猛省す!
女性の物理学者というと、ちと懐疑的であった。知らず知らず偏見があったことに気づかされる。600ペーン超の分厚い重みは、物理学への熱い思いの顕れ。初心者にも配慮しながら数式を徹底的に排除する一方で、深い見識と文才を魅せつける。真理の探求に、理系やら、文系やら、といった枠組みになんの意味があろうか?と問うかのように...
古来、人類は重力の問題に悩まされてきた。自己存在をこれほど強烈に意識させる物理量が他にあろうか。しかしながら、人類はいまだ重力の正体を知らない。普通の感覚では、物体に力が働くということは、何らかの物質の影響を受けているからだと考えるだろう。古代ギリシアでは、なぜ天体に運動が生じるのか?と問えば、真空をめぐっての論争が繰り広げられた。アリストテレスの時代、物理運動はすべて物質の媒介によるものとされ、宇宙には何らかの物質が充満しているからこそ天体に運動が生じるとされた。そして、エーテル充満説として決着を見る。だが、ニュートンが万有引力を提示すると、マイケルソン・モーリーの実験を後ろ盾にして、エーテルの存在が否定された。
では、引力や重力の正体とは何か?
アインシュタインが、あの有名な公式によって質量とエネルギーの等価性を示すと、真空中においてもエネルギーを介して力の作用が生じるとされる。そして、重力の作用を時空の歪で図式化した。こうして、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えは捨てられ、真空の概念が定着した。哲学的な実存観念においても、質量よりもエネルギーの方が本質である可能性を匂わせたのだった。
さらに、近年の観測結果は新たな問題を突きつける。銀河が今の形を維持するためには、銀河に含まれる星々の総質量では不足しているというのだ。そして今、そのエネルギーの不足分を補っているとされる影の立役者の存在がささやかれている。そぅ、ダークマター(暗黒物質)ってやつだ。しかも、宇宙空間の至るところに暗躍するとされる。宇宙論は、エーテル充満説へ回帰しようとしているのか?
著者リサ・ランドールは、まさにこの問題に挑む。この物語は、余剰次元の歪曲(ワープ)という観点から説明を試みる、ある種の思考実験である。アインシュタインの公式は質量のマイナスを規定しない、なんてことはないだろう。質量がプラスの世界がたまたま有限宇宙とされ、至るところに質量がマイナスの無限宇宙が接触している、という可能性がないとは言えまい。そして、質量を持った知的生命体には、それが認識できないというだけのことかもしれん。もしかしたら、ユークリッド幾何学とは、神がこしらえた悪魔の棲家、または監獄の設計図なのかもしれん...
ところで、量子の世界では、質量ゼロが当たり前のように出現する。光子や電子といった素粒子は、質量を持たないからこそ宇宙の果てまで達することができる。質量が存在するから量子場の影響を受けて、自由運動が制限される。では、質量なんて奇妙な性質は、どこから生じるのだろうか?その原因を、場の量子論が唱える「対称性の破れ」、あるいは「超対称性の破れ」から説明してくれる。
「対称性は重要な要素だが、宇宙はふつう完璧な対称性をまず実現させない。わずかに不完全な対称性が、この世界を興味深い(しかし統制のとれた)ものにしている。」
質量ってやつは、宇宙法則における超常現象なのであろうか?
宇宙法則に完璧な対称性が成り立てば、質量なんて奇妙なものは存在できず、宇宙は平坦で無限でいられるのかもしれない。これが、不確定性原理が暗示していることであろうか?不確定性原理の不思議なところは、不確定となるまでは納得できても、不等号で示されることに不自然を感じる。量子力学では、ある特定の二つの物理量を同時に正確に測定することは不可能とされる。例えば、位置と運動量を測定する場合、先に位置を測定して後に運動量を測定した場合と、その逆では結果が違う。それでも、二つの物理量の曖昧さの積は、プランク定数系よりも大きくなるという符号の方向性だけは残る。
この方向性は何を意味するのだろうか?
観測とは人間が認識しようとする行為であり、純粋な物理現象に観測系が関与すれば時間という次元に幽閉される。質量を持つ物体が関与すれば、物理系は何らかの次元に幽閉されるということであろうか?宇宙の秩序を乱す唯一の要因が質量だとしたら、それを認識せずには生きられない人間は、神の嫌われ者かもしれん。だから、人間は神の気を引こうとして、知らず知らず悪魔になろうとしているのか?
