2014-10-12

"ビジネスは人なり 投資は価値なり" Roger Lowenstein 著

これは、ウォーレン・バフェットの半生を綴った物語である。彼は、金融危機が生じれば政府ですら泣きつくという構図があるほど有名な投資家で、支配下の投資持株会社バークシャー・ハサウェイは世界最大を誇る。その投資人生は、コロンビア大学で教鞭をとるベンジャミン・グレアムとの出会いに始まる。バフェットは、グレアムの唱えたバリュー投資論を信望し、彼の著書「賢明なる投資家」を最高の書と語る。
「グレアムを知らずに投資するのは、マルクスを知らない共産主義者のようなもので、マーケットの原理を知らないのと同じことだ。」
世界恐慌を経験してもなお、ウォールストリートにはテクニカルアナリストが台頭し、近代金融工学はボラティリティばかりを追いかけ、変動率をリスクと同一視する。このようなファンダメンタルズを軽視する戦略は、グレアムやバフェットには気違い沙汰に映ることだろう。バフェットが「オマハの賢人」と称されるのも、あえてウォールストリートに身を置くことを避け、独自性を保ってきたことにある。群衆心理や自己欲望に惑わされやすいカネの世界では、その震源地から距離を置くことこそ肝要。偉大な人物とは、孤高の精神を持ち続けることができる人を言うのであろう...
「歴史に名を残す投資家の中でも、バフェットのビジネスを見る目は抜きんでていた。石油王のジョン・ロックフェラー、慈善家で鉄鋼王のアンドリュー・カーネギー、小売業で有名なサム・ウォルトン、ソフトウェアおたくのビル・ゲイツの共通点は、たった一つの発明や技術革新で財をなしたことである。バフェットはビジネスを研究し、株を選ぶ純粋な投資で財をなした。」

注目したいのは、バフェットの投資論がグレアムのものから発展させていることにある。グレアムの投資論は、1929年に生じた世界恐慌の反省に基いており、極めて保守的な行動原理が唱えられる。元本割れなどもってのほか!と。その基本戦略は、ファンダメンタルズ分析とそこから導かれる割安株の概念、そしてリスク回避のための分散投資にある。
一方、バフェットは、長期戦略とファンダメンタルズ主義の基本理念は同じであるにせよ、割安株の概念を成長株の概念に昇華させ、分散投資の限界から集中投資の効果を唱えている。グレアムが唱える割安株の概念は、財務報告を基準とするのであって、ある種の数値主義とすることができよう。対してバフェットは、経営者の人格、企業哲学、ブランド力など、財務報告に表れない将来性こそ評価すべきだとしている。目に見えぬ価値をいかに評価するか、これこそが投資家の責務と言わんばかりに...
「これはたぶん私の偏見だろうが、集団の中から飛び抜けた投資実績はうまれてこない... ウォールストリートの横並び意識は、いまも昔も変わらないであろう。平均は安全で、平均から外れたものは危険という安易な考えは、いまでもはびこっている。」
分散投資にも大きな障壁がある。そもそも満遍なく業界や企業を十分に分析するなど不可能だ。50ぐらいの優良銘柄を揃えることが理想ではあろうが、選別に時間がかかり過ぎる。ポートフォリオに多様性を持たせると、理論上は、一つの銘柄が下落しても影響を最小限に抑えることができるが、逆に上がった時も利益を分散させてしまう。金融危機ともなれば、市場は連鎖反応を引き起こし、むしろリスクを高めるだろう。不十分な分析で数十銘柄に分散させるぐらいなら、十分に熟知した二つ三つの銘柄に集中させる方が、精神的ストレスからも解放される。グレアム贔屓のおいらでも、この点はバフェットの方が現実的に映る。そして、一般投資家は情報の非対称性を背負うことにも留意したい。
バフェットの投資哲学には、単なる相場師にならない意志を強く感じる。将来性を買うからには、元本割れも覚悟の上か。実際、バフェットに理想とする株式の所有期間を尋ねると、永遠!と答えたそうな。金融屋には信じられないであろう。欲望に憑かれた業界、褒美で釣らなければ動かぬ集団は、脆い!人生には常に運と命(めい)の二つが付きまとい、春夏秋冬の訪れはなにびとにも避けられない。流れを拒めば、自ら不運を掴むことになろう。冬が来てもなお平静でいられるか、ここに人の価値が問われる。試練とは、ある種の運試し、というわけか...

