2013-11-17

"罪と罰(上/下)" フョードル・ドストエフスキー 著

学生時代に読んだ、多分。だが、本棚には痕跡が見当たらない。古本屋にでも出したのだろう。引越しで最もかさばる荷物が書籍、おいらは引越し貧乏だった。一度読んだ本を読み返すなんて考えもしなかった。今から思えば、惜しいことを...

当時は推理小説ばかり読み漁り、その延長上に位置づけていたような気がする。ストーリーは極めて単純!正義のために犯した殺人が、自我の良心に押しつぶされていき、ついに自首するという物語。だが、心理描写だけで推理小説バリの凄みがある。推理小説というものは、もちろん論理性は欠かせないが、それ以上に心理の変遷の方に真髄があるのだと思ったものである。しかし今読むと、社会批判や政治思想の方に目がいく。例えば、こんな文面に...
「犯罪は社会制度の不備への抗議だというのさ... 十八番の紋切型さね!... もし社会がノーマルに組織されたら、すべての犯罪も一度に消滅してしまう。なぜなら、抗議の理由がなくなって、すべての人がたちまち義人になってしまうから、という結論になるのさ。自然性なんか勘定に入れやしない。自然性は迫害されてるんだ... 彼らに言わせると、人類は歴史的な生きた過程を踏んで、最後まで発展しつくすと、ついにおのずからノーマルな社会となるのじゃなく、その反対に、何かしら数学的頭脳から割り出された社会的システムがただちに全人類を組織してさ、一瞬の間に、あらゆる生きた過程に先だって、生きた歴史的過程などいっさいなしに、それを正しい罪のない社会にするんだそうだ!だからこそ、彼らは本能的に歴史というものが嫌いなのだ。歴史なんて醜悪で愚劣なものだ、そう言って、すべてを愚劣一点張りで説明している!」
見えなかったものが見えてくる分、見えていた純粋なものが見えなくなっていくのか...

本書には、心を開かせる二つのパターンが対照的に描かれる。いわば、頑固さをいかに和らげるかという心理的技術として。一つは、純真な心を持つ娼婦の存在が、自己の醜い心を鏡に映し出す。二つは、老練な予審判事が証拠を匂わせて巧みに心理戦を仕掛けると、精神の裁判官とも言うべき存在となる。前者は人間自然性において良心を揺さぶり、後者は心理的技術によって罪悪感を煽るといった構図。
さて、罪人にとってどちらが恐ろしいだろうか?政治的、あるいは宗教的な大人の思惑には無条件に反抗心を抱いても、純真な子供の心には素直になれるところがある。大人に指摘されれば、見栄や体裁ばかりを気にし、どんな些細な事でも憤慨するが、小学生に指摘されれば、素直にありがとうと言える。権威主義の前で意地を張るのは、精神が虚栄心や羞恥心の塊となっている証であろう。映画「小説家を見つけたら」を思い出す。それは、自我に篭った老いた小説家を、文才ある少年が救い出すという物語。純真な心の前では、まるで蛇に睨まれた蛙よ。
結局、本物語は良心が勝利して終わる。ロングセラーを維持し、学生に愛読され続けるのも、基本的な精神構造を題材にしているからであろう。それは、自己肯定と嫉妬に良心や理性を絡めた構造で、特に強調される情念は「選ばれし者」という自負心である。才能を持ち高い理想を掲げるが故に、人をこのようにさせるのか?人はよく、義務だ!良心だ!なんてことを言う。そんなものは惰性的で、都合よく解釈されるに過ぎないということか。無意味や無価値といったものもそうだし、正義ですら解釈される。この方面で、人類はいまだ普遍性なるものを知らないようだ。にもかかわらず、決疑論的な思考が研ぎ澄まされると、もはや自意識に駁論を見出すこともできなくなる。エリート主義が最高潮に高められると正義が暴走を始め、ついには神に選ばれし者を自負する。神の代弁者や、神の生まれ変わりといった発想は、古代から受け継がれ、未だ健在!空想に救いを求めるしか術を知らなければ、ある種の自慰行為であろうに。
人は皆、神にでもなったような気分になれる領域を、どこかに求めているのだろう。スターを夢見たり、自分の考えを多数派に浸透させたり、布教活動をしたりするのも、なんらかの才能を自負し、周囲の人々が跪くことを願っているのだろう。自己主張と権利は、どこまで許されるだろうか?その境界を、良心や理性なんぞで規定できるだろうか?法で規定できたとしても、法では裁けない罪がある。良心や理性などというものは、いくら理論武装したところで、すぐに限界に達し、論理を崩壊させる。だからといって神に縋っても、今度は無力感に襲われる。空想の中で喋り続ければ、不愉快となり、愚痴となり、自我を衰弱させ、心の情景に憂鬱な色彩を深め、ついには自己嫌悪へと貶める。酒場で紛らわせば、何でもくらだない!という口癖が板につき、正義漢は泥酔漢へと導かれる。これを「くだらない病」と言うとか、言わないとか。精神を獲得した知的生命体は、自由意志、すなわち愚痴との対決を宿命づけられているようだ...

