと言いながら封を開けるのをやめさせ、自宅で確認すると100万円ほど上乗せされていたという。田中派の固い絆は、こういう気配りからきているそうな。これが昔流の政治か。お代官様の時代と変わらんなぁ。で、今は違うの?

4. 国会対策委員会と非公式な調整メカニズム
55年体制は、万年野党という構造を完成させ、国対という奇妙な産物を育んだ。単記投票で複数定員の中選挙区制では、一つの選挙区から3ないし5人の候補者が当選する。野党の中心は社会党だが、現実路線から酷く逸脱していれば、勝敗は見えている。そして、与党と野党で表向きは批判しあっていても、当選数の縄張りが形成された。票が分け合えたのも中選挙区制のおかげ。国体委員の得意技は、根回しと裏取引で、建て前と本音を使い分けながら国会運営を円滑に行う。国対副委員長に指名されたある議員が、梶原静六国対委員長に助言を求めたところ、「唄を30曲覚えろ!」というものだったという。国対委員の仕事は、料亭での食事、二次会のカラオケなど野党と非公式に付き合うこと。
社会党の中からも、マルクス・レーニン主義から脱却して、現実路線に方向転換すべきだという意見が聞かれた。民主政治のために健全な野党が必要だと、政権を放棄した野党に価値はないと、深夜の討論番組でも盛んだった。社会党の存在が、自民党の独走を許したのも確かだ。当時の選挙スタイルでは、自民党を批判したくても他に選択肢がなかった。仕方なく共産党に投票するぐらい。なぜ、社会党と共産党は一緒にならないのか?とよく思ったものだ。反対するだけの似た者同士なのに、なぜか仲が悪い。今でも共産党が社民党を思いっきり嫌っているように映る。気持ちは分かるけど。いつも平等と友愛を掲げ、政権交代するたびに与党にくっついては散々混乱させるだけで去っていく。与党側もいい加減学習しても良さそうなものだけど。
与党と野党で非公式な調整メカニズムが機能しなくなったのは、小選挙区制の一定の成果であろうか?いや、いまだに国対は健在か。

5. 官僚バッシングの後遺症
官僚と政治家の対立構図は、日本だけの現象ではなく、先進民主主義国ではどこでも悩みの種だという。アメリカだって、日本人が思うほど官僚機構が弱いわけではない。三権分立がはっきりしているので、立法府と行政府はけして弱くない。どこの民主国家も権力は政治家が握っていると自覚しているので、「官僚が反対するから政策を実行できない」なんて恥ずかしいことは言わないらしい。
日本では官僚バッシングが盛んだが、官僚機構に対して自信と勇気を持って指導できる政治指導力を持った政治家がいないことの方がはるかに問題だと指摘している。
また、官僚バッシングによって、優秀な学生が官僚になろうとしなくなったことも問題である。あるいは、優秀な官僚はチャンスを求めて民間企業や大学に移る。結局、官僚体質に染まった官僚ばかりが残る。こうした現象は、民間企業にも見られ、構造の空洞化が囁かれて久しい。

6. 外交と交流の乖離
それにしても、我が国の首相交代劇は尋常ではない。諜報機関による陰謀説も噂されるけど。社会の実態が把握できない政治家が、官僚を締め出せば政治は社会と乖離するしかない。政治家は本当に政治を勉強しているのだろうか?選挙運動の勉強はお盛んのようだけど。政治塾って何を教えてるんだろう?
外交と交流の乖離も甚だしい。民衆同士の経済交流や文化交流は効果があるが、政治家が顔を出した途端に逆効果となる。どこの国も政府が存在感を強調した途端に破談する。お隣りの台湾とは正式に国交がないにもかかわらず、民衆レベルでは良好な関係にある。実際、大震災時の台湾からの義援金の規模には驚くものがある。
ちなみに、義援金全体の規模も驚くものがあるが、その使い道が不透明か。赤十字をはじめ義援金を募る各団体は、その使い道を明確に説明すべきだろう。あるいは情報公開を要求すべきだろう。報道機関もチェックすべきだろう。大手報道屋は、箝口令でも出ているかのように肝心なことを報道しない。ネット社会に情報が広がると、後追いで伝えるぐらいなもの。これでは情報格差を煽るだけの存在でしかない。義援金に対して使い道を公開することは、世界各国への礼儀であろう。言葉だけの感謝が意味がないとは言わないが。まさか、子供手当や高校無償化など他の政策に回されているわけではないだろう、と思いたい。

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