また、あらゆる素粒子は、人間の認識できない余剰次元によって接触しあっている可能性を匂わせてくれる。あらゆる次元が接触しあうには、空間が歪曲している必要がある。というより、人間が勝手に歪曲していると感じているだけのことかもしれん。人間ってやつは、質量を基準にしなければ思考することもできず、おまけにユークリッド空間に幽閉されているときた。
そこで、次元の境界条件としてブレーンの概念を導入すると、思考を助けてくれる。ブレーンとは、膜のように閉じられた次元空間のようなもので、複雑な高次元の風景を眺めるにはうってつけのツールだ。宇宙空間を多層多面にスライスし、人間の住む3次元空間は一枚のブレーンに閉じられていると考える。量子の運動範囲が、ブレーンの境界条件によって決まるというわけだ。素粒子には、自由に通過できるブレーンが決まっている、という性質でもあるのだろうか?人間が認識できる3次元空間と接触できる素粒子にも制限があるとすれば、目の前にあっても気づかないだろう。素粒子物理学では、重要な仮想粒子にグラビトン(重力子)の存在がささやかれる。結局、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えからは、逃れられないのかもしれん...
1. 重力と階層性(ヒエラルキー)問題
解明されてない大きな問題は、重力ってやつが他の既知の力に比べて、なぜこんなにも小さいかということ。地球という大きな天体の持つ重力に逆らって、ちっぽけな人間は手を上下させたり、ジャンプすることができる。クリップだって磁石に吸い寄せられて浮き上がる。地球上の運動現象は、地球の全質量に逆らって運動できるわけだ。そのくせ太陽や月という膨大な重力とも、うまいこと均衡してやがる。
これをうまく説明できる思考法に「等価原理」がある。それは慣性質量と重力質量を同一視するもので、一般相対性理論の構築原理とされる。つまり、周囲のすべてが自由落下していれば重力場を感じることはない、加速系の中では重力が相殺される、という考え方。おかげで、地球上の生物は地球の自転を感じずに暮らせるという寸法よ。この原理に従えば、重力は等加速度と区別がつかない。だが、実ははっきりと区別がつく。重力が加速度と等価ならば、地球の裏で生じる反対側の加速度運動が説明できない。あらゆる方向に対する力の保存則が成り立たないとなれば、等価原理では局所的にしか加速度に置き換えられない。そこで、重力が二つの物体間に生じる力という考えを捨て、電磁気学のように場の概念を当てはめる。重力場として空間全体を眺めると、時空の歪で説明できるわけだ。
さらに、著者リサ・ランドール、ラマン・サンドラム、アンドレアス・カーチらの共同研究によると、余剰次元の概念を当てはめれば、空間のある領域では重力が強くても、他の領域では一様に弱くなるという。そして、驚くべき発見が紹介される。
これまで余剰次元は微小なものでなければならない、さもなければ目に見えないことが説明できないとされてきたが、なんと!空間の歪曲によって重力の弱さが説明できるだけでなく、余剰空間が曲がった時空の中で適切に歪曲していれば、その広がりは無限になる可能性があるという。有限宇宙は、高次元領域において無限宇宙だというのか?人間は3次元ポケットの住人に過ぎないというのか?... そうかもしれん。肉体とは、一時的に3次元空間に住むための宇宙スーツのようなものであろうか。
また、重力の問題は「ヒエラルキー問題」と関係し、相対性の力は富のトリクルダウン理論のようなものだという。トリクルダウン理論とは、政治家がよく口にする、富裕層に資金を流せば自然に貧困層にまで浸透するという経済理論だ。富の階層構造のように、エネルギーにも階層構造があるとすればイメージしやすい。階層性問題は、膨大なプランクスケール質量と低いウィークスケール質量の比から生じる。プランクスケールでは、長さ 10-35m に対して、プランクスケール質量(エネルギー)は 1019GeV。ウィークスケールでは、長さ 10-17m に対して、ウィークスケール質量(エネルギー)は 103GeV。つまり、エネルギーにおいて、16桁もの量子補正が必要ということだ。適切な補正を怠れば、資金が貧困層に到達する前に、金融危機というブラックホールに捕まるのも道理というものよ。三次元 + 時間という空間は、悪魔が捕まったブラックホールのようなものなのか?
