2013-11-10

"人間知性論(全4冊)" John Locke 著

「壮年にして世を去った亡友加藤卯一郎君が健全であれば、必ず全訳を企てたであろうと、亡き友人を偲びながら筆を取った。」
前記事の「人間悟性論」は加藤卯一郎氏の部分訳版で、この「人間知性論」は大槻春彦氏の全訳版である。加藤氏によると、ジョン・ロックは「悟性論」の執筆に20年を要し、時々思い出しては書いたために、重複箇所が多いことを認めているという。多忙で怠惰のために整理しきれなかった、と後世語ったとか。そうした印象は部分訳版ではあまり感じなかったが、なるほど、全訳版はかなりこってりしている。言い換えれば、部分訳版がいかに要約されていたか、ということか。おそらく逆順に出会っていれば、部分訳版を手に取ることはなかっただろう。重複した書を読むことは無駄と考えがちで、よほど翻訳が気に入らない限りはやらない。しかし、だ。思考プロセスを味わうには全訳版も捨てがたく、こうした試みも楽しいことに気づかされる。
そして、無駄とは何かということを考えさせられる。... 無駄を知らずして、有意義を知ることはできまい。ネガティブ思考を避け、ポジティブ思考ばかりを追いかければ、陽気な無知と成り下がるだろう。情報の9割は、社会風潮に惑わされたもので、無駄なのではないか。回り道、寄り道、道草の類いの方が、遥かに有意義なのではないか。実は、無意味、無意義、無駄、無益、無用などと蔑まれる方にこそ、真理が潜んでいるということはないだろうか。春風にでも揺られるように思考の散歩を楽しむ、まさに春風駘蕩のごとく。真理への道とはそういうものではなかろうか。... などと。そして、無知性バンザイ!無理性バンザイ!ついでに酔っ払いバンザイ!...と自我に同情するのであった。

「無意味な饒舌を弄し、自分で不快になるより、知らないのを知らないと告白する方が、はるかによい。」... キケロ著「神々の本性について」より

ところで、表題を「悟性論」から「知性論」に変えたのはなぜだろうか?理性や知性という言葉はよく見かけても、悟性という言葉はあまり見かけない。一般的に論理的思考や思考力などの語で代用され、哲学の領域に押し込められた感がある。
では、悟性という言葉を、ちょいと解放してみよう...
広義には、知性に含まれるのかもしれない。理性が悟性から生じるのかは知らんが、相性がいいのは確かだろう。理性がいかに直観的であっても、論理的な裏付けがあってより強固なものとなるのだから。さらに、実体験で後押しできれば、揺るぎない思想観念が構築できる。しかしながら、どんなに優れた知識を駆使しても、やはり判断を誤る。人間能力が不完全である以上、知識が完璧だと信じるのは宗教観念に陥った感がある。いくら真知と呼んだところで、厳密な意味で真知にはなりえず、結局は直観や経験に頼らざるを得ない。判断力は常に期限とやらに追い回され、そこに蓋然性がつきまとう。人間の能力が臆見や誤謬から逃れられないとなれば、精神修行などでは何一つ悟れないということか。悟性が悟る性質と書くのは、偶然ではなさそうである。そして、狭義には... 悟性とは何一つ悟れないことを悟る... とでもしておこうか。

