2012-11-18

"異端の数ゼロ" Charles Seife 著

単純過ぎるがゆえに正体の見えない高貴な御方。それは、知性の破綻を予感させる。長い間、人類はゼロの存在を認めようとはしなかった。それが無を意味するからである。人の認識に無の概念の入り込む余地はない。いや、無ですら存在にしてしまう。大デカルトですら、認識できるものすべてが存在するとし、神の存在までも証明してしまった。今日、ゼロの存在を認めているのは、それが便利な道具だからであって、自己の無を受け入れたわけではない。やたらと自己存在を強調するのは、それが幻想であることにうすうす気づいているからであろうか?だから、人間社会は仮想化へと邁進するのだろうか?本来モノの価値とは、足るか足らぬかで測られるはず。パンを無限に食すことはできない。なのに、貨幣という仮想価値を編み出した途端に欲望は無限と化す。なるほど、無と無限は相性が良さそうだ。タダより高いものはない!タダほど怖いものはない!などと言うのは、真理かもしれん。
宇宙が無から創生したのであれば、いずれ無へ帰するであろう。だがそれでは、魂の永遠不死を否定することになる。無限宇宙を認めては、地球を中心に据えたアリストテレス宇宙観はたちまち崩壊し、それを支柱にしてきたカトリック教会の信頼も揺らぐ。西洋数学が本格的にゼロの研究を始めた時期が、宗教改革やルネサンス期と重なるのも偶然ではあるまい。人は空虚や無意味を極度に恐れる。一旦、無意味と定義づけると行動すらできない。だから、哲学することを恐れる。しかし、真の学問とは、有益だからだとか、高収入を得ようなどという動機でやるものでもあるまい。おそらく真理なるものは、無意識、無心、無想、無我といった境地にこそ姿を見せてくれるのであろう。無意識とは、純真無垢な欲望を意味するのかもしれん。したがって、なぜ酒を飲むのか?と問えば、そこに純米酒があるだけのことよ。

古代ギリシア幾何学には数を形で表す基本思考があり、直定規とコンパスで描ける図形にこそ意味があるとされた。逆に言えば、形に表せない数は数ではない。中でも辺の比が重要視され、ピュタゴラス教団はシンボルに五芒星形を選んだ。正五角形の神秘性は、各頂点によって形成される五芒星の内側に形成される五角形が逆立ちして形作り、しかも無限に形成されること。そしてなによりも、自然界の美を支配する黄金比が含まれることにある。比が重んじられるからには、a/b という整数比の関係が重要となる。そこにゼロの概念が入り込む余地はない。ピュタゴラス教団は、整数比で表せない無理数の存在を隠蔽し、バレそうになると暴力に訴えた。だが、最も身近なところに無理数が現われた。一辺を1とする正方形の対角線は √2 だし、黄金比そのものが無理数である。
一方、古代バビロニア数学は、単に数を数えることによって、なんなくゼロに役割を与えた。数を単なる記号の羅列として捉え、10, 100, 1000, ...など桁に空位を与えることによって、あらゆる数を表すことができる。それでも、ゼロが単独で出現することはない。さらに、バビロニア人は引き算によって負数の存在を認め、あっさりと数直線上の正負の境界にゼロの居場所を与えた。
しかし、奇妙な性質が露わになる。ゼロは足しても引いても元の数に変化を与えない。それどころか、掛けるとゼロに吸収され、さらに酷いことに、ゼロで割ると数の体系そのものを破壊する。ゼロ除算は悪魔じみている。これを回避するには、人間の編み出した定義という技に縋るしかない。今日、IEEE 754 には、-0(マイナスゼロ)までも定義され、コンピュータの暴走を抑止している。
となると、紀元前と紀元後の境界にゼロ年がないのは、人間社会の暴走を抑止できなかった結果なのか?ミレニアム論争では、イエスは紀元前4年に生まれたのだから、1996年(= 2000 - 4) を2000年目にするべきだとする論調があった。だが実際は、1999年目だ。0歳を考慮しても西暦0年がない。そういえば平成0年がない。なぜ暦は0年を拒むのか?2000年当時、21世紀の始まりは2000年とする方が分かりやすいよ!という議論が、ごく身近でなされた。神が全能者であるなら、神のできないことは無となる。しかしながら、悪魔のやることを神がやるとは思えない。となれば、悪魔の正体こそが無ということか?世紀末をゼロ、すなわち世界が無に帰するとすれば、そこに絶望論を重ねる。なるほど、人間社会は、永遠に千年紀の亡霊から逃れられないという仕掛けか。
ところで、年齢では数え年という慣習が廃れ、0歳から数えるようになったのは、一歳でも若くいたいからか?アラサーなどと言うのは、年代の定義を少しでも曖昧にしたいからか?そして、アル中ハイマーは、年齢表記を16進数からモジュロ演算に変えようと目論む。これがニーチェの永劫回帰の正体よ。