2. 準結晶と余剰次元
準結晶とは、結晶でもなく、アモルファス(非晶質)でもない、第三の固体と言われる物質である。例えば、準結晶でコーティングされたフライパンは、熱を効果的に分散させて焦げ付かない。この不思議な構造は、余剰次元でしか解明されないという。普通の結晶は、原子や分子が対称的な格子状になって一定の基本配列を繰り返す。対して、準結晶は厳密な規則性が欠けているように見える。この不可解な配列を、高次元の結晶構造として捉え3次元に投射すると、対称性を持った秩序ある構造が見えてくるという。まさかフライパンに、こんな高度なテクノロジーが潜んでいたとは...
さて、人類にも進化過程で、1次元しか認識できない、2次元しか認識できない時代があったのだろう。そして、突然変異によって3次元が認識できるようになったのかは知らん。時間を加えれば、4次元空間。ダーウィンの自然淘汰説風に言えば、認識能力は生存競争において育まれてきた。アボット著「フラットランド」風に言えば、2次元空間の生命体には、3次元の物体が近づくと点からだんだ大きな円になっていき、やがて小さくなって点となって消えるように見える。人間が認識できる宇宙とは、そういう存在であろうか。人間社会で生じる危機的現象も突然出現するように見えて、実は、別の次元から近づいてくるだけのことかもかもしれない。自然災害にしても、金融危機にしても、戦争にしても... そして、地球外生命体は、目の前にある危機から避難しようとしない無謀な知的生命体を、地球という天体上に見つけ、滑稽に思っているのかもしれない。命が最も尊いと叫びながら他人を地獄に陥れ、自らも地獄へ向かう自虐な生命体と...
余剰次元とは、認識する必要のない、生活に支障のない次元ということはできるだろう。では、必要に迫られれば、いつの日か5次元空間が認識できるようになるのだろうか?人間社会は、仮想空間を夢想し続ける。その動機が現実逃避だとしても、仮想次元に慣らされていくうちに、もっと高次な認識が育まれるのかもしれない。3Dテレビのように表示システムの多次元化は、今後も進化を続けるだろう。そしてある日、突然変異を果たした高次元人類が出現するのかもしれない。未来社会では、21世紀という時代は認識次元が幼いために仮想貨幣や領土問題などに惑わされて、3次元空間争奪戦を繰り広げていたなどと嘲笑されるのだろうか?いや、所有をめぐって憤慨する性格は変えられそうにない。多次元空間争奪戦ともなれば、もっと凄いことになりそうだ。魂や霊感までも掌握されそうな... ちなみに、行付けの寿司屋の大将の口癖は... 心を握らせてもらいます!
3. 場の量子論と排他原理
素粒子は、固有スピンの性質の違いでボソンとフェルミオンに種別される。具体的には、スピン角運動量の大きさが換算プランク定数(ℏ)の整数倍か、半整数 (1/2, 3/2, 5/2, ...) 倍かの違い。ただし、回転して相互作用をする性質があるだけで、実際には回転していないそうな。実際の物理運動とは無関係に、量子力学上のスピンというものがあるらしい。
パウリの排他原理によれば、同じタイプのフェルミオンが同じ場所に存在することはできない。例えば、同じスピンを持つ電子同士が同じ場所にいられない。そのおかげで、原子は化学反応の基盤となる構造を保てる。対して、ボソンはパウリの排他原理に従わない。この二つの性質が、対称性の破れ、あるいは超対称性の破れの鍵となる。つまり、質量が生じる可能性である。
さて、最初に場の概念を持ち出しだのは、マイケル・ファラデー。そして、マクスウェルが、電荷と電流の分布から電磁場を記述する一連の方程式を導いた。あの有名な四つの一階微分方程式は、場の概念に波動性を結びつける。そのうち二つを組み合わせると、電場か磁場だけを含んだ二階微分方程式が導けるという特徴が、数学の美を醸し出す。
「場と遠隔作用には大きな概念上の違いがある。電磁気学の場の解釈にしたがえば、電荷が空間の別の領域にすぐさま影響を与えることはない。場は適応の時間を必要とする。運動中の電荷は、そのすぐ近くに場を生みだし、そこで生みだされた場が空間全体に広がっていく。物体が遠くの電荷の運動を知るのは、光がそこに届くまでの時間が経っているからである。したがって電場と磁場は、光の有限の速さが許すよりも速くは変わらない。空間のどの時点でも、場が適応を果たすのは、遠い電荷の効果がそこに達するための時間が経過してからである。」
光も電磁場を形成する。ゲージボソンとして最初に持ちだされたのが光子だが、ゲージという用語はなんのことはない。鉄道のレール間の距離を示す「軌間(ゲージ)」を意味し、光子の伝播のイメージと無理やり重ねたところからきているという。他のゲージボソンには、ウィークポゾンとグルーオンがあり、ウィークポゾンは弱い力を伝え、グルーオンは強い力を伝える。
