2012-03-25

"共産党宣言" Karl Marx & Friedrich Engels 著

「資本論」はあまりにも大作が故に生涯手を出すことはないだろう。そう決めてかかっていたが、ほんの気まぐれで「経済学批判」を読んでみると、余剰価値の悪魔性や貨幣至上主義に陥ることへの批判、あるいは経済活動の同質化による精神的弊害が指摘されるのは、むしろ高尚な自由主義を唱えているように映った。共産主義とは、資本主義の延長上に描かれた思想なのか?そう思うと資本論構想が近づいてくる。
続いて、題名からして抵抗感のある「共産党宣言」に手を出してみると、最後の方で共産主義の具体像なるものが示された瞬間に幻滅する。とりあえず、当面の敵はブルジョア階級にあるとして、世界規模の社会運動を煽っている。政権奪取の初期段階においては、共産主義と社会主義は共通目的があったようだ。
では、その後は???
公平的動機と平等的分配の違いを区別しているようだけど、いかんせん具体像が見えてこない。社会主義を空想的共産主義とし、科学的観点を欠くと批判してはいるが、禁欲すぎても経済循環は成り立たない。多様的な能力主義と平等的な分配主義の均衡を保つのは難しい。機会に溢れながら個人能力を伸ばす自由競争の社会が、いずれ精神の高まりとともに自然に社会的活動へ導かれるということであろうか。社会的とは、国有化とは別もののようだが。...などと勝手な解釈を試みる。
理想像だけを追いかければ、若者たちが蟹工船に乗りたくなる気持ちも分からなくはないが、具体像が現れた瞬間に逃げ出すかもしれない。「経済学批判」の刊行が1859年に対して「共産党宣言」が1848年と古いことから、まだ共産主義の具体像が描ききれていなかっただけなのか?いや、理想の具体化とは、案外こんなものかもしれん。「万国のプロレタリア団結せよ!」と叫んでも胡散臭く映る。人生において思考の一貫性を保つことは不可能だけど...再び、資本論が遠のいていく。

共産主義と社会主義は兄弟のようなもの、と思っている人も少なくないだろう。反社会分子のアル中ハイマーもその一人。しかし、マルクスはニセの兄弟と蔑んでいる。冷戦時代、共産圏にある多くの東欧諸国は社会主義国家を名乗った。そして、マルクス主義とボリシェヴィキが重なって「アカ」などと呼ばれる。父であり教師であったスターリンは、血なまぐさい怪物であった。聖者レーニンにしても、血なまぐさい噂は絶えない。自由の暴走が経済的格差を生む理屈は分かるが、平等を崇めると粛清につながる理屈が分からない。平等とは、多様化する人間感覚を否定することなのか?すべてを同質化しようとすれば、精神成長を拒むことになろうに。
実際、共産党が実施してきた計画経済や国有化の類いは、そのほとんどが失敗してきた。巨大官僚主義に変質し、権力抗争の渦に巻き込まれてきた。だが、資本主義や自由主義にも官僚化の傾向がある。既得権益を守ろうとする思考は、人間の本質的なもの、いわば防衛本能の一つであろう。結局、どんな体制であっても、政権にとって反対者が邪魔なだけ。民主主義ですら政治的圧力がかかり、ただ従う者が出世するようにできている。天下りを天下(てんか)と書くのは偶然ではないのかもしれない。それは、君主制時代からの伝統であって思想の次元ではない。したがって、自由競争という手段で「毒を以て毒を制す」の原理の方がより現実的ということになる。おそらく人間は、より高尚な理性に精神の安住を求める性質があるのだろう、などと楽観論に頼ればだけど。だからこそ、より知識を求め、思考を繰り返し、自己の破壊を試みる必要がある。
共産主義や社会主義の真の姿がどんなものかは知らん。ただ、現時点の人類の価値観からすると、自由主義や資本主義に修正を加えていくのが最も現実的ということになろうか。そこで、マルクスが高尚な自由主義を唱えているとすれば、興味深いのだけど。自由と平等のバランスは人間社会にとって難題だ。なにしろ、プラトンやアリストテレスの時代から論争を繰り返してきたのだから。その答えを、この書に期待してもしょうがないかぁ...
ところで、我が国では共産党と社民党は仲が悪い。というより、共産党が社民党を毛嫌いしているように映る。その気持ちも分かる。与党であった自民党が選挙に敗れると、まるで社民党が勝利したかのように調子づく理屈が分からん。そして、いつも連立与党に参加しては滅茶苦茶にして去っていく。沖縄基地問題にしても、県民運動にどさくさに紛れて社民党の旗を振る輩がいる。結局、政治利用しか考えてないわけか。