1. ニュートンのまやかし微分法
微分の起源を辿れば、ゼノンのパラドックスに行き着く。それはアキレスと亀の競争による命題で、先に出発した亀にアキレスは永遠に追いつけないことを証明してみせた。微分とは、儚いものよ。いくら近づこうとしても、永遠に到達できないのだから。
さて、微分法と言えばニュートンだが、彼の微分法は流率を巧みに表現しているという。
今、方程式 y = x2 + x + 1 について、微小値 0y, 0x だけ流れたとしよう。

  (y + 0y) = (x + 0x)2 + (x + 0x) + 1
             = (x2 + x + 1) + 2x(0x) + 1(0x) + (0x)2

そして、y = x2 + x + 1 を代入して、両辺から同じ量を引くと、

  0y = 2x(0x) + 1(0x) + (0x)2

ここで、0x は限りなく小さく、(0x)2 は更に小さいからゼロにできるとしている。

  0y = 2x(0x) + 1(0x)

ん...確かに答えは合っているが、なんで微小値を二乗したらゼロにできるのか?これが本来の微分法ならば、数学に幻滅する。しかし、心配はいらない。導関数の一般方程式は、ニュートンの亡霊を排除してくれるのだから。

  f'(x) =  { f(x + ε) - f(x) } / ε, (ε → 0)

この一般式に、f(x) = x2 + x + 1 を適用すると、

  f'(x) = {(x + ε)2 + (x + ε) + 1 - (x2 + x + 1)} / ε
       = (2εx + ε + ε2) / ε
        = 2x + 1 + ε

ここではじめて、εをゼロに近づけると、

  f'(x) = 2x + 1

視点をちょいと変えただけで、こんなにもすっきりするとは...やっと眠れそう。
しかし、ε が限りなくゼロに近づくというだけで、安易に完全なる無としていいものか?というのも、宇宙法則には無による悪魔じみたエネルギーの存在がある。空間ゼロにおけるやつと、質量ゼロにおけるやつだ。ん...やっぱり眠れそうもない。

2. 無限遠点と射影幾何学
無限を絵画から打破したのが遠近法。万能人とされるレオナルド・ダヴィンチは、アマチュア数学家でもあった。写実的な消失点は無限遠点を表し、線は点に集積し、無限小の無をイメージさせる。ゼロと無限が消失点で結びつくのは、偶然ではあるまい。
ケプラーは無限遠点の考えを一歩進め、楕円には中心、すなわち焦点が二つあるとした。楕円が細長いほど焦点は離れている。そして、すべての楕円に共通の性質を備える。楕円形の鏡の一方の焦点に電球を置けば、楕円がどれほど細長くても、光線はすべてもう一方の焦点に集まる。そこで、焦点が無限に遠ざかるとどうなるか?楕円は、突然放物線になり、閉じられた片方の曲線が開放されて平行線になる。放物線は片方の焦点が無限遠にある楕円であり、実は、放物線と楕円は同じものだというわけだ。ここに射影投影学の始まりがある。ユークリッド幾何学では、二点があれば一つの直線が定まる。だが、ジャン=ヴィクトル・ポンスレは、無限に離れた点を受け入れて、二本の直線から一点が定まることを発見したという。