量子電磁気学は、光子の受け渡しが、どのように電磁気力を生み出すかを予言する。二個の電子は、相互作用領域に入ってきて、光子を受け渡した後、伝えられた電磁気力によって定められた径路に進む。ファインマン図は、この相互作用する場を図式化し、図の各部分に数字を当てはめれば運動が記述できるという仕組み。入ってくる電子が光子を放出し、放出された光子が別の電子に向かって進み、電磁気力を伝え終えると消滅する。そして、電磁気力は電荷を帯びた対象に対して引力や斥力が働く。
素粒子というのは、物質というよりはある種のエネルギー状態で、量子場の励起状態と考える方がよさそうである。換言すると、量子場がなんらかの原因で基底状態を保てなくなり、量子固有の離散的な高エネルギーへ移行した状態とでもしておこうか。素粒子をまったく含まない真空では定常場しか生じないが、素粒子の存在する領域では隆起や振動の起こる場が生じる。これが波動性の正体というものか。しかも、電子や光子を生成、消滅させる場は、どこにでも存在するという。そうでないと、あらゆる相互作用が時空のどの点でも生じるようにならない。現実に、真空にもかかわらず電磁波が伝わる。
んー... エーテルを場と言い換えただけのような気もしなくはない。物質的ではないと言えば、そうなのだが。エネルギーの伝播だけで粒子の生成と消滅が説明できるとすれば、物質ってなんなんだ?単なる認識の産物ということか?認識もまた脳内の量子運動から生じ、認識の生成と消滅を繰り返す。量子場における粒子の生成と消滅は、まさに気移りや気まぐれのメカニズムか。しかも、その制御は確率論的ときた!
4. 弱い力と強い力
物理学者たちは、電磁力、強い力、弱い力、重力の四つの相互作用における統一理論を構築することを夢見てきた。現実世界を説明する上で鍵となるのが、弱い力だという。弱い力の効果を生じさせる素粒子はウィークボソン。それは、W+, W-, Z の三種類があって、Wはプラスとマイナスの電荷を帯び、Zは中性。弱い力は、ある種の核崩壊の要因であって、重い元素の生成に寄与するという。また、恒星が輝きを放つためにも不可欠だとか。水素をヘリウムに変える連鎖反応を引き起こし、宇宙を絶え間なく変化させることを手助けするそうな。
電磁気力と弱い力には、いくつか重要な違いがあるという。中でも奇妙なのが、弱い力は右と左を識別し、粒子とその鏡像が互いに異なる振る舞いをする。「パリティ対称性の破れ」というやつだ。パリティが保存されない分かりやすい例は、人体の心臓が左側にあるといったこと。そのメカニズムは、粒子が右回りと左回りのスピン方向を選ぶことによって生じる。
弱い力の作用を受けるのは、左回りの粒子だけだそうな。なんじゃそりゃ?中性子が崩壊する時に現れる電子は、常に左回りだとか。もしかして、左利きやら、左巻きやらも、弱い力の影響なのか?
弱い力の奇妙な特性を他にも紹介してくれる。なんと、ある種類の粒子を別の種類に変えてしまうんだとか。例えば、中性子とウィークポゾンが相互作用すると、陽子が現れることがあるという。光子はどんな種類の粒子と相互作用したところで、電荷を帯びた粒子の最終的な数は変わらない。対して、電荷を帯びたウィークポゾンが中性子や陽子と相互作用すると、単独の中性子が崩壊し、まったく別の粒子に変わる。
とはいえ、中性子と陽子は質量も電荷も違うので、電荷とエネルギーと運動量を保存するには、崩壊時に陽子だけでなく、電子とニュートリノを生成する。いわゆる、ベータ崩壊だ。
ウィークポゾンが質量を持つことが、弱い力の理論を成り立たせるという。ほんのわずかでも質量があれば、非常に短い距離でしか作用を及ばさず、距離が長くなると存在しないほど弱くなることが、物質の存在を可能にするというわけか。その点、光子やグラビトンは質量ゼロ。だから、永遠に力を伝えられる。
一方、強い力は、どんなに遠くても引きつけてしまい、クォークのような粒子が単独で発見されることはない。クォークを陽子と中性子の姿に結合させたり、クォークをジェットの中に閉じ込めたりできるほど強力。めいっぱい離れたクォークと反クォークは、膨大なエネルギーを蓄えることになるので、その間に別のクォークと反クォークを生み出す方が、エネルギー効率がいい。したがって、クォークと反クォークを引き離すと、真空から新たなペアのクォークと反クォークが生まれるという。ほんまかいな?新たな量子が生まれる前に、宇宙空間が消滅するってことはないのか?あるいは、宇宙が階層化されるとか?