まさにロックは、観念の生得性を否定し、経験論を唱える。経験論といっても、キリスト教的伝承を崇め過ぎるきらいを感じないわけではない。彼が敬虔なキリスト教徒であるのは確かなようで、その意味でブレーズ・パスカルの論調に似ている。普遍的な神学論を構築しようとキリスト教の合理化を試みれば、宇宙論的な神を受け入れざるを得ないだろう。原子論的な展開を見せるのも自然である。
この書には、カトリック教会批判が込められているかは定かではないが、少なくともスコラ学派批判が見て取れる。特に、三段論法的な思考を、かなり意地悪で丁寧に論じるあたりに。一旦理知の枠組みを決定して、しかもその形式を崇拝すれば、柔軟性を欠くとしている。真知が様々な種類を持つならば、思考方法や論理形式も多様的になるのは自然であると言わんばかりに。尚、三段論法はスコラ学派が信条とする論理形式だそうな。アリストテレスは、あの世で嘆いているに違いない。
しかし、これだけ経験を重視しながら、ユークリッド幾何学の公準や公理を高く評価している。思考プロセスにおいて、演繹による推理や論証が重要なのは当然だとしても、公準や公理はこれ以上証明できない普遍的な原理によって支えられている。あるいは、カントはア・プリオリな概念を時間と空間の二つのみで定義した。こうした思考原理は、純粋な直観に支えられるわけだが、これらも経験的と言えるのだろうか?人間の直観力を、普遍原理において信じるならば、極めて宗教的ですらある。ロックは、信仰と理知は矛盾しないとしている。とはいえ、信仰と理知の境界を知ることも必要だと言っている。
「もし信仰と理知の境が立てられないと、狂信すなわち宗教で常軌を逸したことも反駁できない。」
思考が働くということは、何らかの情報、すなわち記憶を辿っていることになろうから、経験的と言えるのかもしれない。DNA構造が半永久的な記憶素子として機能していれば、そこに時間の概念が埋め込まれ、立体的な螺旋構造が空間の概念を与える。時間にしても、空間にしても、胎児の段階で知っているのかもしれない。そうなると、生得と経験の境界がぼやけてくる。いずれにせよ、無意識の領域に意志なるものがあっても不思議はない。その証拠に、未だ気まぐれを制御する術が分からん。
... などということは前記事でも書いた。同じ事を繰り返すのは精神が泥酔している証であろう。こりゃまずい!酔いをさますために、知性豊満なボディラインを求めて夜の社交場へと消えていくのであった...

1. 実体と認識イメージ
精神の観念の明晰さは物体と同じだという。確かに、認識イメージは、ニュートン力学やユークリッド幾何学に求めているような気がする。ロックの実体が、おいらの実体イメージと似ているかは分からないが、ちょいと試してみよう...
物事を理解する過程において、おいらの中には、実体的な解釈と、表記的な解釈があるように思う。それは、数式や文章の意味を理解しようとする時に、違いが如実に現れる。事象イメージが幾何学的に投射できれば、実体的な感覚として捉えることができる。つまり、分かった気になるってやつだ。そこに哲学的な意義が結びつくと、おいらは、これを「理解した」と解釈する。
一方、論理の積み重ねで証明できたとしても、どうしても精神空間に投射できないものがある。表記的な解釈ができても、心に訴えるものを感じない。数式や文章が風景のごとく通り過ぎていく感じ。こうした認識イメージは、数式や文章だけでなく、身体運動にも生じる。動体視力というものがあるが、卓越したスポーツ選手は、運動している自分を長く感じられる時間軸を持っているのだろう。ボールが止まって見える!などと言うのは、まさにそれか。精神空間内で対象が幾何学的イメージと結びつくと、思考や運動がスムーズに行える。
ロックは、観念を持つ活動は、思考と運動だけだとしている。優れた思考力にしても、あらゆる能力差とは、より長く感じられる精神内時間の差なのかもしれない。実際、頭の回転が速い!などと言ったりする。時間を無限に感じることができれば、究極の思考力を発揮することができそうだ。無心や無我の境地といった精神状態においても、時間の無限性のようなものを感じて、崇高な気分になれる。精神内には、幾何学的な空間イメージと、論理的過程の時間イメージがあり、双方が結びついた時に記憶として残りやすい。
しかし厄介なのは、理解した気分と理解した内容が、別々に記憶されることである。まるで気分と中身の幽体離脱。どうりで、理解したはずだと思い込んで記憶を遡ると、いつも全然理解していなかったことに気付かされるわけよ。そして、常に思考過程をメモっておかないと不安に襲われるが、それも無駄な努力に終わる。理解した気になった時の思考過程は、現在の思考アルゴリズムと全然違うのだから。おいらの精神空間は、曲率の歪が刻々と変化する上に、気まぐれときた。空間や時間が定義できない領域で、統一観念や普遍観念を見出すことは不可能だ。俗世間の泥酔者には、解釈することができても、理解することは永遠に叶わぬであろう。
... などと、ボキャ貧小僧にはこんな事ぐらいしか語れん。自己放射は、既にブラックホールに落ちた感がある。