1. 非凡人を自負する男
主人公ラスコーリニコフは、貧乏学生で豚箱のような下宿の一室に篭り、徹底した個人主義と論理主義に憑かれたような人物。非凡人には凡人のために設けられた法律や道徳を踏み越える権利があるとし、独自の正義感を膨らませている。
ちなみに、ラスコーリニコフという名は、ロシア正教の分裂派「ラスコーリニキ」に由来するようである。というのも、宗教分裂派の話題にも触れられ、共産団や専制主義への批判が込められている。あるいは、精神分裂症と重ねているのかもしれない。主人公の独立心をプロテスタント精神と重ねているようにも映る。
「いったい人間は何を最も恐れてるだろう?新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ... だが、おれはあんまりしゃべりすぎる。つまりしゃべりすぎるから、なにもしないのだ。もっとも、なんにもしないからしゃべるのかもしれない。」
ラスコーリニコフは、社会の害虫どもの成敗と言わんばかりに、悪戯な商売をする高利貸しの老婆アリョーナを斧で惨殺する。だが、偶然出くわした義妹リザヴェータまでも殺害してしまう。リザヴェータは、義姉にいじめられ、なんでも言いなりで、気が弱く、お人好しな人物。大義のためには小さな犠牲はつきものと言わんばかりに。しかし、やがて良心の声がささやき始める。正義感が強いだけに、その張り詰めた気分が、病的なほどの臆病へと誘なうのか。完全主義者であるが故に、世間に絶望し、自我に篭り、社会嫌いや人間嫌いを誘発し、心気症や憂鬱症にかかりやすいのか。人間には、肉体のメカニズムだけでは説明できない領域がある。心ってやつだ。極めて危うく、脆く、しかも不可解ときた。ならば、心の愚かさを素直に認め、肩の力を抜こう。

2. 純真な心を持つ娼婦
貧乏な家族を養うために娼婦となったソーニャは、またもな教育を受けず、少女のあどけなさが残る。長い間、苦境にありながら、身投げすることもなく、発狂もせずに生きてきた。男性諸君が、娼婦に憧れるのは、なにも肉体を求めてのことだけではあるまい。経済的にも、精神的にも、苦労が多いだけに、激しい性格でありながら、辛抱強く、心の奥行きを感じる。自分にはない人生観の持ち主に、何かを悟ったようにも映る。そこに、酒神バッカスが魔法をかければ、淫蕩の美学へ導かれるという寸法よ。
純真な心が自我を投影するかのように迫ってくれば、ついにラスコーリニコフは彼女に犯罪を告白する。まるで、真理の感染者のような恐ろしい存在。しかも、殺害したリザヴェータはソーニャの仲良しだったことを知る。下手な知識よりも、純粋な心の方がはるかに説得力があるというのか?所詮、知性なんてものは、情欲に奉仕するものなのかもしれん。
「科学、文化、思索、発明、願望、理想、自由主義、理性、経験、その他いっさい何もかも、何もかも... 何もかもが、まだ中学予科の一年級なんです!他人の知識でお茶を濁すのが楽でいいもんだから... すっかりそれが慣れっこになってしまった!」
自分自身が馬鹿で間抜けで陋劣漢と知れば、不幸になる。だが、その不幸を避けては真理から遠ざかる。幸福とは、陽気な馬鹿に与えられるものなのか?まやかし人生を、まやかしながら、なんとなく生きる。それが幸せというものかもしれん。