1. 労働組合と個人の自立性
本書は、マルクスとエンゲルスが「共産党主義者同盟の綱領」を宣言したもので、労働者運動の世界的指針を示している。真の価値を勝ち取るために、ブルジョア社会から労働者を解放することが唱えられ、社会運動を煽る。経済活動における価値は、貨幣や資本などの経済要素ではなく労働にあるという。しかも、労働の質を問うている。そのために、急進的な改革が必要だとしている。尚、ここでいう労働者とは、賃金労働者のことである。
ところで、労働者運動は古くからあるが、労働組合は本当に労働者を代表しているのか?と疑問に思った時代があった。そのケースをいくつか綴ってみよう...
むかーし、ある会社の研究所を訪問した時、全体集会があるから講堂に集まるように呼びかけがなされた。なぜか部外者も。すると、連合系が支持する候補者の政治演説が始まりやがる。見事なほどの組織選挙(占拠)だ。労働組合の上層部が政治屋と癒着するケースは珍しくない。可哀想なことに、その候補者はいつも落選するそうな。ちなみに、研究者は革新的な人が多いので、旧態依然の運動に反発する傾向がある。
これまたむかーし、ある中小企業を訪問した時、労働組合が一人の労働者が残業を拒んだために減給、という事件に抗議運動をしていた。会社の正門でビラが配られていたが、通行人は冷めている。現場の話によると、無断欠勤が多い上に勤務態度もけして良くなかったそうな。こういう人を守るために組合費を払っているのか?と愚痴る人もいた。
...このような事例を目の当たりにすると、天邪鬼根性が助長される。伝統的に労働者が弱い立場であったのは事実だけど。もっとも、ベンチャーと称するアドベンチャーな会社に労働組合はない。自由がありそうでも、その自由に責任を持たなれば、却って窮屈になる。ほとんどの人が年俸制だし、そもそも技術系に残業の概念が機能するとは思えない。技術者には職人気質があり、大工さんのように一人親方の制度がよく適合すると思っている。一人一人が会社と契約し、棟上げなど忙しい時に集まり、あとは一人でコツコツと家を建てる。技術レベルを確保するには、ある程度の自立性が必要であろう。サラリーマン形式でも悪くはないが、契約交渉は雇い主と毎年きちんとやればいい。仕事のスタイルが多様化する時代に、契約交渉まで労働組合に任せるとは、まるでアウトソーシング。確定申告(深刻)までも。自分が払っている税区分も把握できないから、目先の消費税だけに目くじらを立てる。目的税やらで、どれだけ余計な税金を搾取されていることやら。我が国には、面倒なことはすべて組織任せという風潮がある。そして、サラリーマン馬鹿に仕立てられる。大企業に所属していた時は、年金手帳までも総務部が保管してくれた。さすがに今は、そこまで面倒を見てくれるかは知らんが。

2. 共産主義の具体像
進歩した国家像とは、こんなものだそうな。

  1. 土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。
  2. 強度の累進税。
  3. 相続制の廃止。
  4. すべての亡命者および反逆者の財産の没収。
  5. 国家資本および排他的独占をもつ国立銀行によって、信用を国家の手に集中する。
  6. すべての運輸機関を国家の手に集中する。
  7. 国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良。
  8. すべての人々に対する平等な労働強制、産業群の編成。特に農業のために。
  9. 農業と工業の経営を統合し、都市と農村との対立を次第に除くことを目指す。
  10. すべての児童の公共的無償教育。教育と物質的生産との結合。

従来の共産主義や社会主義と何が違うのか?亡命者や反逆者の財産没収とは、まるでボルシェヴィキ!抽象論で終わらせておかないと、ボロが出るものだけど。
プロレタリア社会では、階級差別は消滅し、公的権力は政治的性格を失うという。だから、国家に権力が集中しても問題ないということのようだ。つまり、精神の成熟した連中が政治運営をするということか。少なくとも、政治家やエリート階級は、一般庶民よりも精神が成熟していると自認しているようだけど。そりゃ、スターリンが万能な神様のような人物だったら、共産主義は素晴らしく機能していただろう。批判ばかりの空想的社会主義と一緒にするな!というような事が散々書かれた挙句に、これか?

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