1. マクロ的視野と大局観
バフェットは、マクロ経済的な観点から社会問題をとらえ、心配事のすべては人口問題に始まるとしている。彼は、常に核戦争のリスクと過剰人口を懸念していたとか。広島の原爆投下から、キューバ危機、国粋主義に至る思想に興味を持ち、戦争を避ける方法について研究し、世界が終焉を迎える確率まで計算していたそうな。数学者バートランド・ラッセルの著書にも執心だったという。ちなみに、ラッセルは平和運動家としても知られる。
バフェットの懸念は、マルサス的人口論から発するもので、おそらく地球資源や環境問題といったものも含むのであろう。実際、人口過剰が食糧危機や環境破壊をもたらす。バフェットの財団は、家族計画、性教育、産児制度、中絶問題などに巨額の寄付を提供している。
しかし、地元にあまり寄付をしないことが、ケチ!で有名。それは、ミクロ的な発想があまりないからだそうな。国会議員ともなれば、やたらと地元にハコモノを作っては自分の名前を掲げたがるもので、銅像まで作らせようと目論む者までいる。だが、オマハには、バフェット公園やバフェット美術館などの類いは見当たらないらしい。
また、黒人が多い地域で、居住区も仕事も厳密に分けられる風習があるという。オマハのロータリークラブを退会したのも、会員の人種差別やエリート意識に反発してのこと。金持ちになれば、それが自己満足で終わるような考えを批判している。バフェットの巨額な資産や収入は、究極的には社会のためにならなければならないと考えたそうな。キリスト教圏の国々でしばしば感心させられるのは、貧困への施しや養子縁組を受け入れたりする文化が盛んなことである。日本には少ない傾向である。その分、際立った億万長者も少なく、高度成長時代に一億総中流の意識が植え付けられ、極端な貧困が少ないこともあろうが。
バフェットは、大金持ちになったからといってジェット機を購入するなどという考えを批判したという。とはいえ、やっぱり買っている。社内用とはどういう意味かは知らんが、確かにオマハからウォールストリートは遠い...

2. バフェットの投資哲学
「バフェットがビジネスを評価する際に常に自分に問いかけてきたのは、資本、人材、経験などが十分にあるとして、その企業と競争したらどうなるだろうということだった。」
投資家として大成功を収めれば、株価の価値を見抜くにはどうすればいいか?と多くの人々から聞かれるだろう。そこで、よく債権に例えて説明したという。債権価格は利子から生まれる将来のキャッシュフローに等しく、それを現在価値に割り引いたもので、株価も同じように考えることができる。要するに、株の利率をいかに見積もるか、である。その方法を簡単にまとめると...
  • マクロ経済や経済予測も、他人の株価予測も気にする必要はない。長期的な企業の価値の分析に集中し、将来の収益を予測するべき。
  • 事情に詳しい業界に集中するべきで、どの業界にも必ず原理や法則がある。ちなみに、バフェットの場合は小売りチェーンが多く、時流のテクノロジー株を毛嫌いしている。
  • 株主から預かった資本を自分の財産と同様に考え大切に使用する経営者を見つけるべき。
  • 証券会社の分析ではなく、自ら生のデータを細部にわたって分析するべき。しかし細部にとらわれるのもよくない。自分を信じるようバフェットは強調する。
ただし、投資家としての目利きは抜群でも、経営手腕では劣ることを自覚している。バフェットの口癖がこれ!
「万能選手になる必要はないが、どこに限界があるかは知る必要がある。」
限界を知るということは、限界を試してきたということでもあろう。チャレンジ精神が旺盛でも、これを持続することは難しいし、偉大な投資家が偉大な経営者になれるとは限らない。言葉は単純だが、なかなか辿り着ける境地ではなさそうだ...