3. 精神の裁判官
老練な予審判事ポルフィーリィも、ソーニャと違って別の意味で恐ろしい存在。なんの証拠もないのに、執拗な追求に、冷酷な理論から人間性が引き裂かれていき、傲慢な自信までも失わせる。証拠がなければ、尋問者の方がまごつくこともあろう。その意味では、どちらも隠し事を持っている。ただ違うのは、嘘が刑につながるかどうかということ。疑うことが仕事であるから、疑う側はそれ自体が自然な振る舞い。やはり、心理的優位は、若干尋問者の側にありそうか。その若干の優位性を最大限に利用することが、司法技術というもの。
「予審判事の仕事は、いわば一種の自由芸術!」
科学的証拠に優るものはないはずだが、司法では未だに自白や自供が決定的な力を持つ。科学捜査が盛んとなっても、相変わらず司法取引が有効であり続ける。被害者妄想から冤罪を仕立て上げられるケースもあろう。面倒な捜査を早く終わらせたい、あるいは税金の節約という意識が優先される。エリート主義ほど自分の誤りを認めたがらないとすれば、尋問者も被尋問者も同じ穴のムジナよ。尋問する側は、緊張と緩和を巧みに織り交ぜ、緩急自在に攻め立てる。
ちなみに、取調べ室で、貴様は人殺しだ!と繰り返して疲れさせ、思い切り腹が減っているところに、カツ丼が出るとった刑事ドラマの定番がある。刑事のポケットマネーで人情味を見せることで、ほんの少し良心をくすぐり、本音を吐かせるといった具合に。心理的には、拷問よりも合理的か。その按配は、被尋問者の性格に合わせる。なるほど、自由芸術か。人間社会における客観性なんてものは、若干の補助機能として働いているだけなのかもしれん。

4. 空虚な悪党の思惑
ラスコーリニコフの妹ドゥーニャは、スヴィドリガイロフの家に住み込みで家庭教師に雇われる。スヴィドリガイロフは、ドゥーニャに惹かれていく。彼は、ラスコーリニコフがソーニャに告白した犯罪を壁越しに聞いていた。そして、孤児やソーニャを援助して慈善家を演じる。
スヴィドリガイロフは、兄ラスコーリニコフを強迫して、妹との結婚を取り持つように要求する。埒があかないとなると、今度は妹に真実を語って結婚を迫る。ラスコーリニコフは、淫蕩無惨な背徳漢スヴィドリガイロフのうちに自分の内にある卑劣漢を見る。スヴィドリガイロフは、ドゥーニャが愛してくれないことに絶望すると、ソーニャに財産を授けて街を出る。そして、旅先で拳銃自殺。

5. 懲役刑の意義
刑罰の難しさは、刑期を終えた途端に、罪がチャラになるという気分にさせることにある。宗教の限界は、懺悔すればチャラにしてくれること。更生したと自覚すること自体が、更生できていると言えるのか?だが、そうでも思わないと、自我を救うことはできない。まだしも他人から責められ、社会から責められる方が、楽なのかもしれない。真の更生者は、精神病に蝕まれていき、永遠に救われないのかもしれない。独習哲学者ともなれば、本を読むのではなく、本に読まれる。まだしも、酒に飲まれる方が楽であろうに。良心があれば、自分の過失を認め、勝手に苦しむ。これも一つの罰であろうか。
もし、人を殺していいなんて権利を持つ者がいるとすれば、そいつだって殺されても文句は言えまい。法を超越した権利の持ち主ならば、法の枠組みを超えた罰を与えられるのも道理というものか。それは、法が認めた死刑執行人とはまったく違う次元にある。能動的に罪の意識を持つことは、人間の最も苦手とする情念なのかもしれない。
ラスコーリニコフの場合は、過失ではない。確実な意志の下で斧を振り下ろした。ついに自首する気なるが、なかなか罪を素直に認められず、償う気にもなれない。シベリアの監獄へ移送されても。
悪事とは何を意味するのか?ただ刑法上の違反を認めたというだけのこと。強制労働で疲れた日はぐっすりと眠れる。皮肉なことに、獄中では精神がすっかり自由になる。しかし、冷静に考えれば考えるほど、自責の念に駆られていく。ソーニャもシベリアへ移住し、面会を欠かさない献身さを見せる。あの狡猾なスヴィドリガイロフですら、自ら死に至らしめた。自分の方が、殺されたしらみよりも、もっと嫌な汚らわしい人間かもしれないと...

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