3. リーマン球面とi(愛)の概念
n次の多項式で、n個の解が得られるのは、虚数を受け入れた時である。ガウスによって導入された複素平面は、ガウス平面とも呼ばれる。
i と x の関係は90度、i を2乗すると180度の x 軸上に現われ、3乗すると270度、4乗すると360度となり、角は、2倍、3倍、4倍と変化する。だが、これは半径 1 の単位円における現象である。半径 1 の内側にあるか外側にあるかで状況は一変し、n 乗していけば螺旋を描く。例えば、i/2 を、2乗、3乗、4乗...と続けていくと、螺旋を描きながら原点へ向かう。2i は、2乗、3乗、4乗...と続けていくと、螺旋を描きながら外へ向かう。複素平面は、見事に幾何学上の概念となった。i(愛)は何乗しようが、愛情はぐるぐる空回り。しかも、実数(実体)上に現われた時、i(愛)が消えていて、おまけにマイナスよ!
さらに、リーマンは複素平面に射影幾何学を融合させた。球の全体が複素平面に投影されるとどうなるか?球の南極を原点とすると、赤道は円に投射され、北極はケプラーやポンスレが想像した無限遠点となる。リーマンは、複素平面と球は同じものだと気づいたという。すなわち、複素平面上で球の歪みや回転する仕方を分析することによって、複素数の掛け算、割り算、そしてもっと複雑な演算ができることを。複素平面とは、ある種の計算尺というわけか。
i を掛けるには、時計回りに90度回転させればいい。関数 f(x) = (x - 1)/(x + 1) は、北極と南極が赤道のところにくるように球を90度回転させるに等しいという。やはり興味深いのは、f(x) = 1/x であろうか。それは、球を逆さまにして、鏡に映るのに等しい。そして、北極と南極を入れ替えると、突然ゼロが無限大に、無限大がゼロになりやがる。ゼロと無限は同等でありながら、互いに反発するかのような存在というわけか。
おまけに、ゼロと無限は、あらゆる数を飲み込み続ける。まるでブラックホールの幾何学モデル!やはり悪魔であったか。これが、ホーキングの言った虚時間、いわゆる無境界仮説の正体であろうか?

4. カントールと無限天国
f(x) = 1/x のような関数は、x = 0 で特異点が生じる。特異点にも様々な種類があるらしい。曲線 f(x) = sin (1/x) は、x = 0 において真性特異点があるという。何が真性かは分からんが、この手の特異点に近づくと、正負の間を行き来しながら、曲線がどうしようもなく暴れだすという。いずれにせよ、特異点は無限との結びつきが強いようだ。
無限を手懐けた人物といえばカントール。彼は、二つの集合を比較する時、要素を1対1で単純に対応させることを考えた。そして、対応できない要素が生じれば、そちらの集合の方が大きいとした。実に当たり前の思考だ。では、無限集合ではどうなるのか?整数と整数の集合を比較する。片方の数を減らしても、やはり対応付けは無限にできる。奇数をすべて取り去っても、やはり同じ。ならば、整数の集合と奇数の集合は、同じ大きさと言えるのか?いくら数を減らしても、集合の大きさは変わらない。これがカントール流の無限の定義である。そして、整数、奇数、偶数は、大きさの同じ無限集合ということになる。これをヘブライ語の最初の文字にちなんで「アレフ0」と名付けた。これを数えられるという意味で、可算集合と呼ばれる。実際は、無限に時間がなければ、数えられないけど。要するに、有理数で表されるのが可算集合ということになり、カントールは無限の中にうまいこと有理数の居場所を与えた。
こうなると数の概念そのものを見直す必要がある。幾何学は、辺の長さや角度といった概念を取り去り、位相幾何学を受け入れた。代数においても、数の大きさではなく、要素を対応させるだけの位相的な思考が必要なのかもしれない。次に、無理数ではどうなるか?カントールは、実数の集合が有理数の集合より大きいとした。この手の集合は、「アレフ1」とされる。不可算無限だ。実際は、連続体無限ということになろうか。無理数を有理数に対応させることは不可能であることは直感的に分かるが、証明することは難しい。それを、ポール・コーエンが、ゲーデルの不完全性定理によって証明したという。そして今日、多くの数学者が連続体仮説を真理だと受け入れている。ただし、非カントール的超限数の研究もあるらしい。
無限集合でありながら、集合の大きさが違うとは、これいかに?複数の神々がいて、それぞれ得意技も違うということか?まるで、一神教からギリシャ神話へ引きずり戻された感がある。カントールは、見事に無限の階層を描き、無限に存在する有理数が数直線上でわずかな空間しか占めないことを示した。
一方、無理数は数直線上を埋め尽くす。無理数から見れば、有理数なんて無のようなものか。人は日常生活で自然数でしか数えない。それは幸せかもしれない。数量に位相なるものがあるとすれば、1か多で抽象化できるだろう。これが無限たる天国の正体か?なるほど、飲む時、一杯をいっぱーいで抽象化すれば、幸せになれる。