3. 敵対的買収と際限なき中毒
1980年代... それまでお堅いイメージの投資銀行が、突然、非難の的となる。投資は、投機と買収へと変貌していった。赤いサスペンダーをした若くて金を操る優秀な連中が、M&A市場を戦場に見立て、大企業の経営者たちを恐れさせる光景は、映画「ウォール街」を彷彿させる。日本でもバブルに突入し、M&Aが流行した。
こうした流れでいつも問われるのが、「企業は誰のものか?」である。株主のものと考えるのが、経済人の主流であろう。敵対的買収に成功した者ほど、そう考えるようである。実際、商法でもそう規定されているし。そこで、ちょいと質問の角度を変えてみると...
「企業は誰によって成り立っているか?」と問い直せば、それは従業員であり管理者であろう。では、「企業は誰のために存在するのか?」と問い直せば、それは顧客であり社会的意義であろう。「経営責任を負うのは誰か?」と問えば、それは経営陣となる。これだけ立場の違う人間が複雑に絡めば、企業が私物化できるような代物ではないことは明らかだ。いくら商法で規定しようとも、法律なんてものは都合が悪くなった者が言い訳に使うためにあるだけのこと...
巨大な投資銀行ソロモン・ブラザーズもまた、敵対的買収の対象となり、バフェットに救済を求めた。減収を記録しながら、株主には一銭も配当しないばかりか、経営陣のボーナスだけは毎年支給される体質にうんざり!人間ってやつは、高待遇漬け、高収入漬けに麻痺するもの。そんな時に、不正入札事件が発覚し、信用は地に落ちる。バフェットといえども、あれだけ再建に苦労しながら株を売却するのは投資家としては当然だが、やはり行動はドライか...
1987年のブラックマンデーに至るまで、強気相場の根拠にキャッシュフローが株価を支えている、などという馬鹿げた理屈がまかり通る。PER20倍という歴史的な高値水準を、バフェットは危険水域と考え行動を控える。しかしながら、当時の日本市場では、PERが60倍ってのは当たり前のようにあって、アメリカの経済学者からも不思議とされた。これを根拠に高値水準が正当化されるのも奇妙な話だが、おそらく高度成長時代の名残であろう。そして、バブルが弾けると、日本の市場原理が特別ではなかったことに気づかされる。
ちなみに、現在ではこれと似た感覚に国債の対GDP比がある。200%超えはかつて経験したことのない水準だが、日本は本当に特有なのか?日本市場は、本当に機能しているのか?アル中ハイマーにはとんと分からん。
ブラックマンデーが過ぎ去ってもなお、新たなLBO(レバレッジド・バイアウト)のブームが次々とやってくる。LTCMの崩壊劇しかり、リーマショックしかり... 市場が好調の局面では、欲望が恐怖を押しのける。投資銀行は、マーチャントバンキングを標榜し、LBOの仲介だけでなく自己責任と称して企業を買収するようになる...

4. プロとアマの意識の逆転
バフェットは、投機的意識がプロとアマチュアで逆転したと指摘している。かつてプロは常に冷静に行動し、アマチュアは熱くなって失敗すると言われた。近年、市場はケインズが揶揄した美人コンテストと化し、バフェットの市場観察もケインズの恐慌論を基盤にしているように映る。
金融屋たちは、会社の業績や経営方針といったものに興味がなく、レバレッジ率を高めて儲けを最大化しようと目論む。つまり、他人の資金を当てにするってことだ。プロの資金運用会社は、他人の資金を運用しながら、定期的に実績を示さなけばならない。市場が強気局面でも弱気局面でも。弱気局面では、空売りの技術が必要となり、必然的に信用取引を駆使することになる。信用取引は担保や借金によって成り立つ仕組みであり、返済期限に追われる。担保にした債権や株式の市場評価が下落すれば、保証金を見せなければならない。そのプレッシャーは半端ではあるまい。
一方、アマチュアは無理に信用取引に手を出さずとも、十年や二十年のスパンで構えることができる。行動の柔軟性においては、はるかに有利な立場にあり、精神的にも風上に立てる。もちろんアマチュアだってレバレッジ率を高めれば、リスクは拡大する。それも自己責任の問題であって、自分の財布と相談しながら行動すればいいだけのこと。プロの場合は、組織ぐるみとなって自己責任の範疇をはるかに超え、実際、巨額な公的資金が注入されてきた。バフェットは寓話を持ちだす。
「石油の試掘業者が天国の入り口で、鉱区の空きはないことを告げられた。聖ペテロから一言だけ発言する許可を与えられた彼は、地獄で石油が出たぞ!と叫んだ。天国の石油堀り達は、先を競って地獄に向かった。そして、その試掘業者は天国への入場を許された。ところが、当人は、いえ結構です!本当に石油が出るかもしれないから彼らと一緒に行きます!といった。」

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