尚、無質量粒子という概念は、素粒子物理学では当たり前のように使われる。粒子に質量がなければ、光速で伝播でき、むしろ、質量がゼロでないゲージボソンの方が特異とされるようだ。人間が安定社会を望んだり、官僚体質に陥りやすいのも、質量を持つ物質の特性からきているのだろうか?
5. フレーバー対称性とヒッグス場
対称性は、物理学や数学では美として崇められる神聖な原理だ。場の量子論では、あらゆる粒子の対となる反粒子が想定される。1個のマイナス電荷を持つ電子に対しては、1個のプラス電荷を持つ陽子では質量が大きすぎるので陽電子を置く。反粒子が時間を遡る粒子となることで、時間の非対称性を相殺することができる。対称性は、場の理論において欠かせない調整原理と言えよう。
ただ、素粒子物理学では、ちと違った対称性を考察する。「内部対称性」ってやつだ。内部対称性とは、空間的な対称性とは違い、完全に別個の物体でありながら、同じ物理法則で交換できるということ。ここでは異なる種類の粒子を関連づけ、かなり抽象的な対称変換を与えており、二つの粒子において電荷と質量が同じならば、同じ物理法則に従うと考える。これを記述するのが、「フレーバー対称性」だという。例えば、電子とミューオンは、電荷を帯びた二つのレプトンで電荷が同じ。質量はまったく違うけど。電子とミューオンは、フレーバー対称性に従って同じように振る舞うと考えるらしい。量子の世界では、質量に意味がないとでもいうのか?質量の抽象化とすれば、女性が喜びそうな原理だ。ただし、電子とミューオンはあまりにも質量が違っていて、厳密には同じようには振る舞わないらしいけど...
さて、量子の世界は、非対称性の世界を、いかに対称性の目で見るかという関係性を問う世界のようである。対して、現実世界は、あらゆる対称性の破れから生じるというわけか。自然界に完全な対称性しか存在しなければ、宇宙は存在しないのかもしれない。それこそ、神に御登場を願うこともない。悪魔が登場する舞台に、神がキャスティングされなければ、なんともしまらない。
本書は、質量を獲得するメカニズムとして「ヒッグス機構」を紹介してくれる。ヒッグス機構は、「自発的対称性の破れ」という現象に依存するという。
自発的対称性ってなんだ?ある夕食の席を考えてみよう。大勢が円卓を囲んで、それぞれの席の間に水の入ったグラスが置かれる。各人は右と左のどちらかのグラスをとる。この際、行儀作法はなしだ。一人が左のグラスをとれば、全員が左のグラスをとらなければ、行き渡らない。誰かがグラスを選んだ途端に、右回りか左回りかのスピンが決定されて、対称性が破れることになる。自発的とは、確率論のようなものか。神だってサイコロを振るらしい。なーんだギャンブル好きじゃん!しかも、質量があれば内部対称性を保存しないという。
では、肝心の質量はどこから生じるのか?
質量ゼロのゲージボソンの偏極は二つしかないが、質量のあるゲージボソンの偏極は三つあるという。質量ゼロのゲージボソンは、常に光速で進み、けして静止しない。したがって、運動方向も一つに決まるので、進行方向に垂直な方向意外の並行な偏極と区別できる。実際、物理的な偏極は垂直方向にしか振動しない。一方、質量のあるゲージボソンは、物体と同様に静止できる。そして、静止時に運動が一方向に定まらないという。これを「縦偏極」と呼んでいる。光が横波で音波が縦波だから、音波のような振動も混在するということか。もしかして、縦波と横波の違いが生じるのは、質量が関与するかどうかの違いなのか?