5. 悪魔じみたエネルギーと無の真理
相対論は、空間ゼロでありながら、無限質量のブラックホールなるものが存在すると主張する。量子論は、質量ゼロでありながら、零点エネルギーなるものが存在すると主張する。
相対論では、宇宙船が光速に近づくと、時間の流れがどんどん遅くなり、ついには時間が止まるとされる。同時に宇宙船の質量は無限大へ。究極の時間ゼロは、無限エネルギーを生む。時空という概念を用いれば、時間ゼロは、空間ゼロへ還元できる。時間が歪めば、空間も歪む。アインシュタインは、引力の正体を時空の歪で説明した。だが、アインシュタインの重力場方程式には、絶対速度である光ですら逃れられない絶対質量の存在を予感させる。パウリの排他原理を適用すれば、物体は一点に潰れなくて済む。大雑把に言えば、二つのものが同時に同じ場所を占めることはないという原理だ。しかし、チャンドラセカールは、パウリの排他原理の及ばない領域があることに気づいたという。太陽の1.4倍の質量があれば、恒星はパウリの排他原理を打ち破ることができることを。
だが、そんなものは、宇宙のあちこちに散らばっているではないか。あまりに重力が強いため電子は恒星の破壊を食い止められず、電子は陽子に突っ込んで中性子をつくり、巨大な中性子星となる。さらに質量が大きくなると、構成要素がクォークに分解して、クォーク星になるとする考えもある。だとしても、これが最後の砦だ。さらにさらに質量が大きくなると、空間ゼロの点となる。ゼロ次元の無限質量とは、どういう存在なのか?光すら飲み込むのだから、暗黒点となるのだろう。銀河系の中心には、数百万から数十億太陽質量のブラックホールがあるとされる。
一方、量子論では、真空中の絶対零度においても零点振動が生じるとされる。しかも、無限エネルギーがゼロであるかのように振る舞うのだとか。プランクの法則によると、波長が短くなるにつれて、電磁波の放射は急激に無限大になることはないという。エネルギーは、波長が短くなるにつれて、どんどん大きくなるのではなく、再び小さくなるのだとか。ハイゼンベルグは、量子運動の不確かさを不確定性原理で説明した。この法則は、量子の位置と速度を同時に正確に測定できないことを告げる。位置を測定しようとすれば、観測者が量子の運動になんらかの関与をすることになるからだ。人間が認識しようとすると、宇宙法則を破壊するのかもしれん。それは、人間精神そのものが、量子によって構成されていることを示しているのだろうか?
「波動関数を、粒子がどこに現われるかについての確率を示すものと考えると、助けになることがある。電子はそれぞれ空間に拡がって存在しているが、それがどこにあるかを特定する測定をおこなったとき、空間のなかのある点にそれが見つかる確からしさは、波動関数で決まる。」
量子の波は、弦の原理とそれほど違わないという。ギターの弦が、可能な範囲の音をすべて奏でられるわけではない。自然に支配された禁じられる音がある。ピュタゴラスは弦の奏でる音に許される音と禁じられる音があることに気づいたという。
同じように禁じられた素粒子の波がある。ヘンドリック・カシミールは、素粒子がいたるところで、パッと生まれては消えるのだから、禁じられた素粒子波が真空中の零点エネルギーに影響するだろうと考えたという。真空中において、微小な距離で二枚の金属板を近づけると、その間に現われる許されない粒子があるとすれば、内側よりも外側のほうが粒子が多いことになる。そして、金属板は真空の中でぴったりとくっついてしまう。いわゆるカシミール効果というやつだ。これを真空の力というのかは知らんが、外部の力から内部の力、すなわち有から無を誘発したようにも映る。このあたりにダークマターの正体が隠されているのか?人間社会で言えば、無抵抗主義のパワーのようなものか?カシミール効果は、真空にもなんらかのエネルギーがあると告げているようだ。
もし、真空に無限エネルギーなるものが潜んでいるとしたら、それを少しでもいじると宇宙が崩壊してしまうかもしれない。やはり、真空はそっとしておいた方が良さそうか。無はそっとしておいた方が、真理もそっとしておく方が賢明かもしれん。

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