2. 意識と無意識
知識を知らない時代の自分を思い出すことは難しい。いまや純真な心を取り戻すこともできない。物心がつくとは、どういう現象なのか?ロックなら、知覚や感覚が観念と結びついた時とでも答えるのだろう。彼は、すべての観念の生得性を否定する。意識できるとうことは、そこに観念なるものが生じるのだろう。それには同意する。だが、生まれたばかりの赤ん坊だって尻を叩くと泣きだすではないか。先立つ教えは、無意識の中にもある。
また、目覚めている自分と眠っている自分とでは、同一人物と言えるだろうか?夢であれば、思いっきりエゴイズムを発揮してもよさそうなものだが、想定外に展開されるのは、そこに別の人格が存在するということになりはしないか?夢現象が眠った肉体と目覚めた魂の分裂とすれば、人格の幽体離脱か?あるいは、現実を生きるだけでは物足りぬというのか?ならば、精神分裂症は、人間の魂を忠実に体現した状態で、こちらの方が正常なのかもしれない。
意識できない領域がこれほど広大なのに、なぜ自由意志なんてものが信じられるのだろうか?そうでも思わないと、やってられないってか!いずれ死を迎えると知っていても、生に意義を求めないと生きられないってか!精神が欲望の奴隷となるならば、真の自由意志は無意識の中に見出すしかあるまい。潜在意識や無意識を意識でき、自由に制御できれば、最も純粋な理念や理知を構築することができるのかもしれない。
しかしながら、道徳の大原理は、実践よりも口先で勧められることの方が多いと指摘される。徳が一般的に推奨されるのは生得だからではなく、得になるからだと。そして、意志と欲望を混同してはならないと。意識があれば思惟せずにはいられない。実存原理の源泉がここにある。だが、心と思考が、あるいは、心と観念が一体だと、どうして言えようか?有は無に屈服するものなのか?時間と空間が究極の物理量である無限と結びつくように。そして、理性や知性を癒すには、無に帰するしかないというのか?そうかもしれん...

3. 力能と自由意志
「必然性と自由が両立できて、同時に自由に束縛されるということができるのでないかぎり、自由であるはずはないのである。」
自由は意志に属さないという。ロックは、「自由意志」という言葉が嫌いなようだ。確かに、意志は隷属への反発から生じるところがある。意志が欲望の虜となることが、しばしば自由とされる。なるほど、意志こそが不自由を規定しているのかもしれない。
もし自由意志なるものが存在するとすれば、必然的に自己抑制の能力を具えることになろう。精神の天才たちは、受動的な観念を能動的に作用させる術を知っていそうである。
「意志が自由をもつかどうかを問うことは、一つの力能がもう一つの力能を、一つの性能がもう一つの性能をもつかどうかを問うことであり、議論したり答を必要としたりするのは一見して不合理が大きすぎる問いである。」
自分の意志が自由であるかどうかを問えることが、一つの能力かもしれない。だが、真の自由人が自由を問うであろうか?自然を満喫できる者が、自由なんぞに目くじらを立てるだろうか?意志は、自由よりも不安や欲望と相性がよさそうである。凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いは自由が欲しいと大声で叫び、純粋な天才は静かに自由を謳歌する。
ところで、誰もが幸福を望むが、幸福は真理であろうか?ロックは、欲望は落ち着きのなさであり、落ち着きを取り戻すことが幸福の第一歩だとしている。幸福を求める心は普遍的であっても、その観念となると極めて多様だ。真理の探求が幸福への道だとしても、貧困や困窮といった切迫した事情があれば、真理を考える余裕もない。善というものは、ゆとりのある者が実践できるのであって、餓死寸前ともなれば、善悪の観念すらぶっとんでしまう。人は幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるのだろう。真理と幸福は相性が良さそうに映るが、定かではないし、そもそも幸福の正体を誰も知らないのかもしれない。誰もが幸福を求めるということは、誰もが幸福に到達していないということかもしれない。
ロックのような天才は、願望や欲望を、幸福に結びつける術を知っていそうである。是非教えて頂きたいが、そんなものは教わるものではなく、自分で悟るものだと冷たくあしらわれそうだ。幸福になる術を教えてくれ!と願うだけで、既に欲望の虜になっているのかもしれん。知識は教わることができても、知性は教わるものではないというわけか...
「善人は、もし正しければ永遠に幸福だし、まちがっていても不幸でなく、なにも感じない。他方、邪悪な人は正しくとも幸福ではなく、まちがっていれば無限に不幸だ。」