ヒッグス機構は、質量の問題を解決する唯一の方法とされるそうな。ヒッグス粒子が生じるのは、ヒッグス場においてのみ。ただ、ヒッグス機構という用語は多少ルーズなところがあって、様々なモデルが提唱されているらしい。簡単に言うと、「弱い力の対称性を自発的に破って素粒子に質量を与える」
ヒッグス場では、粒子が一切存在しないくせに非ゼロ値をとることができるという。素粒子の起源は、エネルギーが先か?質量が先か?と問えば、卵と鶏の関係に見えてくる。非ゼロ値の場が帯びている荷量は、現実の世界に存在するという。真空中にもウィーク荷の密度が観測されているそうな。非ゼロ値のヒッグス場は、ウィーク荷を宇宙の至る所に分布させているとか。クォークやレプトンがヒッグス場を通過する際、ウィーク荷と衝突することになるが、跳ね返される時に質量を獲得するという。
では、質量ゼロのゲージボソンが通過するとどうなるのだろうか?エネルギー条件によって確率的に質量を帯びる可能性があるというのか?光子が特別扱いされるのは、ウィーク荷を帯びた真空の場から影響を受けないからだという。光子は電磁気力を伝える粒子なので、電荷を帯びたものとしか相互作用しないから。光子は、ヒッグス場においても、完全に質量ゼロでいられる唯一のゲージボソンだそうな。
6. 超対称性とブレーンワールド
超対称性とは、ボソンとフェルミオンをも入れ替える対称変換である。とてもありそうもない組み合わせで、スーパーパートナーと呼んでいる。究極のスワップ関係か。あらゆる価値が、市場を介して貨幣換算されれば、すべてスワップ可能となる。量子場とは、市場のようなものか?
超対称性が存在するかもしれないという理由は、二つあるという。一つは、超ひもで、二つは、超対称性が階層性問題を解決する可能性があること。ひも理論を持ち出せば、究極の構成単位となり、すべてひもで変換できそうな気がしてくる。
とはいえ、超対称性だって破れの問題がつきまとう。ひも理論では、素粒子はひもの共振モードから生じると考え、振動の仕方は多種多様なために何種類もの粒子に見えるとされる。最初は一種類のひもを想定してきが、現在では何種類もあると考えられている。二次元のひもには、大きく二種類の運動がある。端が開いたものと、閉じたもの。超ひも理論がオリジナルよりも優れている点は、スピン1/2の粒子が含まれることで、電子やクォークのようなフェルミオンを記述できる可能性があるという。
超ひも理論の奇妙な特徴は、9次元 + 時間の10次元でしか意味をなさないことで、他の次元では存在してはならない共振モードが現れるという。発生確率がマイナスになるような。そして、余剰次元は認識できないほど微小に巻き上げられていると考える。このコンパクト化モデルに、「カラビ - ヤウ多様体」という数学のテクニックを紹介してくれる。カラビ - ヤウ多様体は超対称性を保存するという。数学では、多様体や多面体を扱う時、双対性という概念を用いる。ここでは、双対性の驚くべき例を紹介してくれる。なんと!10次元超ひも理論と11次元超重力理論が等しいというのだ。
「強く結合した超ひも理論と弱く結合した11次元の超重力理論との双対性により、強く相互作用する10次元超ひも理論のなかの知りたいことは、外面的にまったく異なる理論での計算をすることで、結果的に何でも計算できる。強く相互作用する10次元超ひも理論によって予言されることは、弱く相互作用する11次元超重力理論からすべて導き出せる。その逆も同じだ。」
エドワード・ウィッテンが提唱した「M理論」とは、11次元超重力理論を統一理論として抽象化しようとしたものらしい。しかしながら、双方には不可解な特徴がある。10次元超ひも理論にはひもが含まれているが、11次元超重力理論には含まれない。この謎は、ブレーンを使えば、すっきり説明できるというわけだが...
さらに、「隔離」という概念を持ち込んで、粒子は異なるブレーンに隔離されている可能性があるとしている。
「超対称性の破れの原因となる粒子が標準モデルの粒子から隔離されているモデルでは、粒子を別のフレーバーに変えてしまうような相互作用を導入せずに、超対称性を破ることができる。」
相互作用をするかどうかがブレーンで違うとすれば、カラビ - ヤウ多様体を持ち出すよりもイメージしやすい。しかも、ブレーンは超対称性を適当に保存しながら、たまーに破られるってか?
んー... 個人が認識できるブレーンの数も違いそうな気がしてきた。これが能力差というものか?運動能力には動体視力ってものがあるが、ボールが止まって見える!というのは本当かもしれん。肉体は現実ブレーンを生きるしかない。だが、魂はもうちょっと自由で天国ブレーンにも地獄ブレーンにも行けそうだ。天才たちは自由ブレーンを生き、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いは監獄ブレーンに収容される... ってか。
2014-05-18
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