4. 分節音と不変化詞の意義
人間は、分節音を造れるようになっているという。意志を伝えるための言葉は、人間社会の必需品。記号の観念は、意味音と無意味音の混在によって形成され、無意味音が言葉にリズムを与え聞き取りやすくさせる。会話において、あうんの呼吸や相槌といったものが、いかに重要であるか。空白のような無意味な区切り、接続詞のような区切り、あるいは、雑談や無駄話の類いも。単語や行間に隠される言葉を察知したり、言葉の裏を読む心の働きが、精神を進化させてきたのだろう。言葉は、名前を与えるだけでは不十分。コミュニケーションの本質は、むしろ無音や無駄音の側にあるのかもしれない。神が沈黙を守っておられるのも道理というものか。
ロックは、不変化詞の意義のようなものを語ってくれる。言語系は、本質的に意味を成す人称、数、性などに、語形が変化する動詞、名詞、代名詞、形容詞を組み合わせて、直接物事に対応させる。その一方で、これらを統合する役割に、接続詞、前置詞、副詞、助詞といった不変化詞がある。心の中でイメージを抽象化したり、文章の流れから推論を与えてくれるのも、不変化詞が寄与する。情報工学的に言えば、誤り訂正符号のような役割もあろうか。
日本語が主語をあまり必要としない文体であるのは、助詞や副詞の役割が大きい。西洋語では否定詞が前に配置されるだけに、長文になっても前提が把握しやすい。その点、日本語は前後の文脈から、否定を匂わせながら、最後に否定形が現れる。例えば、「せっかくのお招きではございますが、当日は...」と言えば、最初から断る雰囲気を作る。
不変化詞は、自立語を結びつける付属語として機能し、曖昧な表現が心の活動を促す。芸術作品が抽象的なのも、暗喩や比喩といった技法に訴えるものがあるのも、心の活動を促すからであろう。さらに、音律を整えれば詩や唄が生じる。だが、言語の不完全性が自由な精神活動を誘発する分、言葉の濫用が真理を惑わす。洗脳や勧誘では、分かりやすい言葉を連呼すれば効果的だ。古くから政治的なロビー活動が、メッセージの代用として象徴的な肖像や銅像を用いてきた。弁論術や修辞術といったものが真実を欺瞞し、いかに扇動の道具とされてきたことか...

5. 観念の永続性と忘却
ロックは、絶えず反復される観念が、永続的になるとしている。精神が本質に引き寄せられる性質を持っているならば、永続の観念こそ真理へ向かわせるだろう。
しかし、人間の得意技に忘却ってやつがある。神にも優る能力だ。忘れることで心が平穏を取り戻すのであれば、ある種の防衛本能として機能している。不安が先行して目先にとらわれれば、社会風潮に流される方が気も楽になれる。みんなで不幸になる分には、それほど不快を感じず、むしろ絆といった言葉で癒される。だが、自分だけが不幸に見舞われると激怒する。精神が受動的になると、せっかくの真理は忘却の渦へ消えていき、落ち着きのなさが愚かな行為を繰り返させる。怠惰や享楽はすぐに飽き、退屈病を呼び込むことになるので、持続の観点からけして心地良いとは言えまい。すると、持続の観点から心地良いものが、真理ということになるのか?知性こそが持続ならしめるものというわけか...
「あの不世出の英才パスカル氏について、健康の衰えが記憶をそこなうまで、理知の確かな年齢のどの部分で行ったことでも、読んだことでも、考えたことでも、なに一つ忘れなかったと伝えられている。」

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